最後の九州ブルートレインと秋田・大阪の出来事
2009年1月21日(水)
3月で全廃される九州行き寝台特急(ブルートレイン)に乗って大分に向かった。最後だからと乗ったわけではない。私はこれまでずっと、よほどの事情がないかぎり、広島より西、八戸より北に行くときは寝台列車を利用してきた。飛行機が怖いわけではない。飛行場のあのすました雰囲気が苦手なのである。
B寝台でも飛行機より運賃は高いが(注:早割利用の飛行機代と比べた場合)、寝ている間に移動して、現地で早朝から気持ち良く活動できる便利さは代え難い。たとえば広島なら、東京駅で眼をつぶって、車掌さんの声でハッと眼を開けると暁の広島に着いている。ワープの感覚である。
ま、それもあるが、18歳で北海道から東京に出てきたのも寝台列車だった。柳行李と寝袋をチッキにして、身を起こすのもままならない三段ベッドの一番上で旅人の会話に耳を傾けていた。
大学2年の春に北島三郎バンドに入り、それからの3年間は、月に10回近くも寝台列車で眠るドサ回り稼業に勤しんだ。アルトサックスはいつまでも素人だったが、寝台列車での立ち振る舞いはたちまちプロになった。そんな甘酸っぱい青春時代の思い出に浸れるのも、寝台列車の良いところなのである。
案の定、東京駅のホームにはいつもと違う人達が集まっていた。おそらくこの人の群れは、最後の3月14日に向けて日を追って増えていったことだろう。
左の写真で、人々が入船したふじ号列車でなく反対側にカメラを向けている理由がわかるだろうか。
それは、東京駅まで列車を引っ張ってきた機関車が切り離 され、秋葉原方向に走っていくのを写しているからだ。バックで牽引してきたので、後ろ側に「ふじ&はやぶさ」の看板が付いている。これを写しているのである。
なぜこんなことになっているのか、詳しそうな人に訊いてみると、後ろ向きで入ってきた機関車は、そのまま日暮里電車区まで走り、線路を切り替えて、今度は前向きになって再び東京駅に帰ってくる。そのまま通り抜けて品川電車区まで走り、再び線路を切り替えて、今度は後ろ向きで東京駅に戻ってきて、寝台列車に結合する。そうすると機関車は前を向いて九州に走り出せるというわけである。
両端に運転車両が付いている新幹線や近郊電車とは違う苦労だ。寝台列車に乗って40年だが、そんな面倒な仕組みがあったことは今回初めて知った。
ホームの売店で、ウィスキーの小瓶、崎陽軒のシュウマイ(20個入り)、チーズかまぼこを買い込んで列車に乗り込んだ。寝台夕飯の定番三点セットである。そしていつものとおり、ズボン、ワイシャツを脱ぎ始め、浴衣に着替え始めた。
ワイシャツの衿や袖口の汚れを少なくするため、寝台車は、乗ったらすぐに浴衣に着替え、到着する寸前にワイシャツを着てネクタイを締めるのが基本だからだ。
ところが今回は、通路側の窓の向こうにカメラを持った人がたくさんいるのに気づき、ズボンを半分降ろしたままで、あわててブラインドを下げた。危うく見苦しい姿で、彼らの高級カメラを汚すところだった。
今のB寝台は、九州行きも北海道行きも、このように通路と直角する形でベッドが並んでいるが、昔の北海道行きは、真ん中に通路があり、その両側に通路と平行してベッドが並ぶタイプもあった。これだとベッドの幅が広く、内緒で2人寝ることも可能だったが、つま先から頭まで、全身で人の往来を感ずるので、どうにも落ち着かなかった。
幸い、ベッドは三段が二段になり、直角型も幅も広がり、布地は花柄になったりと改良されてきた。トイレも線路上直散布からタンク方式に改良されたが、1956年の運行開始当初から変わらないのが、洗面所と飲用給水器である。
だから今も、洗面台には歯磨き用のコップが付いている。昔は順番待ちでズラリと並んだひと達が、老いも若きも、汚いも綺麗も、皆同じコップで歯磨き後のすすぎをしたのである。
その教えに従って、私は今も歯磨きはそのコップを使っているが、ほかの人達は器用に蛇口を押さえながら手椀で水をすくうか、自前のコップを使っているようだ。だから洗面所のコップは今や私専用のような気がする。
飲用給水器も、昔は鎖のついたアルミカップがひとつあるだけで、誰もがそれで水を飲んでいた。貴重な飲料水なので、いちいち洗ったりはしなかった。しかしさすがにこれは問題ありと思われたのか、かなり早い段階から、丈の短い封筒型の使い捨て紙コップが用意された。お年玉を入れるポチ袋で水を飲むと思えばいい。
しかしこれは上手に飲むのに技量が必要で、初心者は、列車の揺れともあいまって顔を濡らし、胸元を濡らす。封筒に入れた水の半分くらいがこぼれるのも普通だった。
北島三郎バンドの連中は、この封筒コップで水割りを作って飲んだ。酔いが回ってくると濡らし方もひどくなり、下着も浴衣もトリスウィスキーの香りが染みこんだものである。
そんなわけで、寝台列車にはたくさんの思い出があるが、忘れがたいエピソードが二つある。
★秋田駅での飛び降り事件
ひとつは、1971(昭46)年の正月、雪深き秋田に行ったときのことだ。
ハッと目覚めると列車が止まっていた。「ここはどこかな?」と目を細めてホームの柱を見ると秋田駅である。ホームにはすでにバンドの仲間が降りて楽器のそばに集まっていた。
「ヤラレタ」のである。何事も“洒落だよ”で済ますバンドマンは、よく眠っている仲間を、寝台列車だろうと旅館だろうと、決して起こすようなことはしない。そして数時間後、あるいは1日遅れで合流してきた仲間に、「やあ、遅かったね」のひと言で終わりにする。
バンドマスターには怒鳴られ、もちろん給料はカットされるが、自分が起きられなかったのだから誰にも文句は言えない。居酒屋でウッカリ油断してトイレに立ったりすると、戻ってきたときは勘定を残したまま仲間の姿が消えているなどは日常的に行われていた。
それをヤラレタのである。しかし発車ベルは鳴っているがまだ列車は動き出していない。自分の楽器がホームに運び出されているのを確認すると、私はハンガーに架けてある衣服と旅行バッグを抱えて、浴衣のまま出口に走った。ドアを開けると、すでに電車は動き始め、徐々にスピードが上がっていたが、荷物を放り投げると、躊躇せずに我が身も雪の積もったホームに飛んだ。
受け身で身体を止めるつもりだったが、慣性の法則は意外に力強く、我が身はまるで雪だるまのように二転、三転、四転と、列車の進行方向に沿って転がった。
あわや列車と接触、あるいは列車に巻き込まれそうな場面もあったそうだが、運良くそれは逃れて、ホームの端にすっくと立ち上がり、浴衣の雪を払ったとき、黙って見ていたバンドの仲間からは拍手が湧いた。しかし、すっ飛んできた駅員さんからはえらい剣幕で叱られた。そのまま首根っこをつかまれ、ぐっしょり濡れ、袖がちぎれた浴衣姿のまま駅長室に連れていかれた。
当時の私の価値観からすると、浴衣を破いたことを叱られ弁償させられるものと思っていたが、駅長さんからは「怪我をしたらどうするんだ。命を大事にしろ」とコンコンと説教された。
★大阪駅での置き去られ事件
もうひとつは、1985(昭60)年4月、寝台特急「あさかぜ」で長崎に向かったときのことである。
一緒に行ったのは、当時、全国学校法人幼稚園連合会の副会長をしていた増田弘先生(故人/東京都葛飾区・上平井幼稚園理事長=写真)。私は同連合会の事務局長としてカバン持ちを務めた。
東京駅を出るのは16時頃で、たっぷりと寝台列車が楽しめると思ったが、増田先生は「そりゃ君、寝るにはまだ早いよ。新幹線で追いかけて大阪あたりから乗り込もうや」と言った。乗ったらすぐにベッドに寝かしつけられると思ったのだろう。
そこで2時間遅れて新幹線で追いかけ、21時30分頃、新大阪で「あさかぜ」に乗った。すぐに浴衣に着替えたが、列車は5分近くも停車してから出発した。
すぐに大阪に停車した。目の前に売店があった。ここで私は財布から500円玉をひとつ取り出し、夕刊とビールを買おうと、スリッパのまま外に出た。新大阪で5分停まったのだから、大阪駅ならそれ以上、少なくとも同じくらいは停まるだろうと思ったからだ。
ところが、店先の新聞を抜き出し、「これとビールひとつね」と500円玉を差し出すと、売店のオバサンは目をまん丸にし、口もあけて「あ、あ、あ……」と言いながら私の顔を指さした。「いったい何だろう?」と思ったが、ふと後ろを振り向くと、「あさかぜ」のドアは閉まり、列車は動き出していた。ほかの近郊電車と同じく20秒の停車だったのである。
今度は私が「あ、あ、あ……」と言って、走り去る列車を茫然と見送った。商売熱心なオバサンは、素早く私の手から500円玉をもぎ取ると、代わりに500ccの缶ビールを握らせ、100円余りの釣り銭を渡してくれた。
パンツひとつに寸足らずの浴衣。青いゴムスリッパを履き、ビールと夕刊を持った男が1人、雑踏の大阪駅ホームに取り残されたのである。
駅員を見つけて救いを求めたが、その姿を見れば何があったか察しがつくようで、駅員は「中央改札口のそばにある駅長事務室に行ってください!」と叫んだ。大急ぎで階段を駆け下り、通路を走り、駅長事務室のドアをバ~ンと開けると、忙しそうに仕事をしていた10人ほどの職員が一斉に息を飲んだ。
しかし、過去にもそんなことがあったのか彼らの行動は早かった。1人が時刻表を調べて、「22時何分発の新幹線に乗れば広島で追いつける」と言い、1人がワラ半紙にガリ版印刷した、黄ばんだ通行手形のようなものに大阪駅長の赤い判をバンと押してくれた。その間に1人が新大阪駅に電話して「これこれこういう風体の男が行く」と伝え、もう1人が「あさかぜの車掌にもこちらから連絡しておくから、とにかく新大阪に戻って、新幹線で追いかけてください」と急かせてくれた。
22時近くとはいえ、まだまだ混雑している環状線のつり革に捕まって新大阪駅に戻り、浴衣の裾をはためかせ、ゴムスリッパのペタペタ音もさっそうと、新幹線の乗り換え口に向かって走った。黄ばんだ通行手形の威力は絶大で、すぐに通してくれて、広島行き最終新幹線の自由席に乗ることができた。
といっても姿は寸足らずの浴衣。油断すると前がはだけてパンツが見えてしまう格好である。どうしてそんなことになったのか、近くに座っている人達に大声で説明せざるを得なかった。そしてビールを飲み、約1時間半かけて夕刊を隅々まで読んだのである。
広島駅でも走った。私のことは知れ渡っていたようで、連絡改札口には駅員さんが集まり、「あさかぜが待っているよ」「ガンバレ!」「急げ!」と声援を送ってくれた。
深夜の山陽本線ホームで寝台特急「あさかぜ」が静かに待っていてくれた。飛び込んで自分の席にたどり着いたときは、全身の力が抜けるほどにホッとした。向かいの寝台からは増田先生の寝息が聞こえてきた。
九死に一生を得た思いで広島駅のホームを眺めていたが、列車はいっこうに発車しない。そのうち放送が入り、「えー、実は大阪駅でこれこれこんな出来事があり、その方が新幹線に乗って、浴衣のままで追いかけてきています。今しばらくお待ちください」と詳しく伝えられた。まだ起きていた乗客の間からドヨメキと笑いが起きたことは言うまでもない。
私は再びペタペタと列車内を走り、車掌室のドアを開けて、「私、私、もう乗っていますから」と言った。丸く見開いた車掌の眼は、すぐに嬉しそうに崩れ、「そうですか、あなたでしたか、良かったですね」と言い、マイクのスイッチを入れると、「さきほどの浴衣の人の到着が確認できましたので、間もなく発車します」と放送した。
翌朝、増田先生に昨夜の事件を話すと、「そう、大変だったね。ぼくは何も気づかなかったよ」とだけ言ってくれた。千葉に帰ってから、私は礼状と通行手形を添えて、菓子折をひとつ大阪駅長事務室宛に送った。しかし返事はなかった。
そんなことを思い出しながら、シューマイを食べ、ウィスキーを飲み始めた。18時、東京駅を出るときにはシューマイは半分に減り、川崎あたりでシューマイもウィスキーも全部なくなった。そして、横浜に到着する頃にはぐっすりと眠り込んでいた。寝台列車の旅は、このうえなく幸せな時間なのである。