日記・コラム・思い出

最後の九州ブルートレインと秋田・大阪の出来事

2009年1月21日(水)

3月で全廃される九州行き寝台特急(ブルートレイン)に乗って大分に向かった。最後だからと乗ったわけではない。私はこれまでずっと、よほどの事情がないかぎり、広島より西、八戸より北に行くときは寝台列車を利用してきた。飛行機が怖いわけではない。飛行場のあのすました雰囲気が苦手なのである。

B寝台でも飛行機より運賃は高いが(注:早割利用の飛行機代と比べた場合)、寝ている間に移動して、現地で早朝から気持ち良く活動できる便利さは代え難い。たとえば広島なら、東京駅で眼をつぶって、車掌さんの声でハッと眼を開けると暁の広島に着いている。ワープの感覚である。

ま、それもあるが、18歳で北海道から東京に出てきたのも寝台列車だった。柳行李と寝袋をチッキにして、身を起こすのもままならない三段ベッドの一番上で旅人の会話に耳を傾けていた。

大学2年の春に北島三郎バンドに入り、それからの3年間は、月に10回近くも寝台列車で眠るドサ回り稼業に勤しんだ。アルトサックスはいつまでも素人だったが、寝台列車での立ち振る舞いはたちまちプロになった。そんな甘酸っぱい青春時代の思い出に浸れるのも、寝台列車の良いところなのである。

Photo 案の定、東京駅のホームにはいつもと違う人達が集まっていた。おそらくこの人の群れは、最後の3月14日に向けて日を追って増えていったことだろう。

左の写真で、人々が入船したふじ号列車でなく反対側にカメラを向けている理由がわかるだろうか。

それは、東京駅まで列車を引っ張ってきた機関車が切り離Photo され、秋葉原方向に走っていくのを写しているからだ。バックで牽引してきたので、後ろ側に「ふじ&はやぶさ」の看板が付いている。これを写しているのである。

なぜこんなことになっているのか、詳しそうな人に訊いてみると、後ろ向きで入ってきた機関車は、そのまま日暮里電車区まで走り、線路を切り替えて、今度は前向きになって再び東京駅に帰ってくる。そのまま通り抜けて品川電車区まで走り、再び線路を切り替えて、今度は後ろ向きで東京駅に戻ってきて、寝台列車に結合する。そうすると機関車は前を向いて九州に走り出せるというわけである。

両端に運転車両が付いている新幹線や近郊電車とは違う苦労だ。寝台列車に乗って40年だが、そんな面倒な仕組みがあったことは今回初めて知った。

ホームの売店で、ウィスキーの小瓶、崎陽軒のシュウマイ(20個入り)、チーズかまぼこを買い込んで列車に乗り込んだ。寝台夕飯の定番三点セットである。そしていつものとおり、ズボン、ワイシャツを脱ぎ始め、浴衣に着替え始めた。

Photo_2 ワイシャツの衿や袖口の汚れを少なくするため、寝台車は、乗ったらすぐに浴衣に着替え、到着する寸前にワイシャツを着てネクタイを締めるのが基本だからだ。

ところが今回は、通路側の窓の向こうにカメラを持った人がたくさんいるのに気づき、ズボンを半分降ろしたままで、あわててブラインドを下げた。危うく見苦しい姿で、彼らの高級カメラを汚すところだった。

今のB寝台は、九州行きも北海道行きも、このように通路と直角する形でベッドが並んでいるが、昔の北海道行きは、真ん中に通路があり、その両側に通路と平行してベッドが並ぶタイプもあった。これだとベッドの幅が広く、内緒で2人寝ることも可能だったが、つま先から頭まで、全身で人の往来を感ずるので、どうにも落ち着かなかった。

Photo_3 幸い、ベッドは三段が二段になり、直角型も幅も広がり、布地は花柄になったりと改良されてきた。トイレも線路上直散布からタンク方式に改良されたが、1956年の運行開始当初から変わらないのが、洗面所と飲用給水器である。

だから今も、洗面台には歯磨き用のコップが付いている。昔は順番待ちでズラリと並んだひと達が、老いも若きも、汚いも綺麗も、皆同じコップで歯磨き後のすすぎをしたのである。

その教えに従って、私は今も歯磨きはそのコップを使っているが、ほかの人達は器用に蛇口を押さえながら手椀で水をすくうか、自前のコップを使っているようだ。だから洗面所のコップは今や私専用のような気がする。

Photo_4 飲用給水器も、昔は鎖のついたアルミカップがひとつあるだけで、誰もがそれで水を飲んでいた。貴重な飲料水なので、いちいち洗ったりはしなかった。しかしさすがにこれは問題ありと思われたのか、かなり早い段階から、丈の短い封筒型の使い捨て紙コップが用意された。お年玉を入れるポチ袋で水を飲むと思えばいい。

しかしこれは上手に飲むのに技量が必要で、初心者は、列車の揺れともあいまって顔を濡らし、胸元を濡らす。封筒に入れた水の半分くらいがこぼれるのも普通だった。

北島三郎バンドの連中は、この封筒コップで水割りを作って飲んだ。酔いが回ってくると濡らし方もひどくなり、下着も浴衣もトリスウィスキーの香りが染みこんだものである。

そんなわけで、寝台列車にはたくさんの思い出があるが、忘れがたいエピソードが二つある。

★秋田駅での飛び降り事件

ひとつは、1971(昭46)年の正月、雪深き秋田に行ったときのことだ。

ハッと目覚めると列車が止まっていた。「ここはどこかな?」と目を細めてホームの柱を見ると秋田駅である。ホームにはすでにバンドの仲間が降りて楽器のそばに集まっていた。

B002 「ヤラレタ」のである。何事も“洒落だよ”で済ますバンドマンは、よく眠っている仲間を、寝台列車だろうと旅館だろうと、決して起こすようなことはしない。そして数時間後、あるいは1日遅れで合流してきた仲間に、「やあ、遅かったね」のひと言で終わりにする。

バンドマスターには怒鳴られ、もちろん給料はカットされるが、自分が起きられなかったのだから誰にも文句は言えない。居酒屋でウッカリ油断してトイレに立ったりすると、戻ってきたときは勘定を残したまま仲間の姿が消えているなどは日常的に行われていた。

それをヤラレタのである。しかし発車ベルは鳴っているがまだ列車は動き出していない。自分の楽器がホームに運び出されているのを確認すると、私はハンガーに架けてある衣服と旅行バッグを抱えて、浴衣のまま出口に走った。ドアを開けると、すでに電車は動き始め、徐々にスピードが上がっていたが、荷物を放り投げると、躊躇せずに我が身も雪の積もったホームに飛んだ。

受け身で身体を止めるつもりだったが、慣性の法則は意外に力強く、我が身はまるで雪だるまのように二転、三転、四転と、列車の進行方向に沿って転がった。

あわや列車と接触、あるいは列車に巻き込まれそうな場面もあったそうだが、運良くそれは逃れて、ホームの端にすっくと立ち上がり、浴衣の雪を払ったとき、黙って見ていたバンドの仲間からは拍手が湧いた。しかし、すっ飛んできた駅員さんからはえらい剣幕で叱られた。そのまま首根っこをつかまれ、ぐっしょり濡れ、袖がちぎれた浴衣姿のまま駅長室に連れていかれた。

当時の私の価値観からすると、浴衣を破いたことを叱られ弁償させられるものと思っていたが、駅長さんからは「怪我をしたらどうするんだ。命を大事にしろ」とコンコンと説教された。

★大阪駅での置き去られ事件

もうひとつは、1985(昭60)年4月、寝台特急「あさかぜ」で長崎に向かったときのことである。

003 一緒に行ったのは、当時、全国学校法人幼稚園連合会の副会長をしていた増田弘先生(故人/東京都葛飾区・上平井幼稚園理事長=写真)。私は同連合会の事務局長としてカバン持ちを務めた。

東京駅を出るのは16時頃で、たっぷりと寝台列車が楽しめると思ったが、増田先生は「そりゃ君、寝るにはまだ早いよ。新幹線で追いかけて大阪あたりから乗り込もうや」と言った。乗ったらすぐにベッドに寝かしつけられると思ったのだろう。

そこで2時間遅れて新幹線で追いかけ、21時30分頃、新大阪で「あさかぜ」に乗った。すぐに浴衣に着替えたが、列車は5分近くも停車してから出発した。

すぐに大阪に停車した。目の前に売店があった。ここで私は財布から500円玉をひとつ取り出し、夕刊とビールを買おうと、スリッパのまま外に出た。新大阪で5分停まったのだから、大阪駅ならそれ以上、少なくとも同じくらいは停まるだろうと思ったからだ。

ところが、店先の新聞を抜き出し、「これとビールひとつね」と500円玉を差し出すと、売店のオバサンは目をまん丸にし、口もあけて「あ、あ、あ……」と言いながら私の顔を指さした。「いったい何だろう?」と思ったが、ふと後ろを振り向くと、「あさかぜ」のドアは閉まり、列車は動き出していた。ほかの近郊電車と同じく20秒の停車だったのである。

今度は私が「あ、あ、あ……」と言って、走り去る列車を茫然と見送った。商売熱心なオバサンは、素早く私の手から500円玉をもぎ取ると、代わりに500ccの缶ビールを握らせ、100円余りの釣り銭を渡してくれた。

パンツひとつに寸足らずの浴衣。青いゴムスリッパを履き、ビールと夕刊を持った男が1人、雑踏の大阪駅ホームに取り残されたのである。

駅員を見つけて救いを求めたが、その姿を見れば何があったか察しがつくようで、駅員は「中央改札口のそばにある駅長事務室に行ってください!」と叫んだ。大急ぎで階段を駆け下り、通路を走り、駅長事務室のドアをバ~ンと開けると、忙しそうに仕事をしていた10人ほどの職員が一斉に息を飲んだ。

しかし、過去にもそんなことがあったのか彼らの行動は早かった。1人が時刻表を調べて、「22時何分発の新幹線に乗れば広島で追いつける」と言い、1人がワラ半紙にガリ版印刷した、黄ばんだ通行手形のようなものに大阪駅長の赤い判をバンと押してくれた。その間に1人が新大阪駅に電話して「これこれこういう風体の男が行く」と伝え、もう1人が「あさかぜの車掌にもこちらから連絡しておくから、とにかく新大阪に戻って、新幹線で追いかけてください」と急かせてくれた。

22時近くとはいえ、まだまだ混雑している環状線のつり革に捕まって新大阪駅に戻り、浴衣の裾をはためかせ、ゴムスリッパのペタペタ音もさっそうと、新幹線の乗り換え口に向かって走った。黄ばんだ通行手形の威力は絶大で、すぐに通してくれて、広島行き最終新幹線の自由席に乗ることができた。

といっても姿は寸足らずの浴衣。油断すると前がはだけてパンツが見えてしまう格好である。どうしてそんなことになったのか、近くに座っている人達に大声で説明せざるを得なかった。そしてビールを飲み、約1時間半かけて夕刊を隅々まで読んだのである。

広島駅でも走った。私のことは知れ渡っていたようで、連絡改札口には駅員さんが集まり、「あさかぜが待っているよ」「ガンバレ!」「急げ!」と声援を送ってくれた。

深夜の山陽本線ホームで寝台特急「あさかぜ」が静かに待っていてくれた。飛び込んで自分の席にたどり着いたときは、全身の力が抜けるほどにホッとした。向かいの寝台からは増田先生の寝息が聞こえてきた。

九死に一生を得た思いで広島駅のホームを眺めていたが、列車はいっこうに発車しない。そのうち放送が入り、「えー、実は大阪駅でこれこれこんな出来事があり、その方が新幹線に乗って、浴衣のままで追いかけてきています。今しばらくお待ちください」と詳しく伝えられた。まだ起きていた乗客の間からドヨメキと笑いが起きたことは言うまでもない。

私は再びペタペタと列車内を走り、車掌室のドアを開けて、「私、私、もう乗っていますから」と言った。丸く見開いた車掌の眼は、すぐに嬉しそうに崩れ、「そうですか、あなたでしたか、良かったですね」と言い、マイクのスイッチを入れると、「さきほどの浴衣の人の到着が確認できましたので、間もなく発車します」と放送した。

翌朝、増田先生に昨夜の事件を話すと、「そう、大変だったね。ぼくは何も気づかなかったよ」とだけ言ってくれた。千葉に帰ってから、私は礼状と通行手形を添えて、菓子折をひとつ大阪駅長事務室宛に送った。しかし返事はなかった。

Photo そんなことを思い出しながら、シューマイを食べ、ウィスキーを飲み始めた。18時、東京駅を出るときにはシューマイは半分に減り、川崎あたりでシューマイもウィスキーも全部なくなった。そして、横浜に到着する頃にはぐっすりと眠り込んでいた。寝台列車の旅は、このうえなく幸せな時間なのである。


こどもの城と宮崎祐治と特大ハンバーガー

2008年11月5日(水)

Photo_24 渋谷の「こどもの城」に出かけた。見なれている岡本太郎氏の「こどもの樹」だが、今回は見るなり、「そうだ幻の壁画『明日の神話』がもうすぐ渋谷で公開になるんだ。渋谷に岡本太郎のソウルがみなぎってくるんだな。みんな酔いどれにならなければいいが」と思った。

25年余り前、幼稚園の全国教育研究大会で岡本太郎氏に記念講演をお願いしたことがあった。先般亡くなられた養女の方と一緒に前の晩に来てくれて安心していたら、ルームサービスでお酒を浴びるほどに飲んだという。翌日午後の講演直前になっても酒臭くて近寄れず、足元もフラついていた。

支離滅裂なことを言いながら、演台の水差しを2回お代わりした。それでも聴衆は「さすが天才は違う。言っていることがまったくわからない」と喝采を送った。すごい人だった。

Photo こどもの城に来たのは、13階(最上階)にある日本保育協会の事務局を訪ねるためだった。企画情報部長・宮崎祐治さん(写真)に会って、ランチを食べる約束を作ったからだ。

宮崎さんの経歴はよく知らないが、とにかく保育所に関わる法律、制度、行政、歴史のことを何でも知っている。人脈も幅広い。“生き字引き”とはこういう人のことを言うのだろうと思う。そしてよくしゃべる。論客なのである。

幼保間の綱引きで幼稚園が苦戦している要因のひとつに、この人が保育所陣営にいることは否定できない。

そんな人に「どうです、時には飯でも食べながら情報交換しませんか」と呼びかけた。こちらは例によって、格安「さくら水産」あたりでチビチビ攻めようと思ったが、返ってきたのは「いいですね。昼飯を食べながらやりましょう」だった。

Photo_2 「片岡さんの好きそうな店だと思う」と宮崎さんが案内してくれたのは、こどもの城のすぐ脇にある、広々としたアメリカンレストランだった。そして「これがお薦めなんです」と注文したのが、このハンバーガーである。

丸いパンで挟んで食べるのがハンバーガーだと信じていたが、これはどれほど口の大きい人でも挟んで食べられない。ナイフとフォークで刻みながら食べるしかなかった。

これで値段は1,900円。目玉が皿に落ちかけたが、パンと紅茶とコーヒーは飲み放題だ。それを考えると実質1,000円くらいと想定でき、目玉は引っ込んだ。

さらに、私から誘いかけたのに、3歳年上の宮崎さんは「ここは僕の縄張りだ。今日は私が払っておくよ」と言った。生き字引きとは太っ腹でもあるのだ。

宮崎さんは埼玉県東松山市から通ってきている。地下鉄副都心線ができて随分楽になったそうだ。東松山と言えば、日本一の焼き鳥(中身は豚)の町だ。「今度は焼き鳥を食べながら話しましょう」と言って別れた。早めに実現させたいと思っている。

さて肝心の情報交換した内容だが、それは今後、「私幼ヘッドライン」などの記事の中に散りばめていくので斟酌してほしい。


全私学新聞と(株)ジャクパと小杉重雄

2008年10月22日(水)

★柳沢清氏の明るさと情熱

久しぶりに市ヶ谷に出かけた。学生時代、私学新報(現・全私学新聞社)、全国学校法人幼稚園連合会(全法幼)事務局と、18歳から35歳まで18年間にわたってほぼ毎日通った駅である。その後も、何やかやと週に1度くらいは降り立っていたが、最近は年に数回になってしまった。

003 しかし駅前に高いビルが建つこともなく、40年前とほとんど雰囲気が変わっていない。だから足が遠のいても違和感がない。

ところが今回、何気なく駅前から見上げたところに高いビルが一本建っていた。「おや、何だろう?」とビル上部にある文字を目を凝らして見ると、法政大学と書いてあった。いつの間にこんな大きなものを建ててしまったのだろう。

かつての野蛮無鉄砲な汗臭いムードは一掃され、「どこを見ても女ばっかり。まるで女子大みたいだ」と嘆いていた同輩がいたが、野球もダメ、サッカーもダメ、駅伝もダメ……こんな校舎を造るようではさもありなんと俯いた。

Photo_13 予定の時間より早く着いたので、古巣のひとつ、全私学新聞を訪ねた。

昔ながらの人が残っているので気軽に顔を出すことができる。この日も、雑然と積まれた資料の陰で、鈴木邦雄氏(左)と石井雄造氏(右)がゴソゴソと仕事をしていた。

その昔、社員は浅岡玲子編集長(故人)と私の2人だけだった。昼間、取材に出ているときはいいが、夜、原稿書きや校正をするとき、母親ほどの年の開きがある女性と差し向かいになるのは息が詰まった。私は生来、女性との差し向かいに弱い。女房でも娘でも面と向かうと緊張して固まってしまう。

耐えきれず、結局、私は辞めた。今考えると、年老いた母を残して田舎を出た放蕩息子のようで無慈悲だったと思う。その後に入ったのがこの2人と小山三夫氏だった。私学振興助成法の制定に伴い「私学新報」から「全私学新聞」に発展するのに3人は力を尽くした。

その後、小山氏は独立して出版社(信央出版)を立ち上げた。残った両雄は、鈴木氏が編集、石井氏が営業と分担して浅岡編集長を支えた。その浅岡女史亡き後、約1年間の空白をおいて鈴木氏が編集長を継いだ。編集畑からということでは穏当なことだろう。

石井氏が突然、「片岡さん、私学団体の事務局というのは、どうしてどこもあんなに暗いのでしょう。その点、全法幼の事務局は明るい。いつ行っても楽しそうだ」と、まるで昨日の話のように言った。実際は25年以上前のことである。

001 たしかにその通りだった。しかしそれは脳天気な私がいたからではない。私自身が、その明るさに惹かれて全法幼に入ったのだから。おそらく、当時の柳沢清事務局長(写真=故人)の人柄だったのだと思う。

中野区の啓明小学校校長を定年退職した人だったが、とても元公立小学校の校長とは思えない情熱と大らかさを持っていた。

相手が大臣だろうと会長だろうと、譲れない線は頑として立ちふさがり、どうでもいいことは豪快に笑い飛ばした。酒をよく飲み、哀愁に満ちた若き武勇伝を聞かせてくれた。

ガンだとわかった時は、一切の治療を拒否して静かに死んでいった。それ以後私は、彼ほどの侍に出会ったことがない。

★死ぬまで背広の心配はない

全私学新聞を出て、日本テレビ(麹町分室)前にある「ぢどり屋」という居酒屋に向かった。(株)ジャクパ(本社=東京小平市)の五十嵐勝雄社長(左から2人目)、白瀧博彦常務(左端)、小杉重雄監査役(右端)と会い、11月27日にいわき市で行う同社主催の経営セミナーの打合せをするためだった。

4_2

この面々と会うのは名古屋の「鳥銀」以来だが、なぜかいつも鳥料理屋になってしまうのは不思議だ。もちろんこの日もガチョウのように飲み、アヒルのように歌い、千鳥足で家路についたのは言うまでもない。

ところで、ここに登場する小杉重雄さんは東京都の職員を定年退職した後、東京都私立幼稚園連合会の事務局長を6年務め、ジャクパに転じた人である。私にとっては法大の先輩でもある。

実は私が着ているスーツの内側にはすべて「小杉」の名前が入っている。夏冬合わせて計25着のスーツ、コート、ジャケット(その大半がピエールカルダン)を小杉さんから譲り受けたからだ。

「本当にこんなボロをお送りしていいのですか」と奥さん(故人)は恐縮していたが、私は大助かりで、おそらく死ぬまでパンツ、下着、靴下、ワイシャツ以外の衣類は買わずに済みそうだ。

柳沢清氏と小杉重雄氏、この2人の事務局長のおかげで私は呑気に生きていられるのである。


プラモデルショーと田代茂と定食屋「志むら」

2008年10月17日(金)

★プラモデル誕生からちょうど50年

NECネッツエスアイ社の田代茂氏を誘って、幕張メッセで開かれている全日本模型ホビーショー(主催=日本プラモデル工業協同組合)に出かけた。

Photo_6 田代氏から「幕張本郷の、あの定食屋で一杯やりましょうよ」との声がかかり、酒を飲むだけでは芸がない、その前にちょっと知識見聞を広げようとなった次第。

精巧な自動車プラモデルの原形を食い入るように見つめているのが田代氏である。今年が日本でプラモデルが誕生してから50年。彼は私より三つ年下だが、二人とも紛れもなきプラモデル世代である。

Photo_7 しかし好みは違っていた。田代氏が飛行機、それも戦闘機が中心だったのに対し、私は自動車、それもトラックやブルドーザーなどの働く自動車が好きだった。つまり田代氏は好戦的な人間であり、私は友好建設的な人間だとも言えなくもない。

自動車派の私の机の中には、12型から65型まで、動くプラモの心臓と言えるマブチモーターとギアボックスが並んでいた。

Photo_9  ひとつ作るとガタガタになるまで走らせ続け、壊れると次の1台を見つけて心臓移植するというのが私のスタイルだった。家が狭かったので、飛行機派や船派のようにずらりと飾るスペースがなかったこともある。

それでも、できあがったばかりのトヨタパブリカを、酔って帰ってきた父親が踏み潰したときは大泣きしたものだ。「うるさい!」と怒鳴るわけにも、なだめるわけにもいかず、じっと困惑していた父親の顔が今も目に浮かぶ。給料のほとんどを母親の入院費にあて、父子二人で四畳半アパートに暮らしていた頃の光景だ。

Photo_10 そうした昔懐かしいプラモデルも展示されていたが、今はラジコン時代で、険しい岩肌を登っていく四輪駆動車、狭い空間を舞うように飛ぶヘリコプター、ダンスや体操をするロボットなどが主流だった。

「こんなのを幼稚園に持っていって、子ども達に見せてあげたら喜ぶだろうね」「そうだな、科学とか技術の芽を育てるのに役立つと思うよ」「やってみたいね」「だいぶお金はかかるけどね」と、二人は飽かずにラジコン模型を眺め続けた。

見回すと会場にいるのは我らと同年代のオジサンばかり。オバサン、若者、子どもの姿はほとんどなかった。これでは技術立国、器用人社会の未来は危ないと思ったものである。

★またひとり、幼稚園ウィルスの感染者が

Photo_11 幕張メッセはさっと済ませて、駅前でじっくり酌み交わす予定だったが、思いがけずプラモデルの郷愁に浸ってしまい、定食屋「志むら」の暖簾をくぐるのが遅くなってしまった。

私はこの店が大好きである。千葉マリーンズファンの看板娘が二人いるからだけではない。一番の魅力はメニュー品目が少ない(と言っても15品目くらいはある)ので、選ぶ苦労がないことだ。お刺身と海鮮サラダと肉じゃがでも注文すればテーブルの上は賑やかになる。

長谷川卓氏の時代小説「北町奉行所捕物控シリーズ」などを読んでいると、江戸時代の酒場は自慢料理を2、3品掲げているだけで、その味と鮮度は、他所に負けない誇りを持っていた。その気概を持ち続けているのが、「志むら」だと思っている。

できれば毎夕でも顔を出したいのだが(実際そうしている常連客は多い)、鮮度と素材の良さで値段も高い。常連になったのでは破産は目に見えている。だから1人で行くことを堅く禁じ、誰か客人が来たときにだけ暖簾をくぐることにしている。

田代氏はそれを知っているから、「あの店に行きましょうよ」とはるばる幕張本郷まで来てくれる。彼は、学部も学科も同じ法大(社会学部社会学科)の後輩で、社会人のスタートは共に音楽業界。オートバイが好きだが転倒事故のおかげで現在長期謹慎中というところも似ている。

その田代氏は、NECという大企業を定年前に辞し、幼稚園に関わる仕事をしたいと言い出した。浄水器設置や芝生敷設の仕事で幼稚園に出入りしているうち、もっと私立幼稚園と深く関わり、「編集長のようなバカになって、私立幼稚園を応援する1人になりたい」と思い立ったというのである。

Photo_12 幼稚園ウィルスに感染したバカが、また1人誕生した次第でもある。何を始めるかはまだ不明だが、幼稚園の周辺をウロチョロするであろうこのチョビ髭男を、お見知りおきいただければありがたい。


サンロフトセミナーと川井俊幸と石川京子

2008年10月2日(木)

秋晴れの昼時、豊洲駅に降り立ちました。

地下鉄有楽町線が新富町から新木場まで延びたのは20年前のこと。しかしこれまで、その間の新駅に下りたことはありませんでした。築地市場の移転予定先が豊洲。ところがその埋め立て地には有害物質が残っていて食品市場には向かないという話も聞きます。

Photo 一体どんなところだろうかと思っていましたが、広々とした空間にビジネス高層ビルと高層マンションがニョキニョキと建つ発展途上の街でした。引っ越してきたばかりの家のような感じで、これから生活感が染みこんでくるのでしょう。

職住接近なので、自転車や徒歩で会社に通う。あるいはランチは家に戻って食べる、なんていう未来型独立タウンになるのかも知れません。

江東区はマンションラッシュで幼稚園はどこも満杯。小学校、中学校も超すし詰めで増設が追いつかないとの話を聞きますが、その要因のひとつは豊洲にあったようです。道すがら5階建ての中学校とうのも初めて見ました。

豊洲に来たのは、フロントガーデン内にある東芝の研修施設で(株)サンロフト(松田敏孝社長/本社=静岡県・焼津市)の「パステルITセミナー」(幼稚園・保育園関係者のためのパソコン活用講座)が開かれたからです。これまで同セミナーは本社内の研修ルームで行われていましたが、わざわざ焼津まで来てもらうのは気が引けると、今年は焼津と東京の2箇所で開催したのです。

003 なぜ東芝の研修施設で?というのは同社の松田社長が東芝出身だからです。東芝出身と言えば川崎市多摩区・西三田幼稚園の荘司真太郎理事長(写真)や幼稚園にバス運転手や臨時教員を派遣する(株)みつば(本社=横浜市)の古宮清隆社長を思い出します。東芝と私立幼稚園の間には意外なパイプがあるようです。

★スライドムービーへの関心

さて、そのパステルセミナーでもっとも注目されたのはデジタル写真を使っての映像(スライドショー)づくりです。プロジェクターを使い、好きな音楽に乗せてデジカメ画像を動画のように再生させるスライドショーは、幼稚園にとっての新しい「伝える」手法として定着しつつあり、保育報告会、保護者懇談会、行事説明会、入園説明会、ホームページ掲載などで威力を発揮しているからです。

Photo 「うちの園でも思い切ってプロジェクターを買おうと思っているが、それにはあの映像づくりをマスターしなくては」と思っている幼稚園が多いのです。そこで今回のサンロフトセミナーでは、「感動の涙をさそう思い出ムービー」と題して、その作り方を伝授しました。

写真は、無料ソフト「フォトストーリー」を使って、作り方をやさしく指導する同社の鈴木あゆみさん。独特のゆったりにこやかな語り口で見本作品をひとつ仕上げてくれました。

とにかく1度話を聞けば、簡単に初級作品を作ることができます。初級とは言っても、卒園式で親の感動を誘うことは間違いありません。それができれば、後は本人の関心次第でどんどん発展進化させていくことができます。これを学ぶだけでもサンロフトセミナーは価値があると言えるでしょう。

Photo_2 もうひとつ同社セミナーのユニークなところは、ITとは無縁なアナログ保育技法がマスターできることです。同僚から「あら?先生、パソコンセミナーに行ってきたのに、こんなことも学んできたの」と驚かれる所以です。

「切り貼りアルバム」「折り紙」などがあり、今回は天然ゴムの絵の具を使ったエコバッグ作りでした。無地のバッグに安全無害なゴム絵の具で絵や字を描いていくのです。それも掌をパレットにして指先で描くのです。乾くと皮膚についた絵の具は容易にはがれます。だから顔や体へのペインティングも安全に楽しめるというわけです。

たまたま私の隣に座ったのが、神奈川県相模原市・相模ひまわり幼稚園の川井俊幸副園長でしたが、「これは面白い教材に出会うことができた。今日のパソコンセミナーでの最大の収穫だ」と喜んでいました。

その川井先生に、「帰りに一杯どうですか」と指盃のサインを送ると、「いいですねえ」とニッコリ。連れだって駅前の「養老乃瀧」に入りました。残念ながら豊洲駅前には「さくら水産」も「はなの舞」も「さかなや道場」……もなかったのです。

Photo_3 川井先生(写真左)は(社)相模原市幼稚園協会の会長もされているので、政界談義やドッジボール論議のほかに、幼児教育無償化や認定こども園などのシリアスな話も織り交ぜてくれましたが、何しろこの人は酒が強い。芋焼酎のロックを水のように飲み干し、お代わりをするたびに私の生ビールも注文したので、久しぶりに深酔いとなり、何を食べたか、何を話したかケロッと忘れてしまいました。要注意人物の一人としてマークさせていただいた次第でもあります。

さてもうひとつツーショットを載せさせてもらいます。先般、千葉県・健伸幼稚園を訪ねたとき、たまたま柴田衣子園長とツーショットを撮り、「そうだ私はこれまで女性園長と一緒の写真をほとんど撮ってこなかった。これからはチャンスがあるたびにツーショットを撮ろう」と決心しました。

Photo その二人目となったのが、埼玉県富士見市・きたはら幼稚園の石川京子園長(写真)でした。

「理事長(夫の石川泉先生)から、スライドムービーの作成法をマスターしてくるようにと言われて来たんです。あの人はいろんなことを思いつくんですが、それを実際にやるのはいつも私で、振り回されています。でもま、何も思いつかない理事長よりはいいのかも知れません」と笑いました。

石川先生が作ったエコバッグは、布一杯にド~ンとヒマワリを描いた大胆なものでした。見かけによらず逞しい人なんだな、と思った次第です。

★『パステルIT新聞』について

It1 ところで、サンロフトセミナーでスライドムービーを指導してくれた鈴木あゆみさんは、同社が発行する『パステルIT新聞』の編集長もしています。

今年6月に創刊されたタブロイド月刊紙で、幼稚園でのパソコン活用事例が紙媒体で紹介されています。「パソコンを使ってこんな新聞も作ることができますよ」とのアピールも兼ねており、デジタルとアナログを自在に使いこなす同社ならではの発想と言えます。

無料の新聞です。送付ご希望の園は、TEL:054-626-8888、FAX:054-626-3100へ連絡するか同社のホームページ(http://passtell.jp/)にアクセスしてください。


大空ひばりと中野サンプラザとレッジョ・エミリア

2008年9月28日(日)

はからずもいろいろな歌を聴くことになった日曜日でした。

まずは11時から開かれた、地元幕張本郷の4つの自治会が合同で行った第1回の敬老会です。

敬老の日には、市から70歳以上の住民にいくらかの補助金が出ます。これまではそれで飴玉かお茶を買って配っていましたが、モノを配って終わりにするのではなく、お年寄りが集まって楽しめるイベントをするようにとの指導がありました。各自治会がそれぞれ行ったのでは、余りにもこぢんまりしたイベントになるので、それじゃ合同で行おうとなった次第です。

Photo 栄えある第1回ゲストとして招かれたのが、老人ホームの慰問で人気があるという大空ひばりさんでした。いわゆる故・美空ひばりさんのそっくりさんです。

言われてみれば、歌い方が美空ひばりに似ていると言えます。話し方や素振りも、似ているといえば似ています。だから2、3曲でやめてくれれば「面白い人に出会ったな」で終わったのでしょうが、この衣装のまま1時間も歌ってくれたのです。

不肖私は、痩せても枯れてもプロの演奏家として大学4年間を過ごし、北島三郎氏のほか、村田英雄、三沢あけみ、新川二郎、伊沢八郎などたくさんのプロ歌手のバックを務めました。ささやかな人生の誇りでもあります。

美空ひばりさんのバックも一度だけ、千葉県柏市の公演で務めました。あのときの緊張感は今も忘れられません。楽屋のトイレのひとつが、ひばりさん専用になっていたのも覚えています。毎年正月に行う北島三郎氏の浅草国際劇場公演のときは、必ず一度、ひばりさんがサブちゃんの楽屋を訪ねてきました。律儀な方でした。だから、あのサブちゃんが鼻の穴を二倍に広げて丁寧に応対していました。

そんな美空ひばりを知っている人間にとって、「大空ひばり1時間ショー」はひばりファンの心を踏みにじるものではなかったかと思います。

Photo_2 そんな辛い思いを引きずって、次に出かけたのが中野サンプラザでした。中野駅北口の前に聳える1973年築の建物は、昔と変わらぬ威風堂々とした姿を見せていました。

以前は労働省が所管する全国勤労青少年会館と呼ばれ、雇用保険の資金で建てられたのですが、社会保険がらみの保養施設などとともに不正支出、非効率運営が指摘され、2004年からは中野区と地元商工企業の共同運営になりました。そのおかげでロビーもレストランも雰囲気がガラッと変わっていました。

サンプラザのすぐ前の北口広場では太鼓の音が鳴り続いていました。沖縄のエイサーであることがすぐにわかりました。東京沖縄県人会が主催する「アシバ祭り」が行われていたのです。

Photo_3 琉球方言でアシバとは「遊ぼうよ」との意味だそうで、その言葉どおり広場に集まった沖縄の人達は、まさに老若男女を問わず、我れ先にと踊りの輪の中に入っていきました。

北海盆歌を北海道の人が皆踊れるわけでなく、東京の人が皆東京音頭を踊れるわけではありません。でもきっと沖縄の人はみんなエイサーが踊れるような気がしました。

その素晴らしさにしばし見とれたおかげで、大空ひばりショーを見せられた辛さも癒された気がしました。

Photo_4 さて、肝心の中野サンプラザに来た理由は、「日高正人といもづるの会」という歌謡コンサートを見るためでした。

「松原のぶえさんが出るコンサートです。チケットがあるので良かったら来ませんか」と法大の先輩・中鉢(ちゅうばち)泰平氏のお誘いがあったのです。

私とは入れ違いですが、松原のぶえさんも北島三郎ファミリーの一員です。「それじゃ一度生の歌を聴いてみようか」と駆けつけたのですが、松原さんは特別ゲストで、日高正人という人をはじめ、名前も顔もまったく知らない歌手が、まさに芋づるのように続々と登場して、まったく知らない歌を歌う奇妙なコンサートでした。

「一体いつになったら松原のぶえは出てくるのか」とイライラしながら待ちましたが、出てきたのは開演から1時間30分後でした。「演歌みち」「海燕」そして新曲「桜散る海」の三曲を歌って引っ込むと同時に、八割方埋まっていた客席が一斉に動きました。大半の人が松原のぶえ目当てで来ていたようです。

「これ以上、知らない人の知らない歌を聴くのは耐えられない」と、私も人波に紛れて会場を出ました。出演者全員が登場するフィナーレがどんな状況になったか、推して知るべしです。

Photo_5 写真の左が宮城県出身の先輩・中鉢さんです。せっかく誘ってくださったのに、途中で逃げ出してしまったこと、申し訳ない思いです。55歳を過ぎたあたりから、嫌なものをジッと我慢していることができなくなりました。これも弱ったことだと思っています。

この中鉢さんはインターナショナルヒューマントラベルという旅行会社の社長さんで、「フレーベルの原点を訪ねる」「メルヘン街道を歩く」など幼稚園関係者向けのヨーロッパ旅行を得意にしています。

最近は幼児造形の街・レッジョ・エミリアを中心にしたイタリア旅行も多く手がけていて、今は下記の研修旅行を募集しているとのことです。関心のある方はお問い合わせください。

★レッジョ・エミリア乳幼児教育研修
・実施期間  2008年11月25日(火)~11月30日(日)  6日間
・成田出発でローマ経由、宿泊はすべてレッジョ・エミリア市
・11月26日から3日間はレッジョチルドレン主催の研修プログラムに参加。
・参加人数  30人
・参加費用  285,000円(ほかに研修会参加費720ユーロが必要)
・問い合わせは、TEL:03-5385-3693  FAX:03-5385-3694


岡田勝彦と都市対抗野球と大阪城人間

2008年9月3日(水)

「今日は原稿を書くぞ!」とねじり鉢巻きを締めたところで、名古屋市・鳴海ヶ丘幼稚園の岡田勝彦園長(愛知県私立幼稚園連盟総務部長)から携帯メールが届きました。「今日、研修で東京に来ています。相談事もあるので、夕方どこかで会えませんか?」との内容です。

002 相談事と聞いては原稿どころではありません。何しろ、この方の父親・岡田幸彦先生(写真)にはいろいろとお世話になったのです。

35年前、私が初めて私立幼稚園団体に入ったとき、広報委員長をしていたのがオヤジさんで、私立幼稚園が抱えている課題や、機関紙で特集を組む際の視点などについてよく語り聞かせてくれたものでした。

真面目なのか風変わりなのかわからない人でもありました。居酒屋に入って、ビール1本を注文しただけで延々と、あらゆることを話すのです。こちらは腹は空きました。でも勉強になりました。

その息子からの呼び出しです。訊けばお茶の水にいるというので、「それなら」と、私が一番上位にランクしている「さくら水産・水道橋店」で落ち合うことにしました。

Photo 右が岡田勝彦先生です。

なぜ水道橋店を好むかというと、私が知るかぎり、ここが都内のさくら水産の1号店だからです。そして、それ以前の「海鮮小町」という店だったときから、この店を愛用していたのです。

「海鮮小町」の女将は威勢の良い人でしたが、何かの拍子にさくら水産の軍門に下ってしまったのでしょう。でもおかげで我々は以前の半額くらいの値段で飲み食いができるのです。

上の写真でお気づきのとおり、さくら水産のメニューはテーブルに貼ってあります。頼んだ料理がなくなり、皿が片付けられてテーブルに余白ができると、メニューが見えて次の注文ができるという合理的なシステムです。

肝心の相談事は15分で片づき、後は福田退陣やロシア関取事件、グルジア紛争などの世間話を交わしましたが、隣の東京ドームでは都市対抗野球が真っ盛りです。「せっかくここまで来たのだから、野球を観に行きましょう!」と提案しました。

「ええ!ぼくは今日中に帰らなくては……」と岡田先生はタジタジとしましたが、「名古屋は近い。千葉に帰るのと時間は大した変わらない」と連れ出しました。

試合は「NTT西日本VS王子製紙」でした。「愛知県に関係が深いのはどっちでしょう?」「電話はNTT西日本の管轄だから、たぶんこっちだね」と即断して、二人はNTT西日本の応援団に潜り込みました。

Photo_2 しかしこれは間違いでした。NTT西日本は大阪市で、王子製紙が春日井市だったのです。しかしもう入り直すこともままならず、二人はやむなく大阪市の応援をすることになりました。

ここでひとつ情報です。都市対抗野球は、ネット裏特別席2,400円、バルコニー席1,500円、外野席800円でチケットを買うことができます。このチケットを買えば朝から夜まで全部の試合(最大三試合)を見ることができます。しかし、どちらかの企業の応援団に入ってしまえば、タダで見ることができます。

これは違法やもぐりではなく、そういうフリーの応援を企業は歓迎してくれ、タオルや帽子などの応援グッズまでもらえることがあります。

Photo_3 「我々が間違ったせいで春日井市が負けたら大変だ」と思いつつも、チアガールを眺めて大阪市を応援していましたが、試合は8回裏に春日井市が勝ち越して、3対2で勝ちました。ホッとしました。

これで6回目の観戦となりましたが、今回も感じたこと。それは「都市対抗野球は高校野球、大学野球よりレベルはずっと上で、プロ野球よりずっと真剣で、一番面白い」ということです。星野ジャパンの不甲斐ない試合を見た後だけに、なおさら強く感じた気がします。

9月9日(火)までやっていますから疑問に思う人は見に行ってみてください。その応援の迫力にも圧倒されることと思います。

001 華やかなチアガールや応援リーダーの陰に隠れて、大阪城から両手を突き出して応援しているオジサンがいました。いわゆる縫いぐるみとも違う新バージョンです。

「大変だな」とは思いましたが、「あんなのをかぶって幼稚園に行ったら、子ども達に喜ばれるだろうな」とも思い、そのオジサンの動きに見入ってしまいました。

Photo_4 大阪らしく、ほかにタコ焼き、お好み焼きをかぶっている人もいましたが、驚いたのは、お好み焼きのヘラをかぶっている人がいました。

でもこの人、ヘラヘラ笑っていればいいものを、ずっと寂しい顔で行ったり来たりしていました。何かの罰ゲームでこんな羽目になったのかも知れません。

ということで、都市対抗野球に行くと、こんな生々しい人間模様も見えてきます。「日本の企業社会はまだまだ大丈夫だ」という実感を得ることもできます。ぜひ一度出かけてみてください。


浅草サンバとサンマ塩焼きとブラジル演歌

2008年8月30日(土)

★雨上がりのサンバ

001_2  去年に続いてまた浅草サンバカーニバルにやってきました。今や私は幼稚園界における浅草サンバの駆け出しプロと呼ばれてもいいかも知れません。

といってもタテマエ上は浅草サンバがメインではなく、30日夕方から行われる船橋市・健伸幼稚園の「秋まつり」にカメラマン・河口正馬氏と一緒に出かけることになり、「ちょっと待て、30日は浅草サンバだ。それなら寄り道して行こうじゃないか」となったわけでした。

ところが、すでに二人とも浅草に向かう電車に乗っているときに、健伸幼稚園から「今日は夕方から確実に雨が降るという予報なので、秋祭りは翌日に延期します」との連絡が入りました。

それでやむなく浅草サンバが本日のメインイベントになった次第です。しかし船橋と浅草は京成電車で約20分の距離。浅草にも雨が降らないわけはありません。

道路の規制が始まり、すっかり観衆の撮影態勢が整った正午、突然のどしゃ降りになりました。我々二人も良い場所が確保できたのですが、シート代わりの梱包紙と荷物を抱え、命からがらアーケードの下に逃げ込みました。

002 この雨のせいで、昨年、まるで幼稚園の運動会の応援席のように理路整然としていた観衆の姿勢が崩れました。敷物にしていた新聞、段ボール、包装紙、レジャーシート類がグッショリ濡れてしまったのです。濡れてないものも水たまりの路面に敷くのがはばかられ、1列目から立ってしまう人が多くなってしまったのです。

観衆の大半が高齢者なので、それほど殺気だった雰囲気にはなりませんでしたが、昨年の“のんびり見物”のムードはすっかり消えてしまいました。

我々二人も何とか我慢して、人垣の間からダンサーを狙いました。しかし観客が浮き足立ち、ダンサーも雨を心配して落ち着かなかったせいか、どうも全体のレベル、元気度、笑顔度は昨年より落ちたように思いました。

「毎年1人で観にきてる」と言っていたオジサンが、2時間足らずで「あ~もういいわ。毎年おんなじだ!」と吐き捨てるように言って席を立ちました。その気持ちがよくわかりました。

Photo 「お父さん、この人達、いっぺん踊った人がまた踊っているんじゃない。こんなに裸になる人が大勢いるのは変よ」「バカヤロー!田舎のストリップ小屋じゃないんだ。ここは世界の浅草だ。そんなセコイことするか」という背後の老夫婦の会話を聞いてハッとしました。

たしかに私も、よく目立つ似たようなダンサーが時間をおいて再び現れたのを確認していました。

そのうちの何人かは、昨年、所属なしの“飛び入り急造チーム”で踊っていた人であることも確認できました。つまりボディに自信があり、踊るのが大好きな流しのフリーダンサー嬢は、複数のチームに参加して踊っているようです。

松屋デパートから雷門前、国際通りまで、ゆっくり踊っても1時間はかからない1キロ足らずのコースです。何度も踊りたいフリーダンサーが、ゴールからスタートまでとって返しているのだと思います。

Photo_2 もうひとつ、駆け出しのサンバプロとして気がついたことは去年に比べて子どもの参加が大幅に増えたことです。

サンバで知り合った若者が結婚し、子どもを産み、子どもを連れて戻ってくるという良好な循環システムができているのかも知れません。

きっとこの子ども達が浅草の伝統を引き継ぎ、立派なダンサーに育っていくものと思います。

そんなことを念じつつ、そろそろ疲れてきたバカコンビは、雷門脇にある「ときわ食堂」に入って喉を潤しました。良い場所にあるのに、なぜかいつも空いている不思議な食堂は、50万人の人出の中でもやはり空いていました。

ところが店に入ったとたん、外はまた強い雨になり、逃げ込んできた客で一杯になりました。サンバでは潤わず、雨で恩恵を受けた「ときわ食堂」だったのです。

Photo_3 生ビールと一緒に、新サンマの塩焼きと水餃子を頼みました。サンマは身を二つに切られて出てきました。どちらかを選ばなくてはいけません。魚は誰でも知ってのとおり上半身が美味しいのですが、それは福岡生まれの河口正馬氏(写真)も当然知っているはずです。

だから私は、「俺は尻尾でいいよ」と、4歳年下の彼に美味しいところを譲りました。

ところが彼は、一番旨いハラワタ部分を後回しにして背中の身を食べたのです。「きっと最後に食べるんだろう」と思っていましたが、1時間たっても手をつけません。

思いあまって、「どうしてハラワタを食べないんだ?」と訊くと、「ええ!こんなところ誰も食べませんよ」と言うではありませんか。驚きました。と同時に大喜びで一番美味しいところを頂戴しました。幸せでした。

夕方の健伸幼稚園の取材がなくなったので、「こうなったら、とことんサンバを楽しんでやろうぜ!」と、19時から浅草公会堂で行われる「日ブラ交流100周年記念・スペシャルサンバショー2008」のチケット(A席4,000円)を買いました。

Photo_5 二人にとっては清水の舞台から飛び降りるほどの大金でしたが、負け惜しみ抜きに4,000円の価値はあるものでした。

私はまた、路上ダンスをした人達の選りすぐりが踊るものかと思っていましたが、まったく違っていました。

日本とブラジルのプロのダンサー、楽団、歌手が、迫力と熱狂のステージを、90分間にわたり繰りひろげてくれたのです。

Photo_6 中でも感動したのは、ロベルトさんというブラジル人歌手(写真)が、日本の演歌を見事に歌ったことです。「契り」と「上を向いて歩こう」の二曲を歌いました。「上を……」はやはり坂本九の方が味わいがありましたが、「契り」は、五木ひろしより聴く人の心を揺さぶるように思いました。

ブラジルの演歌歌手といえばジェロさんが有名になりました。相撲がモンゴルに席巻されたと同じように、演歌はブラジルにお株を奪われることになりそうな気配を感じました。

そしてステージは大いに盛り上がり、最後はお客さんたちも上がってのダンシング大会になりました。それを見てオジサン二人は、「あの元気、陽気さ、体の逞しさ。とても日本人が太刀打ちできる相手じゃない。こんど人間に生まれてくるときはブラジル人になりたいね」と言い合いました。

Photo_7 ビールの飲み直しをしてから二人は別れましたが、私は偶然にも都営地下鉄の改札口で、生の捕り物劇に遭遇しました。

紳士然とした50代半ばのオジサンが、何を思ったか駅員さんに暴言を吐き、胸ぐらにつかみかかったため、4人の駅員さんに取り押さえられ、通報で警察官が駆けつけました。

その一部始終約30分間のライブショーを私はじっと見続けたのです。

オジサンは、雨のおかげで浅草サンバがきちんと見られなかったフラストレーションが溜まっていたのかも知れません。警官にたくさん叱られたのはオジサンの方で、「すいません」と謝っていましたが、駅員さんにも行き過ぎた反撃、暴力があったのではないかと厳しい追及があり、最後は駅員さんたちもションボリしていました。「日本の警察現場は公正だ」と納得し、大雨の千葉に帰りました。


羽野昌紀と赤坂TBSとビッグエコー

2008年8月25日(月)

同業の仲間、ベストライフ社の井上道男氏から緊急SOSが入り、赤坂のTBS放送局に出かけました。

夏の休暇を利用し、奥方と二人で奈良、京都、滋賀を旅していた井上氏は、この日の昼頃までに東京に帰ってくる予定でした。16時からTBSで女優・羽野昌紀(はの・あき)さんにインタビューする予定があったからです。

ところが朝からの大雨で新幹線が止まったのです。ようやく動き出した立ち席自由席に乗り込んだものの、名古屋の手前でビクとも動かなくなり、いつ東京に着けるか見込みがつかない状況になりました。

そこで「片岡、悪いが、代わりにインタビューしてくれないか」とのSOSになりました。日頃お世話になりっぱなしの立場なので、二つ返事で引き受け、赤坂に向かいました。

Hanoaki 羽野昌紀さん(写真)は、何かと話題の多い狂言師・和泉元彌氏の妻です。それゆえ、芸能界に疎い私も名前だけは知っていましたが、顔も仕事ぶりも何も知りません。少々心配ではありましたが、何とか代役を果たすことができました。

羽野さん・和泉さんの間には2人の子どもがいます。実は私、上の女の子には1年半ほど前に会ったことがあるのです。名古屋市・ひまわり幼稚園(齊藤秀樹園長)の創立40周年祝賀会のとき、父親と一緒に狂言を演じたのです。

Photo これがそのときの写真で、和泉元彌さんのすぐ隣にいるのが娘さん。その隣の子は、元彌さんの姉の子どもです。同い年の二人は堂々としていて、口上を見事に決めました。

娘さんは、今は東京都文京区の私立幼稚園に通う年長さん。下の男の子は年少さん。羽野さんは二人を同時に幼稚園に通わせる現役幼稚園ママなのです。

というわけで、さすがに幼稚園に関する話題は豊富で、お弁当づくりやお誕生会のことなどをたっぷりと話してくれました。

感心したのは、何を訊いても表情を変えず、しばし黙考してからポイントを整理した回答をしてくれたことでした。いろいろと騒々しい状況の中で子育てをしてきただけに、一回り大きな賢さとたくましさが備わったのかも知れません。

インタビューの途中、岐阜に出張中の元彌さんから2度電話がありました。やはり新幹線が動かず往生しているとのことでしたが、いつぞや噂された不仲関係ではまったくありませんでした。

終了予定時間の10分ほど前に、井上氏が息せき切って現れました。大きなリュックを背負った放浪スタイルのままです。ともあれ、依頼主との顔合わせもできて何よりでした。

P8250001 放送局の中は撮影禁止なので、羽野さんとの記念撮影はできませんでしたが、外に出て撮りました。

左が、やはり急遽応援に駆けつけたベストライフ社のスタッフ、仲田美佳さん。右が井上氏です。

いろいろと仕事を抱える仲田さんはすぐに事務所に帰りましたが、バカ男二人はそのまま別れる訳にもいかず、例によって「さくら水産」に潜り込みました。

残念ながら赤坂店はCランクでした。

ちなみに私がこれまでに体験した「さくら水産」のランキングは、Aが水道橋店と名古屋錦店、Bが池袋西口店、田町店、Cが銀座店、赤坂店、市ヶ谷店、Dが九段下店です。

いつのまにか私は、さくら水産の評価人になった感じです。

Photo_2 そしてこの日は、さくら水産だけで済みませんでした。井上氏が「カラオケに行こう!」と叫んだからです。

目の前にビッグエコーがありました。しかし、まさかそんなことになるとは思っていませんから会員証は持ってきていません。

ところがカウンターの人が「大丈夫ですよ」とパソコンで調べてくれると、私が優良会員であることがすぐにわかったのです。いやはや便利な時代です。

二人は90分間にわたり、「少年時代」「夏休み」「チャコの海岸物語」「真夏の出来事」……など、夏の歌を歌い続け、お店のスタッフと写真を撮って、2008年夏の幕を下ろしたのでした。


北京五輪と星野仙一氏の罪

2008年8月24日(日)

「オリンピックってやっぱり変だ」と、改めて考えさせられた北京五輪が終わりました。人間はそれぞれ自分の歴史にオリンピックの印象を重ね、思い出の節目を作ったりしているものですが、残念がら私にとって北京五輪は、記憶に残るものとはならなかった気がします。

私の中で記憶に残る五輪といえば、1960年ローマのアベベ・ビキラ、1964年東京の円谷幸吉、1984年ロサンゼルスの瀬古利彦、1992年バルセロナの谷口浩美、2000年シドニーの高橋尚子です。

奇しくも全員マラソン選手です。田村亮子や北島康介も立派な成績を残しましたが、3分やそこらで勝負が決まってしまう競技では、選手に同化して五輪を体験することはなかなかできません。

2時間余り、ラジオあるいはテレビの中の選手と一緒に走ることが必要なんだと思います。

Photo_3 と言っても街頭テレビの子ども時代のため、アベベのときも円谷のときも中継を見たり聴いたりしたわけではありません。後で追体験したのだと思います。

特に円谷選手の場合は、3年後の「美味しゅうございました」の非情のドラマを知ったとき、強く印象に残りました。

瀬古さんは逆さ野球帽、谷口選手は「靴脱げ・こけちゃった事件、それでも8位」、キューちゃんはサングラスです。

団体競技の場合は、監督に同化してしまうので、東洋の魔女の大松博文氏はよく記憶していますが、選手では河西昌枝さんしか覚えていません。

006 今回も野球は、ほぼ全試合をラジオで聴き、星野仙一氏に同化して胃袋をキリキリさせました。それだけに高額年俸の選手たちに裏切られたという思いは強く、日本のプロ野球の試合など当分聴く気にもなれません。

と同時に、星野さんの選手選出についての疑念が蘇りました。

今回の選手枠は24人。まるで日本のために設定されたようなものです。1チームから2人ずつ選出すればドンピシャ収まるのです。

日本のプロ野球全体、そして個々のチームの連帯感とそれぞれのファンの気持ちを考えれば、誰でも思いつくバランス感覚です。

ところが結果は、セ・リーグ(計12人)が中日4人、阪神3人、巨人2人、ヤクルト2人、横浜1人、広島0人。パ・リーグ(計12人)が福岡3人、千葉3人、埼玉3人、北海道2人、東北1人、オリックス0人です。

1人でも選ばれたチームはかろうじて救われますが、広島とオリックスについては、星野さんが“ダメチーム”の烙印を押したということです。オリンピックの監督にそれほどの権利はないはずです。

そこまでの横暴を通しておきながら惨敗したのですから、星野さんは日本民族および日本野球界に対して万死に値する罪を犯したと言わざるを得ません。

おそらく選手たちも、そんなバランス感覚のない星野さんの非人間性に触れて、闘争心を喪失したのだと思います。

「監督が替わればチームが変わる」という実例は、高校野球にもプロ野球にもたくさんあります。WBCでは、どうか星野さん以外の人を選んでほしいと願うばかりです。

ところで、韓国とキューバの決勝戦。あなたはどちらを応援しましたか?

お隣の国・韓国、人々がのんびり暮らす楽園のような国と聞くキューバ。どちらにもほどほどの感情を持っているので、「どっちが勝ってもいいや」と、久しぶりに冷静な気持ちで接戦を楽しんでいました。

しかし9回裏、キューバを勝たせようとする審判団の不正を感じた瞬間から、韓国の幸運を心を込めて祈りました。韓国が優勝できて、本当に良かった。世界の野球界はこれで救われたと思いました。

| コメント (0) | トラックバック (0)