日記・コラム・思い出

最後の九州ブルートレインと秋田・大阪の出来事

2009年1月21日(水)

3月で全廃される九州行き寝台特急(ブルートレイン)に乗って大分に向かった。最後だからと乗ったわけではない。私はこれまでずっと、よほどの事情がないかぎり、広島より西、八戸より北に行くときは寝台列車を利用してきた。飛行機が怖いわけではない。飛行場のあのすました雰囲気が苦手なのである。

B寝台でも飛行機より運賃は高いが(注:早割利用の飛行機代と比べた場合)、寝ている間に移動して、現地で早朝から気持ち良く活動できる便利さは代え難い。たとえば広島なら、東京駅で眼をつぶって、車掌さんの声でハッと眼を開けると暁の広島に着いている。ワープの感覚である。

ま、それもあるが、18歳で北海道から東京に出てきたのも寝台列車だった。柳行李と寝袋をチッキにして、身を起こすのもままならない三段ベッドの一番上で旅人の会話に耳を傾けていた。

大学2年の春に北島三郎バンドに入り、それからの3年間は、月に10回近くも寝台列車で眠るドサ回り稼業に勤しんだ。アルトサックスはいつまでも素人だったが、寝台列車での立ち振る舞いはたちまちプロになった。そんな甘酸っぱい青春時代の思い出に浸れるのも、寝台列車の良いところなのである。

Photo 案の定、東京駅のホームにはいつもと違う人達が集まっていた。おそらくこの人の群れは、最後の3月14日に向けて日を追って増えていったことだろう。

左の写真で、人々が入船したふじ号列車でなく反対側にカメラを向けている理由がわかるだろうか。

それは、東京駅まで列車を引っ張ってきた機関車が切り離Photo され、秋葉原方向に走っていくのを写しているからだ。バックで牽引してきたので、後ろ側に「ふじ&はやぶさ」の看板が付いている。これを写しているのである。

なぜこんなことになっているのか、詳しそうな人に訊いてみると、後ろ向きで入ってきた機関車は、そのまま日暮里電車区まで走り、線路を切り替えて、今度は前向きになって再び東京駅に帰ってくる。そのまま通り抜けて品川電車区まで走り、再び線路を切り替えて、今度は後ろ向きで東京駅に戻ってきて、寝台列車に結合する。そうすると機関車は前を向いて九州に走り出せるというわけである。

両端に運転車両が付いている新幹線や近郊電車とは違う苦労だ。寝台列車に乗って40年だが、そんな面倒な仕組みがあったことは今回初めて知った。

ホームの売店で、ウィスキーの小瓶、崎陽軒のシュウマイ(20個入り)、チーズかまぼこを買い込んで列車に乗り込んだ。寝台夕飯の定番三点セットである。そしていつものとおり、ズボン、ワイシャツを脱ぎ始め、浴衣に着替え始めた。

Photo_2 ワイシャツの衿や袖口の汚れを少なくするため、寝台車は、乗ったらすぐに浴衣に着替え、到着する寸前にワイシャツを着てネクタイを締めるのが基本だからだ。

ところが今回は、通路側の窓の向こうにカメラを持った人がたくさんいるのに気づき、ズボンを半分降ろしたままで、あわててブラインドを下げた。危うく見苦しい姿で、彼らの高級カメラを汚すところだった。

今のB寝台は、九州行きも北海道行きも、このように通路と直角する形でベッドが並んでいるが、昔の北海道行きは、真ん中に通路があり、その両側に通路と平行してベッドが並ぶタイプもあった。これだとベッドの幅が広く、内緒で2人寝ることも可能だったが、つま先から頭まで、全身で人の往来を感ずるので、どうにも落ち着かなかった。

Photo_3 幸い、ベッドは三段が二段になり、直角型も幅も広がり、布地は花柄になったりと改良されてきた。トイレも線路上直散布からタンク方式に改良されたが、1956年の運行開始当初から変わらないのが、洗面所と飲用給水器である。

だから今も、洗面台には歯磨き用のコップが付いている。昔は順番待ちでズラリと並んだひと達が、老いも若きも、汚いも綺麗も、皆同じコップで歯磨き後のすすぎをしたのである。

その教えに従って、私は今も歯磨きはそのコップを使っているが、ほかの人達は器用に蛇口を押さえながら手椀で水をすくうか、自前のコップを使っているようだ。だから洗面所のコップは今や私専用のような気がする。

Photo_4 飲用給水器も、昔は鎖のついたアルミカップがひとつあるだけで、誰もがそれで水を飲んでいた。貴重な飲料水なので、いちいち洗ったりはしなかった。しかしさすがにこれは問題ありと思われたのか、かなり早い段階から、丈の短い封筒型の使い捨て紙コップが用意された。お年玉を入れるポチ袋で水を飲むと思えばいい。

しかしこれは上手に飲むのに技量が必要で、初心者は、列車の揺れともあいまって顔を濡らし、胸元を濡らす。封筒に入れた水の半分くらいがこぼれるのも普通だった。

北島三郎バンドの連中は、この封筒コップで水割りを作って飲んだ。酔いが回ってくると濡らし方もひどくなり、下着も浴衣もトリスウィスキーの香りが染みこんだものである。

そんなわけで、寝台列車にはたくさんの思い出があるが、忘れがたいエピソードが二つある。

★秋田駅での飛び降り事件

ひとつは、1971(昭46)年の正月、雪深き秋田に行ったときのことだ。

ハッと目覚めると列車が止まっていた。「ここはどこかな?」と目を細めてホームの柱を見ると秋田駅である。ホームにはすでにバンドの仲間が降りて楽器のそばに集まっていた。

B002 「ヤラレタ」のである。何事も“洒落だよ”で済ますバンドマンは、よく眠っている仲間を、寝台列車だろうと旅館だろうと、決して起こすようなことはしない。そして数時間後、あるいは1日遅れで合流してきた仲間に、「やあ、遅かったね」のひと言で終わりにする。

バンドマスターには怒鳴られ、もちろん給料はカットされるが、自分が起きられなかったのだから誰にも文句は言えない。居酒屋でウッカリ油断してトイレに立ったりすると、戻ってきたときは勘定を残したまま仲間の姿が消えているなどは日常的に行われていた。

それをヤラレタのである。しかし発車ベルは鳴っているがまだ列車は動き出していない。自分の楽器がホームに運び出されているのを確認すると、私はハンガーに架けてある衣服と旅行バッグを抱えて、浴衣のまま出口に走った。ドアを開けると、すでに電車は動き始め、徐々にスピードが上がっていたが、荷物を放り投げると、躊躇せずに我が身も雪の積もったホームに飛んだ。

受け身で身体を止めるつもりだったが、慣性の法則は意外に力強く、我が身はまるで雪だるまのように二転、三転、四転と、列車の進行方向に沿って転がった。

あわや列車と接触、あるいは列車に巻き込まれそうな場面もあったそうだが、運良くそれは逃れて、ホームの端にすっくと立ち上がり、浴衣の雪を払ったとき、黙って見ていたバンドの仲間からは拍手が湧いた。しかし、すっ飛んできた駅員さんからはえらい剣幕で叱られた。そのまま首根っこをつかまれ、ぐっしょり濡れ、袖がちぎれた浴衣姿のまま駅長室に連れていかれた。

当時の私の価値観からすると、浴衣を破いたことを叱られ弁償させられるものと思っていたが、駅長さんからは「怪我をしたらどうするんだ。命を大事にしろ」とコンコンと説教された。

★大阪駅での置き去られ事件

もうひとつは、1985(昭60)年4月、寝台特急「あさかぜ」で長崎に向かったときのことである。

003 一緒に行ったのは、当時、全国学校法人幼稚園連合会の副会長をしていた増田弘先生(故人/東京都葛飾区・上平井幼稚園理事長=写真)。私は同連合会の事務局長としてカバン持ちを務めた。

東京駅を出るのは16時頃で、たっぷりと寝台列車が楽しめると思ったが、増田先生は「そりゃ君、寝るにはまだ早いよ。新幹線で追いかけて大阪あたりから乗り込もうや」と言った。乗ったらすぐにベッドに寝かしつけられると思ったのだろう。

そこで2時間遅れて新幹線で追いかけ、21時30分頃、新大阪で「あさかぜ」に乗った。すぐに浴衣に着替えたが、列車は5分近くも停車してから出発した。

すぐに大阪に停車した。目の前に売店があった。ここで私は財布から500円玉をひとつ取り出し、夕刊とビールを買おうと、スリッパのまま外に出た。新大阪で5分停まったのだから、大阪駅ならそれ以上、少なくとも同じくらいは停まるだろうと思ったからだ。

ところが、店先の新聞を抜き出し、「これとビールひとつね」と500円玉を差し出すと、売店のオバサンは目をまん丸にし、口もあけて「あ、あ、あ……」と言いながら私の顔を指さした。「いったい何だろう?」と思ったが、ふと後ろを振り向くと、「あさかぜ」のドアは閉まり、列車は動き出していた。ほかの近郊電車と同じく20秒の停車だったのである。

今度は私が「あ、あ、あ……」と言って、走り去る列車を茫然と見送った。商売熱心なオバサンは、素早く私の手から500円玉をもぎ取ると、代わりに500ccの缶ビールを握らせ、100円余りの釣り銭を渡してくれた。

パンツひとつに寸足らずの浴衣。青いゴムスリッパを履き、ビールと夕刊を持った男が1人、雑踏の大阪駅ホームに取り残されたのである。

駅員を見つけて救いを求めたが、その姿を見れば何があったか察しがつくようで、駅員は「中央改札口のそばにある駅長事務室に行ってください!」と叫んだ。大急ぎで階段を駆け下り、通路を走り、駅長事務室のドアをバ~ンと開けると、忙しそうに仕事をしていた10人ほどの職員が一斉に息を飲んだ。

しかし、過去にもそんなことがあったのか彼らの行動は早かった。1人が時刻表を調べて、「22時何分発の新幹線に乗れば広島で追いつける」と言い、1人がワラ半紙にガリ版印刷した、黄ばんだ通行手形のようなものに大阪駅長の赤い判をバンと押してくれた。その間に1人が新大阪駅に電話して「これこれこういう風体の男が行く」と伝え、もう1人が「あさかぜの車掌にもこちらから連絡しておくから、とにかく新大阪に戻って、新幹線で追いかけてください」と急かせてくれた。

22時近くとはいえ、まだまだ混雑している環状線のつり革に捕まって新大阪駅に戻り、浴衣の裾をはためかせ、ゴムスリッパのペタペタ音もさっそうと、新幹線の乗り換え口に向かって走った。黄ばんだ通行手形の威力は絶大で、すぐに通してくれて、広島行き最終新幹線の自由席に乗ることができた。

といっても姿は寸足らずの浴衣。油断すると前がはだけてパンツが見えてしまう格好である。どうしてそんなことになったのか、近くに座っている人達に大声で説明せざるを得なかった。そしてビールを飲み、約1時間半かけて夕刊を隅々まで読んだのである。

広島駅でも走った。私のことは知れ渡っていたようで、連絡改札口には駅員さんが集まり、「あさかぜが待っているよ」「ガンバレ!」「急げ!」と声援を送ってくれた。

深夜の山陽本線ホームで寝台特急「あさかぜ」が静かに待っていてくれた。飛び込んで自分の席にたどり着いたときは、全身の力が抜けるほどにホッとした。向かいの寝台からは増田先生の寝息が聞こえてきた。

九死に一生を得た思いで広島駅のホームを眺めていたが、列車はいっこうに発車しない。そのうち放送が入り、「えー、実は大阪駅でこれこれこんな出来事があり、その方が新幹線に乗って、浴衣のままで追いかけてきています。今しばらくお待ちください」と詳しく伝えられた。まだ起きていた乗客の間からドヨメキと笑いが起きたことは言うまでもない。

私は再びペタペタと列車内を走り、車掌室のドアを開けて、「私、私、もう乗っていますから」と言った。丸く見開いた車掌の眼は、すぐに嬉しそうに崩れ、「そうですか、あなたでしたか、良かったですね」と言い、マイクのスイッチを入れると、「さきほどの浴衣の人の到着が確認できましたので、間もなく発車します」と放送した。

翌朝、増田先生に昨夜の事件を話すと、「そう、大変だったね。ぼくは何も気づかなかったよ」とだけ言ってくれた。千葉に帰ってから、私は礼状と通行手形を添えて、菓子折をひとつ大阪駅長事務室宛に送った。しかし返事はなかった。

Photo そんなことを思い出しながら、シューマイを食べ、ウィスキーを飲み始めた。18時、東京駅を出るときにはシューマイは半分に減り、川崎あたりでシューマイもウィスキーも全部なくなった。そして、横浜に到着する頃にはぐっすりと眠り込んでいた。寝台列車の旅は、このうえなく幸せな時間なのである。

こどもの城と宮崎祐治と特大ハンバーガー

2008年11月5日(水)

Photo_24 渋谷の「こどもの城」に出かけた。見なれている岡本太郎氏の「こどもの樹」だが、今回は見るなり、「そうだ幻の壁画『明日の神話』がもうすぐ渋谷で公開になるんだ。渋谷に岡本太郎のソウルがみなぎってくるんだな。みんな酔いどれにならなければいいが」と思った。

25年余り前、幼稚園の全国教育研究大会で岡本太郎氏に記念講演をお願いしたことがあった。先般亡くなられた養女の方と一緒に前の晩に来てくれて安心していたら、ルームサービスでお酒を浴びるほどに飲んだという。翌日午後の講演直前になっても酒臭くて近寄れず、足元もフラついていた。

支離滅裂なことを言いながら、演台の水差しを2回お代わりした。それでも聴衆は「さすが天才は違う。言っていることがまったくわからない」と喝采を送った。すごい人だった。

Photo こどもの城に来たのは、13階(最上階)にある日本保育協会の事務局を訪ねるためだった。企画情報部長・宮崎祐治さん(写真)に会って、ランチを食べる約束を作ったからだ。

宮崎さんの経歴はよく知らないが、とにかく保育所に関わる法律、制度、行政、歴史のことを何でも知っている。人脈も幅広い。“生き字引き”とはこういう人のことを言うのだろうと思う。そしてよくしゃべる。論客なのである。

幼保間の綱引きで幼稚園が苦戦している要因のひとつに、この人が保育所陣営にいることは否定できない。

そんな人に「どうです、時には飯でも食べながら情報交換しませんか」と呼びかけた。こちらは例によって、格安「さくら水産」あたりでチビチビ攻めようと思ったが、返ってきたのは「いいですね。昼飯を食べながらやりましょう」だった。

Photo_2 「片岡さんの好きそうな店だと思う」と宮崎さんが案内してくれたのは、こどもの城のすぐ脇にある、広々としたアメリカンレストランだった。そして「これがお薦めなんです」と注文したのが、このハンバーガーである。

丸いパンで挟んで食べるのがハンバーガーだと信じていたが、これはどれほど口の大きい人でも挟んで食べられない。ナイフとフォークで刻みながら食べるしかなかった。

これで値段は1,900円。目玉が皿に落ちかけたが、パンと紅茶とコーヒーは飲み放題だ。それを考えると実質1,000円くらいと想定でき、目玉は引っ込んだ。

さらに、私から誘いかけたのに、3歳年上の宮崎さんは「ここは僕の縄張りだ。今日は私が払っておくよ」と言った。生き字引きとは太っ腹でもあるのだ。

宮崎さんは埼玉県東松山市から通ってきている。地下鉄副都心線ができて随分楽になったそうだ。東松山と言えば、日本一の焼き鳥(中身は豚)の町だ。「今度は焼き鳥を食べながら話しましょう」と言って別れた。早めに実現させたいと思っている。

さて肝心の情報交換した内容だが、それは今後、「私幼ヘッドライン」などの記事の中に散りばめていくので斟酌してほしい。

全私学新聞と(株)ジャクパと小杉重雄

2008年10月22日(水)

★柳沢清氏の明るさと情熱

久しぶりに市ヶ谷に出かけた。学生時代、私学新報(現・全私学新聞社)、全国学校法人幼稚園連合会(全法幼)事務局と、18歳から35歳まで18年間にわたってほぼ毎日通った駅である。その後も、何やかやと週に1度くらいは降り立っていたが、最近は年に数回になってしまった。

003 しかし駅前に高いビルが建つこともなく、40年前とほとんど雰囲気が変わっていない。だから足が遠のいても違和感がない。

ところが今回、何気なく駅前から見上げたところに高いビルが一本建っていた。「おや、何だろう?」とビル上部にある文字を目を凝らして見ると、法政大学と書いてあった。いつの間にこんな大きなものを建ててしまったのだろう。

かつての野蛮無鉄砲な汗臭いムードは一掃され、「どこを見ても女ばっかり。まるで女子大みたいだ」と嘆いていた同輩がいたが、野球もダメ、サッカーもダメ、駅伝もダメ……こんな校舎を造るようではさもありなんと俯いた。

Photo_13 予定の時間より早く着いたので、古巣のひとつ、全私学新聞を訪ねた。

昔ながらの人が残っているので気軽に顔を出すことができる。この日も、雑然と積まれた資料の陰で、鈴木邦雄氏(左)と石井雄造氏(右)がゴソゴソと仕事をしていた。

その昔、社員は浅岡玲子編集長(故人)と私の2人だけだった。昼間、取材に出ているときはいいが、夜、原稿書きや校正をするとき、母親ほどの年の開きがある女性と差し向かいになるのは息が詰まった。私は生来、女性との差し向かいに弱い。女房でも娘でも面と向かうと緊張して固まってしまう。

耐えきれず、結局、私は辞めた。今考えると、年老いた母を残して田舎を出た放蕩息子のようで無慈悲だったと思う。その後に入ったのがこの2人と小山三夫氏だった。私学振興助成法の制定に伴い「私学新報」から「全私学新聞」に発展するのに3人は力を尽くした。

その後、小山氏は独立して出版社(信央出版)を立ち上げた。残った両雄は、鈴木氏が編集、石井氏が営業と分担して浅岡編集長を支えた。その浅岡女史亡き後、約1年間の空白をおいて鈴木氏が編集長を継いだ。編集畑からということでは穏当なことだろう。

石井氏が突然、「片岡さん、私学団体の事務局というのは、どうしてどこもあんなに暗いのでしょう。その点、全法幼の事務局は明るい。いつ行っても楽しそうだ」と、まるで昨日の話のように言った。実際は25年以上前のことである。

001 たしかにその通りだった。しかしそれは脳天気な私がいたからではない。私自身が、その明るさに惹かれて全法幼に入ったのだから。おそらく、当時の柳沢清事務局長(写真=故人)の人柄だったのだと思う。

中野区の啓明小学校校長を定年退職した人だったが、とても元公立小学校の校長とは思えない情熱と大らかさを持っていた。

相手が大臣だろうと会長だろうと、譲れない線は頑として立ちふさがり、どうでもいいことは豪快に笑い飛ばした。酒をよく飲み、哀愁に満ちた若き武勇伝を聞かせてくれた。

ガンだとわかった時は、一切の治療を拒否して静かに死んでいった。それ以後私は、彼ほどの侍に出会ったことがない。

★死ぬまで背広の心配はない

全私学新聞を出て、日本テレビ(麹町分室)前にある「ぢどり屋」という居酒屋に向かった。(株)ジャクパ(本社=東京小平市)の五十嵐勝雄社長(左から2人目)、白瀧博彦常務(左端)、小杉重雄監査役(右端)と会い、11月27日にいわき市で行う同社主催の経営セミナーの打合せをするためだった。

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この面々と会うのは名古屋の「鳥銀」以来だが、なぜかいつも鳥料理屋になってしまうのは不思議だ。もちろんこの日もガチョウのように飲み、アヒルのように歌い、千鳥足で家路についたのは言うまでもない。

ところで、ここに登場する小杉重雄さんは東京都の職員を定年退職した後、東京都私立幼稚園連合会の事務局長を6年務め、ジャクパに転じた人である。私にとっては法大の先輩でもある。

実は私が着ているスーツの内側にはすべて「小杉」の名前が入っている。夏冬合わせて計25着のスーツ、コート、ジャケット(その大半がピエールカルダン)を小杉さんから譲り受けたからだ。

「本当にこんなボロをお送りしていいのですか」と奥さん(故人)は恐縮していたが、私は大助かりで、おそらく死ぬまでパンツ、下着、靴下、ワイシャツ以外の衣類は買わずに済みそうだ。

柳沢清氏と小杉重雄氏、この2人の事務局長のおかげで私は呑気に生きていられるのである。

プラモデルショーと田代茂と定食屋「志むら」

2008年10月17日(金)

★プラモデル誕生からちょうど50年

NECネッツエスアイ社の田代茂氏を誘って、幕張メッセで開かれている全日本模型ホビーショー(主催=日本プラモデル工業協同組合)に出かけた。

Photo_6 田代氏から「幕張本郷の、あの定食屋で一杯やりましょうよ」との声がかかり、酒を飲むだけでは芸がない、その前にちょっと知識見聞を広げようとなった次第。

精巧な自動車プラモデルの原形を食い入るように見つめているのが田代氏である。今年が日本でプラモデルが誕生してから50年。彼は私より三つ年下だが、二人とも紛れもなきプラモデル世代である。

Photo_7 しかし好みは違っていた。田代氏が飛行機、それも戦闘機が中心だったのに対し、私は自動車、それもトラックやブルドーザーなどの働く自動車が好きだった。つまり田代氏は好戦的な人間であり、私は友好建設的な人間だとも言えなくもない。

自動車派の私の机の中には、12型から65型まで、動くプラモの心臓と言えるマブチモーターとギアボックスが並んでいた。

Photo_9  ひとつ作るとガタガタになるまで走らせ続け、壊れると次の1台を見つけて心臓移植するというのが私のスタイルだった。家が狭かったので、飛行機派や船派のようにずらりと飾るスペースがなかったこともある。

それでも、できあがったばかりのトヨタパブリカを、酔って帰ってきた父親が踏み潰したときは大泣きしたものだ。「うるさい!」と怒鳴るわけにも、なだめるわけにもいかず、じっと困惑していた父親の顔が今も目に浮かぶ。給料のほとんどを母親の入院費にあて、父子二人で四畳半アパートに暮らしていた頃の光景だ。

Photo_10 そうした昔懐かしいプラモデルも展示されていたが、今はラジコン時代で、険しい岩肌を登っていく四輪駆動車、狭い空間を舞うように飛ぶヘリコプター、ダンスや体操をするロボットなどが主流だった。

「こんなのを幼稚園に持っていって、子ども達に見せてあげたら喜ぶだろうね」「そうだな、科学とか技術の芽を育てるのに役立つと思うよ」「やってみたいね」「だいぶお金はかかるけどね」と、二人は飽かずにラジコン模型を眺め続けた。

見回すと会場にいるのは我らと同年代のオジサンばかり。オバサン、若者、子どもの姿はほとんどなかった。これでは技術立国、器用人社会の未来は危ないと思ったものである。

★またひとり、幼稚園ウィルスの感染者が

Photo_11 幕張メッセはさっと済ませて、駅前でじっくり酌み交わす予定だったが、思いがけずプラモデルの郷愁に浸ってしまい、定食屋「志むら」の暖簾をくぐるのが遅くなってしまった。

私はこの店が大好きである。千葉マリーンズファンの看板娘が二人いるからだけではない。一番の魅力はメニュー品目が少ない(と言っても15品目くらいはある)ので、選ぶ苦労がないことだ。お刺身と海鮮サラダと肉じゃがでも注文すればテーブルの上は賑やかになる。

長谷川卓氏の時代小説「北町奉行所捕物控シリーズ」などを読んでいると、江戸時代の酒場は自慢料理を2、3品掲げているだけで、その味と鮮度は、他所に負けない誇りを持っていた。その気概を持ち続けているのが、「志むら」だと思っている。

できれば毎夕でも顔を出したいのだが(実際そうしている常連客は多い)、鮮度と素材の良さで値段も高い。常連になったのでは破産は目に見えている。だから1人で行くことを堅く禁じ、誰か客人が来たときにだけ暖簾をくぐることにしている。

田代氏はそれを知っているから、「あの店に行きましょうよ」とはるばる幕張本郷まで来てくれる。彼は、学部も学科も同じ法大(社会学部社会学科)の後輩で、社会人のスタートは共に音楽業界。オートバイが好きだが転倒事故のおかげで現在長期謹慎中というところも似ている。

その田代氏は、NECという大企業を定年前に辞し、幼稚園に関わる仕事をしたいと言い出した。浄水器設置や芝生敷設の仕事で幼稚園に出入りしているうち、もっと私立幼稚園と深く関わり、「編集長のようなバカになって、私立幼稚園を応援する1人になりたい」と思い立ったというのである。

Photo_12 幼稚園ウィルスに感染したバカが、また1人誕生した次第でもある。何を始めるかはまだ不明だが、幼稚園の周辺をウロチョロするであろうこのチョビ髭男を、お見知りおきいただければありがたい。

サンロフトセミナーと川井俊幸と石川京子

2008年10月2日(木)

秋晴れの昼時、豊洲駅に降り立ちました。

地下鉄有楽町線が新富町から新木場まで延びたのは20年前のこと。しかしこれまで、その間の新駅に下りたことはありませんでした。築地市場の移転予定先が豊洲。ところがその埋め立て地には有害物質が残っていて食品市場には向かないという話も聞きます。

Photo 一体どんなところだろうかと思っていましたが、広々とした空間にビジネス高層ビルと高層マンションがニョキニョキと建つ発展途上の街でした。引っ越してきたばかりの家のような感じで、これから生活感が染みこんでくるのでしょう。

職住接近なので、自転車や徒歩で会社に通う。あるいはランチは家に戻って食べる、なんていう未来型独立タウンになるのかも知れません。

江東区はマンションラッシュで幼稚園はどこも満杯。小学校、中学校も超すし詰めで増設が追いつかないとの話を聞きますが、その要因のひとつは豊洲にあったようです。道すがら5階建ての中学校とうのも初めて見ました。

豊洲に来たのは、フロントガーデン内にある東芝の研修施設で(株)サンロフト(松田敏孝社長/本社=静岡県・焼津市)の「パステルITセミナー」(幼稚園・保育園関係者のためのパソコン活用講座)が開かれたからです。これまで同セミナーは本社内の研修ルームで行われていましたが、わざわざ焼津まで来てもらうのは気が引けると、今年は焼津と東京の2箇所で開催したのです。

003 なぜ東芝の研修施設で?というのは同社の松田社長が東芝出身だからです。東芝出身と言えば川崎市多摩区・西三田幼稚園の荘司真太郎理事長(写真)や幼稚園にバス運転手や臨時教員を派遣する(株)みつば(本社=横浜市)の古宮清隆社長を思い出します。東芝と私立幼稚園の間には意外なパイプがあるようです。

★スライドムービーへの関心

さて、そのパステルセミナーでもっとも注目されたのはデジタル写真を使っての映像(スライドショー)づくりです。プロジェクターを使い、好きな音楽に乗せてデジカメ画像を動画のように再生させるスライドショーは、幼稚園にとっての新しい「伝える」手法として定着しつつあり、保育報告会、保護者懇談会、行事説明会、入園説明会、ホームページ掲載などで威力を発揮しているからです。

Photo 「うちの園でも思い切ってプロジェクターを買おうと思っているが、それにはあの映像づくりをマスターしなくては」と思っている幼稚園が多いのです。そこで今回のサンロフトセミナーでは、「感動の涙をさそう思い出ムービー」と題して、その作り方を伝授しました。

写真は、無料ソフト「フォトストーリー」を使って、作り方をやさしく指導する同社の鈴木あゆみさん。独特のゆったりにこやかな語り口で見本作品をひとつ仕上げてくれました。

とにかく1度話を聞けば、簡単に初級作品を作ることができます。初級とは言っても、卒園式で親の感動を誘うことは間違いありません。それができれば、後は本人の関心次第でどんどん発展進化させていくことができます。これを学ぶだけでもサンロフトセミナーは価値があると言えるでしょう。

Photo_2 もうひとつ同社セミナーのユニークなところは、ITとは無縁なアナログ保育技法がマスターできることです。同僚から「あら?先生、パソコンセミナーに行ってきたのに、こんなことも学んできたの」と驚かれる所以です。

「切り貼りアルバム」「折り紙」などがあり、今回は天然ゴムの絵の具を使ったエコバッグ作りでした。無地のバッグに安全無害なゴム絵の具で絵や字を描いていくのです。それも掌をパレットにして指先で描くのです。乾くと皮膚についた絵の具は容易にはがれます。だから顔や体へのペインティングも安全に楽しめるというわけです。

たまたま私の隣に座ったのが、神奈川県相模原市・相模ひまわり幼稚園の川井俊幸副園長でしたが、「これは面白い教材に出会うことができた。今日のパソコンセミナーでの最大の収穫だ」と喜んでいました。

その川井先生に、「帰りに一杯どうですか」と指盃のサインを送ると、「いいですねえ」とニッコリ。連れだって駅前の「養老乃瀧」に入りました。残念ながら豊洲駅前には「さくら水産」も「はなの舞」も「さかなや道場」……もなかったのです。

Photo_3 川井先生(写真左)は(社)相模原市幼稚園協会の会長もされているので、政界談義やドッジボール論議のほかに、幼児教育無償化や認定こども園などのシリアスな話も織り交ぜてくれましたが、何しろこの人は酒が強い。芋焼酎のロックを水のように飲み干し、お代わりをするたびに私の生ビールも注文したので、久しぶりに深酔いとなり、何を食べたか、何を話したかケロッと忘れてしまいました。要注意人物の一人としてマークさせていただいた次第でもあります。

さてもうひとつツーショットを載せさせてもらいます。先般、千葉県・健伸幼稚園を訪ねたとき、たまたま柴田衣子園長とツーショットを撮り、「そうだ私はこれまで女性園長と一緒の写真をほとんど撮ってこなかった。これからはチャンスがあるたびにツーショットを撮ろう」と決心しました。

Photo その二人目となったのが、埼玉県富士見市・きたはら幼稚園の石川京子園長(写真)でした。

「理事長(夫の石川泉先生)から、スライドムービーの作成法をマスターしてくるようにと言われて来たんです。あの人はいろんなことを思いつくんですが、それを実際にやるのはいつも私で、振り回されています。でもま、何も思いつかない理事長よりはいいのかも知れません」と笑いました。

石川先生が作ったエコバッグは、布一杯にド~ンとヒマワリを描いた大胆なものでした。見かけによらず逞しい人なんだな、と思った次第です。

★『パステルIT新聞』について

It1 ところで、サンロフトセミナーでスライドムービーを指導してくれた鈴木あゆみさんは、同社が発行する『パステルIT新聞』の編集長もしています。

今年6月に創刊されたタブロイド月刊紙で、幼稚園でのパソコン活用事例が紙媒体で紹介されています。「パソコンを使ってこんな新聞も作ることができますよ」とのアピールも兼ねており、デジタルとアナログを自在に使いこなす同社ならではの発想と言えます。

無料の新聞です。送付ご希望の園は、TEL:054-626-8888、FAX:054-626-3100へ連絡するか同社のホームページ(http://passtell.jp/)にアクセスしてください。

大空ひばりと中野サンプラザとレッジョ・エミリア

2008年9月28日(日)

はからずもいろいろな歌を聴くことになった日曜日でした。

まずは11時から開かれた、地元幕張本郷の4つの自治会が合同で行った第1回の敬老会です。

敬老の日には、市から70歳以上の住民にいくらかの補助金が出ます。これまではそれで飴玉かお茶を買って配っていましたが、モノを配って終わりにするのではなく、お年寄りが集まって楽しめるイベントをするようにとの指導がありました。各自治会がそれぞれ行ったのでは、余りにもこぢんまりしたイベントになるので、それじゃ合同で行おうとなった次第です。

Photo 栄えある第1回ゲストとして招かれたのが、老人ホームの慰問で人気があるという大空ひばりさんでした。いわゆる故・美空ひばりさんのそっくりさんです。

言われてみれば、歌い方が美空ひばりに似ていると言えます。話し方や素振りも、似ているといえば似ています。だから2、3曲でやめてくれれば「面白い人に出会ったな」で終わったのでしょうが、この衣装のまま1時間も歌ってくれたのです。

不肖私は、痩せても枯れてもプロの演奏家として大学4年間を過ごし、北島三郎氏のほか、村田英雄、三沢あけみ、新川二郎、伊沢八郎などたくさんのプロ歌手のバックを務めました。ささやかな人生の誇りでもあります。

美空ひばりさんのバックも一度だけ、千葉県柏市の公演で務めました。あのときの緊張感は今も忘れられません。楽屋のトイレのひとつが、ひばりさん専用になっていたのも覚えています。毎年正月に行う北島三郎氏の浅草国際劇場公演のときは、必ず一度、ひばりさんがサブちゃんの楽屋を訪ねてきました。律儀な方でした。だから、あのサブちゃんが鼻の穴を二倍に広げて丁寧に応対していました。

そんな美空ひばりを知っている人間にとって、「大空ひばり1時間ショー」はひばりファンの心を踏みにじるものではなかったかと思います。

Photo_2 そんな辛い思いを引きずって、次に出かけたのが中野サンプラザでした。中野駅北口の前に聳える1973年築の建物は、昔と変わらぬ威風堂々とした姿を見せていました。

以前は労働省が所管する全国勤労青少年会館と呼ばれ、雇用保険の資金で建てられたのですが、社会保険がらみの保養施設などとともに不正支出、非効率運営が指摘され、2004年からは中野区と地元商工企業の共同運営になりました。そのおかげでロビーもレストランも雰囲気がガラッと変わっていました。

サンプラザのすぐ前の北口広場では太鼓の音が鳴り続いていました。沖縄のエイサーであることがすぐにわかりました。東京沖縄県人会が主催する「アシバ祭り」が行われていたのです。

Photo_3 琉球方言でアシバとは「遊ぼうよ」との意味だそうで、その言葉どおり広場に集まった沖縄の人達は、まさに老若男女を問わず、我れ先にと踊りの輪の中に入っていきました。

北海盆歌を北海道の人が皆踊れるわけでなく、東京の人が皆東京音頭を踊れるわけではありません。でもきっと沖縄の人はみんなエイサーが踊れるような気がしました。

その素晴らしさにしばし見とれたおかげで、大空ひばりショーを見せられた辛さも癒された気がしました。

Photo_4 さて、肝心の中野サンプラザに来た理由は、「日高正人といもづるの会」という歌謡コンサートを見るためでした。

「松原のぶえさんが出るコンサートです。チケットがあるので良かったら来ませんか」と法大の先輩・中鉢(ちゅうばち)泰平氏のお誘いがあったのです。

私とは入れ違いですが、松原のぶえさんも北島三郎ファミリーの一員です。「それじゃ一度生の歌を聴いてみようか」と駆けつけたのですが、松原さんは特別ゲストで、日高正人という人をはじめ、名前も顔もまったく知らない歌手が、まさに芋づるのように続々と登場して、まったく知らない歌を歌う奇妙なコンサートでした。

「一体いつになったら松原のぶえは出てくるのか」とイライラしながら待ちましたが、出てきたのは開演から1時間30分後でした。「演歌みち」「海燕」そして新曲「桜散る海」の三曲を歌って引っ込むと同時に、八割方埋まっていた客席が一斉に動きました。大半の人が松原のぶえ目当てで来ていたようです。

「これ以上、知らない人の知らない歌を聴くのは耐えられない」と、私も人波に紛れて会場を出ました。出演者全員が登場するフィナーレがどんな状況になったか、推して知るべしです。

Photo_5 写真の左が宮城県出身の先輩・中鉢さんです。せっかく誘ってくださったのに、途中で逃げ出してしまったこと、申し訳ない思いです。55歳を過ぎたあたりから、嫌なものをジッと我慢していることができなくなりました。これも弱ったことだと思っています。

この中鉢さんはインターナショナルヒューマントラベルという旅行会社の社長さんで、「フレーベルの原点を訪ねる」「メルヘン街道を歩く」など幼稚園関係者向けのヨーロッパ旅行を得意にしています。

最近は幼児造形の街・レッジョ・エミリアを中心にしたイタリア旅行も多く手がけていて、今は下記の研修旅行を募集しているとのことです。関心のある方はお問い合わせください。

★レッジョ・エミリア乳幼児教育研修
・実施期間  2008年11月25日(火)~11月30日(日)  6日間
・成田出発でローマ経由、宿泊はすべてレッジョ・エミリア市
・11月26日から3日間はレッジョチルドレン主催の研修プログラムに参加。
・参加人数  30人
・参加費用  285,000円(ほかに研修会参加費720ユーロが必要)
・問い合わせは、TEL:03-5385-3693  FAX:03-5385-3694

岡田勝彦と都市対抗野球と大阪城人間

2008年9月3日(水)

「今日は原稿を書くぞ!」とねじり鉢巻きを締めたところで、名古屋市・鳴海ヶ丘幼稚園の岡田勝彦園長(愛知県私立幼稚園連盟総務部長)から携帯メールが届きました。「今日、研修で東京に来ています。相談事もあるので、夕方どこかで会えませんか?」との内容です。

002 相談事と聞いては原稿どころではありません。何しろ、この方の父親・岡田幸彦先生(写真)にはいろいろとお世話になったのです。

35年前、私が初めて私立幼稚園団体に入ったとき、広報委員長をしていたのがオヤジさんで、私立幼稚園が抱えている課題や、機関紙で特集を組む際の視点などについてよく語り聞かせてくれたものでした。

真面目なのか風変わりなのかわからない人でもありました。居酒屋に入って、ビール1本を注文しただけで延々と、あらゆることを話すのです。こちらは腹は空きました。でも勉強になりました。

その息子からの呼び出しです。訊けばお茶の水にいるというので、「それなら」と、私が一番上位にランクしている「さくら水産・水道橋店」で落ち合うことにしました。

Photo 右が岡田勝彦先生です。

なぜ水道橋店を好むかというと、私が知るかぎり、ここが都内のさくら水産の1号店だからです。そして、それ以前の「海鮮小町」という店だったときから、この店を愛用していたのです。

「海鮮小町」の女将は威勢の良い人でしたが、何かの拍子にさくら水産の軍門に下ってしまったのでしょう。でもおかげで我々は以前の半額くらいの値段で飲み食いができるのです。

上の写真でお気づきのとおり、さくら水産のメニューはテーブルに貼ってあります。頼んだ料理がなくなり、皿が片付けられてテーブルに余白ができると、メニューが見えて次の注文ができるという合理的なシステムです。

肝心の相談事は15分で片づき、後は福田退陣やロシア関取事件、グルジア紛争などの世間話を交わしましたが、隣の東京ドームでは都市対抗野球が真っ盛りです。「せっかくここまで来たのだから、野球を観に行きましょう!」と提案しました。

「ええ!ぼくは今日中に帰らなくては……」と岡田先生はタジタジとしましたが、「名古屋は近い。千葉に帰るのと時間は大した変わらない」と連れ出しました。

試合は「NTT西日本VS王子製紙」でした。「愛知県に関係が深いのはどっちでしょう?」「電話はNTT西日本の管轄だから、たぶんこっちだね」と即断して、二人はNTT西日本の応援団に潜り込みました。

Photo_2 しかしこれは間違いでした。NTT西日本は大阪市で、王子製紙が春日井市だったのです。しかしもう入り直すこともままならず、二人はやむなく大阪市の応援をすることになりました。

ここでひとつ情報です。都市対抗野球は、ネット裏特別席2,400円、バルコニー席1,500円、外野席800円でチケットを買うことができます。このチケットを買えば朝から夜まで全部の試合(最大三試合)を見ることができます。しかし、どちらかの企業の応援団に入ってしまえば、タダで見ることができます。

これは違法やもぐりではなく、そういうフリーの応援を企業は歓迎してくれ、タオルや帽子などの応援グッズまでもらえることがあります。

Photo_3 「我々が間違ったせいで春日井市が負けたら大変だ」と思いつつも、チアガールを眺めて大阪市を応援していましたが、試合は8回裏に春日井市が勝ち越して、3対2で勝ちました。ホッとしました。

これで6回目の観戦となりましたが、今回も感じたこと。それは「都市対抗野球は高校野球、大学野球よりレベルはずっと上で、プロ野球よりずっと真剣で、一番面白い」ということです。星野ジャパンの不甲斐ない試合を見た後だけに、なおさら強く感じた気がします。

9月9日(火)までやっていますから疑問に思う人は見に行ってみてください。その応援の迫力にも圧倒されることと思います。

001 華やかなチアガールや応援リーダーの陰に隠れて、大阪城から両手を突き出して応援しているオジサンがいました。いわゆる縫いぐるみとも違う新バージョンです。

「大変だな」とは思いましたが、「あんなのをかぶって幼稚園に行ったら、子ども達に喜ばれるだろうな」とも思い、そのオジサンの動きに見入ってしまいました。

Photo_4 大阪らしく、ほかにタコ焼き、お好み焼きをかぶっている人もいましたが、驚いたのは、お好み焼きのヘラをかぶっている人がいました。

でもこの人、ヘラヘラ笑っていればいいものを、ずっと寂しい顔で行ったり来たりしていました。何かの罰ゲームでこんな羽目になったのかも知れません。

ということで、都市対抗野球に行くと、こんな生々しい人間模様も見えてきます。「日本の企業社会はまだまだ大丈夫だ」という実感を得ることもできます。ぜひ一度出かけてみてください。

浅草サンバとサンマ塩焼きとブラジル演歌

2008年8月30日(土)

★雨上がりのサンバ

001_2  去年に続いてまた浅草サンバカーニバルにやってきました。今や私は幼稚園界における浅草サンバの駆け出しプロと呼ばれてもいいかも知れません。

といってもタテマエ上は浅草サンバがメインではなく、30日夕方から行われる船橋市・健伸幼稚園の「秋まつり」にカメラマン・河口正馬氏と一緒に出かけることになり、「ちょっと待て、30日は浅草サンバだ。それなら寄り道して行こうじゃないか」となったわけでした。

ところが、すでに二人とも浅草に向かう電車に乗っているときに、健伸幼稚園から「今日は夕方から確実に雨が降るという予報なので、秋祭りは翌日に延期します」との連絡が入りました。

それでやむなく浅草サンバが本日のメインイベントになった次第です。しかし船橋と浅草は京成電車で約20分の距離。浅草にも雨が降らないわけはありません。

道路の規制が始まり、すっかり観衆の撮影態勢が整った正午、突然のどしゃ降りになりました。我々二人も良い場所が確保できたのですが、シート代わりの梱包紙と荷物を抱え、命からがらアーケードの下に逃げ込みました。

002 この雨のせいで、昨年、まるで幼稚園の運動会の応援席のように理路整然としていた観衆の姿勢が崩れました。敷物にしていた新聞、段ボール、包装紙、レジャーシート類がグッショリ濡れてしまったのです。濡れてないものも水たまりの路面に敷くのがはばかられ、1列目から立ってしまう人が多くなってしまったのです。

観衆の大半が高齢者なので、それほど殺気だった雰囲気にはなりませんでしたが、昨年の“のんびり見物”のムードはすっかり消えてしまいました。

我々二人も何とか我慢して、人垣の間からダンサーを狙いました。しかし観客が浮き足立ち、ダンサーも雨を心配して落ち着かなかったせいか、どうも全体のレベル、元気度、笑顔度は昨年より落ちたように思いました。

「毎年1人で観にきてる」と言っていたオジサンが、2時間足らずで「あ~もういいわ。毎年おんなじだ!」と吐き捨てるように言って席を立ちました。その気持ちがよくわかりました。

Photo 「お父さん、この人達、いっぺん踊った人がまた踊っているんじゃない。こんなに裸になる人が大勢いるのは変よ」「バカヤロー!田舎のストリップ小屋じゃないんだ。ここは世界の浅草だ。そんなセコイことするか」という背後の老夫婦の会話を聞いてハッとしました。

たしかに私も、よく目立つ似たようなダンサーが時間をおいて再び現れたのを確認していました。

そのうちの何人かは、昨年、所属なしの“飛び入り急造チーム”で踊っていた人であることも確認できました。つまりボディに自信があり、踊るのが大好きな流しのフリーダンサー嬢は、複数のチームに参加して踊っているようです。

松屋デパートから雷門前、国際通りまで、ゆっくり踊っても1時間はかからない1キロ足らずのコースです。何度も踊りたいフリーダンサーが、ゴールからスタートまでとって返しているのだと思います。

Photo_2 もうひとつ、駆け出しのサンバプロとして気がついたことは去年に比べて子どもの参加が大幅に増えたことです。

サンバで知り合った若者が結婚し、子どもを産み、子どもを連れて戻ってくるという良好な循環システムができているのかも知れません。

きっとこの子ども達が浅草の伝統を引き継ぎ、立派なダンサーに育っていくものと思います。

そんなことを念じつつ、そろそろ疲れてきたバカコンビは、雷門脇にある「ときわ食堂」に入って喉を潤しました。良い場所にあるのに、なぜかいつも空いている不思議な食堂は、50万人の人出の中でもやはり空いていました。

ところが店に入ったとたん、外はまた強い雨になり、逃げ込んできた客で一杯になりました。サンバでは潤わず、雨で恩恵を受けた「ときわ食堂」だったのです。

Photo_3 生ビールと一緒に、新サンマの塩焼きと水餃子を頼みました。サンマは身を二つに切られて出てきました。どちらかを選ばなくてはいけません。魚は誰でも知ってのとおり上半身が美味しいのですが、それは福岡生まれの河口正馬氏(写真)も当然知っているはずです。

だから私は、「俺は尻尾でいいよ」と、4歳年下の彼に美味しいところを譲りました。

ところが彼は、一番旨いハラワタ部分を後回しにして背中の身を食べたのです。「きっと最後に食べるんだろう」と思っていましたが、1時間たっても手をつけません。

思いあまって、「どうしてハラワタを食べないんだ?」と訊くと、「ええ!こんなところ誰も食べませんよ」と言うではありませんか。驚きました。と同時に大喜びで一番美味しいところを頂戴しました。幸せでした。

夕方の健伸幼稚園の取材がなくなったので、「こうなったら、とことんサンバを楽しんでやろうぜ!」と、19時から浅草公会堂で行われる「日ブラ交流100周年記念・スペシャルサンバショー2008」のチケット(A席4,000円)を買いました。

Photo_5 二人にとっては清水の舞台から飛び降りるほどの大金でしたが、負け惜しみ抜きに4,000円の価値はあるものでした。

私はまた、路上ダンスをした人達の選りすぐりが踊るものかと思っていましたが、まったく違っていました。

日本とブラジルのプロのダンサー、楽団、歌手が、迫力と熱狂のステージを、90分間にわたり繰りひろげてくれたのです。

Photo_6 中でも感動したのは、ロベルトさんというブラジル人歌手(写真)が、日本の演歌を見事に歌ったことです。「契り」と「上を向いて歩こう」の二曲を歌いました。「上を……」はやはり坂本九の方が味わいがありましたが、「契り」は、五木ひろしより聴く人の心を揺さぶるように思いました。

ブラジルの演歌歌手といえばジェロさんが有名になりました。相撲がモンゴルに席巻されたと同じように、演歌はブラジルにお株を奪われることになりそうな気配を感じました。

そしてステージは大いに盛り上がり、最後はお客さんたちも上がってのダンシング大会になりました。それを見てオジサン二人は、「あの元気、陽気さ、体の逞しさ。とても日本人が太刀打ちできる相手じゃない。こんど人間に生まれてくるときはブラジル人になりたいね」と言い合いました。

Photo_7 ビールの飲み直しをしてから二人は別れましたが、私は偶然にも都営地下鉄の改札口で、生の捕り物劇に遭遇しました。

紳士然とした50代半ばのオジサンが、何を思ったか駅員さんに暴言を吐き、胸ぐらにつかみかかったため、4人の駅員さんに取り押さえられ、通報で警察官が駆けつけました。

その一部始終約30分間のライブショーを私はじっと見続けたのです。

オジサンは、雨のおかげで浅草サンバがきちんと見られなかったフラストレーションが溜まっていたのかも知れません。警官にたくさん叱られたのはオジサンの方で、「すいません」と謝っていましたが、駅員さんにも行き過ぎた反撃、暴力があったのではないかと厳しい追及があり、最後は駅員さんたちもションボリしていました。「日本の警察現場は公正だ」と納得し、大雨の千葉に帰りました。

羽野昌紀と赤坂TBSとビッグエコー

2008年8月25日(月)

同業の仲間、ベストライフ社の井上道男氏から緊急SOSが入り、赤坂のTBS放送局に出かけました。

夏の休暇を利用し、奥方と二人で奈良、京都、滋賀を旅していた井上氏は、この日の昼頃までに東京に帰ってくる予定でした。16時からTBSで女優・羽野昌紀(はの・あき)さんにインタビューする予定があったからです。

ところが朝からの大雨で新幹線が止まったのです。ようやく動き出した立ち席自由席に乗り込んだものの、名古屋の手前でビクとも動かなくなり、いつ東京に着けるか見込みがつかない状況になりました。

そこで「片岡、悪いが、代わりにインタビューしてくれないか」とのSOSになりました。日頃お世話になりっぱなしの立場なので、二つ返事で引き受け、赤坂に向かいました。

Hanoaki 羽野昌紀さん(写真)は、何かと話題の多い狂言師・和泉元彌氏の妻です。それゆえ、芸能界に疎い私も名前だけは知っていましたが、顔も仕事ぶりも何も知りません。少々心配ではありましたが、何とか代役を果たすことができました。

羽野さん・和泉さんの間には2人の子どもがいます。実は私、上の女の子には1年半ほど前に会ったことがあるのです。名古屋市・ひまわり幼稚園(齊藤秀樹園長)の創立40周年祝賀会のとき、父親と一緒に狂言を演じたのです。

Photo これがそのときの写真で、和泉元彌さんのすぐ隣にいるのが娘さん。その隣の子は、元彌さんの姉の子どもです。同い年の二人は堂々としていて、口上を見事に決めました。

娘さんは、今は東京都文京区の私立幼稚園に通う年長さん。下の男の子は年少さん。羽野さんは二人を同時に幼稚園に通わせる現役幼稚園ママなのです。

というわけで、さすがに幼稚園に関する話題は豊富で、お弁当づくりやお誕生会のことなどをたっぷりと話してくれました。

感心したのは、何を訊いても表情を変えず、しばし黙考してからポイントを整理した回答をしてくれたことでした。いろいろと騒々しい状況の中で子育てをしてきただけに、一回り大きな賢さとたくましさが備わったのかも知れません。

インタビューの途中、岐阜に出張中の元彌さんから2度電話がありました。やはり新幹線が動かず往生しているとのことでしたが、いつぞや噂された不仲関係ではまったくありませんでした。

終了予定時間の10分ほど前に、井上氏が息せき切って現れました。大きなリュックを背負った放浪スタイルのままです。ともあれ、依頼主との顔合わせもできて何よりでした。

P8250001 放送局の中は撮影禁止なので、羽野さんとの記念撮影はできませんでしたが、外に出て撮りました。

左が、やはり急遽応援に駆けつけたベストライフ社のスタッフ、仲田美佳さん。右が井上氏です。

いろいろと仕事を抱える仲田さんはすぐに事務所に帰りましたが、バカ男二人はそのまま別れる訳にもいかず、例によって「さくら水産」に潜り込みました。

残念ながら赤坂店はCランクでした。

ちなみに私がこれまでに体験した「さくら水産」のランキングは、Aが水道橋店と名古屋錦店、Bが池袋西口店、田町店、Cが銀座店、赤坂店、市ヶ谷店、Dが九段下店です。

いつのまにか私は、さくら水産の評価人になった感じです。

Photo_2 そしてこの日は、さくら水産だけで済みませんでした。井上氏が「カラオケに行こう!」と叫んだからです。

目の前にビッグエコーがありました。しかし、まさかそんなことになるとは思っていませんから会員証は持ってきていません。

ところがカウンターの人が「大丈夫ですよ」とパソコンで調べてくれると、私が優良会員であることがすぐにわかったのです。いやはや便利な時代です。

二人は90分間にわたり、「少年時代」「夏休み」「チャコの海岸物語」「真夏の出来事」……など、夏の歌を歌い続け、お店のスタッフと写真を撮って、2008年夏の幕を下ろしたのでした。

北京五輪と星野仙一氏の罪

2008年8月24日(日)

「オリンピックってやっぱり変だ」と、改めて考えさせられた北京五輪が終わりました。人間はそれぞれ自分の歴史にオリンピックの印象を重ね、思い出の節目を作ったりしているものですが、残念がら私にとって北京五輪は、記憶に残るものとはならなかった気がします。

私の中で記憶に残る五輪といえば、1960年ローマのアベベ・ビキラ、1964年東京の円谷幸吉、1984年ロサンゼルスの瀬古利彦、1992年バルセロナの谷口浩美、2000年シドニーの高橋尚子です。

奇しくも全員マラソン選手です。田村亮子や北島康介も立派な成績を残しましたが、3分やそこらで勝負が決まってしまう競技では、選手に同化して五輪を体験することはなかなかできません。

2時間余り、ラジオあるいはテレビの中の選手と一緒に走ることが必要なんだと思います。

Photo_3 と言っても街頭テレビの子ども時代のため、アベベのときも円谷のときも中継を見たり聴いたりしたわけではありません。後で追体験したのだと思います。

特に円谷選手の場合は、3年後の「美味しゅうございました」の非情のドラマを知ったとき、強く印象に残りました。

瀬古さんは逆さ野球帽、谷口選手は「靴脱げ・こけちゃった事件、それでも8位」、キューちゃんはサングラスです。

団体競技の場合は、監督に同化してしまうので、東洋の魔女の大松博文氏はよく記憶していますが、選手では河西昌枝さんしか覚えていません。

006 今回も野球は、ほぼ全試合をラジオで聴き、星野仙一氏に同化して胃袋をキリキリさせました。それだけに高額年俸の選手たちに裏切られたという思いは強く、日本のプロ野球の試合など当分聴く気にもなれません。

と同時に、星野さんの選手選出についての疑念が蘇りました。

今回の選手枠は24人。まるで日本のために設定されたようなものです。1チームから2人ずつ選出すればドンピシャ収まるのです。

日本のプロ野球全体、そして個々のチームの連帯感とそれぞれのファンの気持ちを考えれば、誰でも思いつくバランス感覚です。

ところが結果は、セ・リーグ(計12人)が中日4人、阪神3人、巨人2人、ヤクルト2人、横浜1人、広島0人。パ・リーグ(計12人)が福岡3人、千葉3人、埼玉3人、北海道2人、東北1人、オリックス0人です。

1人でも選ばれたチームはかろうじて救われますが、広島とオリックスについては、星野さんが“ダメチーム”の烙印を押したということです。オリンピックの監督にそれほどの権利はないはずです。

そこまでの横暴を通しておきながら惨敗したのですから、星野さんは日本民族および日本野球界に対して万死に値する罪を犯したと言わざるを得ません。

おそらく選手たちも、そんなバランス感覚のない星野さんの非人間性に触れて、闘争心を喪失したのだと思います。

「監督が替わればチームが変わる」という実例は、高校野球にもプロ野球にもたくさんあります。WBCでは、どうか星野さん以外の人を選んでほしいと願うばかりです。

ところで、韓国とキューバの決勝戦。あなたはどちらを応援しましたか?

お隣の国・韓国、人々がのんびり暮らす楽園のような国と聞くキューバ。どちらにもほどほどの感情を持っているので、「どっちが勝ってもいいや」と、久しぶりに冷静な気持ちで接戦を楽しんでいました。

しかし9回裏、キューバを勝たせようとする審判団の不正を感じた瞬間から、韓国の幸運を心を込めて祈りました。韓国が優勝できて、本当に良かった。世界の野球界はこれで救われたと思いました。

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大江戸骨董市と河口正馬と銀座でランチ

2008年8月17日(日)

★元幼稚園教師に声をかけられたカメラマンの責任感

急に涼しくなった日曜日、銀座に出かけました。小誌の遊軍カメラマン・河口正馬氏(54)から「銀座でランチしませんか」とのメールがきたからです。

「銀座でランチ」には苦い思い出があります。1969(昭44)年の春でした。法大に入学したばかりの私に、同級生から「よ、いっしょにランチしないか」との声がかかりました。私とはまったくタイプの違う、付属校(法政二高)出身のシティボーイでしたが、何となく雰囲気に呑まれてついて行ってしまいました。

校門前に止めてあった彼の自動車のそばに若い女性が二人立っていました。同じ学部学年とのことでしたが、私は知らない人でした。

001 要するに、1人誘ったところがもう1人ついて来たので、男が1人必要になったというわけでした。

右の写真が当時の私です。外堀の土手や屋上でサックスを練習している姿を見て、「こいつなら余分な女の相手ができるだろう」と踏んだのでしょうが、今も女性を前にすると困惑迷走する私ですから見込み違いでした。

自動車の着いたところが銀座。私にとっての最初の銀座。薄暗いレストランで、見たこともない料理を、「これは一体いくらするんだろう」と心配し続けて食べました。

「女二人分は俺が払うから、自分の分は払ってくれ」と同級生に言われ、虎の子の500円札を出しました。学食ならカレー40円、「何でも高い」と地方の人に言われた東京タワー大食堂のAランチが200円だった頃ですから、銀座のランチはバカ高かったのです。

「銀座じゃ随分高いだろ?」と河口氏に返信メールすると、「1000円ランチです。心配いりません」というので、出かけてきた次第です。いつも私の誘いに乗ってくれる人なので、彼からの誘いには乗らなくてはいけません。

Photo しかし、1000円の昼ご飯のために1000円以上の交通費をかけるのも何だと思い、調べてみたら、この日は有楽町駅前・東京国際フォーラムの広場で「大江戸骨董市」が開かれるというので、これを見てからランチにしようということになりました。

骨董には関心がないのか、少し遅れてきた河口氏でしたが、彼の方がすっかりはまってしまいました。特に伊万里焼などの陶磁器類に関心が高く、あちこちで腰を据えて見入っていました。

5枚組み20万円の色鍋島焼小皿に魅せられて、もしかして買うんじゃないかと心配しましたが、「今日は6,000円しか持っていないから」と聞いて安心しました。

それでも出店者は「6,000円は手付けということで……」と食い下がります。そんな中、あちこちの店にさっと現れて、すっと品物を指さして、バッグから1万円札を鷲づかみしてパッと払っていくオジサンがいました。

「おい、あの人をつけようぜ」と目配せしたら、最後に55,000円の器を風呂敷に包んでもらうと、さっさと地下鉄の駅に消えていきました。一体、あの人は何をしている人なのでしょう。

そんな高額な取引があちこちで行われているのに、領収書を書いている姿はどこにもなく、骨董業界とは税金に無縁な世界なのかも知れません。

突然、広い会場にカレーの匂いが立ちこめました。どうやら、主催事務局から出店者にホカ弁カレーの配給があったようでした。

Photo_2 時間は13時、腹の虫も鳴いたので、「俺たちも銀座のランチにしようぜ」と腰をあげました。

右の写真が、知る人ぞ知る“さすらいの幼稚園専門プロカメラマン”、福岡県出身の河口正馬氏です。私とはいつしか30年余におよぶ腐れ縁で、『月刊・私立幼稚園』の表紙写真や「正馬がゆく・幼稚園レポート」などを担当してもらっています。

そんな河口氏から、どうして銀座ランチの誘いがきたのかというと、数日前、銀ブラしていた河口さんに若い女性から「カメラマンの河口さんですね」と声がかかったそうです。

Photo_4 「『月刊・私立幼稚園』のおかげで私もメジャーになったもんだ」と一瞬思ったそうですが、よく見ると若い女性は、これまで何度か撮影にお邪魔したことのある大分県日田市・三芳幼稚園の長尾紋佳(あやか)先生(写真)だったのです。

聞くと、長尾先生は三年間勤めた同園を今春で辞め、新しい人生にチャレンジしようと東京に出てきて、銀座のレストランでアルバイトをしているとのことでした。

野次馬根性が旺盛で、文章を書くのが大好きという長尾先生がめざす次のチャレンジとは、雑誌の記者または編集者です。それを聞いた同郷のカメラマンは運命的な責任感を感じ、とりあえずオンボロ編集長が呼ばれたわけでした。

食事の合間(彼女にとっては仕事の合間)にポツポツと話を聞いた結果、「なるほど、この人はきっと立派な物書きになる。小誌の遊軍記者ならいつでもなれる」と太鼓判を押しました。

Photo_5 何はともあれ、夢を追いかける若者は光り輝いて素晴らしいと感動したランチでしたが、その中身は写真の「イカを軽く炒めたものとバターライス」というものでした。

ジャンバラヤ風の料理で、40年前の銀座ランチよりずっと美味しいものでした。イタリア料理かスペイン料理かと思いますが、フランスパンがついてきたので、フランス料理かも知れません。ビールは別料金ですが、これに抹茶ババロアとレギュラーサイズのコーヒーがついて1000円ですから、お値打ちでした。お店の名前は「Pin 銀座」でした。

★仕上げはやっぱり「さくら水産」

Photo_6 ランチの後は、定石通りの銀ブラです。無粋な男同士であれ“銀ブラ”と聞くだけで心が弾むのは、トシのせいでしょうか。

数寄屋橋公園に立つ、誰が見ても岡本太郎作とわかる時計台(写真)が「若い時計台」というのは、帰って調べてみてわかりました。

時計の上下に、浅草のアサヒビール本社ビルの屋根にある“巨大な黄金のアワ”と同じものがついていますが、あの浅草のオブジェにも岡本太郎さんはからんでいるのでしょうか。知っている方があれば教えてください。

「関東大震災10周年記念碑」→「銀恋の碑」→「ゴジラの銅像」→「フジフィルムのフォトギャラリー」などをブラブラ歩いて、ソニープラザに着きました。

Photo_7 屋外スクェアに特設水槽が置かれ、本モノのサメやエイが泳いでいました。何事かと思ったら、ビルの中が水族館になっていたのです(9月2日まで)。

それも大型テレビを並べたバーチャル水族館でした。8階のホールでは大型スクリーンの3D映写もあり、まるで沖縄の海に飛び込んだような感じでした。

二人の結論は、「バーチャルな世界にはいろいろ問題があるが、こと水族館と動物園に関しては、魚と動物たちの幸せを考えるなら、バーチャルで十分、いやバーチャルの方が現実感があっていい」ということでした。

Photo_8 16時30分、ソニービルを出ると銀座は雨でした。となるとこのまま帰るわけには行かず、ガス灯通りにある「さくら水産」に入りました。

ここでたっぷり5時間、幼稚園の未来、日本の未来、我々の未来を語り合いました。

結論は、「こんなバカ話を語り合っているうちにポックリ死ねるのが一番いいね。いっそ死ぬまでここで飲み続けようか」となりましたが、二人の財布の中身を考えると、もし生き残ったら大変だと、終電の2時間も前に引き揚げました。

「警察ふれあいフェスタ」と「ゆかいなコンサート」

2008年8月16日(土)

★警察ファミリーの中に極道ファミリーの姿も

千葉駅前のそごうデパートに出かけました。6階催事場で千葉県警が主催する「ふれあい」フェスタが開かれ、その特設ステージでグリーンフィールド社(洞下也寸志社長)の「ゆかいなコンサート」が行われたからです。

幼稚園でお馴染みの歌とピエロとマジックのショーが、警察の目に止まり、わが地元で開催されるのですから、応援に行かなくてはいけません。

Photo 「警察のイベントに、そんなに人は集まらないだろう。私1人でも賑わいになれば……」という気持ちもありましたが、会場は子ども連れのファミリーで大賑わいでした。

「ど、どうして?」と驚きましたが、人々の会話を聞いていると、その大半が警察官のファミリーで、階級の違いもよくわかる集団でした。

考えてみれば、私も警察官の息子ですから、広い意味でのファミリーに入るのかも知れません。

ステージの周囲には白バイ、ミニパト、交番の巡回カブなどが並び、盛んに記念撮影をしていました。まさか巡回カブで記念撮影する人はいないだろうと思ったら、列ができていました。お父さんの職場が察せられます。

004 そんな中、子ども達の一番人気はやはり、VIP車列の先導を務めるサイドカーでした。1月10日の生まれゆえ警察官になった父親(故人=写真)もサイドカーが好きな人でした。私はあのワクワクするシャトルの中に入って、あちこち連れていってもらったものです。

鑑識畑、刑事畑が多かった父親の、制服姿の写真はこれ1枚しか残っていません。25歳の頃、北海道名寄警察署時代のものと思われます。

それにしても、「ふれあい」フェスタというネーミングです。「お役所の人は何でも“ふれあい”にするのが好きだな」と呆れていたら、ステージでは、道行く女性に人相の悪い男性が無体に触れあおうとし、急所を蹴られたり、みぞおちを突かれてバタバタ倒れていく寸劇が演ぜられていました。

「なるほど、このフェスタの“ふれあい”にはちゃんと意味があるのか」と納得しました。

さて肝心の「ゆかいなコンサート」が始まりました。今回のチームは、グリーンフィールド社にとっては、「丸田まり」「奈月まりあ」に続く三代目で、「清野まり&ピエロのハッチ」のコンビ。洞下(ほらげ)社長は「まり」がお好きなようです。

Photo しかしさすがは三代目。演技も演出も磨きがかかって完成度が高くなっていました。

まずは、歌のお姉さんが登場する前に、ピエロが出番を間違えたかのようにヒョコヒョコと出てきて子ども達と掛け合います。

子ども達の大好きなピエロさん。それが唐突に出てくる演出は、オーソドックスとはいえ楽しいものです。

写真は風船で器用にブドウを作ったところですが、このピエロさんは歌もうまいし、おしゃべりも軽妙。ジャグリングも上手で客席から一番大きな拍手をもらっていました。

ところが、このピエロさんが1人のお父さんを指名し、ステージに上がってくださいとお願いしたところ、そのお父さんはなかなかウンと言いません。それでも上手に誘い出そうとすると、お父さんは自分の足を指さして合図を送ったのです。

見るとバミューダパンツの下の両足に、色鮮やかな鯉の彫り物。しぶきを上げてパンツの中に登っていく図です。おそらく背中では真っ赤な鯉が、怒濤の滝に打たれて踊っていることと思います。

今流行の若者のファッション・タトゥとは全然違います。連れている女の子はとても可愛く、お父さんも顔立ちは一流会社員風ですが、お母さんが極道の妻の香りを漂わせていました。

おそらく彼らファミリーも、同じ犯罪業界ゆえ、日頃世話になっているデカさんの応援に駆けつけたのだと思います。

それで、その彫り物を一瞬見たピエロさんは、何の驚きも見せず、「諸般の事情があるようですので、それじゃ、こちらのお父さんに」と言って、別のお父さんの腕をつかんでステージに誘いました。その冷静さと機転の早さにも感心しました。

Photo_2 「ぼくらのロコモーション」を歌い、踊りながら登場した清野まりお姉さん(写真)も素敵な人でした。

声がきれいで、歌もうまいし、踊りも上手。何より感心したのは、ステージに上がってくれた子ども達に、名前と年齢を訊くインタビューのときの表情です。

勇気を出して名前とトシを言った子どもとその母親は、「素敵ね」と言ってくれたお姉さんの声と顔をきっと一生忘れないことでしょう。

歌と踊りと、インタビューの仕方は、幼稚園の先生方にもぜひ真似してほしいと思いました。

Photo_3

初めて聴いた「ぼくらのロコモーション」はいい歌でした。最後の「どんな色が好き」は私の大好きな歌です。

「あんパンマンのマーチ」「崖の上のポニョ」「メロンパンのうた」などもリクエストしたくなりました。

お姉さんが衣装直しで引っ込んだ間、マジカルナッキー(写真下)というマジシャンが登場しました。

Photo_6 この人もなかなかの技能と演技で、失敗もありませんでした。

私にとっては初めて見るキャラクターでしたが、会場のお父さんたちと握手をするとき、子どもを連れていないおじいさんの私にニコニコと近づいてきて握手をしてくれたのです。

終わった後、楽屋をのぞいて謎が解けました。そのマジシャンは、二代目歌のお姉さん、奈月まりあさんだったのです。

もちろん今も、ピエロのアッキーと組んだAチームで歌のお姉さんをしていますが、今日はマジシャンでお手伝いにきたとのことでした。

この奈月さんとは忘れられない思い出があります。2006年12月、名古屋に2日間公演で来たとき、1日目が終わった段階で声がほとんど出なくなり、やむなく2日目は、ピエロと役を交換して何とか凌いだのです。

きっとそのときの「何でもできなきゃ」という経験が、立派なマジシャンにも成長させたのだと思います。

この芸達者な女性3人のステージを見ていて、「この中に男が加わることは可能だろうか」と考えました。幼稚園における男性教諭の存在ともからむからです。

おそらく可能となるのは、彼女たちよりずっと卓抜した芸を持ち、メンバーに尊敬される人か、さもなくば多くの人から愛される人間性を持った人でなくては持たないでしょう。

そんな男が簡単に見つかるわけがありません。ですから幼稚園も、この業界も女性が中心になり続けることになっています。タクシー業界もそうなりつつあります。

男にとって今の時代は、表舞台では生きづらい時代と言えます。だから街で見かける元気な人は女性ばかりで、男はラーメン屋で携帯をいじっているか、漫画喫茶で静かに読書している人が多いのです。

Photo_5 なんてことを思ってふと見ると、洞下社長(写真)が音響ミキシング装置の前で静かに座っていました。

この人は、こうした機械に強く、演出の意欲が強いところが、チームを維持している所以だと思います。

幼稚園とのつき合いが長くなるにつれ、幼児教育や幼稚園経営に対する関心と見方が鋭くなってきているのも敬服すべきところです。

映画「鳥の巣」と杉並区の壁面キュウリと和田中学校

2008年8月11日(月)

★「中国人に『イエス』と『ノー』の概念はない」に共感

001 北京五輪の開会式について、お笑い芸人から近所のオバサンまでいろんな人が、「開会式の何たるかを忘れている」「中国にはかなわない」「東京は候補を辞退した方がいい」……と真剣にコメントしているので、私もユーチューブでほぼ全編を見ました。

選手入場前のオープニングショーがえらく長くて、やり過ぎのような気がしました。ようやく始まった選手入場もダラダラ行進で、スポーツの祭典らしい凛々しさは感じませんでした。

甲子園の高校野球の開会式の方が、ずっとすっきり爽やかだと思ったのは私だけではないと思います。

2016年の五輪に東京が立候補しています。50年前の東京五輪開会式をそっくり再現するというのなら意味もあるでしょうが、北京もどきの贋作・馬鹿騒ぎをするならつまらないと思います。

それはともあれ、001_2 北京五輪開会式の会場となったのが、「鳥の巣」と呼ばれる国家体育場で、折しも今、渋谷のユーロスペースという映画館で、この「鳥の巣」建設をめぐるドキュメンタリー映画が上映されています。息子を誘って見てきました。

映画は国家体育場の設計から建設まで、スイスの二人の建築家、J・ヘルツォークとP・ド・ムーロン氏の行動を追ったものでした。

中国政府は設計を、欧米のいくつかの建築家グループに依頼し、コンペの結果、スイスチームが受注しました。中国を含めアジアの建築家にはコンペ参加の要請をしなかったそうです。中国人の複雑な意図的心中が察せられます。

最初から「鳥の巣」をイメージしたわけではなく、できあがった作品が、中国人にとって縁起の良い「鳥の巣」に似ていたいたためそう名付けられたそうです。

ほかにミドリガメに似た秀作もあり、スイスの二人は「カメに負けたかも」と思ったそうですが、中国人にとってはカメは縁起良くても、ミドリが奔放とか不貞という否定的な意味合いを持っているそうで、落選しました。中国に行くときはミドリの洋服を除外した方がいいかも知れません。

映画の中で印象的だったのは、「中国人は『イエス』と『ノー』について明確な概念を持っていない」という指摘でした。

「いいですよ」というのが「ノー」であったり、「無理ですね」というのが「イエス」になったりするわけで、この辺の感覚は日本人に似ていると思いました。日本文化のルーツはやはり中国ということなのでしょう。

欧米文化が主流の現代は、「イエス」も「ノー」も言えない日本人は異端扱いされがちですが、今後、中国文化がスタンダードになってくれば、日本人の曖昧さも美学と認められるかも知れません。

もうひとつ印象に残ったのは、二人のスイス人が、「これを作るのは、中国国家のためでも、五輪のためでもない。多くの市民が、自由で民主的な活動を末永く行う施設になってほしいと思うからだ」と繰り返し言っていたことです。

このことについて読売新聞の「編集手帳」は、「彼らはトロイの木馬を贈った」と述べています。その願いが通ずることを祈りたいと思います。

Photo 久しぶりに渋谷の街を歩いて驚いたことがありました。109ビルのすぐそばのビルに「夏目ナナ」の大きな写真が掲げられていたことです。

夏目ナナといえば、小生なんぞを含め、多くの中年オジさんがいろいろとお世話になった超ハードな巨乳AV女優です。今はAV界を引退して、ふつうのタレントになったと聞きますが、まさか渋谷の目抜きビルの看板娘になったとは思いませんでした。

ある意味、数々のアダルト作品は夏目ナナ嬢にとってトロイの木馬だったのかも知れません。

「STD」の意味がわからず帰ってきて調べたところ、性感染症全体を指す言葉だそうです。「なるほど彼女にとって説得力のある仕事だ」と思いました。

★幼稚園でも試してほしい壁面キュウリ農園

渋谷から新しい地下鉄、副都心線に乗って、南阿佐谷に行きました。

TBSラジオの「日曜天国」という番組で、安住紳一郎アナウンサーが「自分のアパートのそばにある杉並区役所が、キュウリで壁面緑化をしている。キュウリがあんなに伸びるとは思わなかった。とにかく凄い」と言っていたので、それを見学に来たのです。

Photo_3 写真のとおり、たしかに壮観な壁面緑化で、道行く区民は皆、誇らしげに見上げていました。

実際にはキュウリだけでなく、ゴウヤ、ヘチマ、朝顔の4種類が、地上に並んだプランターからネットに絡んで上へ上へと伸びていっているのです。

つくば科学万博で、1万個もの実をつけた1本のトマトの樹がありましたが、それを思い出しました。

7月末の放送で、安住アナは「今、5階まで到達しているので、8月半ばには一番上の7階まで到達しているだろう」と言っていましたが、依然として5階どまりでした。そのへんが限界なのかもしれません。

近づいて探してみましたが、成長したキュウリ、ヘチマ、ゴウヤは見つかりませんでした。脚立やハシゴをつかって、誰かが毎日丹念に収穫しているのだと思います。

この壁面キュウリ農園は幼稚園でも使えるのではないでしょうか。畑がなくてもキュウリやゴウヤがたっぷり収穫でき、給食に活用できると思います。

温暖化を防ぐエコ教育+農園体験+そして食育と、「一石三鳥」の効果があるわけです。ぜひお試しください。わが家でも、来年は試してみたいと思います。

「せっかく杉並区役所まで来たのだから……」と、「よのなか科」「土曜日寺子屋」「夜スペ」などで、日本中に知られている区立和田中学校を訪ねてみることにしました。

Photo_4 和田中はさすがでした。門扉はカラ~ンと全開で、誰でも自由に入れます。玄関を入ると来訪者受付のテーブルがあり、自分でノートに名前を書いて、ブルーのプレートを胸に下げれば見学OKです。

受付には、「自立貢献」と書いた達筆な書が貼ってありました。それらを見ながらキョロキョロしていると、若い男性教師と出会いました。

ふつうなら胡散臭い目でにらまれるところですが、その教師は満面の笑顔で「こんにちは、ようこそいらっしゃいました」と言ってくれたのです。リクルート流のサービス精神が隅々まで行き渡っていることを感じました。

こうした明るくオープンな雰囲気があればこそ、新しい発想が次々に生まれてくるのだと思います。

Photo_5 和田中のすぐ裏手に、いくつもの重厚な建物が連なっている一帯がありました。そう、杉並区和田は立正佼正会の本部があるところでもあるのです。写真はそのうちのひとつの大聖堂です。

ほかにコンサートホール、学校、病院、ホテル(団参会館)など様々な施設が林立していて驚きました。

さらに、和田中のすぐ隣には、キリスト教の救世軍の施設(倉庫、病院、ホスピス、宿舎など)がずらりと並んでおり、環七を挟んだ向かい側には江戸庶民の厄除け祖師として知られる日蓮宗・堀之内妙法寺があります。そんな凄まじい宗教空間の中にあることも、和田中の斬新性に影響を与えているのかも知れません。

Photo_6 新宿で息子と別れ、私は池袋の「さくら水産」に向かいました。(株)ベストライフの井上道男社長(写真右)と前全日私幼連事務局長・青木宏之氏(左)との暑気払いです。

井上氏は、健康上の理由から医者に減量を勧められ5キロほど痩せたそうです。青木氏も全日私幼連事務局を辞めてから、宴会やパーティが減ったせいか、やはり5キロ近く痩せたといいます。私だけが体型が変わらず、「見習わなくてはいけないな」と反省しましたが、3人で焼酎のボトルを2本空けました。

池袋駅の地下道で、「痩せた姿をアピールするポーズを頼むよ」と言ったら、こんな写真になりました。ご容赦ください。

ところで、我らが愛する格安居酒屋「さくら水産」には、この日も中国人の女性がたくさん働いていました。

「北京には行かないの?せっかく自分の国でやるオリンピックなのに」と訊いたところ、「帰りたくても帰れない。競技場のチケットもとれないし……」と、少々辛そうな表情で俯いてしまいました。悪いことを訊いてしまった、とここでも反省しました。

バースデー赤飯とパサール幕張と苺クレープ

2008年8月10日(日)

★北海道の赤飯は甘ったるいわけではない

恥ずかしながら、本日、不肖私の58回目の誕生日です。

001 北海道とはいえ、上川盆地の真ん中、当麻町(旭川市の隣)の駐在所で生まれたものですから、30度近い暑い日だったそうです。母親には迷惑をかけました。

残念ながら生まれた頃の写真がなく、これが私の一番若いときの写真で1歳半くらいのようです。

母親はこの後、ほどなくして結核療養所に入り、ほとんど家族と暮らすことなく33歳の春に他界しました。私が10歳のときでした。

それでも息子が元気に生き延び、孫もそれぞれ元気にやっているので、それがせめてもの供養かと思っています。

Photo そんな母親に感謝の気持ちを示そうと、今日のブランチは赤飯にしました。実は私、赤飯を作るのが結構得意なんです。

自治会活動を通じて知り合った君津市の友人、齊藤貞夫氏が時々、自分で作ったモチ米を送ってくださるので、それに応えようと見よう見まねでチャレンジしているうちに得意料理になってきたのです。

写真を見て、「豆がちょっと大きいんじゃないの?」と思うかも知れません。そのとおりで、これは金時豆です。

愛知県に赴任中、「幼稚園のお母さんと子ども達に豆を好きになってもらいたい」と、全国穀物商協同組合連合会から名古屋市内の私立幼稚園に大豆、小豆、金時豆が提供されたことがありました。そのおこぼれが事務局にも回ってきて、私の分として各300㌘ほどを千葉に持ち帰ってきたのです。

小豆は赤飯を作るたびに使ったのですぐになくなり、今は金時豆を使っていますが、これが結構美味しくて、食べ応えがあるのです。でもこれもあと1回分しかないので、後は大豆です。大豆で赤飯ができるかどうかはわかりませんが、黄飯にでもなってくれればいいと思います。

001_2 豆の大きな赤飯を見ても、北海道の人は不思議に思わないかも知れません。この本(亜璃西社刊・1500円+税)の表紙のように、北海道では大粒の甘納豆で赤飯を作ることが多いからです。

ご飯の赤味は食紅でつけます。「ええ!甘納豆!」と寒気を感ずる人もあるかも知れませんが、そんなに甘ったるいものではありません。

釧路市出身の著者・宇佐美伸氏(読売新聞記者)は「菓子屋で売っている砂糖まぶしの甘納豆を使った」と書いてあります。しかし釧路の事情はいざ知らず、少なくとも旭川や函館では、北海道だけで売っている「調理用・赤飯甘納豆」を使うので、ほんのり甘い程度でさほど違和感はありません。ちょうどヤマザキの「豆パン」くらいの甘さ、食感と思ってください。

赤飯と味噌汁(具はナスと白菜と油揚)だけでは少々寂しいと思い、目玉焼きに冷やしトマト、マカロニサラダ、キャベツ千切りを添えたおかずも作りました。誕生日らしいゴージャス感が出ましたが、マカロニサラダは1度に数日分をまとめ作りするものなので、実際に作ったのは目玉焼きだけです。お許しください。

目玉焼きには、塩をかける人、醤油をかける人、ソースをかける人……といろいろいるようですが、私は頑としてケチャップ派です。これだけは、たとえ踏み絵を強要されても変えるつもりはありません。

★自宅の近くに突如出現したレストラン街

Photo_2 自宅のすぐそば、歩いて3~4分のところに突然巨大なレストラン街が出現しました。7月30日のことです。いやはや驚きました。

わが町内との隣接点に京葉道路の幕張PAがあり、以前から蕎麦とカレーの立ち食いレストランはありました。それが大改造されて「パサール幕張」という新型サービスエリアに生まれ変わり、上り車線にも下り車線にも、それぞれ15店前後のレストラン、フードショッPhoto_3 プができたのです。

写真は上が高速道路利用者のための表玄関で、下が徒歩や自転車で来る近隣住民のための裏口です。

この裏口からわが家までは歩いて4分、自転車なら2分です。どうぞ、ここに寄られたときは電話をください。飛んでまいります。

聞けば、上り車線の建物がオープンしたのは7月30日でしたが、下り車線は3月末にオープンしていたそうです(こちらはちょっと遠くて歩いて12分ほど)。私が愛知に行っていた間に自治会にも説明があったそうで、知らなかったのは私だけだったようです。

Photo_4 ふと思いついて、このパサールに行ってみました。「誕生日にはケーキがつきものだ。あそこならケーキも食べられるコーヒーショップがあるかも知れない」と思ったからです。

ありました。苺とアイスクリームが載った、大きな三角形のケーキで、コーヒーをつけて620円です。

ところが、お金を払い、お盆を持って待っていると、せっかくのできあがったケーキをくるくると丸めて、紙筒に入れて「はい」と渡してくれたのです。

「広げたままで皿に入れてほしい。フォークをつけて」と頼んだのですが、「クレープはこうやって食べるものです。うちには皿もフォークもありませんし……」と店員さんは困惑しました。

若いアルバイトさんを困らせるつもりはなく、仕方なく紙筒に入ったまま食べましたが、何だか見本に欺されたような、お金を無駄遣いしたような、後味の悪いバースデーケーキになってしまいました。

Photo_5 それにしてもレストランの中は人が一杯でした。日曜だったせいかも知れません。九十九里の海の幸食堂もあれば、トンカツ屋、ラーメン屋、カレー屋もあり、食べ放題のバイキングレストランもあります。

「もうケーキは食べないけど、ほかの店ならちょっと来てもいいな」と思いました。

しかし、どの店のメニューを見てもアルコール類が一切ないのです。高速道路にある店なので当然といえば当然ですが、「いくら近くにあっても、ここにはめったに来ることはないだろうな」とも思った次第です。

遠藤朋子と「さくら水産」と青柳義智代

★多摩みどり幼稚園から届いた寄せ書き

001 東京都東村山市・多摩みどり幼稚園(遠藤剛之理事長)から思いがけないプレゼントが届きました。先生方全員の寄せ書きです。

6月に同園に取材に行ったとき、「せっかく来たのだから、先生方に文章の書き方のコツを伝授してくれないか」と遠藤理事長に頼まれ、職員会議で「文章の書き方」についてのミニスピーチをしました。そのときの感想をひとり1人魚の絵に書いて、10頁の冊子にしてくれたのです。

遠藤先生の突然の思いつきには慌てましたが、その段階で私はすでに最高級鰻重と最高級アップルパイをご馳走になっていたので後には引けません。覚悟を決めて話し始めました。

感想を読むと、それぞれに何かを感じてもらえたようでホッとしました。添えられていた理事長の妻・朋子園長の手紙には、「お話だけでなく、たまたま持っていた本を見せて『こんな本を書ける幼稚園教師になってほしい』と言ってくれましたね。あれがとても良かった。さっそく先生方はその本を買ってきて読んでいます」と書いてありました。嬉しいことでした。

そのとき紹介したのは、元保育士のシンガーソングライター・谷口國博氏の『たにぞうの一球ノーコン』という本でした。(この本のことは幼稚園情報センターHPのコラムに詳しく紹介してあります)

こうした寄せ書きは、作った経験のある幼稚園が多いのではないでしょうか。なぜなら私もかなりの数を頂戴しているからです。

いただくたびに、「ああ、これが私立幼稚園の人情だな……」と涙しています。本当に心を暖かくしてくれます。それらはすべて大事に保存してあり、「必ず棺桶の中に入れてくれ」と息子に頼んであります。

Photo_2 今回の多摩みどり幼稚園の寄せ書きには、今までと違うことがひとつありました。

同園で教育実習していた学生さんたちの寄せ書きもあったことです。

写真がその面々です。彼らは職員会議にいたわけではありませんが、教材準備をしていた部屋に私が勝手に押しかけ、冗談まじりに就職活動の心得を伝えたり、写真を撮ったりしたら、それもまた何か心に残ってくれたようでした。

男性二人には非常に厳しい幼稚園の就職戦線ですが、きっとみんな立派な先生になってくれることでしょう。

★オーストラリアでもらったバースデーカード

実習生といえば思い出すことがあります。昨年8月、名古屋文化学園(加藤紳一郎理事長)の主催で行われたオーストラリアの幼稚園実習に同行したときのことです。

愛知県内の大学生、短大生、専門学校生約30人が参加し、その引率要員を兼ねて連れて行ってもらいました。

Photo_3 私の誕生日は8月10日です。それゆえ旅行先で誕生日を迎えることが多かったのですが、昨年の第57回バースデーはオーストラリアで迎えたのでした。

その話を小耳に挟んだ8人の学生が、10日の夜、特製バースデーカードを作って届けてくれたのです。開くとケーキが飛びだしてくるスタイルのものです。

「ああ、幼稚園の真心は学生時代から培われているんだ」と、またまた涙をこぼしました(私は異常なほどに涙もろいのです)。

Photo_4 写真には7人しか写っていませんが、もう1人はお腹をこわしてダウンしたとのことでした。ケーキをつまみ食いしたのかも知れません。

もちろんこのバースデーカードも棺桶の中に入れてもらいます。

★九段下で思わぬランチタイムデート

Photo_5 ところで、多摩みどり幼稚園の遠藤朋子園長は、「私が好きな女性園長100人」のお一人です。(昔は10人だったのですが、今は100人になりました)

すべてを包み込む優しい笑顔もさることながら、声が素敵なのです。中学生の頃、隠れて聞いていたラジオ深夜放送のアナウンサーの声、といってもわからないでしょうが、TBSラジオで交通情報を担当している阿南(あなみ)京子さんの声、と言えばわかる方もあると思います。そう、まさにあの声なのです。

その朋子先生と、2人差し向かいでランチを食べる機会がやってこようとは夢にも思いませんでした。7月22日(火)、東京都私幼連の教研大会が九段会館で行われたときでした。

午前の講演が終わって、昼食休憩になったとき、「片岡さんはどこで食べるの?」と朋子先生に訊かれたのです。

Photo_6 「これだけの人がいっぺんに外に出るんです。ふつうのレストラン、食堂はきっと満員です。だから余り知られていない、居酒屋のランチサービスに行きます」

「夜も居酒屋、昼も居酒屋なのね。じゃ、私もついて行こう」と、昼間の居酒屋に二人で入ることになったのです。

私は500円のAランチ(サバみりん焼き定食)を頼み、朋子先生は一番高い650円のCランチ(お刺身定食)を頼みました。

「さくら水産」のランチは、ご飯、味噌汁が食べ放題(しかも自分で盛るので遠慮がいらない)。テーブルの上には、生玉子がザルに盛られ、漬け物もドンブリにたっぷり入っています。ふりかけと味付け海苔も食べ放題です。

B この写真は、この日のものでなく、以前、田町の店で撮影した500円のBランチです。これが一番人気だそうで、これで山盛りの丼飯を5杯食べた若者の真向かいに座ったことがあります。

ということで、「さくら水産」は貧しい人々を救うありがたいお店なのですが、日本中に急速に広がったおかげで、そのサービスと味にはかなりの開きがあります。

残念ながら、せっかく朋子先生とデートした九段下店は、その両方とも最低でした。特にご飯がまずくて、「申し訳ないことをした」と焦りました。

しかも、お刺身の中身で食べられないものが多く、「これ食べてください。これも」と結局私が朋子先生のおかずの半分以上を食べてしまったのです。やむなく朋子先生は、ゴワ飯に溶き卵をかけ、漬け物をまぶし、味付け海苔でくるんで食べたのです。「申し訳ないことをした」とさらに焦りました。

003 しかし、「これも食べて」と言われているうちに思い浮かんだ人がいました。私が私立幼稚園界で最初に出会った師匠、東京都中野区・宝仙学園幼稚園の青柳義智代(よしちよ)先生です。日本私立幼稚園連合会の初代会長であり、全国学校法人幼稚園連合会の初代会長も務めた方です。

希代の酒豪でした。昼食に酒を付けるのは当たりまえで、私は随分とそのご相伴に預かりました。

鰻屋に行っても、鮨屋に行っても、メニューを見て自分の分を注文するのに、箸をつけるのはほんのわずかで、9割方が私のところに回ってきたのです。

国会や文部省に公務で行ったときも、食事代は必ず自分で払い、私の分まで払ってくれました。それも内ポケットから取り出した小切手帳にサラサラと記入し、ピリッと破って渡したのです。

日本人で小切手帳を使いこなす人を見たのは、後にも先にも青柳会長だけで、あのカッコ良さは最高でした。

「何だな、僕が死ぬときは暑くもなく寒くもない日にするからね」と常々言っていて、亡くなる前夜、「明日、酒の用意はもういらないから」と娘さん(宝仙学園短大の小林美実教授)に言って、4月末に旅立ちました。

せめて死に方だけでも師匠の生き方を真似したいと、いつも思っています。

上野夏まつりと亀屋の鰻丼と河口正馬

2008年7月19日(土)

★盛岡さんさ踊りで岩手に元気を

「上野夏まつり」に行ってきました。

「え、上野夏まつり? そんなのあったの?」と思う方は多いと思います。「♪上野は~おいらの~心の駅だ~♪」と伊沢八郎風に歌っていた私にも初耳でした。

それが今年で第57回。私が生まれた翌年から始まっていて、浅草サンバより、高円寺阿波踊りより歴史の古い祭りだったのです。上野の皆さん、大変失礼しました。

実は、盛岡に住む中学時代の同級生から「うちの娘が“ミスさんさ踊り”に選ばれた。7月19日、上野夏まつりのステージで踊るので、良かったら見てやってください」とのメールが届いて、初めて祭りのことを知ったのでした。

メールに対する関東支部の仲間の反応は、「予定が入っている」「仕事になってしまった」などでした。もし私も行けなくて、誰も行けなかったという事態になったら大変です。そこで、「浅草サンバチームも出るよ。土用の入りだ、鰻重をおごるよ。ビールもつけて」と三バカの1人、カメラマン・河口正馬(せいま)氏を誘って出かけました。

会場の水上音楽堂は、カメラおじさんと外国人、それに出演踊り子嬢の家族などでほぼ満員。ところが浅草サンバが終わり、「大江戸かっぽれ」が始まったとたん、客席には閑古鳥が鳴きました。上野の人情もすっかりドライになったようです。

ちょうどその時に河口氏が現れました。「今、浅草サンバは終わったよ」と言うと、彼は言葉を失い、「茅ヶ崎からの往復2500円の交通費は一体何なんだ!」という目で茫然としました。可哀相なことをしました。

Photo_4 これが「大江戸かっぽれ」ですが、きりりとした踊りと表情、そしてベテランの貫禄で素晴らしいものでした。

辛口を言わせてもらうなら、ひどかったのは「佐渡おけさ」と「ヒップホップ会津磐梯山」でした。

佐渡おけさは笠で顔を隠しているせいで、表情にも踊りにも緊張感がなく、「人間は何事も顔をさらして勝負しなければいけない」を証明した踊りでした。

ヒップホップ会津磐梯山は、足がニョキニョキ出る短い浴衣で、福島のギャルが踊りました。こちらは「とにかく若くてセクシーなんだ。何か文句ある!」という意識が見え見えで、とても見ていられなかったです。

でも、こうした試練が、いつしか浅草サンバの愛敬に成長していくのかも知れないとも思い直しました。

Photo その点、多少のひいき目があったかも知れませんが、盛岡さんさ踊りは立派でした。

同チームの中で私が注目した踊り手二人の写真を載せておきます。この中で、中学同級生の娘さんは、さてどちらでしょう。

Photo_2 この「盛岡さんさ」と「原宿よさこい」が優勝を争いましたが、最後に登場した「沖縄エイサー」に圧倒されました。

東北の踊りが、燃える気持ちを抑えているのに対して、南国の踊りは、遠慮なくぶつけてきます。同じ日本人でも随分違うものだと改めて思いました。

盛岡さんさ踊りを始める前に、弁慶と義経が登場して「岩手、元気です」という幕を広げました。

Photo_3 地震被害の支援に対する感謝の気持ちと、「もう大丈夫ですから、ぜひ岩手に遊びに来てほしい」とのメッセージでした。

しかし、この弁慶と義経がいかにも元気がなく、かえって心配されました。いかに東北人でも、こういうときはもっと気持ちと表情を前に出してほしいと思ったものでした。

★最高級鰻丼と盛岡わんこそば

祭りが終わり、鰻重の約束を果たすべく入ったのが、池之端「亀屋・一睡亭」という鰻屋さんでした。えらく立派な料亭でした。帰ってきて調べると、「日本のうなぎ百撰」に入っている店でした。

Photo_4 案内された2階の座敷に恐る恐る入り、品書きを開くと、一番安い鰻丼が1,995円。鰻重はそれより1,000円高いので、河口氏には「悪いけど鰻丼で我慢してほしい」と頼み、750円の中生も頼みました。

右が河口氏で、左が不肖私です。ご覧のとおり鰻丼が運ばれてきたときには、ビールが残りわずかになっていましたが、お代わりを控え、これで何とか凌ぎました。

Photo_5 はからずも、ビールをガバガバ飲まなくても、ちゃんと飯は食えるし、話もできることが実証できました。これからの三バカは、この一点豪華主義の食生活で生きていこうかと思いました。

岩手と言えば、盛岡わんこそばを思い出します。

20年ほど前、河口氏ともう1人、男性モデルを連れて「終着駅からの男の旅」という旅行雑誌の取材に出かけたことがありました。発注主は、三バカの残り、(株)ベストライフの井上道男氏でした。

盛岡ではもちろん、わんこそばを食べました。私が85杯でギブアップしたのに、細い河口氏が88杯食べたと記憶しています。

青森のざっぱ汁、函館のカレーと、当時の我々はよく食べましたが、いつでも快食快便の私と違って、枕が変わると便秘になる河口氏は、だんだん食が細くなり、最後はほとんど食べられなくなったのを、ふと思い出しました。

日本保育協会と「浦和のうなこ」と玉蔵院ビアテラス

2008年7月11日(金)

001 日本保育協会(日保協)という保育所の団体があります。青山・こどもの城に城を構え、津島雄治元厚相を会長に担ぐ手強い組織です。

その団体が発行する広報誌が「保育界」で、毎月80頁におよぶさまざまな情報を発信しています。その中のひとつ、「幼稚園の窓から」というコラムを私が書いています。

001_2 同事務局のスタッフに、自転車の好きな論客がいます。宮崎祐治氏です(写真)。保育界の歴史と背景を克明に知っている人で、まさに走る資料室と呼べる人です。

この人から、「何でもいいから私立幼稚園の立場で原稿を書いてほしい」と口説かれ、「それもまた意味があるかも知れない」と思って引き受けました。

この日は、その原稿書きで唸っていました。「毎月10日まで」という締め切りは過ぎていました。ほかのコラムを担当している人たちが含蓄深い原稿を書いているので、「何を書くか」を決めるまでに時間がかかるのです。

岡本利久さんという方は、「フランス便り」というコラムを書いています。妻と子ども2人(6歳と2歳)でパリに暮らしている在フランス日本大使館一等書記官です。

この方の7月号の原稿を見て「なるほど」と思うことが多々ありました。ひとつはフランスではエスカレータを設置してある地下鉄の駅は皆無で、アパートのエレベータも大人2人がやっと乗れるほどの小さなものだというのです。だからフランス人は、老いも若きも階段をせっせと登るのです。

また、フランス人は自転車が大好きですが、子どもを乗せて2人乗り、3人乗りをするような人は皆無だと指摘します。それがどんなに危険か、誰もが知っているからです。

「省エネだ、健康だ、安全だ、と日本人は言うけど、フランス人の目からは、とても本気には見えない」ということを言いたいのでしょう。サルコジ大統領が、福田首相とは口もきかずに、さっさと洞爺湖から帰ったのは、そのせいかも知れません。

もうひとつの指摘は、「フランスのマス・メディアで、いわゆる少子化対策、家族政策に関する報道がされることはほとんどない。でも家族や子どもに対する政策は充実していて、それに異論を唱える人もいない」というものです。

日本では、自民党から共産党まで、口を開けば「子育て支援だ、少子化対策だ、保育所の整備だ」と言い、新聞を開けば、それに関する記事が載ってない日はありません。

これは、舅が息子の嫁に、顔を見れば「どう、子どもはまだかな」と言っているようなもので、国家的セクハラ行為をしているとも言えます。誰だって「こうしてほしい、ああしてほしい」と繰り返し言われればイヤになるわけで、それが日本の少子化が改善しない理由のような気がします。

「男は黙ってサッポロビール!」ではないですが、「国は黙って子ども政策!」というのが国家大計の基本なのかも知れません。

そんなことを考えて、ちっとも自分の原稿が進まないでいると、(株)ベストライフの井上道男社長から電話がありました。幼稚園保護者向け各種情報紙誌を編集している彼とは、学生時代から40年のつき合いです。

「平原先生が暑気払いをしようと誘ってくれた。お前さんも出てこいよ。18時半に浦和駅だ」とのことでした。

(社)全埼玉私立幼稚園連合会の平原隆秀会長(春日部成就院幼稚園)とは1週間前にも会い、塩ジャケ昼定食をご馳走になったのですが、訊きたいと思っていた話は何も聞けませんでした。

Photo 暑気払いなら話が弾むかも知れないと思い、「わかった。行く」と返事したのですが、肝心の原稿がなかなか出来上がらず、浦和駅に着いたのは19時45分。1時間15分の大遅刻でした。

浦和駅で待っていてくれたのは、今年5月に設置されたばかりの石像「浦和のうなこちゃん」だけでした。

江戸の昔から続くウナギの町・浦和に、遅まきながら誕生したニューアイドルです。

海のない埼玉県は川魚料理の店がたくさんあり、ナマズの天麩羅も美味しいところです。JR吉川駅前には黄金のナマズ像があります。

だから関東のウナギ通は、土用の丑の日に浦和にやってくるのです。ちなみに2008年は7月19日(土)、24日(木)、8月5日(火)の三回です。

昨年は土用の丑の日の直前に外国産ウナギの抗菌剤騒動があり、鰻屋さんは打撃を受けました。それを挽回するためのうなこ像なのでしょうが、今年も偽装事件で打撃を受けました。

しかし私は、何があろうと今年もまた幕張本郷駅前の定食屋「志むら」で、1600円の鰻重を食べようと心に決めています。ビールも1本付けて。

Photo_2

平原会長と井上社長は、真言宗・玉蔵院の山門前の路上にいました。平原先生は真言宗の僧侶でもあるので、さもありなんです。

雰囲気は洋風、料理は和風の居酒屋「サムシング」が、店の前に並べたテーブルにいたのです。まるでフランスのビアテラスで語らうパリジャンの気分になりました。写真は左が平原先生、右が井上社長、中のマルガリヤが私です。

しかし、せっかくの機会をつくってもらったのに、1時間15分も遅刻したのでは、こちらは恐縮するばかりで、残念ながらこの日も、「全日私幼PTA総会欠席戦略の真意は何か」など突っ込んだ話はできませんでした。

でも取り立てて話はしないものの、こうして何度も接していると、平原先生が考えていることがジワジワと感じられるようになってきますから、人間関係とは不思議なものです。

Photo_3 実はこの日、平原先生は、カメラマン・河口正馬氏を含む我ら「三バカ」を誘ってくれたのですが、河口氏は夜の仕事が入っていて来られないとのことでした。

右の写真は、今年4月、大宮のジョン・レノン記念館に行ったときのもので、左から名前をつなげると「正馬、道を、進む」となります。私幼界に寄生すると言えば聞こえは悪いですが、とにかく私立幼稚園のおかげで生き延びている三バカ連合会です。

同記念館の中は撮影禁止でしたが、売店で揃いのレノン帽を買ったのを口実に、スタッフの方に撮ってもらいました。

またいつか、この三バカに平原先生から声がかかることを待ちたいと思います。

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池田茂雄と「はいちーず!」と青木宏之

2008年7月3日(木)

10数年ぶりに代々木駅に降り立ちました。代々木で2件、用事ができたからです。

思えば30年前から10数年の間、代々木にはよく行ったものです。学生時代からの友人で旧全国学校法人幼稚園連合会(全法幼)事務局の同僚だった井上道男氏の経営するベストライフ社が代々木にあったからです(今は池袋にあります)。

001 長野県松本市・ささべ幼稚園の池田茂雄理事長(写真)ともよく来ました。

煮物や焼き魚など、お袋の味を食べさせてくれる「たちばな」というカラオケ居酒屋があり、そこで明け方まで過ごしたのもしばしばでした。

愛想も見かけも悪い女将でしたが、なぜか憎めない人で、池田先生は女将との時事ネタ漫才を楽しんでいました。

上の写真は2年前のものですが、まだまだ元気です。

Photo 右の写真が代々木で「夢追い酒」などを歌っていた当時の池田先生で、なにやら池田先生に意見されてションボリしているのは、平成のご老公こと渡辺恒三衆議院議員(前衆議院副議長)です。

昔の役員さんは、こんな具合で、国会議員にお願いするというより、若い代議士を見つけては叱咤激励しながら幼児教育の大切さを説いていました。その中から育ってきた1人が森喜朗元首相でもあります。

今後も私幼団体役員さんには、この堂々とした姿勢を持ち続けてもらいたいものです。

しかし、バカな役員とバカな事務局長につき合わされ、食べたくもないお袋の味を食べ、聴きたくもないダミ歌を聴かされて、「いつか殺してやる」と思っていたのが、青木宏之、井上健治、豊田生徳の若い事務局員三人だったのです。

その居酒屋「たちばな」があったところに光ビルという新しいビルが建ち、4階に千株式会社があります。

幼稚園にカメラマンを派遣してイベントなどでの撮影を行い、写真をインターネット上に掲示して親が希望の写真を注文する「はい、チーズ!」を運営している会社です。

Photo_2

上の写真が同社内の風景で、カメラマンから送られてきた写真を整理し、画質を調整したりネットに掲載する作業を、皆さん黙々と続けていて、「さあ皆さん、写しますよ。はい、チーズ!」と言っても反応した人はわずかでした。

Photo_3 こちらの写真は、左が東京都大田区・矢口幼稚園出身の千葉伸明社長(29)、右が京都市東山区・泉山幼稚園出身の吉奥祐介事業推進部長(27)です。二人とも自分が卒園した幼稚園のことを熱っぽく語ってくれる好青年です。

「エネルギー一杯の子ども達、そして若い両親。幼稚園はあらゆる可能性が詰まった素晴らしい世界です。そこで仕事ができることを本当にありがたいと思っています」とも語ってくれました。

「そうかそういう場所で、私は35年仕事をしてきたんだ」と忘れていた喜びを思い出させてもくれました。

この吉奥氏が、「はい、ちーず!」事業を関西に広げるため、独立して大阪で新しい会社を立ち上げることになりました。東京で会うのは、たぶんこれが最後です。

千葉さんの名前をとって千株式会社ですから、吉奥さんの会社は吉株式会社とするのが良いかも知れません。合わせて大吉ならぬ「千吉」です。運が良さそうに思いませんか。

Photo_4 千で用事を済ませてから、代々木駅前のトンカツ代々木庵に向かいました。

ご無沙汰している間に、日本共産党のビルが新しくなり、地下鉄の駅もできたというのに、代々木庵は30年前と何ひとつ変わっていませんでした。

働いているおばちゃんも昔のままで、「あら、お久しぶり」と言って迎えてくれました。

この店で、5月末で全日本私立幼稚園連合会の事務局長を退任した青木宏之氏(51)と、4月から昭和女子大学の総務部長になった井上健治氏(48)に会ったのです。旧全法幼事務局の仲間です。

1986年、旧全法幼は解散し、青木、井上の二人は全日本私立幼稚園連合会に移籍し、豊田生徳氏(48)は郷里の長崎に帰って税理士事務所に勤め、土山(旧姓・藤原)睦江さんは結婚して母親となりました。井上道男氏(57)は解散のずっと前に自分の会社を起こしましたので、失業保険をもらってブラブラすることになったのは私だけでした。

そこで昔の仲間が月1回集まり、旧交を温めてくれたのが代々木庵だったのです。名称を「一二三会」としました。月に一回、二人以上集まって、予算は1人三千円以内から名付けた単純なものです。

今度は青木氏が暫時失業の身となったため、「一二三会」の復活となった次第です。Photo_5

あいにく腰痛が悪化した井上道男氏と長崎の豊田生徳氏は電話での参加となりました。物価高のせいか、予算も1人三千円をオーバーしてしまいましたが、オーバー分はなぜか失業中の青木氏が払ってくれました。

写真は左が青木氏、右が井上氏です。あれから20年以上たっているというのに、私には何も変わっていないように思います。

「いつか殺してやる」と思った気持ちが再燃しないように注意したいと思います。

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白石浩一と人見楠郎と昭和女子大学

2008年7月1日(火)

昭和女子大学名誉教授の白石浩一先生から本が届きました。

001 心理学者であり哲学者である「白石浩一」という名前を聞いて、懐かしく思い出される人も多いと思います。

40年ほども前、いわゆるテレビのワイドショーが始まった頃、よくブラウン管に登場して、独特の視点と語り口で、社会世相、事件から人生相談まで、鋭く論評してくれました。

たしか午前中の番組だったので、私は学校が休みのときなどに、感動しながら見ていました。

それから約20年後、そのテレビの中の白石先生と出会い、一緒に仕事をすることになりました。

1988年秋、昭和女子大学がオープンカレッジ(生涯学習センター)を始めることになり、全国学校法人幼稚園連合会の最後の会長を務めた人見楠郎理事長から、「裏方(事務方)の手伝いを頼む」と言われて駆けつけたら、そのオープンカレッジ初代学院長が、当時一般教養学部長をしていた白石浩一教授だったのです。

Photo それからさらに20年。昭和女子大学オープンカレッジは、早稲田大学オープンカレッジにまさるとも劣らない規模と実績を維持して創立20周年を迎えました。

右の写真は、2008年5月10日(土)に行われた20周年祝賀会のときのものです。右が白石先生で左が不肖私です。

「ちょっと颯爽感が足りなくなりましたが」と言って、83歳になられた白石先生が挨拶しましたが、口調は昔と変わらず、私の忘れていた創立当初のエピソードが次々に語られ、ただただ敬服しました。

その白石先生は今、伊豆の伊東に住んでいます。小高い丘の上に建つ家で、書斎からは海辺、港、街並みが見え、三浦半島、房総半島まで一望できるそうです。そこで読書三昧。優雅を絵に描いたような暮らしです。

そんな白石先生に地元の伊豆新聞から連載エッセーの依頼があり、それをまとめたのが届いた本「老いを豊かに生きる人生哲学」(海竜社刊)でした。

中身は舌鋒同様鋭いもので、人生を無駄に過ごさず、残された時間を大事に使うようにと諄々と説いています。飲んだくれ編集長には耳の痛い話が多々ありますが、今後の人生はこの本の教えに従って生きていこうと思います。

特に印象に残ったのは、「純情きらり」というNHKテレビ番組に触れた部分でした。私を産んだ後、結核療養所に入り、ほとんど家族と暮らす時間のないまま34歳で亡くなったわが母親の人生と時間を改めて思ったものでした。

Photo 人見楠郎先生も時間を大事にする人でした。「布団に入って寝るなんてもったいない」「昼飯はあんパンか握り飯にしなさい」「電話は1分以内で済ませなさい」などいろいろ指導されましたが、その気持ちが今はよくわかります。

左の写真は昭和女子大学学園本部に飾られている遺影です。

「世の光りとなろう」は人見先生の好きな言葉でした。これはロシアの文豪・トルストイの言葉でもあったようで、晩年はトルストイの研究に没頭したそうです。

Photo_2 だから、私がいた当時にはなかったトルストイの像が人見記念講堂の前に立っています。

忘れられない思い出がひとつあります。1983年12月、雪降る朝に人見先生の郷里・富山駅で待ち合わせたときのことです。

私は待合室のベンチに座って、富山名物の丸い「鱒の寿司」を食べていました。豪華な朝食です。

そこに予定より早く人見先生が現れました。慌てて弁当にフタをしてカバンに入れようとしたら、「いいよ、いいよ。食べてしまいなさい」と言われたのです。

お言葉に甘えてガツガツを食べ終わると、「あ~あ、全部食べちゃった。それは私も好物なんだ。一口ぐらいくれるかと思ったのにな」と人見先生が言ったのです。

たぶん冗談だったと思うのですが、あの人は冗談が下手だったので、本当に寂しそうに聞こえたのです。

あのとき、もし私が「一口どうですか」と言っていたら、どんな反応をしていたか、今でも悔やまれる出来事でした。

その人見先生から、幹部職員会議で「女子大も短大も経営が厳しくなっていくだろう。どんなことを考えていったらいいだろう」と訊かれたことがありました。

誰も発言しないので、一番の若造の私が口火を切らなくてはいけないと思い、「ここに居るのは全部男です。理事長も学長、校長、園長も男。学部長も学科長もほとんど男です。女子大なのに変じゃないですか」と言いました。

Photo_3 その後、会議に出席していた人達からしばらく冷たい視線を受けましたが、今、昭和女子大は理事長も学長も女性になりました。あのときの私の発言が効いたのではないかと勝手に思っています。

左の写真は「女性の品格」で一躍有名になった坂東眞理子学長です。

彼女が出した二匹目のドジョウ「親の品格」は、一匹目より素晴らしいと思います。子を持つ親に読んでもらいたいのはもちろんですが、若い幼稚園経営者にもぜひ読んでもらいたい1冊です。

園だよりなどを通じて中身を少しずつ親に伝えると同時に、自分自身の子育てにも生かして、逞しい幼稚園経営の後継者を育ててほしいと思うからです。

001 この坂東眞理子さんが、8月21日(木)、大宮ソニックシティで開かれる関東地区の私立幼稚園教員研究大会で記念講演を行います。

「幼稚園教師の品格」をとくと語ってくれることを期待しています。

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「清水博雅会長に感謝する会」と関マサコと加藤積一

2008年6月23日(月)

東京・私学会館(アルカディア市ヶ谷)で開かれた「清水博雅(はくが)先生に感謝する会」に行ってきました。

東京都私立幼稚園協会(東私幼)、東京都学校法人幼稚園協会(東法幼)、東京都私立幼稚園連盟(東私連)の三団体が合体して「東京都私立幼稚園連合会(都私幼連)」が発足したのが1991(平3)年。

Photo その初代会長として16年間にわたり会長を務めた清水博雅先生(日野市・日野わかくさ幼稚園=写真)がこの4月に退任して、北條泰雅(ひろまさ)副会長(港区・みなと幼稚園)にバトンタッチしました。

そこで、16年間の労苦に感謝する会を開こうとなったわけです。

清水会長のもとで一緒に仕事をしてきた役員さん約100人が集まり、そのほかに都議会の代表、都庁の代表らも駆けつけました。

Photo_2 清水先生自身を含め、挨拶に立つ人は皆、ユーモア豊かに裏話やこぼれ話を語り、途中でそそくさと引き揚げる人はなく、和気藹々となごやかな空気に包まれたとても良い会でした。

乾杯となったところで、私はカメラを片付けて帰ろうと思ったのですが、「急に欠席になった人が出た。もう料理のキャンセルはきかないので、どうか食べていってください」と言われ、同じく取材に来ていたハローワールド社の伊勢修氏と一緒に、豪華な“和食フルコース料理”にご相伴してしまいました。

心も新たに清水先生とドタキャン欠席者に感謝した次第です。

Photo_3 ところで左の写真。愛想のいい女性二人に腕をとられ、まさに「両手に花」の図ですが、ただの花ではありません。

左が都私幼連事務局長の関正子さん。右が中野区・やはた幼稚園園長の関政子さん(教育研究副委員長)。そう、世にも珍しい「両手に関マサコ」の図なのです。

こんな幸せな光景から遠ざかるのが少々寂しそうな清水先生ではありましたが、これからは幼稚園で、両手にたくさんの子ども達をぶら下げて奮闘してくれることでしょう。

そんな中、「先輩、久しぶり!」と声をかけてくれた人がいました。

いま注目の幼稚園、立川市・ふじ幼稚園園長の加藤積一先生でした。

Photo_4 無限走路型の楕円形園舎に建て替え、2007年度の建築デザイン賞を総なめにした幼稚園です。

写真右が加藤先生で、左が不肖マルガリヤ編集長ですが、ちょっと私の方が偉そうに見えませんか。それは彼が、学部も学科も同じ法大の後輩だからです。

今のところ、「お、どうだ、元気にやっているかい」「はい、おかげさまで」という、いつもとまったく逆の会話ができるのは、幼稚園界では、この人だけです。

しかしこの後輩、常に何か新しいことをやっていないと気が済まないようで、「また面白いことを始めますので、ぜひ遊びにきてください。給食をご馳走しますから」と言ってくれました。

同窓の仲間とは嬉しいものです。

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千葉市議会とヘアシェイク理髪店

2008年6月18日(水)

千葉市議会の傍聴に行ってきました。私が住む千葉市花見川区幕張本郷地区への保育施設新設に関する一般質問が行われたからです。

幕張本郷は1丁目から7丁目まであり、人口は約2万人。けっこう規模の大きな地域ですが、ここに認可された幼稚園、保育所が1カ所もないのです。ビルの間借りやバラック建ての無認可保育施設が4カ所あるだけです。

比較的新しい町なので子どもは多く、二つの小学校はプレハブ教室の増設で凌いでいます。

Photo_3 かねてからこの問題に関心を持ってくれた自民党の川村博章市議は、「こんなアンバランスがあって良いのか」「市の責任において幼稚園か保育所を設置するか誘致すべきじゃないか」と何度も議会質問をしてくれました。

この日も、このことを重ねて突いてくれるというので応援の傍聴に行った次第です。私が4丁目の自治会長をしているという立場もあります。

市側の回答は、「設置できるか否かの方針を本年度中に出す」ということでした。もし「財政上の事情で設置できない」という結論になったらどうしようかと思います。

幼稚園については、随分遠いところからも、多くの幼稚園が園バスで来てくれるので、逆に選択肢がたくさんあるとも言えますが、数年前に比べるとバスが減りました。

それだけ近隣地域でも子どもが増えているということで、幕張本郷の子ども達が幼稚園受難時代を迎えるのではないかと心配です。それより大変なのは、自転車で遠くの保育所まで連れていかなくてはならない、仕事をしているお母さんたちです。

こんな地域にこそ、幼保一体化の認定こども園が誕生してほしいと願っています。

千葉市議会に行って驚いたこと。それはお約束どおり議場内の温度が28度に保たれていることでした。

これは結構な暑さで、議席についた議員さんたちはウチワやセンスをバタバタやりながら私語を交わしていましたが、30分もしないうちに議場は静かになりました。7割方の議員さんが眠ってしまったからでした。

Photo_4 明日からの出張に備えて、議会からの帰りに床屋さんに寄りました。

私が長年利用している床屋さんは「ヘアシェイク」という洒落たお店で、女性も利用できる美容院的機能も備えています。それでシェイクというわけです。

マリガリヤヨーグルトと言われるとおり、私の頭は20代の半ばから丸刈りです。

だから「高級理髪店に行く必要はないでしょ。10分1000円の店に行って、電気バリカンでバリバリってやってもらえばいいんじゃないの」とよく言われます。

でもそれでは頭の小さな凸凹がそのまま出てしまうので、私はハサミとクシで、きれいに丸くしてもらうのです。たったひとつの人生の贅沢とお許しください。

Photo_5 左の写真は、このお店のスタッフです。

右から、いつも私の頭を刈ってくれる木更津出身の高山さん、岩井海水浴場で知られる富山町出身の店長さん、それに高校生を頭に3人の子持ちとは思えないマドンナさんです。

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六本木ヒルズと佐々木司とトンカツ定食

開業から5年になる六本木ヒルズに初めて足を踏み入れました。2008年4月17日(木)、ボーネルンド社(本社・東京原宿/中西弘子社長)の六本木ヒルズ店が開業した日です。

Photoわが町にも幕張メッセというモダン空間があるので、六本木ヒルズだ東京ミッドタウンだと言っても、そう驚くことはないだろうと思っていましたが、やっぱり違いました。

歩いている人、ベンチで語らっている人、ふと空を見上げた人たちが、みんな垢抜けているのです。

地下鉄の駅を下りてまずたまげたのは、ママンという巨大な蜘蛛のオブジェです。不気味です。

インターネットのウェブとは「蜘蛛の巣」を意味する言葉で、蜘蛛が立っているのは張り巡らした情報網を伝って、六本木に世界中から人が集まってくるという意味とのことです。

しかし夜見る蜘蛛はエンギ悪いと言いますから、夜は六本木に行かない方がいいと思います。

Photo_2ママンというのはフランス語で母親を意味するようで、蜘蛛の下から森タワーを見上げると、 お腹に卵を抱えているのがわかります。大理石でできた20個の卵です。

ママンが母親なら、父親はパパンと言うのでしょうね。たぶん。

ともあれ、かつて(といっても5年前ですが)成金若者の街と言われた六本木ヒルズが、スパイダーママンの登場で家族の街に変身しました。そこで出店を要請されたのが、世界中からオモチャを集める会社、明るい家族の象徴、ボーネルンドというわけです。

中西弘子社長は、脱サラした夫の将之氏(同社会長)と一緒に、デンマーク・コンパン社製などの幼稚園向き屋外遊具を輸入する仕事から始め、日本各地にショップと遊びの広場(あそびのせかい)をつくってきました。六本木ヒルズは89店目です。

そんな六本木ヒルズに、ひとり垢抜けない人が現れました。山形県山形市・あおぞら幼稚園の佐々木司理事長(山形県私立幼稚園協会会長)です。

幼稚園にいるときは、その大半の時間を畑で過ごし、農業専門誌に登場することもしばしばで、農家の人達が作付けの時期を訊きにくるほどの人です。

幼稚園の給食メニューはもちろん、芋掘り、大根掘り、サラダパーティなど行事の成否はすべて理事長の農作業にかかっているのです。

若い高校教師をしていましたが、肥だめならぬ恋に落ちた相手(佐々木由紀子園長)が幼稚園経営者の娘だったため、幼稚園を引き継ぐことになりました。

しかし、その神がかり的な素朴さゆえにか、あおぞら幼稚園はいい幼稚園です。

「理事長としての最後の仕事だ」と言って、同園は今、全面建て替え工事の真っ最中です。園だより「ハッピーチルドレン」で工事の様子が伝わってきますが、この理事長からどんな幼稚園が生まれてくるのかすごく楽しみです。

写真は左が佐々木司先生、右が中西弘子社長。ボーネルンド六本木店で。

Photo_3

その佐々木先生から、「おい、飯でも食おうや、ビール飲みながら」と誘われました。ありがたいことです。

「先生、それならトンカツ屋なんかどうでしょう。あそこならご飯もキャベツも味噌汁もタダでお代わりできますから」

「んだか。ビールもお代わりできるか」「はい……でもタダじゃないですが」

そんなわけで二人は、駅前の「トンカツうちの」に入り、豪華にヒレカツ定食なんぞを注文しました。編集長は今年初のトンカツにありついたのでした。

「しかし、つまみがキャベツばっかじゃ寂しいな。トンカツもお代わりするべや」

「先生、トンカツはできないんです。キャベツと味噌汁で我慢してください」

「そんなことないべや。金払えばいいんでないの。お姉さん、トンカツもお代わりね」

ということで我々の前には、もう1人前の豪華ヒレカツ定食が運ばれてきたのでした。

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ジャン・ブローマンと藤田喜一郎

2008年6月9日(月)

仙台のジャン・ブローマン氏(高森明泉幼稚園副園長)から電話がありました。

「高森明泉幼稚園の先生方の写真がウェブマガジン『月刊・私立幼稚園』6月号の表紙になりました。今年の東北イーグルスは調子いいですね。羨ましいです、トホホ」という手紙を出したことへの返事でした。

Photo でも最初、「編集長はいらっしゃいますか」という声を聞いたとき、まさか外国人からの電話とは思いませんでした。それほど彼は日本語が上手なのです。

ちなみに我が社は完全無欠のワンマン経営なので、電話に誰か人が出たときは、それが即私であり、私が出張、外出、トイレまたは入浴中のときは留守電になります。

「千葉マリーンズはどうしたんですか、心配してますよ」と言ってくれましたが、こちらはただ「はあ」とうなだれるばかりです。

「ところで、レターヘッドの英語、ちょっと変ですよ」とも言ってくれました。

私のレターヘッドは、上のラインに幼稚園情報センターの英語訳、下のラインに業務内容の英語訳をデザイン代わりに入れてあるのですが、その英語がおかしいとの指摘でした。

彼は日本語も上手ですが、英語も上手なのです。あたりまえですが。

もちろんレターヘッドは、指摘どおりにすぐに直しました。

3年前、彼と牛タン定食を食べたことが忘れられません。

「仙台に来たんだから牛タンを食べましょう。美味しい店があります」と言われたときは、どこか小洒落たステーキハウスにでも行くのかと思いました。

ところが彼が「ここです」と嬉しそうに言ったのは、とある駅前商店街の大衆食堂でした。そこの小さな座敷の片隅に、「へい、お待ち」と無造作に運ばれてきた味噌汁付き牛タン定食は、たしかに美味しかった。彼は日本語も英語も食べるのも上手な人なのです。

上の写真で、彼の右にいるのはご存知、グレープシティ東京支社の猪狩富美さんです。

グレープシティ社は明泉幼稚園から生まれたソフト会社で、猪狩さんは明泉幼稚園で5年間の教師生活をした後、同社に移籍しました。今どきめずらしい、素直で奥ゆかしい女性です。

「あ、ジャンさん、猪狩さんがうちの週末遊軍記者で手伝ってくれているんです。知ってましたか」と言うと、ひとこと「そうですってね」とクールな返事。どこかにやっかみがあったように思ったのは私だけでしょうか。

Photo_2 さて、あまり触れたくないプロ野球といえば、福岡県・久留米あかつき幼稚園の藤田喜一郎理事長&園長からも、ときどき電話やメールがきます。

福岡ホークスの熱烈ファンで、やはり「マリーンズはどうしたんですか」と心配してくれます。

ありがたいことです。来年はその心配をお返ししたいと祈るばかりです。

その藤田先生と千葉マリンスタジアムにマリーンズVSホークス戦を観にいきました。2008年4月4日(金)のことでした。

上は海浜幕張駅前での記念撮影。左が藤田先生で右が不肖編集長。藤田先生が着ているユニフォームは、選手が着ているものとまったく同じで球団に公式登録され、背番号は9500番台になっていました。さすがです。

「福岡から藤田喜一郎さんが来るぞ~」と声をかけたら、同じ福岡県久留米市出身のカメラマン・河口正馬氏と、藤田ファンであり王貞治ファンである静岡県・冨士ふたば幼稚園の今村雄一郎副園長が駆けつけてくれました。

「今日の席(三塁側内野席のボビーシート)はファールがビンビン飛んできて危ない。飲み食いしていて怪我でもしたら大変だ。だから球場に入る前に腹ごしらえとガソリン補給をしておきましょう」との私の提案を受け入れ、16時から開いている駅前の「だんまりや水産」(旧・養老乃瀧)で盛り上がりました。

写真は、後列左から藤田先生の友人でプロゴルファー・ピノキオこと野村浩清氏、河口正馬氏、藤田喜一郎氏、前列左から今村先生の従兄弟で建築設計士の今村創平氏、今村雄一郎氏、不肖編集長。

Photo_3

スローテンポだった試合は、藤田グループ、今村グループが引きあげた直後にマリーンズが逆転し、6対3で勝ちました。幸先よい今シーズンのスタートだったのですが、それ以降、応援に行った試合はすべて負けました。

その後、藤田先生は全日本私立幼稚園連合会の経営研究委員長になりました。上京が増え、一緒に野球を観る機会も増えると思いますが、今年は辛いです。

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雨降れば水車が回る「帝国器材」

2008年6月3日(火)

ラーメン、麺類党の話と続きましたが、日本そばの店といえば付きものは「水車」ですね。まさか、あの水車でそば粉を挽いているわけではないでしょうが、三連水車の蕎麦屋というのも福岡県で見たことがあります。

Photo_8 でも蕎麦屋でもないのに水車が回っている会社があります。

帝国器材(株)(本社・東京都足立区、大原和子社長)という幼稚園、小中学校の木製家具の製造、内装の造作を行っている会社です。

その名でわかるとおり、戦争ムードたけなわの昭和12年から、こつこつと子ども達が使う机、椅子、本棚などを作り続けている会社です。

室蘭、福島、埼玉にも製材と乾燥を行う工場があり、国産材をしっかり乾かし、選りすぐりの材料で丁寧に作ってくれる昔気質の会社です。

同社の製品が非常に長持ちすることは幼稚園経営者なら皆さんご存知のことと思います。あまり長持ちするために会社の未来が心配されるほどです。

2008年4月15日(火)に、その会社を訪ねました。東京の新しい都市モノレール「舎人ライナー」に日暮里から乗って5つ目、「扇大橋」駅を下りて歩いて10分、荒川のほとりにあるのどかな会社でした。

「荒川土手」バス停前の交番で訊くと、「入り口に水車がある会社です。目立ちますからわかります」と教えてくれた。

すぐにわかりました。しかもその水車は人工の水流で回るのでなく、屋根で集めた雨水で回るのです。つまり水車が回るのは雨の日の楽しみというわけです。

Photo_9 「なるほどこれはいい。蕎麦屋ではなく水車のある幼稚園をつくってもらえるといいな」と思って、入り口のドアを開けるとまたまたビックリ。

いわゆる会社風の受付カウンターはなく、あったのは喫茶店のようなカウンター。その中で洗い物をしていた受付マスターが「いらっしゃいませ」と言ってくれたのです。

その奥を見ると、木製のテーブルと椅子が並び、壁には 木製の絵画も架けられた、まるで山小屋のレストランのようです。社員食堂でした。Photo_11

高橋紀元専務、小池賢二新規事業開発部長、福井充企画部チーフと、幼稚園での木製環境の未来を語り合いましたが、そこに受付カウンターで淹れてくれたコーヒーが運ばれてきました。気持ちのこもった美味しいコーヒーでした。

社員食堂のテーブルには給食会社から届いた仕出し弁当とお茶が並べられ、そこに午前中の仕事を終えた家具職人さんたちが静かにやってきました。

老若入り乱れていますが(やや老が多いか)、皆職人さんとしての風格を備えています。ご飯の食べ方にも一途な頑固さが現れているような気がして、「この会社は信頼できるな」と思ったものでした。

帝国器材ホームページのアクセスは、http://www.teikokukizai.co.jp/

下の写真は左から小池部長、高橋専務、福井チーフ。なぜか営業畑の小池さんの表情に職人風の頑固さが漂っています。小池さんは私にとって法大の先輩。その息子の婚約者は大宮・片柳幼稚園の先生。そして片柳幼稚園の新井英世理事長はやはり法大の先輩。不思議な縁でもありました。

Photo_12

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