幼稚園・旅・食べ物

小平の赤、ジャクパの黒と白、久米川の寄り合い居酒屋

2009年2月2日(月)

★小平市には丸ポストが30本生きている

古い人間にとって、今も「郵便ポスト」と聞いて目に浮かぶのは赤い丸ポストである。ゆうちょ銀行の預金高がダントツに多いのは、新規口座や定期預金でもらえる丸ポスト貯金箱が貢献していることは間違いない。

街角からすっかり姿を消したと思われているが、私は出会う機会が多い。撤去された丸ポストが幼稚園に寄贈されたケースが多いからだ。幼稚園の子ども達は毎日ポストを見ているので、これがきっと郷愁刷り込み効果を生み、ゆうちょ銀行のファンになっていくことだろう。

Photo  しかし幼稚園のポストを「ゆうびんごっこ」に使うことはできない。ポストとして使えないよう口とお腹を塞がれた上で寄贈されるからだ。

左の写真は千葉県船橋市・健伸幼稚園の門脇にあるポスト。通りから少し奥まったところにあるのだが、本物と間違える人が多いようで、「これは幼稚園のモニュメントです。郵便物を投函することはできません」という注意書きが喉元に貼られている。

ついでに隣に立っているバイキンマンは不肖編集長で、北海道の室蘭幼稚園、洞爺湖幼稚園の先生方が同園を見学に訪れたとき、ポストと一緒に門前で迎えたときの姿である。こうして立っていたおかげで、健伸幼稚園の親子も、この日北海道からお客様があることを知ったわけだが、「バイキンマンだ!」と言って私に近寄ろうとする子どもをしっかり抱き寄せ、上目遣いにできるだけ遠くを通っていったお母さんの表情が今も印象に残る。

人気の丸ポストが、愛想もクソもない角ポストに取って代わられた理由は、角2、角3などの大型郵便物が入れにくい、受け袋がないので回収に時間がかかるということだ。「口と腹を広げる改良工事で対処できただろう」と思うが、今さらぼやいても、もはや取り返しのつかない状況になっている。

Photo_2 そこで角ポストにも愛敬を持たせようと、最近は駅前や目抜き通りのポストにマスコットを載せるケースがある。右のポストはJR水沢駅前(岩手県奥州市)にあるもの。同市には水沢ベラ観測所という世界最大級の天文台があり、その巨大電波望遠鏡がマスコットになっている。

Photo_3 もうひとつ左の写真は富山駅前のポスト。言わずと知れた越中富山の薬売り氏である。こんなポストがもっと増えたら、それはそれで楽しいかなと、日本郵政グループの頑張りに期待したい。

そんな中、昔の丸ポストが現役を続けている地域もけっこうある。関東で有名なのは東京都小平市。市内に30本が残っていて、今や「丸ポストのある街」として観光マップまで作っているからしたたかである。

数で一番多く残っているのは兵庫県姫路市の34本だが、人口比で見ると姫路は約15,800人に1本、小平は6,230人に1本で小平市の方が圧倒的に優位だ。しかし人口比だと19本の兵庫県芦屋市が4,920人に1本なので「芦屋市が日本一」ということになる。小平の丸ポストはちょっと寂しい。

Photo_4 野暮用があって、その小平市を訪ねた。5年ぶりのことで西武新宿線の駅舎は新しくなり、駅前景観もすっかりモダンになっていた。「さては本屋も消えたか」と思ったが、駅前の1軒は消えていたものの、駅前商店街の村野書店は生き残り、その脇に立つ丸ポストも無事だった。路面にしゃしゃり出ず、書店に隠れて立っているので、駅方向から歩いてくると、その存在がまったく見えないという悲しいポストである。「本屋もポストも末永く無事でいてほしい」と合掌した。

「本当に現役かどうか確認する必要もある」と、向かいの陰から張り込みをすることにした。「このまま誰も来なかったらどうしよう」かと思ったが、15分ほど後、若い男が1人、手紙を投函してくれた。

ただ妙にキョロキョロしながら、しばし表書きを見つめてから投函したので、何か事件性を感じ、警察官をしていた父親がよく口にしていた「小平事件」という言葉が頭に浮かんだ。ちなみに1940年代、戦中・戦後のドサクサに発生したこの連続女性殺人事件(10人以上の女性を陵辱殺害したという)は小平市とは何の関係もなく、小平義雄というイケメン異常者が行った犯罪である。

★ビルの壁から大樹そびえる

Photo_5 この丸ポストの筋向かいに変わった建物がある。幼稚園に体育講師や英語講師を派遣する(株)ジャクパ(五十嵐勝雄社長)の本社ビルである。

何が変わっているかといえば、左写真のようにビルの一画に樹が生えていることである。ヤマモモの木で、6年前の新築時より倍くらい大きくなったようだ。遠くからでもよく見える。屋上緑化なら違和感はないが、建物の側面から生えていることが妙な倒錯感を生むのである。

何かと世話になっている会社である。ここまで来て、ポストを眺めただけで帰ったのでは失礼かと思い、訪ねてみることにした。

さすが体育の会社だけあって、ビルの中には3階まで吹き抜けるアリーナ(体育館)があり、ロンドンあるいは東京五輪をめざす子ども達が鉄棒や吊り輪の英才トレーニングを行っていた。その緊迫感に思わず腰を屈めて階段を上がった。

Photo_6 あいにく五十嵐社長はいなかったが、ジャクパを支える黒と白がいた。黒羽昭専務(左)と白瀧博彦常務である。二人ともその昔はオリンピックをめざすアスリートだった。

「面白い、シロクロつけようじゃないか」と役員会で論戦することも、時にはあるかも知れないが、ふだんは眼をシロクロさせて共に助け合っている黒白コンビである。

しばし雑談の後、「せっかくの機会だ。小杉さんを誘って久米川駅前の焼き鳥屋に行きましょう」と話が発展した。小杉重雄さんとは、元・東京都私立幼稚園連合会事務局長で今はジャクパ社の監査役。私にとっては法大の先輩であり、10年余り前、25着のピエールカルダンスーツを下げ渡してくれた恩人である。

Photo_8  左写真で裏ピースをしているのが小杉さん。黒羽さん、白瀧さんはほとんど酒を飲まず、最初の一杯で最後まで時間つなぎができる経済派だが、喜寿を超えた小杉さんは次々とお銚子を空にし、その豪快ぶりは健在だった。

ところで、この「むらやま」という久米川駅前の居酒屋は不思議な店である。開店の17時前には長蛇の列ができ、開店と同時に満席になる。それも奥から埋まるのではなく、外気の出入りが激しい入口付近から埋まっていく。何か早く来た人にサービスがあるわけでもない。

「安くて旨い、ただそれだけじゃないですか」と常連の黒羽さんは言うが、じっと観察しているとそれだけではないようだ。暖簾をあげて店内を見回した人が、「お、やっぱり居たか」と仲間を見つけて嬉しそうにテーブルに着く場面が何度もあった。母親と男の子がウーロン茶で焼き鳥をつまんでいるテーブルに、まずお姉ちゃんが駆けつけ、やがてお父さんも帰ってきて乾杯する図もあった。どうやらこの店はグループやファミリーの駅前常設寄り合い処として利用されているようである。

だから開店前から列を作って、わかりやすい場所に拠点を構えることに必死になるのだろう。さすが、志村けん氏を生んだ東村山市は一風変わった文化を持っているようだ。

どんぐり幼稚園と「小料理ふみ」とフランス料理

2009年1月23日(金)・24日(土)

二日がかりで大分県豊後大野市・どんぐり幼稚園(内野真奈美理事長&園長)を訪ねた。1年前に亡くなった剣豪・成田三吉郎先生が守り育てた幼稚園である。同園の様子は『月刊・私立幼稚園』本誌の幼稚園レポート(ぶらり訪問記)に詳しく記載したので読んでいただきたい。

Photo JR豊肥線に乗って大分からちょうど1時間、朝焼けの三重町駅に着いた。8時10分。幼稚園を訪ねるのはまだ早い。しかし駅前にコンビニもマックもないだろうことは承知なので、駅の待合室に座り、持参のカロリーメイトで朝ご飯にしようと思ったら、駅の中に「おむすび王国」という、おむすび専門の売店があった。

Photo_2 いかにも手作り、海苔でしっかり包んである姿はまるでタドンのようだ。中の具は牛肉しぐれ煮、豚角煮、ヒジキ煮などちょっと変わっている。値段は1個180円から250円とかなり高い。しかし出張中の私は意外に太っ腹なので、迷うことなく210円の牛肉ゴボウ煮を1個買った。その判断に間違いはなかった。カロリーメイトよりずっと充実した朝ご飯になった。

駅前商店街を通ってどんぐり幼稚園に向かう。商店街のど真ん中に、成田先生ご夫妻が経営していた文具・小間物・化粧品を扱う「ナリタ」という店があったが、建物はそのままながら別の施設に変わっていた。夫が幼稚園、妻がお店と分担していたが、その妻が2001年に先立ったため店を閉じたと聞いていた。

Photo_3 堀川が流れる街並みは、武家屋敷風建物や白壁の土蔵があり、ここに住む人々の歴史と故郷への愛着を感じさせる。なかでもひときわレトロな建物があった。その名もズバリ「れと絽」という喫茶店である。

大正から昭和初期にかけて病院だったそうで国の登録文化財になっていると表示がある。趣のある喫茶店だろうと思うが、どうもそれだけでは立ち行かないらしく夜はカラオケ酒場になるとの看板もある。少々つや消しだが仕方ない。

「営業中」の札が下がっていた。早朝割引モーニングサービスの貼り紙もあるので中に入ってみた。きちんと片づき、カウンターにはランプの灯がともっていたが誰もいない。「おはようございます」と2度声をかけてみたが返事がない。まさかこんな朝っぱらから客が来るとは思っていなかったのだろう。

少し先に営業中のスーパーがあった。失礼ながらローカルな町で朝8時からやっているスーパーは珍しいが、客はそこそこ入っている。朝のタイムサービスがあるようだ。「れと絽」のマスターもこの中にいるのかも知れない。

Photo_4 スーパーの斜め前に古びた薬局があった。看板で浪花千栄子がオロナイン軟膏徳用瓶を捧げ持っている。そうだ、オロナイン軟膏だ!切り傷、ヤケド、肌荒れ、何でも効き、顔に塗っても肛門に塗っても効く。このトンマ天狗の軟膏には子どもの頃、ずいぶん世話になったものだ。

ここで会ったが100年目、是が非でも一瓶買って帰ろうとガラリと戸を開けたが、やはり誰もいなかった。スーパーのタイムサービスに出かけているのだろう。

浪花千栄子が亡くなって40年近くになるが、いまだに現役の看板娘で仕事をしているのは凄い。水原弘、美空ひばりも蚊取り線香で頑張っているが、とてもこの人には及ばない。偉大な人物である。そういえばボンカレーの松山容子もいる。大塚製薬とはきっと人を大事にする会社なのだろう。

Photo_5 「きっと編集長が気に入るお店だと思うわ」と、どんぐり幼稚園の内野真奈美理事長(写真左)に誘われて、夜は「小料理ふみ」と書かれた暖簾をくぐった。

カギ型のカウンターに座れるのは8人ほど。そのカウンターには、里芋とイカの煮物、トリの唐揚げ、カレイ煮付け、野菜の酢の物など女将手作りの家庭料理を盛った大皿が並んでいる。どれもこの上なく旨い。

それら料理は1人1000円で食べ放題。あとは焼酎やビールの料金を考えればいいだけで、1人2,500円もあればたっぷり満足できる。まさしく私が一番好きなタイプのお店である。

Photo_6 お皿の料理の減り具合を見て、新しい料理を手際よく作る女将は内野文子さん。「おや、理事長さんと同じですね」と言うと、なんと内野理事長の夫の母親だという。

内野先生の夫が小料理屋の息子だったわけではない。ずっとふつうの主婦だった文子さんは、21世紀になったのを機にお店を開いたのだという。遅咲きの自営業者なのである。

私の座っていた席の後ろ側の壁がきれいに空いていた。そこで「ママ、この壁にどんぐり幼稚園のパネルを付けさせてもらえませんかね。そこに行事のお知らせや写真を貼るんです」と相談してみた。

「あら編集長、いいこと言うじゃない。私もそれを気づかなかったわ。さっそくやりましょう」と即座にオーケーしてくれた。ふたたび豊後大野にやってくる楽しみができた。

翌日は午前中の園内研修にご一緒し、さて引き上げようと思ったら、先生方は新年会をかねて“フランス料理でランチ”と洒落込むという。そのレストランのシェフは内野理事長の夫の弟だという。家庭料理とフランス料理、さすが幼稚園と小間物屋の娘だ。面白い人脈のところに嫁に行っていたのだ。しかもこの内野先生、父親の薫陶を受けて剣道四段の腕前でもある。

003 あれこれ感心していると、「編集長も一緒にどうですか」と誘われた。列車の時間まで1時間しかなかったが、「え、そうですか」とニコニコついて行った。困った編集長である。

おかげで子どもの頃から噂に聞いていたエスカルゴ(カタツムリの料理)を食べることはできたが、やはり1時間では無理があった。全部の料理が揃わないうちに駅に駆け出す羽目になった。この先生方と「れと絽」やオロナイン軟膏の話をしたかったのだが、それはこの次の楽しみに残して、小雪降る大分を後にした。

富士見が丘幼稚園とフグの肝とヒレ酒

2009年1月22日(木)

寝台特急「ふじ」を終着駅・大分で下り、久大線に乗り換えて富士見が丘幼稚園(渕野二三世理事長&園長)に向かった。

Photo 最寄り駅は豊後国分駅。文字通り、かつて740年前後に豊後国分寺が建立された場所で、その跡地には右の写真の大分市歴史資料館が建ち、小中学生の学習の場として活用されている。駅のすぐ前である。

ところが、そんな由緒ある駅にもかかわらず無人駅だった。千葉で切符を買ったとき「大分から豊後国分までの乗車券(210円)は駅で精算してください」と言われたが、人もいないし精算機もないので、後ろめたさを感じながらも黙って出るしかなかった。

とぼとぼと国分橋に向かって歩くと、川向こうの丘陵地に堂々と建つ富士見が丘幼稚園の姿が見えた。どうして富士見が丘幼稚園なのか?卒園児との強い絆はいかにして生まれるのか?同園の様子は『月刊・私立幼稚園』の幼稚園レポート(ぶらり訪問記)に詳しく掲載したのでそれを見てほしい。

16時すぎ、先生方の記念撮影も済んで「じゃ、私はそろそろ引き揚げます」と言うと、渕野理事長がツツーと寄ってきて「片岡さん、今はフグが美味しい時期よ。いっしょに食べに行こうよ」と囁いてくれた。「え、本当ですか」と幸福感に太い身体が舞い上がった気がした。

これまでの約60年におよぶ人生で、フグを食べたのは東京で2回、下関で1回、大分で2回の5回だが、それだけに大分のフグの美味しさは身体に染みこんでいる。そしてついに大分で3回目のチャンスが訪れたのである。

東京も大分もフグのことはフグと呼ぶ。当たり前のことだが、下関ではフクと呼ぶ。フグは「不遇」「不虞」「不具」に通ずるというので、「福」に転ずるようにとの願いを込めてのことである。そして渕野先生が暖簾をくぐったのは「ふく亭本店」という店だった。下関の願いは大分にも広がってきたようだ。

Photo_2 渕野先生の前に並んだのがご存知フグ刺し。東京では余りに薄く切って並べるので、何も載っていない皿が出てきたと錯覚するが、大分のはご覧の通り分厚い。

皿の中央手前の緑がアサツキ、奥の緑が細ネギ、右のオレンジがモミジ下ろし、そして左側の白い塊が、大分だけでしか食べることのできない「フグ肝」である。

大分でフグ肝が食べられることは広く知られているが、大分のフグ料理店は決してそれを謳い文句にしていない。長年にわたり大分に根付いている食文化として、非公式に黙認されているものだからだ。

それはともあれ肝は旨い。ポン酢タレの入った小皿に肝をたっぷり溶かし込み、さらにアサツキとモミジ下ろしを混ぜる。そこに細ネギ数本を巻いた刺身をつけて食べるのだ。まさしくどこにもない格別の味である。

そして大分の人達は、ひれ酒を飲む。焦がしたフグひれをコップに入れ、熱燗の日本酒を注いでフタをする。ひれの焦げ味が染みこんでから飲むのだが、私はそのまま日本酒を飲んだ方が美味しいように思う。

それより不思議なのは、フタを開けて飲む前に、マッチの火を近づけてコップにたまったアルコール分を飛ばしてしまうことだ。一瞬、人魂のような青い炎が現れて幻想的ではあるが、アルコール分を飛ばしたのでは気の抜けたビールを飲むようなものではないか。

そこで二杯目のとき、仲居さんに「火はつけなくていいですよ」と言ったのだが、目を丸くした20代半ばの彼女は「これは決まっていることなので、火をつけないわけにはいかない」と言い張った。渕野先生を見ると「若い娘さんを困らせたらダメよ」という顔をしている。やむなく「わかりました。どうぞ」と折れ、再び人魂を出してもらった。もしかしたら仲居さんは、火をつけずに酒を飲むと、この人魂が体内に入って邪悪なことになると思っているのかも知れない。

ところでこの渕野二三世先生、年齢は不詳だがみずからを「ビートルズ世代よ」と言った。もしかしたら私とそう変わらない年格好かも知れない。

「一番のお気に入りの曲は何ですか?」と訊くと、ちょっと眼をキョロキョロさせてから「ヘルプ!」ときっぱり言った。ますます近いような気がする。

「あの脈絡なしに展開する映画、今なら平気で観られるでしょうが、当時は訳が分からなくて慌てましたね」と言うと、「え?映画?何ですかそれ」とキョトンとした。ビートルズ二本目の画期的映画「ヘルプ」を知らないのである。となると少し年代が離れているのかも知れない。

などと考えていると、残った刺身、アラ、肝、アサツキなどを全部入れてご飯と煮込んだフグ雑炊が出てきた。これがまた超絶品で、茶碗4杯をペロリと平らげた。運悪くフグの毒にあたる人がいたとしても、これが食べられたのなら思い残すことはないだろう。

渕野先生と別れた後、私は大分駅に行き、改札口にいた駅員さんに210円を渡した。もちろん豊後国分駅で払えなかった事情を説明したのだが、駅員さんは硬貨を掌に載せたまま、しばらくポカーンとしていた。

これで後ろめたさは消えたが、「これがもし2,100円だったら、そのままドロンしたかも知れないな」と首をすくめた。

三和幼稚園と小泉八雲とカツオのヘソ

2009年1月14日(水)

幕張本郷から鈍行列車を乗り継いで約4時間、お昼少し前に静岡県焼津に着いた。鈍行乗り継ぎと言っても、乗り換えは津田沼、品川、熱海と3回だけ。新幹線を利用しても津田沼、東京、静岡と3回乗り換えなければならない。時間は1時間45分違うだけで料金は往復で6,000円も違ってくる。静岡、焼津への旅は鈍行にかぎる。

Photo 焼津の駅前には黒潮温泉と書かれた丸い池がありカジキマグロが歓迎してくれる。マグロの後方、海に向かう道を行くと、右側に温泉ランド風の黒潮温泉があり、そのサンドイッチツナでもあるようだ。だから丸い池にも温泉が流れ込んで湯気が立っており、バスを待つ人々が足湯を楽しむ。

足だけでなく身体も温泉に浸かりたいとは思うが、まだ黒潮温泉には行ったことがない。この日もどうしようかとちょっと迷ったが、当初の方針どおり小泉八雲記念館に向かうことにした。

焼津は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが愛した町である。黒潮温泉と書かれた石碑の裏側に、同氏の石碑が建っている。

エーゲ海(ギリシャ)で生まれ、40歳で日本にやってきた小泉八雲は、横浜、松江、熊本、神戸、東京と移り住んだが、もっとも愛した地が焼津だった。東京で暮らした最後の8年間は、毎年夏、焼津の魚屋の二階を借り、妻・おせつが迎えにくるまで長逗留したという。

1890(明23)年、アメリカの新聞記者だったハーンが日本に来たのは、日本の探訪記事を書くためだった。その企画を立てたのは彼だったが、一緒についてきたカメラマンの方が出張手当が高いことを知って怒り、横浜に着くと同時に、「ふざけるな馬鹿野郎!」と辞表とカメラマンを叩き送ったという。愛すべき激情家である。

結果日本に住み着くことになり、松江で土地の女性・小泉勢津と結婚し、英語教師をしながら日本人の生活、伝統、物語を書き残したのである。この生き様と彼の関心事に、なぜか私は子どもの頃から惹かれていた。だから2007年6月、焼津に記念館ができたことを知り、早く訪ねたいと思っていた。

Photo_2 焼津市文化センターの一画にある記念館には、焼津駅からコミュニティバスを利用すると100円で行ける。毎週月曜が休館で、入館は無料だ。

展示ホールの天井から小泉八雲の大きな肖像画が下がっていた。彼の写真、肖像画はすべて左を向いた横顔である。正面のもの、右向きのものは1枚も残っていない。

Photo_3 6歳のときに両親が離婚し、アイルランドで父方の親戚に育てられ、イギリスの学校に入学したが、学校内でのケンカか事故で左目を失明した。それ以来、左側の表情を見せなくなったそうである。

小泉八雲の著作ではムジナやろくろ首の「怪談」が有名だが、私は新聞記者魂が跋扈する「日本雑記」が好きだ。特に女性の名前に関心を寄せ、その構造を分類していく下りは感動する。

道徳または自然や風流を表す一文字をあて、庶民はそれに「お」をつけ、身内以外の人が呼ぶときは「さん」をつけた。「お徳さん」「お涼さん」という具合だ。

武家では「お」をつけず、身内は「徳」「涼」と呼び捨て、他人は殿か様をつけて呼んだ。明治になると上流階級のお嬢は「子」をつけて「徳子」「涼子」と呼ばれるようになり、それが庶民にまで普及して昭和中期まで続いた。昔は、娘の名前を見れば、親の思想や家業もある程度察しがついたという。

そんな日本人が何気なく見過ごしていた文化を、小泉八雲は大いに関心を持ってくれた。ありがたいことだと思う。短編「漂流」の題材になった「甚助の板子」は、焼津市・小川(こがわ)幼稚園(浅沼成行理事長&園長)のお寺・海蔵寺で長く保管されていたが、記念館ができたおかげでここに移された。焼津に出かけたときは、ぜひこの伝説の板子も見てほしいと思う。

Photo ウェルシップ焼津で行われた焼津市私立幼稚園協会の新年教員研修会に参加した後、高田路久会長(暁幼稚園理事長&園長)の計らいで、三和幼稚園(金原順一理事長&園長)を見学することができた。

「片岡さん、せっかく焼津まで来たんだ。どっか幼稚園を見たいと思っているんでしょ。それなら最近園舎が新しくなった三和(みわ)幼稚園がいいよ」と高田先生が言ってくれた。ありがたいことだった。

つるべ落としの夕闇と競争になったが、何とか園舎の撮影に間に合った。門から玄関に続く遊歩道は、くねくねと蛇行している。これが「ゆっくりいらっしゃい」と誘われているようで大らかな気持ちになる。

Photo_2 道の途中で白雪姫と八人の小人と白馬の王子様が並んで迎えてくれる。七人でなく八人というのが日本らしくていい。

そして玄関の脇には三つの笑顔を描いた看板があった。「幼稚園もいよいよハイセンスになってきたな」としばし見とれてしまった。

Photo_3 園内に入ると、廊下、テラス、柱、手すりなども、微妙な丸みや膨らみを感じさせるものが多く、木肌の温もりとともに柔らかみをが伝わってくる。ガラス面が多く、明るくて全体の見通しがいい。

「実は設計したのは女性の方なんです。それがアプローチロードの曲線や園内の丸みに出ているのだと思います」と金原理事長が教えてくれた。言われてみればたしかに、ふくよかな母親に抱かれているような心地になってきた。

Photo_4 丸い柱のひとつが背比べの柱になっていた。あいにく、すでに預かり保育も終了して子どもの姿はなかったが、毎日楽しそうに背比べをしている様子が浮かんできた。

もうひとつ「これはいいな」と思うものがあった。会議室にあった一枚の絵である。

Photo_5 多くの場合、こういうところに架けてある絵は何かのドラマを持っているものだが、訊くと、金原理事長と妻の副園長・るり子先生が結婚したときの引き出物だという。もちろん絵柄はみんな違っていたが、お気に入りの一枚を自分達のために残してあった。それがこの絵である。

緑に包まれた爽やかな川の流れ。これがご夫妻の心の原風景でもあるのだろう。

4 写真は左から高田路久先生、不肖編集長、金原るり子先生、金原順一先生だ。例によって夫婦ツーショット写真を撮ろうと思ったら、そばにいた同園の先生が「私が押します。お二人もどうぞ」と言ってくれた。その仕切り方がとても上手で、四人で収まることになった。しかも私ばかりが嬉しそうである。

すっかり夕闇に包まれた三和幼稚園を後にして、男三人は、静岡県私立幼稚園協会・相田芳久会長(焼津豊田幼稚園園長)が待つ、駅前の居酒屋「寿限無」に向かった。カツオのヘソを食べるためである。

焼津の三大名物といえば、「黒はんぺん」「鰹サブレ」「カツオのヘソ」である。どれも美味しい。中でも珍味は「カツオのヘソ(実際は心臓)」で、最初に、「寿限無」の古い店でこれを教えてくれたのは静岡県私立幼稚園協会の相田芳久会長(焼津豊田幼稚園園長)である。

以来、焼津に来るたびに必ずヘソを食べているが、昨年8月にこの店に寄ったとき、どうしたことか店の前に焼津市私立幼稚園協会の面々がずらりと勢揃いしていた。私はてっきり、自分の来訪情報がどこかから漏れて、待ち受けられたのだろうと早合点したが、違っていた。この「寿限無」で園長会が開かれることになっていたのだ。

ま、そんなこともあって「妙な奇縁だ。ぜひまた一緒にヘソを食べましょう」と相成った次第である。

Photo

これがそのときの写真。左から4人目が、カツオならぬ広島カープファンの相田芳久先生。帰りも鈍行で帰るつもりでいたが、「まだ大丈夫、新幹線があるから」と引き留められ、結局最終の新幹線で帰ってきた。

焼津に長逗留した小泉八雲の気持ちがわかった気がした。

わかば幼稚園と始業式と魚臭ラーメン

2009年1月8日(木)

山梨県中央市・わかば幼稚園(井口太理事長&園長)を訪ねた。

JR身延線「常永」駅から歩いて約15分。山梨大学医学部の少し手前に幼稚園がある。前夜の深酒のせいで、頭の中は反省の鐘が鳴り響いていたが、晴れ渡った朝の冷風がその音色を少し鎮めてくれた。

Photo わかば幼稚園は看板を大事にしている幼稚園である。前回訪ねたときはステンレス製のモダンな看板を注目したが、今回はクラシックな屋根付き看板に見とれてしまった。幼稚園にかぎらず、看板に気を遣うのは大切なことである。

この看板の雰囲気に合わせ、園内には新たに東屋と水車がお目見えし、以前とは違う和風ムードを醸し出していた。

右の写真が井口ご夫妻。看板といえば、慎子副園長もまだまだ看板娘の存在感Photo_2 を湛えていた。

「今日が始業式だというのに、昨夜は園長先生を遅くまで引き留めてすいませんでした」と頭を下げると、「あらそうですか。いつ帰ってきたか気がつかなかったわ。今朝も平気な顔で早起きしていましたよ」とにこやかにと受け流してくれた。さすがである。

園庭の真ん中に立つと、南に富士山、北に八ヶ岳、そして西に南アルプスが見える。まさに大自然に囲まれた幼稚園だ。

そんな中、久しぶりに登園してきた子ども達が、先生や友達同士で「あけましておめでとう」の挨拶をかわして賑やかだ。“園長先生と仲良し”という様子を察して、初めて見るオジサン、つまり私にも律儀に「おめでとうございます」と腰を折ってくれる。新年の挨拶の清々しさを久しぶりに堪能した。

Photo_3 「お正月はとっても楽しかった」という子に、「何が楽しかった?」と訊くと、ちょっと目をクリクリ考えてから「みんな楽しかった」との答え。きっと、家族と一緒に一日中、あるいは長い時間を過ごせたことが何より嬉しかったのだろう。

中には「お年玉をね、お父さんからいくら、おじいちゃんからいくら……全部で○万円もらった」と早くも経済感覚を磨いている子もいた。

Photo_4 ひとしきりお正月の思い出話をしながら友達と遊んだ子ども達がホールに集まり、始業式が始まった。

「みんなの元気な顔に会えて本当に嬉しい。園長先生も、ほらこんなに元気だからね」と、身振り手振りでピンピン元気ぶりをアピールした園長に続いて副園長が前に立ち、三学期にちなんだ三つのお約束をした。それは「元気なご挨拶」「ありがとうと言う感謝の心」「ごめんなさいと言える素直な心」だった。

Photo_5 ポカポカ暖かい渡り廊下で、子ども達はお母さんのお迎えやバスの時間を待つ。その間先生は絵本を読んだり、クイズをしたり、歌を歌ったりしていたが、中に1人、広告チラシで器用に紙切りを演ずる先生がいた。

三方に載った見事な鏡餅を切った後は、子どもからのリクエストに応えて「カブトムシ」「飛行機」「園バス」などを次々に切っていく。

作品をもらった子どもは、まるで宝物をもらったように大事にカバンの中にしまっていた。思わず私も、「何かひとつもらえないでしょうか」と頼むと、立派なクワガタを切ってくれた。私の永遠の宝物のひとつである。

子ども達が帰り、掃除が一段落したところで先生方に消防自動車に集まってもらい、南アルプスをバックに記念撮影をした。

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「近くに旨い蕎麦屋があるんだ」と井口理事長に誘われ、二日酔いで朝飯抜きの胃袋に昼飯を詰めてから帰路につくことになったが、あいにくお薦めの蕎麦屋は休みだった。旨い蕎麦屋は全国的に「行こう!」と思った日が休みなのである。

「じゃ、できたばかりのラーメン屋がある。若い人達に人気らしい。いい機会だから行ってみよう」と蕎麦からラーメンに方針転換した。

Photo_6 エキゾチックで神秘的雰囲気の漂うお店だったが、メニューがよくわからない。無難なところでと一番上にあった「特選新潟ラーメン」を2人は頼んだが、出てきたのはこれだった。

「ん、スパゲティ?焼きうどん?」と思ったが、太麺で汁の少ないラーメンだった。食べてみると新潟の香り、いや生魚の香りがした。魚を腐らせて作る醤油「魚醤」のことは聞いたことがあるが、おそらくそれを使ってスープをつくっているのだろう。

最初の一口で2人は顔を見合わせ、「なんだこれ」と無言で言い合ったが、食べ終わったときには「これ、クセになりそうだね」と激しく言い合った。この魚臭ラーメンを食べるためにも、ときどき甲府に来なくてはいけないと思った。

甲府駅と馬刺しと幸福おむすび

2009年1月7日(水)

今年の公式新年会は山梨県甲府市からスタートした。

Photo_4 甲府駅に降り立ったのは3年半ぶり。すっかりご無沙汰してしまった。その間に駅のホームにレトロな空間ができていた。

かつて「かふふ駅」とフリガナされていた当時のレンガ造り駅舎の一部と、ホームの端にあった釣り鐘が蘇ったのである。

「かふふ来(幸福)の鐘」と呼ばれる鐘は、駅で火災や事故があったときに連打されたそうだ。一大事を救ったという意味での幸福なのだろう。

甲斐国の首府という意味の甲府なので、「かふ」と呼ばれたのかも知れない。もうひとつ説がある。信玄の後を継いだ妾腹の子・武田勝頼が、本拠地をこの地から韮崎に移して新府城を築いた。そこで新府に対して古府と呼ばれたことから甲府になったというものである。今、甲府に住んでいる人にとっては前者の説をとるのが人情だろう。

Photo_5 ところでこの甲府駅のすぐ前に甲府城があるのをご存知だろうか。舞鶴城と呼ばれた城である。

「あれ?武田信玄は城を造らなかったんじゃないの?」と思う人も多いだろう。「人は石垣、人は城」と武田節でさんざん聴かされてきたからで、実は私もずっとそう思っていた。

甲府の先生が、「片岡さん、城を見に行こう」と連れて行ってくれたのはいつも、今は武田神社になっている信玄の屋敷・躑躅(つつじ)ヶ崎館だったからだ。とても城と呼べるものではなく、ちょっとした大地主さんのお屋敷くらいの規模である。

ところが立派な城があったのだ。織田・徳川連合軍によって武田一族が滅亡した後、この地を領した徳川家康が築いたものだ。しかし信玄公を愛した地元の人達からは嫌われていたようで、明治になると同時に跡形もなく壊され、城跡を分断する形でJR中央本線が通り、甲府駅ができた。

写真のように、石垣、曲輪の一部が復元されているが、天守閣があったかどうかも当時の人々の記憶に残っていないというから、よっぽど嫌われていたのだろう。

Photo_6 そんな古い話はさておき、小雨降る裏春日通りで謹賀新年の杯を上げた。お相手は南アルプス市(旧櫛形町)・小笠原幼稚園の鶴見弘道理事長&園長(右)と中央市(旧玉穂町)・わかば幼稚園の井口太理事長&園長(左)。どちらも30年余のつき合いだが、ちょっとご無沙汰していた隙に町民から市民に変わっていた。

古い仲間からお誘いを受けることは何より嬉しい。ただ、山梨県私立幼稚園協会の副会長になった井口先生の顔から、トレードマークのマンダム髭(チャールズ・ブロンソン風の口ひげ)が消えていたのが寂しかった。

最初の店は日本酒党の鶴見和尚が贔屓する『味の満月』。「味と心の和食が自慢よ!」と女将が胸をたたくだけに、料理はどれも上品で美味しかった。

Photo_9 山梨といえばもちろん馬刺し。どうですこの見事な霜降り、相変わらず旨かった。武田騎馬軍団の強さの秘密は、この馬刺しにあったのではないかと改めて思う。馬の立場としても、しっかり働かなければ刺身と桜鍋になってしまうと思えばこそ頑張ったのだろう。しかし織田軍の火縄鉄砲隊に殲滅させられたのだから、やはり体力と根性だけでは勝てないようだ。

焼きハマグリも美味しかった。どこの海から運ばれてきたのか知らないが、本場の船橋や浦安で食べるものよりずっと上等だった。

それにしても鶴見先生は酒豪だ。今でも一晩で一升五合呑むこともあるというからとても太刀打ちできない。そのペースに巻き込まれてすっかり酔ってしまい、その後、早仕舞いしかかっていた店を無理矢理開けさせたのを含め、三、四軒歩いたと記憶しているが、どんな店で、何を食べたかはほとんど記憶がない。

Photo_8 ただ一番最後の店で、ふと姿を消した鶴見先生が、しばらくして「どうだ、腹減っただろう、これ食べなよ」と、おむすびをたくさん抱えて戻ってきたことは鮮明に覚えている。

これが旨いのなんの。馬刺しも焼きハマグリもどこかに吹っ飛んで行った気がした。これこそまさに“かふふ来”(幸福)おむすびだ。このおむすびを食べるために年に2回は甲府に来ようと決心した。

むつみ愛泉幼稚園とクリスマス会と盲目のピアニスト

2008年12月22日(月)

★フィンランドからやってくる“あわてんぼうのサンタクロース”

栃木県下野市・むつみ愛泉幼稚園(小倉睦美理事長&園長)のクリスマス会にやってきた。この幼稚園は、アメリカや中国から招待がくるなど世界的な幼小一貫和太鼓チーム「愛泉童太鼓」で知られるが、私が知るかぎり、クリスマスを大変大事にしている幼稚園でもある。看板やパンフレットのマスコットキャラクターがサンタさんで、壁にサンタさんを描いた“サンタハウス”も敷地内に二棟ある。

Photo_2 そのひとつがこれ。年長の部屋とコミュニティルーム、それに園長が夜遅くまで、ときには徹夜で突貫仕事に取り組む執務室もある。

「子ども達はクリスマスが大好き。それならサンタさんがいつでも遊びに来られるお家があるといいじゃないですか」と小倉園長は目を細める。

だから同園には毎年、ほんもののサンタさんがやってくる。フィンランド政府が認定する公式サンタクロースの1人が日本を訪ねるとき、最初に寄るのがむつみ愛泉幼稚園なのである。

Photo これがほんものサンタさんと小倉園長。見てわかるようにサンタさんは赤い服を着ているわけではない。赤い帽子と赤いマントと赤い手袋と赤い靴を着用しているが、中の服とズボンは濃緑色である。

「コカコーラ社が作りだしたサンタさんは赤い服だが、フィンランドにいるほんもののサンタさんはグリーンの服だ」という風説は半ばあたっているのである。

しかしこのほんものサンタさん、不肖編集長のように同園の年間予定表を見ながら日本に来るわけではないので、来訪がクリスマス会とずれてしまうことが多い。今回も2週間も早い12月9日(火)に現れた。まさに“あわてんぼうのサンタクロース”なのである。

朝の自由時間を楽しんでいる年中さんに「今日はクリスマス会だね」と声をかけると、ちょっと間があってから、(そういえばそうだね)という感じで「うん、そうだよ」と淡泊な答えが返ってきた。

Photo 「サンタさん来るかな?」A「来ないよ」「どうして?」A「この前来ちゃったからさ」B「ほんもののサンタさんが来たんだよ。本当のほんものだよ」

「じゃ、プレゼントもないのかな?」A「いや、ある」B「この前置いていったんだよ」「中身は知ってるの?」A「カルタだよ。いつもカルタをくれるんだ」B「でも、お家にはオモチャを置いていってくれたよ。お母さんが言っていた」

というような会話を楽しんだが、さすがに本家クリスマス幼稚園だけあって、子ども達はクリスマスを冷静沈着に受け止めているようだ。

Photo_2 そのクリスマスの様子は、追って『月刊・私立幼稚園』の実況中継記事で詳しく紹介したいと思うが、印象に残った光景をいくつか予告すると、ひとつは右写真のような、いろいろな形をした手作りクリスマスツリーが園内のあちこちにあったこと。

もうひとつは、ホールにやってきた子ども達が皆、アルミホイールで包んだロウソクを1本ずつ持っていてそれに火をつけたことだ。火の危なさは十分に知っているようで、子ども達の顔は真剣そのもの。小さな灯りだけのホールは、いつもの幼稚園の賑わいがウソのように静まり返った。まさにクリスマスの神聖さにすっぽり包まれたのである。

その中で子ども達は「きよしこの夜」を美しい声で歌う。最初に日本語、次は英語、最後はハミングだ。終わると一斉にローソクを吹き消す。しばしの暗闇の後、電気がついて「メリークリスマス!」と叫び、「ウィシュユアメリークリスマス」と「ジングルベル」を元気に歌った。筋書きにこだわらない臨機応変進行ながらも演出は凝っていた。

001

最後にもうひとつ。サンタさんは来なかったが、日高馨輔(けいすけ)さんという日本聖公会に所属する本物の牧師さんが来て、世界平和へのお祈りをしてくれたことだ。

Photo_3 盲目の日高さんはプロのピアニストでもあり、ときどき同園に遊びにきて子ども達に軽快なジャズを聴かせてくれるが、この日はクリスマスソングが中心。それでも「崖の上のポニョ」なども弾いて子ども達の歌声を誘った。

全体のクリスマス会が終わり、年少、年中さんが引き揚げると、日高さんは年長さんを前に、イエス様が生まれたときの話を語り出した。

1冊のノートが開かれ、日高牧師はそれを触りながら話を正確に進めていく。しかしノートは、開いても開いても真っ白である。点字で書かれているからだ。それが子ども達には不思議で仕方がない。お話の後の質問タイムは、生誕ドラマの中身でなく、点字ノートのことに集中した。

その後私は、あわてんぼうの編集長よろしく、放送機器の棚に思い切り額をぶちつけ気を失った。視界いっぱいに星がまたたいた素晴らしいクリスマス会だった。

相模ひまわり幼稚園とお誕生会とベトナム料理

2008年12月16日(火)

★ウェルカムボードのお出迎え

神奈川県相模原市・相模ひまわり幼稚園(川井彦策園長)を訪ねた。

横浜と八王子を結ぶJR横浜線の「古淵(こぶち)」駅。何となくレトロなイメージの駅名だが、駅前は通りを挟んでイオンとヨーカドーがにらみ合う超モダンな一大ショッピングタウンだ。そこから歩いて10分ほどのところに幼稚園がある。

Photo_2 玄関前にウェルカムボードがあり、私の名前を書いたカードが貼ってあった。過去にも二度ほどウェルカムボードでのお出迎えを受けたことがあるが、この上なく嬉しいものである。

よく晴れ上がった朝9時、前日朝まで降り続いた雨のせいでまだ園庭の土は湿っていたが、子ども達はナワ跳び、鬼ごっこ、三輪車など広い園庭で思い思いに遊んでいた。

その子ども達が私の顔を見ると「いらしゃいませ」「おやようございます」と言ってくれる。ふつうは「オジサンだれ?」「何しに来たの?」「名前は?」と矢継ぎ早に職務質問を受けるものだが、私が誰で何をしに来たのか知っているようである。中には「片岡さん」と呼びかけてくれた賢そうな女の子もいた。

Photo_3 聞くと、朝の放送で私が来ることが子ども達にも伝えられたという。きっと「坊主頭にメガネ、カメラとメモ帳」という特徴も知らされたのだろう。こういう指名手配もまた嬉しいものである。

それにしてもこの幼稚園は広い。園庭の隣に広い農園と駐車場があり、園舎の反対側には雑木林が広がっている。「でも、この林は幼稚園のものではないんです」と中井裕子主任が教えてくれたが、その景観と酸素は子ども達のPhoto ものである。2010年に全国19番目の政令指定都市(神奈川県では三つ目)になる予定の相模原市だが、自然豊かな都会になりそうだ。

さてウェルカムボードや指名手配放送と、そんな気配りをしてくれたのは、実質的に園の運営を切り盛りする副園長の川井俊幸先生と妻の順子先生(主事)夫妻だ(右の写真)。川井先生は相模原市幼稚園協会の会Photo_2長を務める忙しい身の上だが、この日は幼稚園にいた。年少さんと年中さんの二本立てお誕生会があるからだ。

同園では、子どもにとって年に1度、自分が主役になれるお誕生会を大事にしていて年齢ごとに月3回開催しているが、12月を含め日程の厳しい月は同じ日に2回行うこともある。それがこの日だった。

川井夫妻には4人の子ども(男1人、女3人)がいるが、娘3人はいずれも12月生まれ。クリスマスと合わせ、「12月はケーキ漬け(景気づけ)の日々です」と酒豪の副園長は苦笑いする。

「なるほど、ここで行われるのか」と、巨大なバースデーケーキが飾られた会場を下見していると、「オジサン、もう始まる?」と年少の女の子Yちゃんが寄ってきた。イエス様と同じ12月25日生まれとのことで、今か今かと朝から会場の様子を見張っているという。幼稚園でのお誕生会とは、子どもにとってこの上ないビッグイベントなのである。

★白ヒゲの女性サンタさんが登場

Photo_3 お誕生会の詳しい内容は、追って『月刊・私立幼稚園』本記の実況中継で紹介するが、印象に残ったことは、年少の部と年中の部でその雰囲気がかなり違っていたこと。しかし子ども達に楽しんでもらおうという先生方の意気込みは共通で、その出し物は趣向が凝っていた。

年少の部で、スカートをはいた女性サンタさんが疾風のように現れて、「メリークリスマス」と言って、疾風のように去って行ったときは、子どもも親も私もポカーンと口を開けた。

恰幅の良い女性教師あるいは母親がサンタさんに扮することは時々ある。サンタさんの素性を知られないためだ。しかしこれはいつもの男姿である。ケーキ屋さんの店先などでスカートをはいた女性サンタを見かけることもよくある。しかしヒゲをはやしていることはない。ところがこの日の女性サンタさんは、立派な白ヒゲをつけてきたのだ。だからみんなビックリした。

ヒゲがないと身元がバレルということだろうが、忙しい父親サンタを助ける娘サンタの図としては理に叶っているような気がした。

年中の部の寸劇では、身体の大きな川井副園長がギャング団のボス役に扮した。黒づくめの衣装に黒メガネ。これが役柄にピッタリはまっていて、会場には驚きと笑いが交錯した。

002もうひとつ印象に残ったのは、誕生会を終えて部屋に戻った誕生児のお母さん、お父さんが、持参のお弁当を広げて一緒に昼食会を楽しんだことだ。お誕生会だけのスペシャルデザート、蒸しケーキとパックドリンクはお母さん方にも配給された。

「あ、いいな、美味しそうだな」と親子のお弁当をのぞき込んでいると、「近くにちょっと面白いレストランがある。われわれも昼飯にしませんか」と川井先生が誘ってくれた。

着いたところは「オリエントレストランSUIREN(睡蓮)」という、外も中もしっとり落ち着いたベトナム料理の店だった。

Photo_2 社長&料理長は嶋野善文さん(左端)。相模ひまわり幼稚園の卒園児である。それゆえ川井先生はこの店を贔屓にし、同園ご用達にもなっている。

「本日のランチ」は、肉と野菜のアンカケ煮込み、ライス、野菜サラダ。それに薄口ながらも独特風味のベトナムコーヒー。「ベトナム料理は辛い」というイメージを持っていたが、それほど辛くはなく、実に美味しかった。

東京の本格ベトナム料理店で修行した嶋野さんだが、幼稚園のそばの住宅地で開いた店なので、ベトナムの個性を抑えて、できるだけ多くの人の口に合うよう工夫しているという。

社長のセンスなのか、働いている女性は美人揃いだ。社長の耳元に「ベトナムのアオザイを着せてあげると、お客は倍増しますよ、きっと」と囁くと、「考えます」と律儀な返事が返ってきた。

大らかな幼稚園と素敵なレストラン、そして駅前のショッピングセンターと、子育ての町に必要なものが、ここにはあると思った。

北川口幼稚園と作品展とサンタクロース

2008年12月13日(土)

★「子どものつぶやき」と版画作品

埼玉県川口市・北川口幼稚園(後藤光純理事長&園長)の作品展を訪ねた。

Photo 園内に入ってまず気がついたのは、壁のあちこちにお母さんが聞き取った、わが子の名言・会話が貼り出されていたことだ。子どもの言葉もまた作品のひとつととらえているのである。

たとえば、警察署の周りにパトカーが何台も集まってお巡りさんが話しているのを見て、お母さんが「何の話をしているんだろうね」と言ったら、子どもから「悪い人をどうやって捕まえるかとか、経営について話をしているんだよ」との言葉が返ってきてビックリした、というようなエピソードが書かれている。

どれも笑えるし、感心させられるものばかりで、聞き取ったお母さん方のセンスの良さがうかがえる。これを全部、丹念に読んでいくと1時間はかかりそうなので、半分ほどでやめた。「後日、全部がホームページに掲載されるといいな」などと思ったものである。

Photo 同園の作品展で特徴的だと思えたことは版画の作品が多かったことだ。形をつくった段ボールを貼り合わせていく凸版画、発泡スチロール板にキズで描くエッチング方式のスチレン版画、葉っぱに色を塗って紙に写す葉っぱ版画、という具合だ。

もちろん他にもいろいろな作品があるが、版画作品は色のスペースが大きくなるので、それだけ存在感を増して印象に残ったのだろう。

年長さんの作品群にはテーマがあった。今年は「魔女」。例のとんがり帽子、魔女の暮らしの想像図、そして中に入って遊べる部屋一杯の「魔女の館」もあった。

生来の女性恐怖症である私は、なぜか「魔女」と聞くとビクンと反応してしまう。そのせいか、子ども達は、誰か身近な人に魔女を感じたりするだろうか、ということばかり心配していた。

作品のそばに、製作中の写真や完成したときの子どもの言葉などが貼られていて、作品の奥を知ることができた。最近の幼稚園作品展では、こうした伝達配慮が増えてきたようだ。

Photo_2 夏休み工作の傑作が集まるコーナーで、私が、音が出るペットボトル鉄砲を手にとると、たまたまその製作者がそばにいて、使い方はもちろん、これを作ることにした理由、作ったときの様子を得々と話してくれた。

どんな説明文があろうと、本人の説明にまさるものはない、とつくづく思い知った。

常にお客さんが混み合っていたのは、お母さんの作品を展示した部屋だった。人形、衣装、陶器、折り紙、自動車模型……とジャンルは多彩。

Photo_3 本物そっくりのケーキが並んだショーケースでは誰もが「美味しそう!」と歓声を上げた。どういうバランスになっているのか、スマートに立ち上がる紙製ウルトラマンには、子ども達の眼がくぎ付けなった。

中には、父親の袖を引いて「このウルトラマン、いくらお金出したら売ってくれるだろうね」と素直な気持ちを口に出す子もいた。

歩き疲れた父母、祖父母がちょっと休憩できる部屋もあり、そこでは、幼稚園の隣のお寺(真言宗豊山派・大徳寺)に泊まる、夏のお泊まり会の様子がビデオ上映されていた。作品展でのこうした配慮も嬉しいものである。

じっくり、とっくりと作品を眺めているうちに時計は14時を回り、園児保護者の姿が消えているのに気がついた。作品展は終わったのである。「それでは私もこのへんで」と帰り支度をすると、「もうちょっと居ると、いいものが見られるわよ」と後藤園長が言った。

★平田智久教授の辛口講評

カジュアルルックで現れたのは、十文字学園女子大学(埼玉県新座市)の平田智久教授(児童幼児教育学科長)だった。造形保育論、造形表現論の権威である。その平田教授が、作品展の講評をしてくれるという。これはたしかに取材者としては絶好のチャンスだ。

「さ、ひと部屋10分ずつで回るぞ。きついことを言うけど泣かないように」と平田先生は言って、年少の部屋から歩き始めた。一行には、公設民営で同園が2007年から運営を引き受けた川口市立芝高木保育所の保育士さんたちも加わった。

Photo_4 左の写真は、魔女の暮らしを描いた年長児の作品を見ながら、そこに現れた子どもの心情などを説明する平田教授。

良いものは素直に褒めるが、展示方法などでは、「こんなのは意味がない」「これは先生が考えたな。子ども達に考えさせりゃもっと面白くなったろうに」と、手厳しい指摘を次々に繰り出す。

担任の心中を察して、私の方が泣きたくなったが、平田先生の辛口コメントに慣れているせいか、気丈な同園の先生方は、ぐっと涙をこらえていた。

ひと部屋10分で終わるわけはなく、予定時間は倍近くに延び、終わったときはすっかり暗くなっていた。先生方の表情には疲れの色が浮かんでいたが、ここで気を取り直して、幼保合同の記念写真をお願いした。

Photo_5

前列左端が後藤光純園長。エプロン姿が北川口幼稚園の先生で、黒っぽい服装が芝高木保育所の保育士さん方。

中央に飾ってある毛糸の帽子は、段ボール製の特製手編み機を使って年長さんが自分で編んだもの。この帽子をかぶって、東京ディズニーランドに卒園遠足に出かける。そんな実用作品もあった作品展だった。

★保育所でサンタさんを頼まれ

実は、この日の話にはもうひとつおまけがあった。前日の夜、後藤園長から「片岡さん、取材に来るんだったら、午前中、保育所でクリスマス会をやっているので、サンタさんをやってもらえないかしら」と思わぬ依頼があったのである。

「巷に偽サンタが溢れる今の時代、幼稚園にはサンタさんが来ない方が夢にリアリティが出る。来るなら、子ども達が本物と信じるサンタでなくてはね」というのが私の持論。それを承知での依頼である。

001 しかし後藤先生には、10本の指では足りないほど飯の恩があるので断るわけにもいかない。しかも以前、「私のサンタさんは結構リアルですよ。サンタさんで困ったら声かけてください」と私自身が後藤先生に言ったことがあるという。

「北川口幼稚園はお寺の幼稚園だ。まさかクリスマス会はないだろう」と思って言ったのかも知れないが、公設民営の保育所のことまでは気が回らなかった。

ともあれ右の写真のとおり、無事にサンタさんを演じた。衣装と長靴は保育所で借りたが、帽子とヒゲとウチワは、娘の手作りである。

たまたま居合わせたトライ社・蟹澤尚人社長が「いやあ良かった。何度も笑えた」と言っていたので、きっと本物に見えたのだろう。

隣の女性はトナカイさんを演じてくれた保育士さん。名前が思い出せないが「エリコさん」と呼ばれていた気がする。それにしてもサンタさんはここまで変装しないと、それらしくならないが、トナカイさんは頭にツノをつけるだけで立派なトナカイになる。不思議なことであった。

富水幼稚園と小便小僧と二宮尊徳

2008年12月5日(金)

小田原出身の二宮尊徳さんに栃木県二宮町で出会った翌日、神奈川県小田原市・富水幼稚園(大塚俊二理事長&園長)に出かけた。昨日の今日で思い立って来たわけではない。1ヶ月以上前から予定されていた行動である。

Photo 「それにしても奇縁だ。こんなことはめったにない。小田原駅前にはきっと二宮尊徳さんの像があるだろうから、お会いして昨日の報告をしなくては」と小田原駅を出た。

北口に、関東全域を支配した小田原の戦国武将・北條早雲の像があった。馬上の早雲が、猛牛二頭を打ちのめすという、スペイン闘牛士も呆気にとられる凄い像だ。きっと凄い人だったのだろう。

その反対側、南口に柴を背負って本を読む、お馴染みの二宮金次郎像があった。もしなかったら、「どうしてないんだ!」と騒ぎ立てるところだが、ま、事なきを得た。

Photo_2 それより驚いたのは、金次郎像の右側に素っ裸の小便小僧が立っていたことだった。しかも背後の説明には「この小便小僧は1950(昭25)年10月5日に設置されました」と書いてあるではないか。私より2ヶ月後輩の同い年である。

これまで私は、日本で最初の小便小僧はJR浜松町駅に立つ彼だとばかり思っていた(山手線右回りホームの品川寄りにある)。しかし浜松町小僧は1952(昭27)年10月14日生まれなので、小田原小僧より2歳年下になる。これは本当に意外だった。

そして浜松町小僧が、近隣のオバサンたちの手で派手な着せ替え人形になっているのに比べると、裸のままにしてある小田原市民は見識が高いと思った。小便が落ちる先にジョーロが置いてあるのは、きっと駅の花壇は、この小便を肥料にしているのだろう。このアイディアにも感服した。

Photo_3 もうひとつ、小田原駅には当然のことながら、改札口の上に大きな小田原提灯がぶら下がっていた。カマボコもぶら下がっていないかと見回したが、それはなく、代わりに本物のカマボコがそこかしこの駅売店で売られていた。しかし、どれもわが家で食べているモノより10倍以上高い。とても手が出せなかった。

北條家の小田原城、小田原提灯、小田原蒲鉾、二宮尊徳、小便小僧。とりあえずこれが小田原の五大名物と言えそうだ。

ここから小田急線に乗って三つ目、幼稚園のある富水駅で降りたとき、私は再び大きな驚きに見舞われた。なんと改札口を出てすぐのところに、「二宮尊徳記念館」の矢印が出ていたのだ。地元の人らしきオバサンに訊いてみると、ここが二宮金次郎の生誕地だという。

「素敵な記念館です。生まれた家もあります。ぜひ行ってみて」とオバサンは誇らしげに胸を張った。これは何という奇縁だろう。24時間の間に私は、二宮尊徳が亡くなった場所から生まれた場所に導かれたのである。

すぐにも記念館を訪ねたいと思ったが、到着予定時間を伝えてあるので、まずは反対方向の富水幼稚園に向かった。理事長の妻・大塚昭代副園長は、私にとって法大の学部も学科も同じ先輩である。到着時間に遅れる訳にはいかない。

Photo_4 富水幼稚園は、園児数の割にはコンパクトに凝縮された幼稚園である。温水プールからトイレまで、空間が見事にフル活用され、最新の機能、設備が組み込まれている。宇宙船には入ったことがないが、きっとこんな感じではないだろうかと思った。

もうひとつ感心したのは、さまざまなネイミングである。何しろ学校法人名が「小田原教育メディア」だ。最近は学校法人名も○○学園、△△学院でなく、「地球の広場」「こどもの森」などユニークなものが出てきている。これもそのひとつだ。メディアには、マス媒体や記憶媒体などの意味のほか、広く方法、手段などの意味を持つので、法人名としておかしくはない。しかし県の担当課は相当に難色を示したそうだ。

Photo_5 ネイミングはこれだけに留まらない。左の写真でわかるとおり「あそび塾」「ガキ大将キャンプ」「春風キャンプ」「どっぷり牛飼い体験」……など、「うまいな」と感心するものがあちこちに散見できた。

ちなみに玄関ホールで飼われている陸ガメは、子ども達の公募で「ラッキー」と名付けられていた。カメ子、カメ男などと呼ばれている幼稚園に比べると、よっぽど幸せなカメさんである。

下の写真が同園の先生方。前列右が大塚俊二理事長&園長、左が昭代副園長だ。この日の夕、お二人は私に、とある和風料理屋で高級焼き蒲鉾をご馳走してくださった。「一本1500円もする蒲鉾を一体誰が食べるのか!」と駅の売店で思ったものだが、図らずも私が食べることになった。ありがたいことだった。

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Photo_6 蒲鉾を食べる前に、幼稚園を出たその足で、二宮尊徳記念館に向かった。これが金次郎の生まれた家である。

14歳で父親、16歳で母親を亡くし、弟二人とも別れた金次郎だが、伯父の助けを得ながら1人で暮らし、20歳で生家を再興できたのもこの家があったからだろう。

Photo_8 その家の脇に壮年期の尊徳像があった。六尺におよぶ大男であったことは二宮町の像と同じだが、人相が随分ちがう。二宮町のは穏やかだが、小田原ではひどく厳しい顔をしている。尊徳の名声が高まるにつれて、それを疎ましく思う藩上層部もいたとのことなので、小田原に帰るとおのずと厳しい表情をしていたのかも知れない。

約1時間、記念館の中をゆっくり見て、さて出ようとしたら、外は突然の暴風雨。車で来た人も、目の前の駐車場に行けないほどの嵐だった。やむなく私は展示室に戻り、それからさらに2時間近く、尊徳の資料や文献に目を通すことになった。

そんな時ならぬ嵐も含めて、妙に運命的な出会いではあったが、展示資料を見るほどに、「私には二宮尊徳のような生き方はできない」と、はっきり思った。

せんだん幼稚園と二宮尊徳と二宮大仏

2008年12月4日(木)

栃木県二宮町・せんだん幼稚園(荒木龍胤理事長、荒木由紀子園長)を10年ぶりに訪ねた。千葉から栃木と言えば比較的近そうに見えるが、これがけっこう Photo_10 大変で、JR総武線、武蔵野線、常磐線、関東鉄道常総線、真岡鐵道と乗り継ぎ、わが家を出てから幼稚園に着くまでに3時間30分かかった。

右が、茨城県・下館駅と栃木県・茂木駅を結ぶ真岡鐵道のジーゼル列車。同線は週末に本物のSL(蒸気機関車)が走ることで知られているが、ふだんはこんなハデな列車が走っている。

Photo 久下田駅前から曹洞宗・芳全寺(同園の母体)そして幼稚園に続く林の小道への曲がり角に銅像が建っていた。

10年前は、意識が「幼稚園に、幼稚園に」とばかり向いていたので、途中の景色にはあまり目が向かず、こうした銅像も見落としていたが、ようやく最近になって視界が広がるようになった。

近づいて人物の名前を確認すると、二宮尊徳さんだった。本を読みながら柴を運ぶ像しか知らなかったので、壮年期の貫禄ある姿は意外だった。

説明文を読むと、苦学して成人した金次郎は、小田原藩領内の農業振興の功績で藩士・二宮尊徳になり、その手腕を買われて遠く離れた同藩領地のこの地(当時の名称は桜町)の開拓を命ぜられた。1822(文政5)年、尊徳37歳のときである。

ここでも尊徳は、寝食を忘れ、リーダーシップを発揮して人々を奮起させ、荒れ地を開墾してみごとな農村地域をつくりあげた。そこで町の名が二宮町になったということである。これまで飽きるほどその名を聞き、姿を見てきたのに、この石碑を見て初めて、尊徳さんの生涯を知った気がした。銅像に向かい、「大変失礼しました」と頭を下げた。

しかし、二宮尊徳ゆかりの二宮町は2009年3月に消滅する。合併して真岡市に組み入れられてしまうからだ。「申し訳ありません」ともう一度頭を下げた。

さて、せんだん幼稚園である。「栴檀は双葉より芳し」という言葉は、「三つ子の魂百までも」と同じように幼児期の才能の芽を示す言葉なので、もっと幼稚園名に使われて良さそうなものだが、今のところ、ここが日本でただひとつの「せんだん幼稚園」である。

Photo_2 芳全寺と幼稚園の間には山門があり、子ども達はこの山門をくぐってやってくる。この日は参観日だったので、お母さん、お父さんも山門をくぐってきた。

その山門の脇に大仏様が座っている。千葉県の鎌ヶ谷大仏より二回りほど大きい立派な大仏だ。建立されたのは1742(寛保2)年。二宮尊徳さんが赴任する80年前からこの地を護っていたのである。

Photo_4 これが正面から見た大仏様。いい顔立ちをしている。ところがこの大仏様、阿弥陀如来という他の大仏様と同じ正式名は持っているものの、鎌倉大仏、高岡大仏というような通り名をもっていない。

「名所になりそうなニックネームをつけてあげましょうよ。消えゆく町名を残す意味合いも込めて“二宮大仏”でどうでしょう」と荒木理事長(&住職)に提案してみたが、前向きに検討してくれることを期待したい。園児保護者らから名前を募集するのもいいかも知れない。

幼稚園の参観は、朝の運動サーキットから始まった。運動ローテーションとも呼ばれているもので、跳び箱、マット、鉄棒、ボール投げ……など、いろいろな運動に順番にチャレンジしていくもので、子ども達の朝の体を一気に活性化させていく効果がある。

Photo_5 このスタイルを取り入れている幼稚園は多く、珍しい光景ではないが、さすがに大仏様の足元で竹馬の練習をしているのは、ここでしか見ることはできない。

約30分のローテーションが終わると、山門に向かって整列し、一礼して声を出す。子ども達の視線の正面に本堂がある。この上ない借景で、仏教教育の厳粛さが漂い、子ども達の表情も凛々しく頼もしく見えた。

芳全寺は檀林(僧侶の学校)のひとつで、江戸から明治にかけては常時200人の修行僧が学んでいたというので、その空気が子ども達の体を包み込んでいるのかも知れない。

Photo_6 写真は荒木龍胤理事長と由紀子園長のご夫妻。その間にある「大育(大きく育て)」が、丈夫な体、健康な心をめざす同園のモットーである。

せんだん幼稚園の様子は、後日『月刊・私立幼稚園』の幼稚園レポートで詳しく紹介したいと思う。

帰りもまた真岡鐵道に乗ろうと思ったら、荒木理事長が、JR宇都宮線の小金井駅まで自動車で送ってくれた。ここからだと、上野経由でも南浦和経由でも往路より1時間以上短縮できる。ありがたいことだ。

Photo_7 だからさっさと帰ればいいのに、ここに来るとどうしても寄りたい店がある。駅前にある「セーソンイ」という韓国料理屋だ。在日韓国人夫婦がやっている、カウンターだけの小さな食堂だが、ここの料理が安くて旨い。

これがこの日食べたキムチチャーハン。銀の箸とスプーンで食べる。これで550円はお値打ちだ。

Photo_9 満足して帰ろうと思ったら、駅前に可愛らしいバスが止まっていた。どこかの幼稚園のバスかと思ったら、そうでもなさそうで「おー(O)バス」と書いてある。

発車間際だったが、運転手さんに「おーバスの意味は何ですか?」と訊いてみると、待ってましたとばかり嬉しそうに「小山市が自主運営しているバスだからだよ」と教えてくれた。納得である。となると、地元の下野市が自主運営すると「シー(C)バス」になるのだろうか。

ジャクパ経営セミナーと柳カレイ

2008年11月27日(木)

同日後半の話である。15時、(株)ジャクパが主催する経営セミナーが始まった。

Photo 開催地がいわき市になったのは、ここが五十嵐社長(写真)の出身地で幼少年期を過ごした場所だったからだ。その故郷にようやく同社の支部を開設できることになり、地元関係者への顔見せをかねて開催したわけである。

「故郷に錦を飾る」という大袈裟な意味合いではなさそうだが、自分が生まれ育った場所、つまり自分の原風景がある場所で、今の自分がひとつの仕事をできる充実感はわかる気がする。事業を展開するリーダーにとってのモチベーションであり喜びなのだろう。

Photo_2 セミナーのメインスピーカーは千葉県船橋市・健伸幼稚園の柴田炤夫理事長(写真/元全日私幼連副会長)。テーマは「今、私立幼稚園が取り組む夢とチャレンジは何か」。“厳しい、苦しい”と言われ続けている私立幼稚園がめざすビジョンを提起するものとして注目された。

この中で柴田氏は「園長は園庭の木陰から、遊んでいる子ども達と先生の姿をただのんびりと眺めているのがいい。そこに、何かを見つけた子が来る。何かを思いついた子が来る。それを園長は驚きながら受け止めてあげる。そのほのぼのとした光景こそ幼稚園の原点だ」と語り始め、「幼稚園はみんなが夢を描き、夢を語り合う場所。だから楽しい。その楽しさがあれば必ず人は集まってくる。勇気をもって原点を取り戻そう」と結んだ。

30年余り前から「幼稚園のロマンを語らせたら右に出る者はいない」と言われた柴田先生だが、そのロマン派ぶりはまだまだ健在だった。

しかし考えてみると私は、幼稚園に出かけると朝から夕方まで、園庭や部屋の片隅から、まるでお地蔵さんになったように子どもと先生の様子を静かに眺めている。園長さんのように電話に出たり、書類を書いたりする必要もないので、ただただボーッと眺めている。それがこの上なく楽しいからだ。もちろん好奇心の強い子どもは近づいて来て、いろいろな話を聞かせてくれる。「柴田先生が言う理想の園長に一番近いのは、もしかして自分かも知れない」と一人ひそかにほくそ笑んだ。

その後、不肖マルガリヤ編集長が「25年後の私立幼稚園、その10のイメージ。未来に生き残る三つの経営キーワード」などという少々生々しい話をさせてもらってから、軽食とドリンクを交えながらの懇談会となった。あちこちに3人、4人と人の輪ができ、会話が弾んだ。

Photo_3 この写真はその一コマ。左が福島県いわき市・平第一幼稚園の志賀文岳理事長、中が栃木県下野市・むつみ愛泉幼稚園の小倉睦美理事長だ。

志賀先生の父親は旧全国学校法人幼稚園連合会(全法幼)の副会長を務めた志賀創先生(故人)、小倉先生の母親は栃木県団体の事務局長を長く務めた小倉みき枝先生(故人)である。

その二人の親から、当時全法幼の経営委員長、総務委員長などを務めていた柴田炤夫先生は、叱咤激励を受けて鍛えられてきた。それを今は、柴田先生が息子と娘にお返ししている。人の繋がりとは本当に面白いものである。この写真を撮りながら、不肖マルガリヤも、三人の背後にたくさんの人が笑っている光景を認めて「俺もトシをとったものだな」と呟いた。

懇談会がお開きになったとき、志賀文岳先生から「片岡さん、もう一軒行こう!」とお誘いがかかった。ありがたいことである。

「あんたは、オヤジとはよく飲み歩いていたな。だからきっとサンマの刺身やウニの貝焼きは食べたことがあると思う。だけど、もうひとつのいわき名物“柳カレイ”は食べたことがないと思う」と、その名もズバリ「柳」という割烹料理屋に連れて行ってくれた。

Photo_4 席に着いてすぐに柳カレイを注文し、他の料理が全部なくなった頃にようやく登場したのがこれだ。それだけじっくりと遠火で焼いてくれた日本最高級の干物である。壁に値札を貼り付けているような店でないので正確な値段はわからないが、おそらく一皿2500円は下らない一品と察せられた。

わが人生の最初で最後になる柳カレイであることは間違いないと思い、大切に噛みしめ、骨もピカピカにしゃぶったが、さすがに品の良い味と歯触りに頭が下がった。

平城とキジ重と大国屋の宝くじ

2008年11月27日(木)

福島県いわき市に出かけた。鈍行列車を乗り継いで4時間45分。長谷川卓の時代小説を1冊読み終えることができた。

やってきたのは、幼稚園に体育講師や英語講師を派遣する(株)ジャクパ(五十嵐勝雄社長/本社=東京都小平市)が主催する園長セミナーがこの日行われ、その講師に千葉県・健伸幼稚園の柴田炤夫理事長と不肖私が指名されたからだった。

意図したわけではないが、ここ数年、年に1度は柴田&片岡のコンビでセミナーをする機会があった。「これからも年に1度はやりたいですね」と二人で話していた。しかし今年はなかなかそのチャンスが作れず「無理かな」と思っていたところに、ジャクパ社から話がきた。ありがたいことだった。

そのいわき市がどんなところか、例によってセミナー開始までの時間を生かしミニ探索をしてみた。あいにくの雨になったが、そんなことにめげるマルガリヤではない。バッグから折りたたみ傘を取り出し、駅裏の平城趾を目指した。

Photo その前に、駅を出てすぐ目に付いたのは山腹にそびえ立つ人物像だった。その姿は、まるで崖下の線路に身投げするようにも見える。崖沿いの階段を登って名前を確認すると、鈴木辰三郎という人だった。

村会議員から郡会議員、県会議員、衆議院議員と政治家の道を着実に登った人で、戦後は戦災を受けた平市(現いわき市)の初の民選市長に当選し、その復興整備に力を尽くしたと石碑に書いてある。

こんな大きな銅像が立つのだから偉大な人に違いないが、食堂の女将、ホテル従業員、地元の園長さんら、その後出会ったいわき市民に「鈴木辰三郎さんってどんな方だったのですか?」と訊いたところ、どれも「え?誰それ」という答だった。

さて肝心の城である。龍ヶ城とも呼ばれた磐城平藩の「平城」跡は、市長像のさらに上、山の頂にあった。ところが地図上の確認で「ここで間違いない」と思われた場所は、何の表示もなく、門が閉められていた。

「どうしてこんなことを?」と思いながら門の内側に手をいれて鍵をはずし、歌碑と稲荷神社と城壁の一部だけが残る無残な城跡に足を踏み入れた。すると管理人とおぼしき年配夫婦が敷地隅の家屋から出てきて、ジッと私を見つめた。それは明らかにトゲのある視線だった。

「何と陰険な管理人夫婦だ。しかも門を閉めて、一体何やってるんだ?仙台藩・伊達政宗に睨みを利かせるための城だったとはいえ、来訪者にまで睨みを利かせることはないだろう」と睨み返したが、夫婦はひるまず強烈なトゲトゲ視線を発し続けた。

後でわかったことだが、その由緒ある城趾の土地は、回り回って今はその夫婦の個人所有地になっているとのことだった。「そうだったのか」とは思ったが、「それならそう言ってくれればいいのに、あんな睨み方はおかしな誤解を生むだけだ」となおさら腹が立った。

Photo それはともあれ、右の写真が城跡から見えたいわき駅周辺の景観である。左の白い建物が駅前ビル、右の黒いビルが今日のセミナー会場、ワシントンホテル。どちらも10年前にはなかった。お城があった400年前、磐城の殿様が眺めた城下の家並みはどんなだったろうと思ったものである。

そこからブラブラと歩いていくと拘置所があり、その真向かいに飯野八幡宮という立派な神社があった。きっとお城とも縁がある由緒あるお宮なのだろう。

Photo_2 本殿から声が聞こえたので覗いてみると、白装束の女性神官が1人、短冊飾りのついた杓を打ち振りながら祈りを捧げていた。と言っても、映画でよく見る新興宗教の教祖や、ワラ人形にクギを打ち付ける狂乱的なものでなく、優雅に落ち着いたものだった。

神官は最後に、本殿隅の太鼓を三度叩いた。そのとき私と目が合った。年の頃は40代半ば、下ぶくれのぽっちゃりした顔立ちだ。頬を染めるわけでも睨み付けるわけでもなく、彼女は私に向かってゆっくりと頭を下げた。その優美さと品格で、私の足元はフラッと揺らいだ。

Photo_3 拘置所の隣にラジオ電波塔があり、その正面の通りの突き当たりに県立磐城高校があった。創立113年の名門校だ。校舎にもその風格が漂っていた。

なんと言っても1971(昭46)年の夏の甲子園決勝。引き分け再試合で1対0で惜敗した“小さな大投手・田村隆寿”の姿が忘れられない。その2年前、青森県・三沢高校、太田幸司投手の悲劇を繰り返し、優勝旗をみちのくに運ぶことができなかったのだ。あの田村投手、その後は同校や聖光学院の野球部監督をしていたと聞くが、今は何をしているのだろうか。

ラジオ電波塔まで戻ってきたとき、脇に挟んでいた地図がなくなっているのに気がついた。どこかで落としたようだ。パソコンからプリントしたA4で3枚綴りのものだが、これがないとセミナー会場にたどり着くまでに時間がかかるかも知れないと思い、磐城高校への道を戻った。

Photo 案の定、道の真ん中に落ちていた。雨でグッショリと濡れている。タオルで水気をぬぐったがインクが滲んで判別しずらくなった。それでもないよりは心強く、ホッと安心した。ふと脇を見ると、バス停跡とおぼしきベンチの後ろに、昔懐かしい映画の宣伝ボードが立っていた。しかもその一部は今も使われていた。

子どもの頃は、こうしたバス停の宣伝ボードや銭湯のポスターを飽かずに見つめ、たくましい想像力を働かせて映画を観た気になっていたものである。地図を落としたおかげで懐かしい光景に気づくことができた。

Photo_2 城山をぐるりと回って下りてきたところに子鍬倉稲荷神社があった。珍しい名前で、しかも大鳥居と長い石段を持つ規模の大きな神社だ。きっと由緒ある神社だろうと思うが、その起源や謂われはどこにも書いてなく、インターネットでも何もわからなかった。

駅を出た時から空腹を覚えていた。朝から何も食べてなかったからだ。できれば何か田舎料理でもと思って歩きながら探していたが、駅裏のせいか蕎麦屋もファミレスもコンビニも見あたらず、ようやくホテルのすぐ手前の路地に「鳥料理ちゃぼ」という店を見つけた。

Photo 午後2時すぎ。暖簾はかかっていたものの店内に客の姿はなく、“休憩準備中”かと思ったが、カウンターで新聞を広げていた女将が「いらっしゃいどうぞ」とにこやかに迎えてくれた。

壁のメニュー札の一番最初にある「キジ重 900円」を注文した。「メニューの配列をみると、これがこのお店のお薦めのように見えるのでね」と言うと、「そのとおりなんです」と、女将はうれしそうに雑誌数冊とスクラップブックを、お茶と一緒に私の脇に置いてくれた。付箋のついているページを開くと、どれも“ちゃぼのキジ重”を紹介する投稿記事だった。

「お金を払っての宣伝じゃありません。頼んだわけでもありません。お客さんが勝手に原稿を書いて送ってくれているんです。掲載された雑誌は、書いたお客じゃなく、ほかのお客が見つけて持ってきてくれるんです。ありがたいことです。ここで50年やってきたおかげです」と女将は言ってカウンターの奥に引っ込んだ。くどくどと自慢話をしないところが麗しいと思った。

Photo_2 これが出てきたキジ重である。素材を生かしたあっさりした味付けが好感だが飛びきり美味しいというわけでもない。控えめな焼きダレはご飯にまで染みておらず、そのご飯もローカル都市の食堂とは思えないほどうっすら少量だった。

人によっては、甘辛い照り焼きダレがご飯に染みこんだホッカホカ亭の「キジ焼き弁当」の方が美味しいと感ずるかも知れないと思った。

食べ終わった盆を片付けに来た女将に、雑誌を見ながら「これだけ多くの人がこのお店を紹介してくれるのは、きっとお店の人達の気持ちの温かさを感じたからでしょうね」と言うと、女将は茶を注ぎ足しながら「どうぞごゆっくり」とにっこりうなずいた。

ほどなくして、「良かったらどうぞ」と、香り豊かなコーヒーを運んできた。「いや、そんなつもりで上手を言ったわけではないのですが……」と頭をかくと、「どなたにもお出ししているものです。心配なさらずに」と言ってくれた。

淹れたての本格コーヒーは文句なしに美味しかった。これをもし、ワシントンホテルのラウンジで飲んだとしたら、600円は下らないはずである。つまり私はわずか300円でキジ重を食べことになってしまう。食べ物の味にはそんなに差があるものではないが、店に対する愛着とは、こんなところから湧いてくるのだろうと改めて思ったものである。

探索と食事が終わり、さてホテルに入ろうと思ったら、玄関脇の宝くじ売り場にビックリするほどの長蛇の列ができていた。まるで有楽町・日劇前の騒ぎである。

警備の人に「これは一体?」と訊いてみると、かつていわき市にはヨーロッパ風白亜の建物を誇る「大国屋」という1901年創業の老舗百貨店があり、そこの宝くじ売り場が「よく当たる」と評判のスポットだったそうだ。大国様という縁起がかつがれたのかも知れない。

Photo_3 しかしその大黒屋は2001年5月に、何の前触れもなく突然倒産した。何かに当たったのだろう。結果、市民の強い要望を受けて、宝くじ売り場だけがワシントンホテル椿山荘に引き継がれ、大国様のお社(写真)も玄関前に鎮座することになったそうだ。

「それじゃ私もここで買っていこうか」と一瞬考えたが、30分近く並ぶ必要があると聞き断念した。

売り場が継続されたと言っても、このホテルの場所に百貨店があったわけではなかった。

ホテルから東側の通りに目をやると、100メートルほど先にイスラム教のモスクともおぼしきドーム屋根の建物がふたつ並んでいた。奥の大きなドームPhoto_4 屋根はいわき市文化センターで、ドームは巨大なプラネタリウムだという。手前のシンドバッドの宮殿のような建物が結婚式場「ベルマシェリ」で、ここに白亜の百貨店があったそうだ。大国様は縁結びの神様に転身したわけである。

自民党陳情会と全日私幼PTA大会と「はいチーズ!」

2008年11月19日(水)

★地元国会議員に要望書と花束

赤坂プリンスホテルで、全日私幼PTA連合会(森喜朗会長)の全国大会が開かれたこの日、例年、参加する各県の代表団はこの機会を利用して地元国会議員に独自の陳情を行うことが多い。場所は同ホテル内のほか、議員会館、自民党本部などが利用される。

まさに寸暇を縫っての交流だが、議員の側からすると、たとえわずかな時間でも顔を合わせることは、「地元の人達からこういう声を何度も聞いているんだ」という言葉に裏付けができ、折衝行動にも迫力が生まれるのである。

2年前までお世話になった愛知県の一行が自民党本部で行うというので、その様子を見学した。

Photo_13 新幹線で東京駅に到着した一行は、現役保護者代表を含め計20人。これが全日私幼連から愛知県に割り当てられた人数だ。全国大会の準備の合間を縫って全日私幼連の吉田敬岳会長(愛知県会長、名古屋市・自由ヶ丘幼稚園理事長/写真中央で立っている人)も駆けつけた。

一行が自民党本部に到着したのが10時30分。6階の会議室に入るとすぐに、愛知県選出の自民党衆参議員17人が、まさに入れ替わり立ち替わりで現れ、幼児教育充実振興に向けての決意を語る。

Photo 挨拶が終わると、選挙区の母親代表から要望書と花束をもらい、お弁当を食べながら、他の議員の話を聞いたり懇談を深めたりする。議員さんのスケジュールは多忙で、要望書をもらうとすぐに退席する人も多かったが、それでも秘書の出席は4人だけで13人は議員本人が出席した。自民党本部ならではの数字と言える。(右の写真で花束を受け取るのは、第7区選出の鈴木淳司代議士)

★県全体に「親学実践」の広がりを

愛知県の要望書の中身は5項目。「経常費補助金」「特別支援教育補助金」「耐震補強工事の補助金」「授業料軽減補助金」の増額要望が並ぶが、中にひとつ「子どもの視点に立った親学実践のための機会を県との連携の中で与えてほしい」というのがある。

これは(社)愛知県私立幼稚園連盟が3年越しで取り組んでいる親学の研究と実践活動を、私立幼稚園の枠を超えて県内全域に広げていきたいというもので、愛知県独特のものである。

Photo_2 ところで、これが自民党本部の厨房で作ってくれたお弁当だ。食べずに帰る議員さんが何人もいたため、私もご相伴させてもらうことができた。ありがたいことだった。

焼き鮭、野菜煮付け、エビフライ、ヒレカツ、サラダ、ポテト、お浸し、漬け物、ご飯という内容。国会議員さんはもっと豪華なものを食べているかと思ったが、一般庶民もよく見かける内容でちょっと安心した。しかし議員さん用と思ったせいか、とても美味しく感じた。気のせいだろうか。

お昼ご飯も済んだところで、最後の一人、自民党愛知県連会長の大村秀晃代議士が駆けつけてきたので、全員で記念写真を撮った。前列が現役お母さんの代表。後列左から7番目が大村議員。このときには、吉田会長は「今日はサプライズがあるよ」と言い残して、全国大会の会場に戻っていた。

Photo_3

「おや、隣でも似たような会合をしているぞ」と覗いてみると、そこは静岡県私立幼稚園協会(相田芳久会長=焼津豊田幼稚園園長)の陳情会場だった。愛知と静岡、隣同士の県が自民党でも隣同士になっていた。

Photo_5 しかしスタイルは少し違っていた。 国会議員の顔ぶれが揃ったところで相田会長が立ち、静岡県の現状や要望内容について説明を行った。

特に、公益法人制度の改正に伴う教職員退職金社団の改革などについて、その対応協力を求めたのが注目された。

★勘違いのおかげで耳の痛い話しが聞けた

このあと、愛知県と静岡県の一行は赤坂プリンスホテルに歩いて移動し、PTA全国大会に臨んだ。その内容は幼稚園情報センターHPの「私幼ヘッドライン」に掲載するので見てほしいが、吉田会長が「サプライズがあるよ」と言ったのは、坂東眞理子さん(昭和女子大学長)の基調講演の後、急遽、麻生太郎首相がやって来たことだった。

Photo_6 長いPTA全国大会の歴史の中で、総理大臣が出席してくれたのは初めてである。森会長が総理のときも欠席だった。麻生氏はこれまで、政調会長あるいは閣僚としてほぼ毎年、この大会に出席していた。その繋がりがあってこその芸当だったのだろう。

しかし開口一番、「皆さんが困っているのは子どもじゃなくて、その後ろにいる親でしょ」と言った。しかもその話題を何度も繰り返したことから、翌日の新聞で「麻生首相、幼稚園のPTA大会で勘違い」と書かれた。

Pta 首相が勘違いしていることは会場の誰もがすぐに気づいた。しかし、幼稚園の大会と言われて来てみて、背広姿の年配紳士が多いのを見れば園長さん達だと思う。そうすれば女性の姿を幼稚園の先生だと思っても仕方はない。首相になってからの多忙スケジュールで、これまで毎年出ている大会であることも失念してしまったのだろう。

しかし会場にさほどの違和感はなかった。逆に言えば、勘違いしたおかげで、母親におもねる話しではなく、思い切り耳の痛い本音を聞いてもらうことができたと言える。怪我の功名であった。

★若いビジネスマンの穏やかさに驚いた

PTA大会の後私は、代々木に向かった。自民党から共産党に寝返ったわけではない。代々木に本社がある千(株)の面々と会うためだった。「はいチーズ!」の名前でお馴染みの、幼稚園で写真を撮影し、ネット販売している会社である。

「一度編集長のお話を聞かせてほしい」との要請があり、それなら私が長年贔屓にしている代々木駅前のトンカツ屋「代々木庵」で会おうということになった。

Photo_7 写真は左から大阪府門真市出身の営業部マネージャー・杉浦高廣氏、東京都大田区出身の千葉伸明社長、北海道函館市出身の不肖編集長、福島県郡山市出身の営業部リーダー・相樂卓宏氏。三人とも20代の若手バリバリ、と言うより私にとって息子と同じ世代の人達だ。皆私立幼稚園卒園児というのも嬉しいことだった。

三人とも私のバカな放浪話を飽きずに聴いてくれ、「やっぱり幼稚園っていいですね」と相づちを打ってくれた。

しばらくして、心配になった私の方から「ところで、今日の本題は何なんだい?」と訊いてみた。すると千葉社長は「特に何もない。ただ片岡さんの話しを聴きたかっただけです」と言う。これには驚いた。

通常こうした場合、企業の人たちからは「今度こんな新製品を幼稚園向けに売り出したいが、どうアプローチしたらいいだろう」「○○県に進出したいと思うが、どのへんからアタックしたらいいだろう」との質問が矢継ぎ早に飛んでくるからである。

当然この日もそれを覚悟していたが、その気配がまったくなかった。「この若いビジネスマンの穏やかさは一体何なんだろう?」と考え込んでしまった。と同時に、私と同年代の、鼻息荒く、商売っ気丸出しでガツガツ迫ってくるビジネスマンには大いに反省してもらいたいと思ったものである。

あおぞら幼稚園と園舎建て替えと佐々木司

2008年11月17日(月)

★旧園舎とのお別れ会

山形県山形市・あおぞら幼稚園(佐々木司理事長、佐々木由紀子園長)を訪ねた。

同園は今、園舎建て替え工事の真っ最中。ふつうはそんな時に“ぶらり訪問取材”などしない。完成して落ち着いた頃に来るのが常識だ。かといって、山形に来たついでに寄ったというわけではない。

Photo_3 2ヶ月前、新園舎の一部ができあがって園児が移動したので、旧園舎が取り壊された。そのとき行われた「園舎お別れ会」の様子を、広報担当の原田真央子先生(写真)が、写真を添えた手書きの手紙で知らせてくれた。

これはもう“早く来てほしい”のサインに違いない。出かけなくては男がすたる。しかしそう簡単に電車賃は工面できない。「11月に山形に出向く予定が入っている。そのときまで待ってほしい」となったわけである。以下に本人の了解を得て、原田先生からの手紙を紹介する。

《原田真央子先生からの手紙》~~~~~~~~~~~~~~

9月12日(金)に「旧園舎お別れ会」を行いました。約1時間の会でしたが、理事長先生、園長先生のお話、ご来賓(小学校校長、地域有力者、保護者会役員ら)の挨拶の後、教職員有志が「あおぞら幼稚園の歩み」をペープサートで演じました。

001 30年前、最初はたった1人の園児から始まったこと、それからたくさんの子ども達がここで暮らし、遊んで、いろいろな思い出を刻んできた園舎。先生方の苦労と喜びが染みこんだ園舎。でもだいぶ傷んできたので、寂しいけれど建て替えをすることになった、などを子ども達に伝えました。

それから思い出の写真(園の周囲が田んぼだった頃、バスの移り変わり、理事長、園長の若かりし姿など)やビデオをまとめたDVDを上映しました。なぜか懐かしさとともに、笑いが絶えませんでした。

子ども達からは、今までたくさん遊べた園舎に対し、感謝の気持ちを込めて「みんなみんなありがとう」の歌を、あおぞら幼稚園バージョンに変えて歌いました。

最後に、教職員代表の「お別れの言葉」を佐々木僚副園長が話しましたが、「この園舎がなくなると、初代理事長夫妻(大沼一夫・カツエ先生=2人とも故人)が本当にいなくなりそうで寂しい」と涙ぐみました。

でも私は、きっと創設者ご夫妻も、新しいあおぞら幼稚園の誕生を喜んでいてくれると思います。

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Photo_4 右の御仁が涙ぐんだ副園長(理事長・園長夫妻の長男)。その前にあるのが新園舎の完成模型だ。コの字形園舎の東ウィング、旧園庭に建てていた保育室棟が完成したため、園児がこちらに移り、今は旧園舎の跡にホール棟と管理&コミュニティ棟を建てている。2月末までには完成の予定だ。

つまり最近はやりの、仮園舎を建てずに工事現場を見ながら暮らしていくスタイルである。しかし新園舎に移ったとはいえ、玄関の位置その他使い勝手は応急処置、荷物もあれこれ運びこまれ、職員室はプレハブ……と仮園舎状態だ。だからこんなときに取材に来てはいけないのだ。しかし、そんなことは気にせず歓迎してくれるのが、あおぞら幼稚園の良いところなのである。

「だけど理事長は、昨日も宴席がいくつもあって、ヘロヘロ状態で帰ってきた。今朝、顔を出すかどうかはわからないな」と僚副園長は心配な顔をした。理事長は山形県私立幼稚園協会の会長を務めているので、さもありなんだ。前日の日曜は私幼経営者の葬儀と会員幼稚園の創立50周年祝賀会があった。

Photo_5 しかし佐々木理事長は元気に現れ、「お、来だか。昼飯は俺と食うべ」と、いきなり朝9時から昼飯の話をしてきた。左の二人が山形名物の“あおぞら夫妻”。この二人の顔を見るだけで不安が消え、笑いがこみ上げるという効力を持っている。

とりあえず、新&仮園舎の中を見せてもらった。クラスの区分けはあまりはっきりしていないオープン方式で、主に年少が生活するゾーンが薄ピンク、年中が薄イエロー、年長が薄グリーンと分けてある。壁やトイレの色がそのように塗られているが、園児に訊いてみても皆キョトン。子ども達にゾーンやカラーの意識は薄いようだ。

Photo_6 朝の自由遊び。年長のゾーンではテーブルを囲んでハガキを書いているグループがいくつかあった。郵便ごっこがブームなのだという。

「年賀状は早めにだね」「ちがう」「あ、そうか、クリスマスカードか」「ちがう」と、女の子からは素っ気ない返事だったが、「わかった、ラブレターだ」と言うと「ちがう!そうじゃない」と怒って追いかけてきた。どうやら図星だったようだ。

Photo_7 表面に郵便番号と名前を書き、切手(特製シール)を貼ってポストに投函すると、郵便屋さん担当の子がバッグに入れて相手に届けてくれる仕組みだ。

10時半、そんな郵便ごっこを片付けて、年長さんが長靴をはいて外に出た。バスに乗って、山の野菜畑まで大根掘りに行くのだという。同園は車で15分ほどのところに広い畑を持っていて、いろいろな野菜を育てている。もっぱら畑仕事を担当するのは理事長で、早朝に畑に行けば確実に理事長に会える。

続いて年中さんも長靴をはいて外に出た。こちらは歩いて行けるお花畑に行ってチューリップの球根を植えるのだという。

Photo_8 後に残ったのは年少さんだけ。園内が急に静かになった。そこにやってきたのが、リトミックのベテラン講師・菅野豊美さん(全日本リトミック音楽教育研究会・山形県支部長)。毎月1度、年少児のもとにやってくる。

ピアノの前に座ると、菅野さんはさっそく秋の歌を歌う。きれいな歌声に子ども達は聴き入る。やがて秋風と森の帽子屋さんのドラマが展開され、先生の歌とピアノに合わせて、子ども達は木の葉や帽子になって部屋の中を動き回る。

Photo_9 最後に子ども達は、両手にクレヨンを何本も握って画用紙に向かい、自分の体でイメージした秋の風を描き始めた。

次々に芸術的な抽象画が完成し、先生に見せに行く。そのたびに菅野講師は「うわー素晴らしい!」「立派な風だ」「やさしい風ね」と声を上げ手を叩いた。

そのリトミックが終わる頃、大きな大根を1本抱えた年長さんがバスで帰ってきた。今年の大根は出来が良いようだ。

Photo_10 「どんな大根の料理が好き?」と訊くと、答は「オデン!」と「サラダ!」に分かれたが、オデン派の方が上回った。山形の子ども達は和風なのである。

先生やバス運転手さんたちも、軽トラック一杯になるほど大根、白菜、カブ、長ネギを収穫してきたが、これは「スープの日」と呼ばれるお母さんのクッキングデーで、スープとサラダに調理されるそうだ。

工事現場を取り巻くフェンスに、小さめの運動会報告ポスターと園児募集ポスターが並べて貼ってあった。パソコンで作った手製のものなので、雨でインクが流れないようビニールの袋に入っている。

Photo_11 右のピンクのポスターに描かれているのが同園の不思議なマスコットだ。大きな帽子のおかげで顔が見えない。帽子の下は、イヌなのかイモなのか、はたまたペンギンなのか、謎の人物である。

このマスコットのことも原田先生が教えてくれた。10数年前、佐々木理事長が東京に出かけたとき、街で偶然これを見つけ、原案者の了解を得て使っているのだという。依頼して作ってもらったものではないのである。

残念なのは、この帽子の人に名前がないことだ。できれば新園舎落成を記念して名前をつけてほしい。「怪傑ゾラ」なんてどうだろう。

Photo_12 そんな話をしていたら、あちこち用足しに動いていた佐々木理事長が戻ってきて、「おら、昼飯にいくべ」と吠えた。「最近できたんだけど、けっこう旨いんだ」と案内してくれたのは「上海厨房」というラーメン屋。注文したのはズーラタンメン(840円)という聞き慣れないものだった。

これがまた量がたっぷりな上に熱くて激辛で、私はヒーヒー唸った。佐々木先生は何事もないようにサッサと食べる。舌の皮が厚いのだろう。「なんだおめえ遅いな、は」と何度も言われながら、私は倍くらいの時間をかけてやっと食べ終えた。

10年ほど前、やはり大根掘りに遭遇したとき、帰りの新幹線に乗り込む私に、佐々木先生が、葉つき、泥つきの超立派な大根を三本も持たせてくれたことがあった。しかし、いかに立派でも東京駅に着いてからのことを考えると目まいがした。

「先生、これは勘弁してくださいよ」と真剣に頼んだが、「ダメだ、おめえにはこのくらいの修行が必要なんだ」と聞き入れてくれなかった。どんな思いをして東京駅から夕方のラッシュ電車に乗ったかは想像にお任せしたい。

幸い今回はそんな試練をのがれたと思ったが、激辛ラーメンが新たな修行だったようだ。

南山形幼稚園と大もちつき大会と城下町山形(その2)

2008年11月16日(日)

★モチ米三俵を10台の臼でつく

山形県山形市・南山形幼稚園(菅藤哲朗理事長&園長)の餅つき大会にやってきた。ちょうど1年前、名古屋で全日私幼連の設置者園長全国研修大会が行われたとき、「幼稚園で餅つき大会を済ませてから駆けつけた」という菅藤(かんとう)先生からその様子を聞き、「来年は是が非でも行かなくては」と約束した1年越しの取材だった。

米三俵(180㌔)を10台の臼でつくというスケールの大きさだったからだ。(【注】臼の助数詞は「据え」なので、正しくは10据えの臼となるが、ここではわかりやすく台とした)

Photo 「雨天決行」とのことで無駄足になる心配はなかったが、できれば晴れてほしかった。しかし無情にも夜明けからポツポツと降り始め、8時に集合したお父さんたちの最初の仕事は、園庭に5つのテントを立てることだった。

ほぼ園児全員の両親が手伝いに来ているので人手は十分。テントはアッとという間に立ち上がった。これで雨が強くなっても大丈夫だが、幸いにもポツリポツリの状態が続き、テントに駆け込む状態はなかった。

Photo_2 開会セレモニーが済んで、餅つき大会が始まり、園庭から地鳴りのような歓声が沸き起こった。集まった人数、モチ米の量、臼の数からして、とても「餅つき大会」では済まされない。規模の大きな運動会に「大」をつけるように、「大もちつき大会」と、まさにダブルビッグなイベントだった。

10台の臼はクラスごとに振り分けられ、幼稚園が8台、保育園が2台である。4年前に建て替えられた園舎は、社会福祉法人・南山形すくすく保育園との合築園舎で、こうした大きな行事は幼保合同で行うのである。

保育園は0歳から年長まで6クラスあるが、臼杵セットで参加するのは年少からで、これを二つに分けた。

Photo_3 ひとつの臼が1回に4.5㌔ずつ、計4回つくが、最初の臼は、地元町内会の役員さんら応援に来てくれた来賓や先生方に食べてもらうとのことで、各臼ともつき上がると杵つき棒で高々と捧げ上げて感謝の気持ちを示した。

ほかでは見かけない独特の儀式のように思えたが、それを見届けた来賓諸氏は控え室に戻って調理した餅が届くのを待った。

Photo_4 これが来賓に用意された三点セット。左から雑煮、餡餅、納豆餅だ。雑煮に入っている野菜は、もちろん菅藤先生が毎朝心を込めて育てたものである。

つき上がった餅を調理するのはお母さん達。しかし子ども達にまで雑煮を用意する余力はなく、また子ども達が餡餅を敬遠するため、子どもと父母に用意されたのはきな粉餅と納豆餅だった。

Photo_5 調理した餅は子ども達が待つクラスに運び、弁当箱に入れてあげる。空になったら、また別のお母さんがお代わりを入れてくれる。子ども達からのリクエストは納豆餅の方が多い。

納豆の好きな県民は茨城県かと思っていたが、山形県民も大好きなようで、用意した納豆は20㌔余。幼稚園中に納豆の香りがたちこめ、九州から引っ越してきたお母さんがいたら卒倒しかねないところである。

もちろん子ども達も、お父さんがつく合間に餅つきを体験したが、その前に各クラスで、モチ米とふつの米の違い、味の違いを確認し、餅のでき方、餅の伝統、餅の食べ方など餅にまつわる話しを学んだ。

Photo_6 中にはミニ臼を使って、実際に餅ができていく過程を実演する先生もいた。ただ単に規模が大きいだけでなく、奥の深い“大餅つき大会”だった。

幸いに雨の影響はほとんど受けず、賑やかな餅つきだったが、余勢をかって片付けも瞬く間に終わり、12時30分には何事もない静かな幼稚園に戻った。お父さん、お母さんのパワーと連携の良さに脱帽した。子ども達にとっての体験もさることながら、親にとっても貴重な協同活動体験になったことは間違いない。

先生たちはすべてが終わってひと安心。下の写真は職員室に戻ってきた先生方に、廊下の図書コーナーで並んでもらったものである。

Photo_7

★誰もいない寺を巡る

山形駅にもどってきたのは14時。ひどい曇り空だが、雨が降ってこないのをいいことに、前日に歩けなかった城下町山形の南側を探索してみることにした。

山形駅→丸十大屋→光禅寺(曹洞宗)→勝因寺(臨済宗)→浄光寺(日蓮宗)→男山酒造→六椹八幡宮→宝光院(天台宗)→ホテルアルファワンというコースである。寺が多い。こういうとき私のマルガリヤ頭は便利だ。リュックを背負った敬虔な旅の僧侶が詣でているとしか見えず、光景にピッタリとはまってくれるからだ。寺の住職さんも、私の姿を見ると手を合わせて辞儀をしてくれた。

Photo_8 最初は丸十大屋。1844(天保15)年に創業された回船問屋で、丸に十の印をつけた船が最上川を下って海に出て、福井県・敦賀で陸揚げして、京都、大阪まで主に紅花を届けた店だ。

今は「丸十紅花みそ」「マルジュウ醤油」などをつくり、山形の味に貢献している。おなじ並びには、山形銘菓「乃し梅」の佐藤屋があり、170年前の文政年間と同じたたずまいを見せている。

Photo_9 次は山形城主・最上義光(よしあき)の菩提寺である光禅寺。あいにく本堂は補修中ですっぽりと目隠しされていたが、裏に回って息を呑んだ。紅葉真っ盛りの美しい庭園が広がっていたからだ。

後で調べてみると茶道遠州流の趣に沿った庭園であるという。小さな滝があり静寂の中に水の流れる音だけが聞こえる。「まさか循環式ということはないだろうな」と思い、さらに裏手に回ってみると、笹堰と呼ばれる清流の用水路があり、これを利用していることがわかった。

庭園の静寂に30分ほど身を置き、心を清めたが、その間、私以外の人間は誰も現れなかった。日曜の午後だというのに、山形市民は一体どこに行ったのだ。ショッピングセンターに出かける回数を減らして、この素敵な財産を楽しんでもらいたいものだ。入場無料でもある。

Photo_10 先を急ごう。庭に見とれたおかげで夕闇が迫ってきた。つぎに訪ねた勝因寺は、ただ単に「勝因」という縁起の良さに釣られたのだが、翌日、あおぞら幼稚園の佐々木司理事長から「あの寺を訪ねたとは凄い。あれは大した寺なんだ」と感心された。

どう凄いのか、佐々木先生は教えてくれなかった。インターネットで調べても「秘寺」とあるだけでほとんど情報がない。わずかに、昭和初期、学問も経験もないために借金で苦しんだ農民のために癒しと慈悲を与えたとあるので、それを指しているのかも知れない。佐々木先生は敬虔な農業主義者だからだ。

Photo_11 最上義光の父親の病気を治したとされる浄光寺の境内には、樹齢500年にも及ぶと言われる大公孫樹(イチョウ)が立っていた。

Photo_12 次は男山酒造。北海道育ちの私にとって、「男山」といえば旭川の酒だと思っていた。死んだ父親から「北の誉、千歳鶴、男山。それに余市のニッカと十勝ワイン。これが北海道の酒だ」と聞かされていたからだ。

北海道の男山は兵庫県伊丹の蔵元を引き継いで300年余の歴史を持つそうだが、山形の男山も200年以上の歴史を持っているという。どちらも本家の老舗のようである。

Photo 夕闇が濃くなってきたが自分で決めたコースを途中で投げ出すわけにはいかない。1063(康平6)年に源頼義が建立したといわれる六椹(むつくぬぎ)八幡宮のケヤキの杜を見上げ、最後の宝光院を探した。

Photo_3 826(天長3)年に開山した宝光院。現在の書院づくりの本堂は山形城内の建物を移築したと言われているが、もはや夕暮れの中に沈んでいて、その姿をしかと確認することはできなかった。

ようやくコースを終えたところで、昨夜入場が果たせなかった立ち飲み屋「招き豚」に向かった。しかしやはり日曜は、「本日休業」の札が出ていた。

やむなく、ホテル近くのセブン・イレブンで酒と食糧を調達することにしたが、銘酒男山を見つけることはできなかった。

城下町山形(その1)と菅藤哲朗と芋煮定食

2008年11月15日(土)

昼下がり、新幹線「つばさ」から山形駅に降り立った。翌日、朝8時から始まる南山形幼稚園(菅藤哲朗理事長&園長)の餅つき大会を取材するための前泊である。

前泊の目的はそれだけではない。これまで山形にくるたび、気持ちの片隅にありながら果たせなかった“城下町山形のぶらぶら散策”だ。山形市には江戸時代、明治時代の面影が色濃く残っているが、その風物をきちんと見てこなかったのである。

以前の私は、貧乏性のせいで、出張に行けば「ひとつでも多く幼稚園を回りたい」「少しでも長く幼稚園に居たい」という思いが強く、名所や郷土料理にはほとんど目が向かなかった。ところが50歳を過ぎたあたりから「幼稚園と旅」が並列でウエイトを持つようになり、最近は旅の下調べに時間をかけるようになった。

そんな下調べをした結果の散策3時間コースとして、山形駅→豊烈神社→山形美術館→山形城趾→山形市郷土館(旧済生館)→最上義光(もがみよしあき)歴史館→聖ペトロ教会→市立第一小学校→伝統こけし館→ホテルアルファワンという山形駅前北ルートを作った。リュックを背負い、カメラ2台が入った取材バックを提げて、そのルートを忠実になぞったのだった。

Photo まずは「豊烈神社」。どこでも見かけるオーソドックスな神社だが、由緒を見ると江戸末期の1821(文政4)年、遠江国浜松城主だった水野忠邦の祖・水野忠元を祭った神社だという。そして後に水野忠邦の子・忠精(ただきよ)が出羽国に移封となり山形城主になった。

つい2週間前に浜松市・蒲幼稚園を訪ね、浜松城に登った不肖編集長は少々驚いた。自分の何気ない放浪が歴史の糸でつながっていたからだ。

ちなみに1866(慶應2)年に忠精の子・忠弘が後を継いで城主になったが、間もなく明治維新になったこともあり、江戸藩邸で生まれ育った忠弘は一度も山形に足を踏み入れなかった。その点でも地元では有名な殿様だそうだ。

Photo 山形城の手前にある山形美術館は、建物はとても立派だが入るのはやめた。わたしにとって美術館は“猫に小判”になる可能性が高いからだ。

そして斯波兼頼が築城し最上義光が完成させた山形城。霞城(かじょう)とも呼ばれたそうで、霞に覆われることが多かったのだろう。

Photo_2 写真は二の丸東大手門。天守閣は持たないが二の丸、三の丸合わせて計15もの出入り門を持つ広い城だった。最大時の約270万㎡は230万㎡の江戸城より広かったという。

しかし出羽57万石も次第に石高が減り、藩財政が苦しくなった幕末には城内の約半分が田畑になっていたという。羽織袴で登城した武士が、着替えて野良仕事に精を出していたのだろう。

Photo_3 明治以降、城の縮小に伴って城内の建物は壊されるか、移築されて寺の本堂になったが、新たに城外から城内に移築されたものもある。そのひとつが山形市郷土資料館となった済生館である。

鬼の県令(知事)と言われた初代・三島通庸県令が街づくりのランドマークとして建てた病院。2階の16角形ホールは柱が1本もないのに、さらに3階、4階がある不思議な建物だ。1階は美しい日本庭園を囲む回廊になっている。

1878(明11)年に完成し県立病院となったが、1888(明21)年に民間移管された。公設民営の先駆けだったようだ。そして再び1904(明37)年に市立病院となった。空襲の目印になりやすいとの心配から大戦中に4階部分が撤去され、1967(昭42)年に移築されて元の姿に戻った。

Photo_4 その後、市立病院としての済生館は、左写真のようにみごとに再生され、繁華街に建っている。玄関先の東屋はかつての済生館本館をイメージさせているように思える。

Photo_5 先を急ごう。右は尖った屋根が特徴的な聖ペテロ教会。やはり明治の建築物だ。

Photo_6 次は山形市立第一小学校。昭和2年に竣工した県下初の鉄筋コンクリート建物で、小学校として使われる前に勧業博覧会の会場になったという。

Photo_7 もちろん歴史ある小学校なので二宮金次郎の像がある。しかし青銅ではなくコンクリート製だった。鉄製の柵を含め、戦時中に金属拠出されたため代わりにコンクリートで立て直された。その苦い思い出を忘れないために、そのままにしてあると看板に書いてある。柵は引きちぎられたままになっていた。

Photo_8 戦災に遭わなかったため、山形の街には、白壁の蔵屋敷や明治のモダン建築物がいくらでもある。たとえば、ホテルのすぐ脇にあったこの建物。何かの博物館かと思ったら、今もごく普通に営業している小児科醫院だった。

Photo_9 さて、天候に恵まれたこの日の山形散策。最後に伝統こけし館に寄った。こちらは古い建物ではなく、繁華街のナナビーンズというビルの5階にあった。入場無料だった。

出版プロデューサーであり、稀代のこけし収集家として知られた故・小野洸(たけし)氏のコレクションを中心に、常時約1500本のこけしが展示されている。

土曜の夕方で、ショッピングができる他の階は混み合っているのに、案の定、5階だけは静まり返っていた。見学者は私1人。この種の展示館でそんなことは珍しくなく、受付嬢は退屈を超越した置物のようになっているものだが、ここの受付嬢は、ぴったりと私の後ろに付き、私の視線の動きに合わせてあれこれ説明してくれた。昔、デパートガールだったのかも知れない。

Photo_10 「こけしは子どもを間引きした親の悲しみを形にしたもので、“子消し”が語源だそうですね」と訊くと、受付嬢は、「そんなことを言ったり書いたりする人がいますが、それは色メガネ的俗説です。庶民の子に何のオモチャもなかった時代です。木の切れっ端を使って子どものために手軽なオモチャを作った。ただそれだけのことです」とキッパリ言った。

★招き豚から招き猫へ

Photo_11 この日、山形の散策を始めて最初に目に付いたモノは、実は大手門通り(地元の人達はすずらん通りと呼ぶ)にある「招き豚」という立ち飲み居酒屋だった。

このところ東京でも、若い人達の間では立ち飲み屋が人気だが、この店は格別に楽しそうに思えた。小田原提灯やレコード盤に書かれたメニューには「芋煮」も「どんがら汁」もあった。

「夜、いっしょに芋煮定食を食べましょう」と約束してあった南山形幼稚園の菅藤哲朗(かんとう・てつろう)理事長(前・山形県私立幼稚園協会会長)がホテルまで迎えに来てくれた。山形まで来て、日本の郷土料理ナンバーワンの芋煮を食べずに帰るわけにはいかない。温泉宿に来て風呂に入らずに帰るようなものだからだ。

タクシーに乗り込むと、「どうしても芋煮を食べたいんだね」と念を押され、「はい」と答えた。そのタクシーが止まったのは、何と「招き豚」の真ん前だった。

Photo_12 「せ、先生、まさか、この店ですか!」と叫んだが、「いや違う、その隣の店だ」と菅藤先生(写真左)は「郷土料理・志ら梅」という店の暖簾をくぐり、店主に一番近いカウンター席に座った。

私の目の前には大きな招き猫が座っていた。

菅藤先生は根っからのウィスキー派で、それもサントリーオールド一本槍のダルマ派だった。秘蔵のマイ包丁で魚をさばき、手際よくつまみをしつらえて、オンザロックをグイと呑む。それが菅藤流だった。

ところがウィスキーは3年前にやめて、今は泡盛古酒「くら」を愛飲しているという。度数を控えたのだろう。しかしこの焼酎は琥珀色をしている。相変わらずの早いピッチでグラスを傾ける姿は、昔と同じだった。

Photo_13 何も注文しないのに料理が次々と出てきた。真ん中にあるのがお目当ての芋煮。右端がサンマの煮付けだが、これがめっぽう旨かった。

翌日わかったことだが、料理は事前に次女の風呂幸子先生(幼稚園の事務方担当)が細かく予約しておいてくれたのだった。だからそれで十分にお腹いっぱいになったのだが、菅藤先生は「湯漬けハタハタ」と「ご飯」を追加注文した。「芋煮定食」にご飯がないのはおかしい、と思ったのかも知れない。

店を出たのは19時15分。いつも20時には床に入っているので、帰ったらすぐに寝る、と菅藤先生は言う。相変わらずの「早寝早起き朝飯前の野良仕事」なのである。焼酎オンザロックですっかり酔った私も、ホテルに帰ると、「試しに……」とラジオも電気も消して、20時にベッドに潜り込んだ。3時間歩き回った心地よい疲れもあってか、ストンと眠りに落ちた。

かぴら幼稚園とチェロコンサートと70周年祝賀会

2008年11月14日(金)

★横須賀から坂戸に

Photo 埼玉県坂戸市・かぴら幼稚園(平山攝理事長&園長)の「創立70周年&叙勲記念」のコンサートと祝賀会に行ってきた。といっても場所は秩父連山を見渡す東武越生線の武州長瀬ではなく、東京のど真ん中、千代田区半蔵門の東京FMホールと飯田橋駅前のホテルメトロポリタンエドモントだった。写真はコンサートで挨拶する平山攝(おさむ)理事長。

平山先生の祖父が神奈川県横須賀市に信証高等女学校(後の信証高校)を創設したのは1938(昭13)年。海軍将校として日露戦争を経験した祖父は、「人間同士が殺し合う戦争はもうやめよう」と仏教に帰依し、その教えを広めるために学校を作った。しかし戦後は、元職業軍人という経歴が徒となって学校経営は紆余曲折を重ねた。そして横須賀の高校を閉じ、1972(昭47)年に改めて坂戸で幼稚園教育を始めて現在に至っている。海の街から山の街に移ったが、仏教主義の教育は今も色濃く息づいている。

さて、東大文学部西洋史学科卒という異色の園長、2008年春に瑞宝双光章を受章した平山先生の音楽好きはよく知られている。園務以外の時間は本を読んでいるか鼻歌を奏でていて、カラオケでは本格的歌唱力で聴衆を唸らせる。

Photo_2 その平山先生が学園70周年とみずからの叙勲祝賀会に音楽コンサートを開くことは大方の人が予想していたが、まさかチェロ一本だけの無伴奏コンサートになるとは思わなかった。

登場したのは水谷川(みやがわ)優子さん。日本のオーケストラを最初に創設した近衛秀麿氏(1898~1973、新交響楽団、近衛管弦楽団などの常任指揮者)のお孫さんである。

広いステージに、か弱き女性がたった一人で、一体どうなることかと案じたが、黒人霊歌「アメイジング・グレイス」から始まった演奏は、まさに2時間余の時を忘れて圧倒された。

恥ずかしながら不肖マルガリヤ、片時もウトウトせずにクラシックコンサートを聴いたのは初めてのことだ。チェロという楽器がこれほど力強く、奥行きのあるものであることも初めて知った。

演奏もさることながら、訥々としたトークも素晴らしかった。曲にまつわる歴史、ドラマ、人物を、まるで一緒にいたかのように語ってくれた。またどこかで彼女に出会えることを祈りたい。

「チェロ一本だけ。そしてバッハの無伴奏組曲を聴かせてほしい」……それが平山理事長のたっての願いだったという。「どうしてチェロを?」「チェロはいつ頃からお好きに?」などと、開演前や休憩時間に平山先生にしつこく訊いてみたが、返ってきた答は「うん」「ま」「いや」だけで真相はわからなかった。もともと口数が少ない上に、VIPなお客様への目配りで忙しかったのだから仕方がない。

その平山先生は会場後方の片隅で、一人静かに聴いていた。十分に堪能したという満足そうな表情をしていた。

Photo_3 半蔵門での演奏会の後は飯田橋で祝賀会。人々は皆、地下鉄かタクシーで移動したが、さいたま市・与野幼稚園の谷島正敏理事長&園長(写真)から、「1時間くらいある。歩いて行こうよ」と誘われた。

歩くのが大好きで、しかも何度も歩き回ったエリアなので、一張羅の皮靴が減るのを心配しつつも、私は喜んでお伴した。お堀端から代官町、北の丸公園、武道館を抜け、九段下を折れて飯田橋に向かった。黄昏時の東京のど真ん中に、これほど静かで暗い場所があるのに感心したが、暗がりのベンチのあちこちで、若い男女が茫然と寄り添っている光景にも驚いた。

噂には聞いていたが、11月になってもまだたくさん居るのである。「何しているんでしょうね」「さあ、いろいろあるんだろうね」「できました結婚になるといいですね」「できれば与野あたりに住んでね」と言いつつ、二人は静かに通り過ぎた。

Photo_4 ホテルのロビーには川越市・初雁幼稚園の野澤達也園長(写真)がいた。元高校の音楽教師で、大学ではチェロを得意にしていた人だ。同園の創立100周年記念音楽会でみずからチェロを演奏した姿は忘れられない。ところが、その野澤先生の姿が東京FMホールにはなかったのである。

「先生、どうしたんですか?」「いや、何としても聴きたかったんだけど、何ともならない野暮用が入って、どうにもならなかった」と野澤先生は悔しそうな顔をした。

「そうですか、それは残念でした」と、ここぞとばかりに私は水谷川さんの演奏と語りの素晴らしさを生々しく描写した。野澤先生の表情がさらに辛そうに歪んだのは言うまでもない。

ところで野澤先生の、1年がかりで育てた立派なヒゲは、クリスマス会でのサンタ役が終わるときれいサッパリと剃り落とされる。サンタとソリは付きものという訳だ。そして正月が終わるとまた新しいヒゲを育て始める。常に新鮮なヒゲでクリスマスを迎える、これがクリスチャンとしての野澤先生の流儀なのである。

Photo_5 祝賀会が始まった。司会を務めたのは、理事長夫妻の娘で、アイルランドに詳しい典子さんだった。

ここでまず気づいたのは、ご覧のとおりステージに看板がないことだった。ふつうなら、「創立70周年記念……云々」という大きな横看板が天井から下がるところだが、それがない。費用を節約したのかも知れないが、実にすっきりしていていい。「さすが東京のホテルは違う」という印象すら与えた。ちなみにステージで挨拶しているのは、(社)全埼玉私立幼稚園連合会の平原隆秀会長(春日部成就院幼稚園理事長)だ。

Photo_6 最後にもう1枚、麗しき和装女性と編集長のツーショット写真を載せておこう。かぴら幼稚園の教育と経営を実質的に切り盛りしている理事長の妻・康子副園長だ。

「平山先生はどうしてチェロが好きなんですか?」とここでも訊いてみたが、「そんなこと、私は知らないわよ」とのことで、チェロにまつわる何のエピソードも聞き出せないまま、祝賀会は幕を閉じた。

かまがや幼稚園とマラソン大会と鎌ヶ谷大仏

2008年11月9日(日)

★自己ベストの更新に全力を尽くす

Dscf2751 千葉県鎌ヶ谷市・かまがや幼稚園(山本明世理事長&園長)のマラソン大会を取材した。

本当は前日に予定されていたが雨のために1日延びて日曜の開催となった。しかし土曜の朝はまだ降っていなかったので、私はとにかく出かけた。新鎌ヶ谷の駅に着く頃に雨脚が強まり、「ああ、これはダメだ」と思ったが、「ここまで来たんだから顔を出しておこう」と幼稚園に向かうと、傘をさした親子連れが何組も同じ道を歩いていた。

雨の場合は通常の午前保育を行うことになっているからだという。「降らなければ走る、降ったら園内で遊ぶ」ということであり、子ども達にとっては「どっちにしても幼稚園で遊べる」という嬉しい配慮である。

というわけで2日続けてかまがや幼稚園にお邪魔することになったが、自宅から近い幼稚園ならではの芸当である。おかげで私は、土曜日の午前中、新鎌ヶ谷駅前の巨大スーパー(ジャスコ)を見学し、パンツと肌着をじっくり選んで買うことができた。ふだんはなかなかそんな時間がとれず、時間があっても近くに手頃な店がなく、恥ずかしながら穴だらけのパンツをはいていたのである。

Dscf2740 マラソン大会の詳しい内容は『月刊・私立幼稚園』の「実況中継」に掲載するが、同園の大会には二つの大きな特徴があった。

ひとつは全体の順位を競うのではなく、自分のタイムを少しでも縮めることが目標になっていることだ。本番の前に4回のトライアルレースがあり、そのタイムが1人ずつすべて記録されている。最後の走りで、それまでの自己記録を更新できるかどうかに、子ども達は全力を尽くす。その場その場の順位より、長い人生の中では自己ベストの更新こそ大事だということを伝えているのである。

もうひとつは保護者の熱心な協力姿勢だった。応募した20人のマラソン大会役員が、走路の安全確保、応援リーダー、公正な記録確認、表彰カードの作成などを手際良く行って運営を支えていた。本番とは別に、トライアル走のときも安全確保のためのコーススタッフを毎回20人ずつ募集したが、すぐに一杯になったという。「幼稚園と家庭の連携」がうまく回っている事例のひとつを見た気がした。

Dscf2723_2 ずらりと並んだのがマラソン大会の役員さん。開会セレモニーで園児と向き合い「よろしくお願いします」と挨拶を交わした。中には子どもは風邪で欠場したのに、「お母さんは行ってね。役員さんなんだから」とわが子に励まされて出てきた人もいた。

もちろん親たち以上に真剣だったのが先生である。タイムに命賭けの子ども、その頑張りを死ぬほど応援する親のためにも、記録取りにミスは許されないからだ。そして今年も大会が無事に終わってホッとひと安心。これが、後片付けと掃除が終わって職員室に集まってきた先生方の表情だ。

Dscf2783

Pb080011 玄関ホールに子どもの絵のタイル画が架けてあった。同園のマスコットキャラクターで、いろいろな印刷物に登場するという。

「お名前は?」と訊くと、「いや、まだ付いていないんです」とのことだったので、「それでは私がつけてさしあげましょう。左の男の子が『かまちゃん』、右の女の子が『がやちゃん』でどうでしょう」と言うと、山本園長は「ええっ!」と絶句したが、その後この二人の名前がどうなったか気になるところである。

Pb080013 もう一組のマスコットが左の二人で、山本明世園長(左)と事務方担当の妻・イミ子先生だ。

山本園長は幼稚園の仕事を引き継ぐ前、『卓球ジャーナル』という専門誌の編集に10年近く携わっていた。そのため記事の背景にあるものを的確に深読みし、また一言一句に至るまで記憶力が素晴らしい。小生のようなボンクラ編集長にとっては怖い存在である。

★北海道ファイターズを護る神と仏

さて、鎌ヶ谷といえば言わずと知れた「鎌ヶ谷大仏」である。同じ鎌がつく鎌倉大仏には大きさで負けるが、その凛々しさ、優美さではひけをとらない。

新鎌ヶ谷駅から新京成線で二つ隣に「鎌ヶ谷大仏」という駅がある(新鎌ヶ谷には東武野田線、北総高速線も入っているので要注意)。いくら鎌倉だ奈良だ高岡だといっても、駅を持っている大仏様は鎌ヶ谷だけである。その鎌ヶ谷大仏駅の斜め向かいに大仏様は毎日座っている。といっても駅を出てすぐに見えるわけではないので、念のため駅員さんか道行く人に訊いた方が賢明だ。

Pb090004 建立されたのは1776(安永5)年。鎌ヶ谷宿の大店、大国屋文右衛門が先祖供養と地域の安寧を願って建てたという。開眼供養のときには、琉球産の畳を道一杯に約300㍍(3町)にわたって敷き詰め、楽人(雅楽隊)入りの稚児練り供養をしたと立て札に書いてある。

江戸時代の地図を見ると、幕張や舟橋より鎌ヶ谷の方が大きな字で書かれており、当時の鎌ヶ谷宿の繁栄ぶりを思い起こす大仏様なのである。

木下(きおろし)街道を挟んで、この大仏様の真向かいに鎌ヶ谷八幡神社(大神)がある。由緒によると奈良の大仏がある東大寺の鎮守として八幡神社が発足し、鎌倉時代に鎌ヶ谷にも建てられ、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮とは親戚関係にあるという。ここに鎌ヶ谷大仏が建てられた理由は、奈良、鎌倉に繋がる新たな大仏の縁をつくろうと思ったのだろう。

鎌ヶ谷は北海道日本ハムファターズの町でもある。大きなファーム球場があり中田翔選手らが練習に励んでいる。球場周辺地域はファイターズタウンと呼ばれていて、千葉県でありながら、この一帯だけは千葉マリーンズより北海道ファイターズファンの方が多い。最近、マリーンズよりファイターズの方が成績が良いのは、この神と仏に護られているからかも知れない。

「勘弁してください。来年は地元のマリーンズをお願いします」と、それぞれに100円ずつお願いしてきた。

長根幼稚園と新美 理と鈴木駿兵

2008年10月31日(金)

★赤レンガ・新美南吉・山車まつり

愛知県半田市・長根幼稚園(新美術理事長、竹内あつ子園長)を訪ねた。

3_2 名古屋在任中、なぜか私のことを「お父さん」と呼んでくれた新美理(にいみ・おさむ)副園長(愛知県私立幼稚園連盟財務部長)が、ほとんどクラシックカーの部類に入る角形ニッサンサニーで名鉄・住吉町駅まで迎えにきてくれた。愛知県の事務局長を離れるとき、「ひらめ亭」でプリプリのエビフリャーをご馳走してくれた人だ。「知多のエビフリャーはウミャーでイカンわ」と思わず叫んだことを思い出す。

写真は右から新美理副園長、竹内あつ子園長、池田笑子(えみこ)教頭。長根幼稚園を支える三人衆だ。

Photo_16 幼稚園に向かう前に、初めて来た半田の街をちょっと見学させてもらうことにした。まずは駅のそばにある「半田赤レンガ建物」である。

ミツカンに代表されるように、半田は昔から酢や酒の醸造で栄えた町だ。そのひとつ、カブトビールをつくっていた丸三麦酒の工場がこの赤レンガだった。約240万本のレンガでできている。

太平洋戦争中は中島飛行機の部品倉庫となり、そのため機銃掃射の跡が今も生々しく残っている。明治の貴重な建築物を残すため、1996年に半田市が買い取り、国の有形文化財に指定された。しかしそのまま放置され、特別な日以外は内部の見学も叶わない。補修するには莫大なお金が必要だからだ。函館や舞鶴の赤レンガが立派に有効活用されているのに比べると、何とも寂しい。

002_3 続いて向かったのは、児童文学作家・新美南吉氏(写真)の生家と記念館である。「ごん狐」「手袋を買いに」などの名作を残した人だ。

「半田の新美」といえば、多くの人が思い浮かべるのは南吉さんの方だと思う。

「同じ新美で、しかも半田です。きっと親戚か何かなんでしょうね?」と訊くと、「いえまったく。縁もゆかりもありません」と新美先生からはつれない返事だった。しかし作品は大好きで、子どもの頃、彼のゆかりの場所を自転車で訪ね回ったという。どこかにほのかな絆があるのだろう。

Photo_17 右の写真が新美南吉さんの生家。「ちょっと、ちょっと、僕が入ったんではややこしいでしょ」と慌てて写真から脱け出そうと走っているのが新美理先生だ。

南吉の母親は彼が4歳のときに29歳で他界し、その後は継母に育てられた。この家の向かって左側で継母が履物屋を、右側で父親が畳屋を営んでいた。

Photo_18 この家、道路側から見ると平屋に見えるが、斜面に建っているため、この下に1階部分がある。その外界から隠れた1階の小部屋で、南吉は病(喉頭結核)と闘いながら原稿を書いていたという。麗しい話である。

左の写真は、狐の巣のような新美南吉記念館の入口に座っていた南吉氏とのツーショット。安城高等女学校(現・安城高校)の教師時代の姿だ。

我が身と比べると余りにもか細い。体調耐えきれず、泣く泣く同校を退職し、その翌月に世を去った。母親の享年と同じ29歳だった。

半田のもうひとつの名物は「山車まつり」である。地域ごとに物見櫓のような自慢の山車を持ち、それを引き回して若者の度胸と心意気を競う祭りだ。

Photo_13 計31組の山車が揃う祭りは5年に1度。それ以外の年は各地域ごとに行われ、3月~5月の週末は、市内のどこかで山車祭りが行われているそうだ。

ちなみに新美理先生が中堅幹部として所属するのは「乙川(おっかわ)」という名門地域だそうだ。

ねぶた祭りでも三社祭りでも、山車を常設展示してあるところがあるもので、半田でも市の博物館で、月ごとにひとつずつ交代展示している。それを見に出かけたが、あいにく月替わりの入れ換え期にぶつかり、吹き抜けの大きな空間がぽっかりと空いていた。もう一度、半田に来るべき運命にあるのかも知れない。

★涙にむせんだ差し出し給食

そんなわけで幼稚園への到着が遅くなったが、長根幼稚園は、2日後の日曜日に開かれる「文化祭作品展」の準備で、たくさんのお母さん方が出入りし、賑わっていた。

園児の作品、フードバザーと並んで作品展の目玉になっているのが制服のリサイクル。卒園児らから使わなくなった制服類を集め、すべて1点100円で販売するが、例年アッという間に完売するという。すり切れるまで何回もリサイクルされるそうだ。つまり、ほとんどの園児は在園中の制服を数100円で調達しているわけである。

Photo_19 これが園庭から見た園舎。レンガ造りの部分が組み込まれているのが半田らしい。

給食の時間になった。すると女性の事務職員さんが「これ私のですが、良かったら食べてください。幼稚園で給食を食べるのがお好きと聞きましたので。私は毎日食べてますし、今日のお昼も何とでもなりますから」と、ヤクルトを添えた先生用のお弁当を持ってきてくれた。

Photo_20 据え膳食わぬは男の恥である。自分の分を差し出してくれた職員さんの気持ちに涙しながら、ありがたく頂戴した。給食を食べさせてもらうのが、私にとっては何よりのご馳走なのである。

昼食を終えた子ども達が、クラスを移動し始めた。毎週月曜と金曜の午後は、タテ割りのクラブ活動タイムだからだ。自然、体操、空手、書道、茶道……など計12のクラブから好きなものを選び、年少から年長まで一緒になって活動するのである。

Photo_21 自然クラブは、新美先生の妻・千恵先生が運転するバスに乗って農園に行くと聞き、私はそこに同行することにした。

5分足らずで着いた農園は、サツマイモ、玉ネギ、イチゴ、ワケギ、大根、落花生、ゴマ……などいろいろな作物が栽培されているが、この日は果樹園で柿をもぎ、畑で水菜を収穫した。園児宅の今夜のデザートと明朝の味噌汁がこれで決まった。

Photo_22 急いで名古屋に戻り、ガーデンパレスで待っていてくれた(社)愛知県私立幼稚園連盟事務局の鈴木駿兵常任参与(写真左)と夜の街に出た。元県庁職員の大ベテランだが、私とは事務局で1年間机を並べた仲である。カラオケに行くと、臆面もなく高橋真梨子の「はがゆい唇」を歌う人でもある(詳しくは『月刊・私立幼稚園』のコラム「名古屋物語」を参照)。

脇目もふらずに入った居酒屋は、昨夜食べたカレーうどん屋の隣の串揚げ屋「富士子」だ。名古屋にいる間、ずっと気になPhoto_23 っていた店だったが、いつも満員で1人で入る勇気を出せなかったところだ。串揚げのほかにドテ煮、ブリヘソ、カボチャ煮などを食べ、久しぶりの名古屋の夜を堪能した。

怖いモノ見たさで、駿兵さんの「はがゆい唇」を聞きたくなったが、帰りの新幹線の時間が迫ってきたので、それは次の楽しみにすることにした。

浜松楽器博物館と名古屋市政資料館とカレーうどん

2008年10月30日(木)

★蒲(かば)幼稚園の記念撮影

お昼前まで蒲幼稚園にお邪魔していた。気遣いをかける前に引き揚げようとしたら、「まあま、これを食べていってください」とテーブルに特上鰻重がふたつ並べられた。据え膳食わぬは男の恥である。三たび大貫寿夫(ひさお)事務長と食事を共にすることになった。

「こんなことでもないと、私も旨いものが食べられませんから」と大貫寿夫先生は笑ったが、昨日の昼(お鮨)、夕(浜松餃子ほかと高級日本酒)に続き、2日間で三度も同じ釜の飯を食べたわけで、「この人とは死ぬまでの仲になるな」と感じた。

この日は参観日だった。午前中はもの凄い賑わいだったが、親子が降園した後の園内は急に静かになり、園庭に先生方が集まってきた。何が始まるのかと思ったら卒園アルバムの撮影だった。

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女の先生方はエプロンで隠れているが、みんなお揃いのKABA.ちゃんトレーナーを着ている。この一団に激しく見送られて、幼稚園を後にした。蒲焼きの味とあわせ蒲幼稚園の人情が身体中に染みた別れ際だった。

★サックス氏が発明したからサックスなのだ

浜松を離れる前に駅前の「楽器博物館」に寄った。1995年にできた、楽器の街・浜松ならではの博物館だ。できて間もない頃、「おい編集長、こんなのができたんだ。ちょっと見て行ってくれよ」と大貫英一理事長に誘われ、2人で15分間ほど駆け足で見たことがあった。新幹線の発車時間が迫っていたためで、「この次はゆっくり見ましょう」と約束した。

だから本当は、大貫英一先生と2人で眺めるはずだったが、やむなく私1人でじっくりと見学した。「おそらく大貫先生は、もう何度もじっくり見たはずだろうから」と思いつつ。

Photo_8 一番長く滞在したコーナーは、やはりサックスだった。学生時代、キャバレーバンドや北島三郎バンドでテナーとアルトのサキソフォーンを吹いていたからだ。

大学に入るまで、サキソフォーンという楽器の存在すら知らなかった私が、半年ほどで一人前のプロの顔をしていた。開店前の大森駅前キャバレーで毎日猛烈に練習したからだ。何でもすぐに夢中になってのめり込む、というのが私のやり切れないところでもあり、おかげで前歯4本がボロボロになり、2年前にすべて崩壊した。

サキソフォーンは、ベルギー人のアドルフ・サックス氏(1814~1894)という人が発明し、みずから軍楽隊を回って営業活動をし、パリ音楽院で演奏者の養成も行ったという。どうして皆が「サックス」と呼ぶのか、その謎がようやくわかった。

Photo_9 もうひとつくぎ付けになったのが、どう見ても大砲にか見えない太鼓である。タイのタイコで「クローン・エー」と呼ぶそうだ。

右側にバチを打ち付ける鼓面があり、その音が増幅されて筒先から遠くに飛ばされる仕組みだ。主に仏教寺院に置かれ、僧侶や村の人々に、叩き方の違いでいろいろな合図を送ったそうだ。

もし江戸時代の日本にこの太鼓大筒があれば、実弾を使わずに音だけで戦ができたのではないか、などとも思った。

★赤レンガの裁判所で公正な裁きを

急に真面目な話しになるが、文部科学省は今年7月に策定した「教育振興基本計画」にもとづく「教育改革セミナー」を全国7カ所で開催している。

Photo_10 この日は、夕方18時から名古屋市東区のウィル愛知で3回目のセミナーが開かれることになっていたので、浜松まできたついでだと足を延ばした。

詳しい内容は幼稚園情報センター「私幼ヘッドライン」に譲るが、メイン講師の衛藤隆氏(東大大学院教授)は、「3歳未満の子どもの相当数が22時以降まで起きている。その状況が長く続いているのは他国に例がなく異常だ。日本人全体の生活を改めるための教育改革が必要だ」と、幼児期からの教育の重要性を強調した。

名古屋在任当時、「ウィル愛知」には何度も通ったものだ。武家屋敷風の市営地下鉄「市役所」駅を下り、県庁東大手庁舎、高層の名古屋刑務所を通り、名古屋市政資料館の庭を斜めに突っ切っていくと到着する。

Photo_11 しかし、こんな夕闇の中を歩いたことはなく、ライトアップされた名古屋市政資料館を見て、その荘厳さに息を飲んだ。

1922(大11)年に建てられた赤レンガは、名古屋地方裁判所として1979(昭54)年まで実際に使われていた。残念ながらとうに閉館時間が過ぎていて中を見学することはできなかったが、入口の天井には神鏡と神剣をシンボル化した装飾があり、中央階段の踊り場にはハカリを描いたステンドグラスがはめ込まれているという。どちらも「公正な裁判」を意味するものだ。

★変わった食べ物の発祥はほとんど名古屋

セミナーが終わって、宿をとったガーデンパレスのある「栄」に着いたときは21時を回っていた。さて晩飯である。名古屋といえば、ひつまぶし、味噌煮込みうどん、ドテ煮、手羽先、エビフリャー、台湾ラーメン、串揚げ、オグラトースト、あんかけスパゲッティ……と独特の料理が次々に思い浮かぶが、今回私はカレーうどんを選択した。

Photo_13  ご覧のとおり東京で食べられるカレーうどんとはまるで違う。超太麺で腰の強いうどんに、コッテリどろっとした辛口カレーがまとわりつく。これはもうたまらない。

「おや、肉かな?」と思って確認すると、厚揚げであるのも嬉しい。大いに納得の700円だ。昼は、残ったカレーにご飯をまぶして食べられるようにと、ライス50円の注文もできる。

Photo_14 ただし、食べ損なった太麺うどんがスルッと丼に戻るとき、カレーが襟元、胸元まで飛び散ることがよくあるので、タオルか風呂敷、なければ新聞紙でも胸に挟んで食べることをお薦めする。

店の名前は「手打ちうどん錦」。場所は「錦三(きんさん)」と呼ばれる繁華街の中心地で、時計台交差点の角の和牛焼き肉さかいビルの1階だ。

Photo_16 しかし名古屋の人が皆、ここのカレーうどんを好むわけではない、金鯱(きんしゃち)屋という老舗もあり、「俺はここだ」「私はここよ」とそれぞれに贔屓の店を持っている。

実は、この「うどん錦」を贔屓にしているのは千種区・自由ヶ丘幼稚園の吉田敬岳理事長(全日本私立幼稚園連合会会長&愛知県私立幼稚園連盟会長=写真)である。

ハシゴ酒をした後、ここで仕上げということがよくある。23時過ぎに店に入ると、大きな体を丸め、カウンターの片隅で吉田会長がカレーうどんをたぐっている姿に出会えるかも知れない。そうなるとたぶん、「もう一軒!」ということにはなるだろうが。

蒲幼稚園と蒲神宮と大貫英一

2008年10月29日(水)

★蒲幼稚園の園名の由来は

Photo 静岡県浜松市・蒲(かば)幼稚園(大貫英一理事長、大貫ななみ園長)を訪ねた。半年ほど前、理事長から「たまには遊びにおいでよ」と電話があり、「ちょっと先になるけどな」と言いつつ、この日の約束ができていた。

ところが着いてみると、肝心の大貫英一先生(写真/元・静岡県私立幼稚園協会会長、元・全日本私立幼稚園連合会副会長)の姿が見えない。体調を崩して1ヶ月ほPhoto_2 ど前から入院しているという。この日の約束をした後、妻(前園長の妙子先生)を亡くされたので心配していたが案の定だった。

しかし点滴や水抜きの管はついていたものの、病室の大貫先生は意外に元気で、私の顔を見るやガバと跳ね起き、「やあやあ本当に来てくれたか」と力強く手を握った。

そして「やっぱりな、分を超えて偉そうなことを言ったりしてはダメだな。おかげでこんなことになった。まだ元気で偉そうなことを言っている連中に、よく言っておいてくれ」と笑った。

大貫先生は決して偉そうなことを言う人ではない。自分の主張を無理強いする人でもない。多くの人の話にしっかり耳を傾け、慎重に判断をくだすタイプだ。それでもそんな言葉が出てくるのは、県の会長、全国の副会長という立場は、自分らしからぬところに自分を追いやる力を持っているということだろう。

ところで、蒲(かば)幼稚園という園名を聞くと、ほかの園長仲間は「え?ウソでしょ。逆立ちしたらバカ幼稚園になってしまうよ」「蒲田の蒲だからカマ幼稚園って呼ぶんじゃないの。でもそれもオをつけたら変だな」「ウナギの産地、浜松だから蒲焼きからとったのかな」といろんなことを言ってくる。

Photo_4 しかし紛れもなく「かば幼稚園」であり、地元の人々にとっては何の違和感もない。それどころか由緒正しき名称なのである。

かつてこの一帯で力を持っていたのが蒲氏一族で、その氏神様として874(貞観16)年に建立されたのが「蒲神明宮」。歴史と格式を持つ立派な神社で、そのすぐ隣にあるのが蒲幼稚園なのである。

動物のカバでも、ウナギの蒲焼きでもないのだが、やはり子ども達にとってはカバといえば、のんびり大あくびをするカバさんを連想する。

Photo_5 だから園バスにも、子ども達や先生方が着るTシャツ、トレーナーにもカバに似たキャラクターがついている。カバの妖精で、みんなに「カバちゃん」と呼ばれている。

「なんだ、やっぱり動物のカバじゃないか」と言われそうで話はややこしくなるが、とにかく意味深いカバ幼稚園なのである。

Photo_6 園長が亡くなり、園児と保護者のアイドルである理事長が入院中とあっては、幼稚園の方がちょっと心配だが、案ずることはない。娘の大貫ななみ先生が園長を継ぎ、婿の寿夫さんが事務長としてしっかり支えている。

寿夫さんは元県庁職員なので、まさに堅実で、的確に状況判断しながら仕事を進めていく。妻のななみ園長は笑顔が素敵で、おしゃべりの歯切れが良く、聞いていて気持ちが良い。このコンビが新しい蒲幼稚園の歴史を作ってくれることだろう。

★やっぱり浜松餃子

幼稚園と病院を辞し、相変わらず風の強い浜松の街をブラブラと歩いた。今回めざしたのは浜松城だ。

Photo_7 1980(昭55)年、それこそ大貫先生らの骨折りで、浜松で全国理事長園長研修大会が開かれた。そのとき会場のコンコルドホテルからよく見えたのが浜松城だった。

「徳川家康、水野忠邦らあそこの城主になった人は出世した人が多い。だから出世城とも呼ばれている」との話も聞き、「それじゃ帰りに寄らなくては」と思っていながら果たせなかった。我が身が出世にとんと縁がないのはそのせいかもしれない。

というわけで遅ればせながら訪ねた次第である。とうの昔にクラウンは諦めたが、せめて50ccバイクで遠出ドライブができるくらいに出世したいものだ。バイクといえば、これも浜松名産である。

さて浜松の食べ物と言えば、ウナギパイなどもさることながら、やはり「浜松餃子」である。「肉じゃがの街」を京都府舞鶴市と広島県呉市が争っているように、「餃子の街」の座を栃木県宇都宮市と浜松市が争っている。最近は東京の蒲田、池袋、あるいは福島県福島市も「餃子タウン」を名乗り始め、「元祖はここだ!」と東京・亀戸も頑張っている。

Photo_8 しかし浜松餃子はひと味違う。具にキャベツが多いのがいい。大産地・豊橋が近いせいだろう。さらに茹でたモヤシが添えられてくるのがまたいい。

そこで晩飯は、大貫寿夫事務長と待ち合わせて浜松餃子を食べることにした。餃子が食べられる店は山ほどあるが、「ここがいいんじゃない」と足を止めたのが、カバならぬブタが招く、幼稚園好みのする楽しそうな「錦華楼」だった。

Photo_9 ハデな店構えの割に店主は頑固一徹風で、出てきた餃子も昔ながらの浜松餃子で、美味しかった。

その後、大貫ななみ先生から、同園特製の「カバちゃん絵はがき」が二通届いた。色違いだが、もしかしたらほかにも色があるのかも知れない。一番上001 にキャッチフレーズが書いてある。「かぜのことばをひろってみよう」である。「かぜのことば」を略してカバ。やはり奥の深い蒲幼稚園だった。

健伸幼稚園と運動会と特別ゲスト

2008年10月12日(日)

★体操とナワ跳びとダッコさん

雨で1日ずれ込んだ千葉県船橋市・健伸幼稚園(柴田炤夫理事長、柴田衣子園長)の運動会を訪ねた。(下の写真は全園児によるオープニングマスゲーム)

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前日の雨は、どの幼稚園も判断に苦しんだことと思う。結果的に雨は午前中に上がり、強行した幼稚園も多かった。健伸幼稚園も7時半まで結論を延ばし、砂を運び込んで懸命にグランド整備をしたが、金曜の強い雨の影響を排除するまでには至らず、延期を決めた。

日曜は絶好の運動会日和になったので大正解だと言えるが、少々残念なこともあった。

同園の運動会は、毎年多彩なゲストが登場するが、その一組に今年の全国チンドン大会で優勝した「早稲田大学チンドン研究会(わせだ風街宣伝社)」が予定されていたが、それが来られなくなったことだ。

母校の風変わりな研究会が優勝したことを知り、柴田理事長はツテを探して出演交渉に成功した。しかし売れっ子グループなので2日間を押さえることはできなかったのだ。ところが学生チンドン屋の彼らは、延期の連絡を受けたにもかかわらず、先輩の気持ちに応えようと、土曜の朝、予定どおり幼稚園に現れ、「健伸幼稚園の運動会は明日行いま~す」と触れ回ってくれたそうだ。チンドン屋本来の役割を見事に果たしたのである。

目玉のゲストが減ったとはいえ、ほかに3組いるので、園児、保護者は、その技とショーマンシップを十分に堪能することができた。

Photo まず最初に登場したのは同園の卒園児で構成する「健伸スポーツクラブ」。オリンピックレベルの体操選手を数多く輩出することで知られる同クラブは、今年の千葉県ジュニア(小学生)体操競技大会で団体総合優勝した。

そこで個人総合優勝した倉島選手はじめ上位入賞を独占した6人が、鉄棒と床運動の模範演技を披露した。

とても小学生の演技とは思えぬ素晴らしさに、園児と保護者はただただ唖然と見つめた。

健伸スポーツクラブの小中学生は、同園の体育館でほぼ毎日練習している。その様子を見て、「僕もあんなふうになりたい」と思っているのが年長児の体操クラブ。その子達はマット運動を披露した。年長クラブの中で、とりわけ身の軽い10数人が通称「サル軍団」と呼ばれていて、きっとその中から有望な小学生選手が続いていくことだろう。

Photo_2 二番目のゲストは、午前の部のちょうど真ん中に登場した日本大学の縄跳びサークルLeap’s。二本の縄を使うダブルダッチの世界チャンピオンである。

この学生さん達は月に3回、土曜日に幼稚園にやってきて卒園児(小学生)28人の「なわとびクラブ」を指導している。まだ歴史の浅いクラブではあるが、「あと2、3年で、体操クラブのように大会で優勝できるようになる」と理事長は期待している。

3番目のゲストは、運動会の一番最後、子どもと大人が全員で歌い踊る「ひろば」に登場したパンダデュオ「Dacco(ダッコ)」の二人だった。

Photo_3 園舎二階のゲスト控え室に、いかにも芸能人っぽい長髪の青年がいることは気づいていたが、まさかパンダの着ぐるみで出てくるとは思わなかった。

これこそ新手のチンドン屋かお笑いグループにしか見えないが、CDも出し、ホテルディナーショーにも出演する、SONYミュージックに所属するれっきとした歌手なのである。

最近の曲は「あといとうとえと♪おともだち♪」と「だっこ行進曲」。ステージ衣装は今のところこの1着とのことでもある。歌はともあれ、バックで踊るオジサン二人が妙に面白かったので、もしかしたら子ども達の人気者になるかも知れない。

★ゲストと先生方のランチは「かまくらカレー」

Photo_4 もう1組面白いゲストがいた。年少さんのお遊戯「崖の上のポニョ」に現れた海の大王さまと人魚姫である。扮するのは理事長と園長だ。

このご夫妻、運動会では必ず仮装して出演し、親を驚かせ、子ども達を喜ばせる。幼稚園を創設してから37年になるが、その前は、みずから鬼やサンタの格好をして幼稚園に各種イベントを出前していた人なので、その演技は実に堂々としている。

お昼休みになり、私もゲストルームでご相伴させてもらった。中身は例によってのカレーライスだ。

Photo_5 同園では、何か行事があるとき、お客様や教職員の昼食にカレーライスを用意する。

給食で食べるアイコーメディカルカレーとは違い、事務所の松岡文子先生が作る特製で“健伸(献身)カレー”と呼ばれる。しかし、さすがに運動会のときはカレーづくりまで手が回らず、「かまくら」という料理屋さんに委託した。同園職員の嫁ぎ先でもあり、船橋では名の通った秋田料理専門店である。

一口食べて、なるほど「秋田ナマハゲ風の辛味がある」と思ったものである。

※運動会の詳しい様子は、『月刊・私立幼稚園』の実況中継に記事掲載の予定。

マリアンハウス幼稚園と猪狩眞平とせんべい汁

2008年10月9日(木)

★新園舎でカボチャ煮を食べる

八戸といえば、苦みの利いたホヤの刺身で日本酒を飲むのが最高だが、このところ有名になっているのは「せんべい汁」と「いちご煮」だ。駅の改札口を出ると天井から大きな垂れ幕が下がっていた。

Photo いちご煮とは、ウニとアワビのお吸い物だ。いちごの粒々とウニの粒々が似ているのでこの名がついたのだろう。シンプルであっさりしたものだが、何せ高級食材なので値段は高い。一度マリアンハウス幼稚園の猪狩眞平園長と、駅前レストランで食べたことがある。

そのマリアンハウス幼稚園(久保田幸造理事長)が園舎を建て替えたばかりだと聞き、「それじゃちょっと拝見させてもらおうと」と訪ねてみた。夕方近くで、預Photo_2かり保育の子ども達だけが残る静かな園内。職員室の会議テーブルで書類を見ていた猪狩園長(写真右)が、急な来訪にも関わらず「おやおや、これは珍しい人が」と、さして驚きもせず昔ながらのオットリ笑顔で迎えてくれた。そしていきなり「幼稚園でつくったカボチャ煮を食べてみてよ、甘いんだわ」と出してくれた。

いちご煮の次はカボチャ煮、そして本格コーヒー。またまた幼稚園の人情が染み入る嬉しいもてなしを頂戴した。

猪狩先生は幼児音楽の専門家である。八戸公会堂で行われた音楽会を取材したことがあるが、猪狩先生が考案した機能限定の幼児用キーボード(鈴木楽器のアンサンブルキーボード・ハモンドJr)を存分に使いこなす器楽合奏もさることながら、子ども達の歌声、ハーモニーの美しさには腰を抜かしたものである。

Photo そのきれいな歌声が響いているだろう新しい園内は広々としていて、親や地域の人達が利用できる空間がたっぷりとってある。認定こども園、学童保育クラブ、あるいはコミュニティカレッジなど、将来の状況に応じてその空間を柔軟に活用し、幼稚園と組み合わせていこうという姿勢がうかがえた。

Photo_2 お母さん方が交流できるおしゃべりサロンもあちこちにあり、この1階コーナーからはガラス越しにプールや園庭で遊ぶ子ども達の様子がよく見える。

ランチルームとしても使われる吹き抜けホールには本格的な音響、照明機器が備えられ、絶好のビデオ撮影コーナーもある。いずれは、あの公会堂で行う音楽会も園内で開催できるよう工夫されることだろう。

★18時30分で閉店の駅前レストラン

この日の泊まりは駅前の東横イン。何かとニュースネタを引き起こすホテルではあるが、安さとサービスの良さで私は愛用している。

サービスとは①インターネットで予約した客にタオル、靴下、エコバッグ、ストラップなど選べるプレゼントがある。②夕方は限定数ではあるがカレーライスの無料サービスがある。③朝は限定なしでオニギリ、味噌汁、漬け物、コーヒーの朝食サービスがある。オニギリは食べ放題なので、高校生、大学生の食べっぷりに目を見張ることがある。④ブロードバンド回線が各部屋にあり、持参のパソコンと自由につなぐことができる。持参パソコンがなくてもロビーのパソコンを無料で使うことができる、などだ。

18時15分、ロビーにカレーの香りが漂っていたが、「いや今日は、まだ食べたことのない“せんべい汁”を食べるんだ」と心を鬼にして駅前レストランに向かった。八戸三社大祭の勇壮な山車が飾れたユートリープラザという駅前ビル。その2階レストランのせんべい汁定食がお薦めとインターネットにあったからだ。

ところが席は空いているのに入場を断られた。18時30分で閉店なので、すでにラストオーダーが終わっているとのことだった。早い閉店時間に一瞬口をパクパクさせたが、従業員と市民の健全な生活リズムを考えるなら、ファミリー食堂を遅くまで開けておく必要はない。「八戸はやるなあ」と感心した。

しかし、せんべい汁は食べたい。レストランの人が「定食はないが単品で食べられる所はいくつかあります」と遅くまで開いている居酒屋を教えてくれた。それで安心し、急いでホテルに戻った。無料のカレーを食べるためである。

Photo_3 これが、月~金の18時から無料提供される東横カレーである。先着100人くらいまでありつくことができる。お代わりはできないが量は十分で、味も上々だ。

ただし場所によっては夕食サービスがないホテルもある。時間がずれていたり、限定数が少ない場合もあるので、事前に確認しておくことをお薦めする。

お腹はほぼ満杯、後はせんべい汁とビールで夕食は完璧になる。雨が降ってきたので、ホテルの隣にある「浜小家(はまごや)」という手近なところで済ますことにした。宝樹丸という専用漁船を持っている珍しい居酒屋だった。

Photo_5 「え?お客さん、せんべい汁だけでいいんですか」と生きのいい女性店員に念押しされたが、ぐっと我慢して出てきたのがこれだった。

「キンキンせんべい汁」で税込み735円。キンキン(金目鯛)のアラとネギと豆腐と煮込み用特製南部煎餅が入っている。さすが郷土料理全国NO.1に選ばれるだけあって、それは美味しいものだった。

かもめ幼稚園の小澤本江園長に話したところ、「キンキンが入っていたからその値段なんだね。ふつうのせんべい汁ならもっと安いはず」とのことだった。やはり次回は、もっと早い時間に行って駅前レストランで食べなくてはいけないと改めて思った。

ちなみに、翌朝の東横インの味噌汁の具は豆腐と煎餅だった。

かもめ幼稚園と小澤本江と巨大造形物

2008年10月9日(金)

★クジラとウミネコの街

青森県八戸市・かもめ幼稚園(小澤本江理事長&園長)を4年ぶりに訪ねた。小澤先生から「たまには顔出しなさい。積もる話もあることだし」とのお声がかかり、いそいそと始発の新幹線「はやて」に乗り込んだ。

終着の八戸駅から、2両編成の列車に乗り継いで約20分。「鮫」駅に着いた。ウミネコの繁殖地として知られる蕪島があり、かつては沿海クジラも捕獲した漁港がある。かもめ幼稚園にウミネコが遊びにきて、鮫の港にクジラが現れる。ちょっとしたネジレ現象が起きている街でもある。

Photo 駅から幼稚園までは歩いて15分足らずだが、それでも「私が迎えに行くわよ」と小澤先生(写真左)はいつも言う。でも改札口で待っているのは、いつも園バスの運転手さんだ。今回もそうだった。小澤先生はいつも急な用事が入る忙しい人なのである。

小澤本江(みきえ)先生と初めて会ったのはかれこれ30年前。建て替え前の旧園舎のときだった。黒いスーツをきりりと着込み、てきぱきと電話で話し、てきぱきと仕事を処理していた。ちょっと切りがついたところで、脇に座る私に「ごめんなさいね」と笑ってくれた。

こんな商社ビジネスマンのような女性園長がいるのか、と驚くと同時に「カッコいいな」とも思ったものである。その姿はもちろん今も健在で、一度に三つ四つの仕事をかかえて走り出していく。

Photo_2 なつかしい八角管理棟のある園舎では、子ども達に混じって10人余りの中学生の姿があった。この日が1週間の職場体験の最後で、園児とのミニお別れ会があるのだという。

「え、本当ですか!」と聞き返した。4年前に訪ねたときも、職場体験中学生の最後の日だったからだ。おかげで子ども達の忍者おどり、ハシゴ乗り、先生たちの和太鼓、虎舞、そして中学生のコーラスが披露されるミニお別れ会を取材することができた(冊子版第86号に掲載)。どうやら小澤先生は中学生の顔を見ると私を思い出すようだ。

幼稚園からのプレゼントとして、4年前は中学生に「お別れカレー」をふるまったが、今回は「お別れキツネうどん」だった。中学生たちはお弁当持参で来るので汁物の方が良いわけである。

翌日は、地元高校生約50人がやってきて清掃や片付けのボランティア作業をしてくれるそうで、この人たちにもかもめ幼稚園名物のキツネうどんを提供するという。中学生も高校生も、「かもめ幼稚園に行きたい」との希望が多いそうだが、うどんの美味しさが噂になっているのかも知れない。

「あら、そうだった。だったら今日はそれを見なくていいね。その代わりお昼を食べに行こう。私もたまには世間話でもしながら食事をしたいから」と小澤先生は言って、ガラス越しに海が迫る、大船渡ならぬ「小船渡」というお店に連れて行ってくれた。

Photo ビールがないのが申し訳ないくらい立派な海の幸定食だったが、店の中には小澤先生の知り合いが何組もいて、あちこちから声がかかった。

そのたびに席を立って挨拶し、多少の情報交換もしてくるのでとても食べてる暇がない。私だけ、海を眺めながら、ゆっくりと海鮮ランチを頂戴する結果になってしまった。それにしても「幼稚園の園長とは何と忙しいものか」と改めて思った。

★公立から民間移管した「すみれ保育園」

Photo_2 「ここに居たのでは話しもできない」と早々に引き揚げ、5年前に民間移管を引き受けた「すみれ保育園」でコーヒーを飲むことにした。社会福祉法人となり、2年前に移転新築したので園舎はまだ新品の香りがした。

かもめ幼稚園の姉妹園なったので、かもめ保育園、うみねこ保育園、ジョナサン保育園……などとしても良かっただろうが、そのまま公立時代の「すみれ保育所」を引き継いだ。「卒園した人達にすれば、経営母体が変わり、場所が変わっても、園名が同じだったら嬉しいじゃない。園名が消えるのは本当に辛いことだから」とのことだった。

Photo_3 こちらの園長(施設長)は、長男の一雅さん(写真)が担当している。4年前は「保育園のことは何もわからなくて……」とこぼしていたが、今はすっかり落ち着いて、幼児施設の責任者らしい風格と優しさが備わってきた。この4年の間に、ほかの幼稚園の先生と結婚し、もうすぐ二番目の子どもが生まれるという。「なるほどそうだったか」と納得した。

かもめ幼稚園に戻ってきて園内を見回すと、終わったばかりの作品展の余韻があちこちに残っていた。ボランティア高校生のために残した仕事でもあろうが、せっかくの作品をすぐに片付けたくない先生方の気持ちもよくわかる。

絵、書、生け花、造形工作、協同製作など1人の子どもがたくさんの作品を残したことがわかった。各コーナーに添えられている先生方の説明文も丁寧だ。しかし雑然感はどうしてもぬぐえない。

そこで、30年来のつき合いのよしみから、つい「先生、今は量より質の時代です。これではせっかくの良い作品も埋没してしまう。もっと出展作品を絞って、ひとつひとつの存在が際だつようにした方がいい。制作中の写真を添えて作品づくりの経過や背景もわかるようにするといい。たとえばほかの園では……」と口走ってしまった。

ふつうなら、「あんた、現場の苦労も知らないでよく言うよ」「地域には地域のやり方もあるんだから」という声がはね返ってくるものだが、小澤先生は目を輝かせて「ふん、ふん、そうか」と頷き、「忘れちゃいけないから」とメモもとり始めた。ここがベテラン経営者の凄いところで、逆に「恐れ入りました」と頭が下がった。

Photo_5  ひとつ「これはいいな」と思ったのは、園内の壁面のあちこちにクワガタ、カブトムシ、テントウムシなど巨大昆虫が貼り付いていたことだ。

たとえば、段ボール、新聞紙、梱包材で作ったこのクワガタなど、できれば永久保存してほしいと思ったものである。

どうやら幼稚園界では、こうした巨大造形が注目されているようでもあり、下記の本が「できれば紹介してください」と当社に届いた。せっかくだからこの機会に紹介しておこう。

001

著者は元幼稚園教師でイラストライターでもある早未恵理さん。工作遊びが、子どもにとって素晴らしい創造体験になるのは言うまでもないが、何人もの力を合わせ、これだけ大きなものを作るのは、その楽しさ、達成感も巨大になるはずである。

A4判変形80頁。イラストと写真満載のフルカラー。出版は主婦の友社で880円(消費税込み)。関心のある方はアマゾン書店などで取り寄せを。

★預かり保育のための荷物カゴ

Photo_6 もうひとつ、かもめ幼稚園で見つけたアイディアを紹介しよう。それは預かり保育が行われている部屋の前の廊下にあった右のカゴである。まるで銭湯の脱衣カゴのようでもあるが、ひとつのカゴに園児1人分の荷物が入っている。

お母さんが迎えに来たとき、このカゴを持って玄関に行けば、あれこれ手間取らずにサッと帰ることができる。忘れ物がなく、少しでもお母さんと長く過ごせるようにとの配慮ではあるが、預かり保育を受ける子どもが多い地域ならではアイディアでもある。それが何であるかは、同じ状況にある幼稚園ならわかると思う。

預かりの子ども達がみんな帰ったのがちょうど18時。「あ、いけない。先生方の写真を撮るのを忘れていた。急いで、急いで!」と言って撮ったのが下の写真。黄昏どきのフラッシュ撮影で画像が荒くなってしまった。それから園内の奥で準備作業をしていた先生方に声が届かず、何人かが欠場になってしまった。どうかお許しのほどを。

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パール幼稚園と入園説明会と「伝える」技法

2008年10月8日(水)

★まずは園名の由来から

入園説明会を見学させてもらえるというので、東京都大田区・パール幼稚園(野村實千代理事長、野村良司園長)を訪ねた。

Photo 京急蒲田駅を出るとすぐ前に「呑川」という酒でも流れているような川がある。そこに架かっているのが「夫婦(めおと)橋」。呑兵衛亭主と健気な妻のドラマが浮かんでくるレトロな橋だが、「子育ての街にも似合う橋ではないか」と思う。

その夫婦橋を渡って次の信号を右に折れると、「キネマ通り商店街」が長く続いている。「蒲田行進曲」で知られるとおり、かつて蒲田は映画の街だった(1920~1936年)。

Photo_2 松竹キネマ撮影所はJR蒲田駅のそばにあったが、京急蒲田駅周辺には大部屋俳優、大道具・小道具職人ら撮影所で働く人々が住んでいて、その人たちが夕餉の買い物をしたのがこの商店街である。そしてその商店街の一画にパール幼稚園がある。

現園長の祖母が創立したのは54年前。すでに撮影所は大船に移っていたが、きっとムービータウンらしいモダンな気風が残っていたのだろう。「子どもは国の宝。宝は真珠、真珠はパール」という園名の連想がそれを感じさせる。

Photo_3 激しい雨があがったばかりの昼下がりだったが、課外の体操教室に参加していた子ども達は園庭の人工芝の上を走り回っていた。砂地をベースにした弾力性のある人工芝で、水はけが非常に良いからだ。それに昔と違い、人工芝といってもゴワゴワ感がなく、体に優しい柔らかさがあるのに驚いた。

5年前に耐震工事を終えた園舎内部は、園長自ら北欧に出向いて見つけた壁掛け式可動遊具があちこちに設置されるなど、相変わらずひと味違う雰囲気を醸し出していた。

★話より映像で幼稚園を伝える

説明会は14時30分から始まった。もちろん多くは来年4月からの入園希望者だが、再来年の入園を考えている親の参加が年々増えているという。

Photo_5 

マイクを手にした野村良司園長(写真)は、まず園名の由来から話し始めたが、「教育方針とか教育理念などを説明する気はありません。それらはお渡しした001 資料の中に書いてあるのでお読みください。要は理屈でなく、子ども達の育ち合いの場である幼稚園の生の姿を見てほしいのです」と言って、さっそくプロジェクタの投影を始めた。

音楽に乗せて画像が5秒おきに変わるスライドショーで、幼稚園で遊ぶ園児の姿、表情、先生方の姿、園内の風景が次々に映し出される。ところどころに端的なワンフレーズも添えられている。どれも生き生きとした表情で、すべて園長が撮影したものである。

ふつうなら画像が映っている間にも、園長は補足がてらいろいろしゃべるものであるが、野村先生はほとんど話さない。お母さん方と一緒にスクリーンを見つめていた。

団体の研修会や養成校での就職説明会など、野村先生が話をする機会は多く、「この人はお話の好きな人だ」と思っていたが、「実はぼく、人前で話をするのがからっきし苦手なんです」と言う。たしかにその話しぶりは、あれこれいろいろな描写をする中から、肝心なことを察してもらいたいというスタイルではなく、言いたいこと、感じてもらいたいことをズバッと口に出すタイプである。

それゆえ言葉を選ぶことに苦労を感じているのだろう。と言っても2時間の説明会の中で45分間は園長が話していたので、決して話すのが不得意というわけではないようだ。

「うちは音楽に力を入れている幼稚園ではありませんが、『音舞台』『うた舞台』という発表会をしています。発表会を目標に子ども達が生活する中で、いろいろなことが伸びていくからです」と言って、ビデオで年少さんと年長さんの演奏風景を再生した。もちろん違いは歴然、2年間でこれほどまでに変化するものかと会場の人達は息を飲んだ。子どもの成長発達を示すひとつの表現方法として、これは上手な手法だと思った。

これら映像を見て感じたことは、幼稚園経営で大事な「伝える」というテーマが変わってきたことである。もちろん文章や話芸はまだまだ重要であるが、それに映像や画像を織り交ぜることで、伝える内容がより深く、より広く、そしてより説得力あるものになっている。

幼稚園での説明会は、もはやこのスタイルがあたり前になっていくことは間違いないだろう。

★アソブロックと船井総研

Photo_6 会場の中を見回して懐かしい人に出会った。アソブロック(株)の団遊(だん・あそぶ)社長(写真)である。2005年5月に開かれた、八王子市・高尾幼稚園の小山靖昭園長の著書『遙かなる幼稚園』の出版パーティのとき以来だ。

1974年、京都市生まれの団さんは、5年におよぶ情報誌編集の仕事の後、リンドウアソシエイツ(中島千幸社長)で短期修行をして独立した。書籍、入園パンフ、ロゴ、環境デザインなど、幼稚園経営者がイメージしていることを実現してくれる人である。関心のある方は、dan@asoblock.net までご連絡を。

3 もう一組、園児父親とも思われる人達がいた。しかし父親が三人かたまっているのはおかしいと訊いてみると、船井総研の幼稚園サポートチームの面々だった。

左から設楽(しだら)竜也さん、石田敦志さん(チームリーダー)、坂本隆宏さんだ。

「参考になりましたか?船井のセミナーで生かせそうですか」と訊くと、「もちろん大いにありです」との力強い答えだった。

そのセミナーは11月18日(火)、東京都港区・インターコンチネンタル東京ベイホテル(ゆりかもめ「竹芝」駅から徒歩1分)で開かれる。講師陣は、この三人に雑賀(さいが)竜一さんが加わり、10時から17時までみっちりと“船井流”が伝授される。タイトルは「園児募集をしなくても園児が集まる幼稚園になる方法」である。小誌が13年前から細々と辻説法してきたテーマでもある。

関心のある方は、詳しい内容を船井総研のホームページ http://www.funaisoken.co.jp の「セミナー欄」で確認を。

武蔵野東幼稚園と野田彰と自閉症児混合保育

2008年9月25日(木)

東京都武蔵野市・武蔵野東幼稚園(寺田欣司理事長、加藤篤彦園長)を訪ねました。(社)東京都私立幼稚園教育研修会が主催する公開保育が行われたからです。

同園は1964(昭39)年の開園以来、多くの自閉症児を受け入れ、健常児との「混合教育」、愛と根気の「生活療法」による成果は日本中に知られています。自閉症児の自立を考慮して幼稚園付属の小学校、中学校、技能高等専修学校をつくってきました。1987(昭62)年には米国マサチューセッツ州にボストン東スクールを開校し、その教育技法は世界中から注目されています。

そんなわけで同園の公開保育はいつも参加が多く、今回も都内各地から約80人の先生が参加しました。

003 私にとっては久しぶりの訪問になりましたが、以前は一番多く通った幼稚園でした。『月刊・私立幼稚園』は第84号まで表紙の写真に野の花を載せていましたが、その写真を撮ってくれたのが、同園園長(当時)の野田 彰先生(写真=故人)だったからです。

旧制中学時代から撮影歴70年を超えるベテランカメラマンでした。

学園全体を束ねる学園長でもあったので、2ヶ月に1度の割で学園長室を訪ね、テーブルにずらっと並べられた野田先生の最近の作品から4~5点を選んで持ち帰りました。

001 こちらが“選ぶ立場”なんていう意識は毛頭なく、「この編集長は何を選ぶだろうか」とじっと試されている気持ちで緊張したものです。選んだ作品については、その花に関する知識、撮影の情景などを語ってくれましたが、語られなかった写真がいかに多かったことか……。できればすべての作品について話を聞きたかったと悔やまれます。

選んで持ち帰った中でも、表紙にならなかった作品が30枚くらい引き出しの中で眠っています。いつかどこかで陽の目をあててあげたいものです。

ともあれそんなわけで、三鷹駅北口から武蔵野警察署を経由して幼稚園に至る道は何度も通いました。雨の日は、途中で必ず運転手が交代する不思議なバスに乗りましたが、それ以外は約25分の道のりを歩いたものです。

Photo この日も歩くつもりで、その前に駅のトイレに入ったら、すぐ隣で用を足していたのが、編集プロダクション・ハローワールド社の伊勢修社長(写真)でした。

彼は「都私幼連だより」や日本仏教保育協会の機関紙「仏教保育」の取材編集を長く手がけており、我ら同業の仲間うちでもなかなかの事情通なのです。

トイレで会ったがウンの付きではありませんが、太っ腹にも「タクシーで行きましょうよ。タクシー代は私が持ちますから」と言ってくれたので、お言葉に甘えることにしました。

やはりタクシーは快適でした。運転手さんが面白い人で、「ほらここが舟木一夫さんの家だよ。奥さんはよくタクシーを利用してくれるけど、舟木さん本人はいつもバスを利用しているらしい。バス停に立っている姿を見かけるから」と教えてくれました。初めて舟木一夫氏に好感を持った瞬間でした。

★学園を卒業して自立した自閉症児は590人

さて肝心の武蔵野東幼稚園の教育です。これまでに幼稚園から付属小・中学校、高等専修学校を卒業して自立していった自閉症児は590人。転居、転職までして日本中から同園への入園を希望してくる所以です。

Photo 健常児についても、障害のある友達と接することで“生きた福祉・友愛の心”を身に付けるだけでなく、自閉症児の努力する姿を見て、自らの可能性にチャレンジする意識が人一倍強くなり、学力、部活動とも全国の高いレベルに達しています。

そうした、混合教育を中心とした武蔵野東幼稚園の教育内容、沿革などを加藤篤彦園長(写真)が簡潔に説明してから公開保育が始まりました。

その様子は本誌「幼稚園レポート」で紹介しますが、4年ぶりにたずねた同園は、変わらぬ佇まいながらも大小さまざまに変わっていました。

大きな変化は、三歳児が暮らす第一幼稚園の園舎がリフォームされたこと。耐震壁以外の壁が撤去されて、空間が思い切りオープンになりました。四歳・五歳児が暮らす第二幼稚園では、広いウッドテラスや東屋(パーゴラ)ができ壁面緑化も進みました。

Photo_3 小さな変化では、園内のあちこちの壁に左のような説明文が貼られていたことです。空間や設備、安全対策、中学生が作ってくれた教材、子ども達が描いた園バスの絵……などいろいろなものに、その意味や意図が書き込まれているのです。

この日の公開保育のために作られたのではありません。ふだん訪ねてくる保護者やお客さんのためのもので、幼稚園で日頃やっていることが、読んでわかるようになっているのです。私にとっても「なるほどそうか」と思うことが多々ありました。

Photo_4 かといってスタッフが黙々と仕事をしているわけではありません。「これは何ですか?」と問われれば、誰もが、プレートに書かれていることの10倍以上詳しい説明をしてくれます。

自分たちの仕事に自信と誇りを持っている証だと言えます。右の写真で身振りゆたかに話している茂手木副園長は、12年前に私が初めて同園を訪ねたとき、「やあやあ、いらっしゃい。久しぶりです」と抱きかかえるように迎えてくれながら、「ところで誰のおじいちゃんでしたっけ?」と訊いてくれた面白い人です。

Photo_5 ほかに小さな変化では、職員のデスクに全員ノートパソコンが置かれ、学園の全職員とランでつながっていたことです。必要な伝達事項、回覧事項はほとんどがパソコン経由で行われ、おかげで確実に情報共有ができるようになったそうです。

シックにセンスアップされた園バスにもしばし見とれました。

昼食の後は全体協議と分科会が行われ、全体協議では自閉症児を持つ親3人からの体験報告がありました。

障害児を持った親の苦しみ、地元の保育施設で遠回しに排斥されてきた辛さなどがまさに切々と語られ、そして武蔵野東幼稚園と出会い、入園でき、わが子が変わってきたことの喜びが手にとるように伝えられました。

ときにユーモアと笑顔をまじえながら話す姿に、荒波を越えてきた親心のはかり知れない強さを感じたものでもありました。

Photo_6

健伸幼稚園と柴田衣子と浦安の焼きハマグリ

2008年9月24日(水)

★画伯をめざす柴田理事長

夏休みを挟んで3ヶ月ぶりに千葉県船橋市・健伸幼稚園(柴田炤夫理事長、柴田衣子園長)を訪ねました。

静岡県富士市から冨士ふたば幼稚園の今村雄一郎園長、さくら台幼稚園の大嶽(おおたけ)素宏園長が「貴方の記事に一番多く登場する健伸幼稚園の姿を自分の目で見たくてね」と見学にやってきたからです。となると私も出かけて行きたくなります。

「それじゃ私も」と、ほぼ月に1度、同園の子どもを撮影しているカメラマン・河口正馬(せいま)氏も茅ヶ崎からやってきました。静岡県の両園は、河口氏の放浪撮影の対象園でもあります。

彼の健伸幼稚園での撮影は趣味のようなもので、「何がどうというわけじゃないですが、ここの子ども達を撮影していると、ほかの幼稚園に行ったとき、そこの子ども達の表情がよく見えてくるんです」と言います。

私が、ここ30年余りたびたび同園を訪ねるのは、片道25分、電車賃320円で行ける近さもさることながら、河口氏と同じように「健伸幼稚園を見ていると、ほかの幼稚園の良さ、持ち味が、よりくっきりと見えてくる」という感覚を抱いているからだと思います。

一方では、私の記事の中にある情報を鋭くキャッチして、次々と導入実践してくれるのも同園なので、その推移と成果を検証できる幼稚園でもあります。

ということなので、大分県から雑誌ライターをめざして上京してきた元幼稚園教師、長尾紋佳(あやか)さんにも「仕事が休めるなら一緒に来ませんか。いろんなことが取材できる幼稚園ですよ」と声をかけました。嬉しそうに「行きます!」との即答でした。

Photo

芝生の丘の東屋の前で撮影した上の写真は、左から河口正馬氏、長尾紋佳さん、柴田炤夫(あきお)先生、今村雄一郎園長、大嶽素宏園長です。

鹿児島県生まれの長尾さんは、今年3月まで3年間、大分県日田市・三芳幼稚園(西田英子理事長&園長)の教師をしていました。しかし、幼稚園の仕事は好きだが、文章を書くのも大好きなので、それじゃ「幼稚園教師の経験も生かしながら雑誌のライターになろう」と、単身上京してきた人です。

さすが火の国、九州の女性は思い立ったらの行動が早い。そして生活費を稼ぎながらチャンスを待とうと銀座のレストランでアルバイトしていたら、年に1度、三芳幼稚園を撮影に来ていた河口氏と銀座の街角でバッタリ出会ったのです。

それが彼女にとって幸運だったのか不運だったのかはわかりませんが、バカなオジサン二人と縁を持つことになり、この日の取材デビューとなったわけです。

「だけど今日は何にもない日だよ。それに僕は午後から鹿児島に行くのでお相手もできない」と柴田理事長は言いましたが、健伸幼稚園で何もないわけがなく、いろんなことがありました。

Photo_2  たとえば、夏休み中に完成した巨大砂場(以前の砂場が約5倍に拡大)、絵本画伯にボディペイントしてもらった新園バス(写真)、10日前に完成した新ビオトープのお披露目式(カメやメダカの放流)、運動会の練習、お母さんたちの運動会衣装制作教室、ランチルームでのトンカツ給食、頭と体を鍛える健伸ゼミ……など目まぐるしいほどでした。

それらの様子は「幼稚園レポート」に掲載しますが、子ども達にインタビューしながら独自取材をしていた長尾記者が、どんなレポートを書いてくれるかも楽しみです。

Photo_3 ふと見ると、柴田理事長の手には1冊のスケッチブックがありました。夏休みに妻(=園長)とタイを訪ね、スケッチ旅行をしてきたというのです。

その中の1枚がこれです。なかなかの水彩画です。もともと絵の好きな柴田先生は、このところますます熱が入り、量産体制に入っています。ミーティングルームには理事長の絵がたくさん並び、ホールの隣には保護者や先生方の絵を展示するギャラリーもできました。「スポーツ幼稚園」として鳴らした同園が、「アート幼稚園」としても知られてきた所以です。

Photo_4 トンカツとヒジキの給食を食べ終わって、柴田理事長が飛行場に向かったところで、ふと思い立って河口氏に柴田衣子(きぬこ)園長とのツーショット写真を撮ってもらいました。

衣子先生は、33年前に出会って以来、私の憧れの女性園長の1人です。32年前に生まれた娘の名前(芳衣)に、その1文字をもらったほどです。ところがなぜかツーショット写真が1枚もないのを思い出したからです。

これが「こんな片岡さんの、オモチャみたいなカメラ、使い方もわからないよ」と言いながら撮ってくれたプロの写真です。園長先生の後方に見えるのも理事長の絵です。

この写真を見て、「そうだ、これからは幼稚園を訪ねたら園長先生とのツーショット写真を必ず撮ってこよう」と遅まきながら決心しました。何だか新しい生きる目標ができたような気がします。

★駅前ベンチで乾杯!

さて、9時20分から15時30分まで(河口氏は8時から撮影していたとのこと)、たっぷりと健伸幼稚園の空気を吸った我ら一行は、「青べか物語」(山本周五郎著)の街・浦安に向かいました。

冨士ふたば幼稚園の今村園長は、幼稚園の仕事に入る前、静岡県に本社を置く大手物流商社の社員として修行をしていました。浦安にも拠点があり、彼はしばらく浦安で暮らしたことがありました。

そこで、「船橋に行くときは、懐かしい浦安に寄って名物の焼きハマグリを食べたいね」と言っていたことがあったからです。

Photo 調べてみると、浦安駅の近くで焼きハマグリが食べられるのは「さつまや本店」とありました。「きっと漁師町らしい素朴な居酒屋だろう」と思って訪ねたのですが、そこはお土産用の焼きハマグリを箱詰めにして売っているだけのお店でした。

事情を話すと、「ビールを買ってきて店の中で食べてもいいよ」と、作業をしていたオバサンたちは言ってくれましたが、狭い売り場に5人も入るわけにはいかず、焼きハマ4つを串刺しにしたもの(1本115円)を5本包んでもらって店を出ました。

オバサンたちが口々に「ごめんなさいね」と言って見送ってくれました。TDLの顔とは違う、昔気質の人情が浦安にはまだまだ残っていることに嬉しくもなりました。

Photo_2 しかし、店の近くにビールを売っているところが見つからず、結局駅前まで戻って、ようやく「ビールと焼きハマグリ」の図が完成しました。

しかしこれで終わるわけはなく、居酒屋「さかなや道場」になだれ込んだのでありました。

ところで大嶽先生がかぶっているハンチング。「昔のデカ長みたいでレトロですね」と言いましたら、彼はキョトンとした顔をしていました。

その後、最近の若者がこのハンチングルックを好んでいることに気づきました。失礼なことを言ってしまったと反省しきりです。それにしても、そんな最近事情に疎い泥棒諸氏にとっては、「デカさんたちがたくさん街に出ているな」と落ち着かない日々かと思います。

坂戸幼稚園と60周年卒業生絵画展とダンゴロウ

2008年9月21日(日)

★埼玉一のフェスティバルに

東京都板橋区・こうま幼稚園で高麗(こうま)正夫&正道先生(=こうまの親子)に会った翌日、これも縁なのか、市内を南西から北東に清流・高麗(こま)川が流れる坂戸市を訪ねました。

001 創立60周年を迎えた坂戸幼稚園(浅見公子理事長、浅見美智子園長)で、5700人余の卒業生が残した絵を一気に公開する「卒業生絵画展」が行われたからです。

右が、それを知らせてくれた案内ハガキです。卒業生ならずともこれを見て出かけないわけはありません。「関東地方は午後からドシャ降り雷雨になります」という天気予報もものかは、早朝の地下鉄に乗り込みました。

「千葉から坂戸に行くのに、どうして地下鉄?」と思うかも知れません。たしかに素直に考えれば、西船からJR武蔵野線で北朝霞に行き、東武東上線に乗り換えれば良いのです。しかし西船から地下鉄東西線に乗り、飯田橋で森林公園行きの地下鉄有楽町線に乗れば、時間は15分ほど余分にかかりますが往復で800円近く安くなります。これを利用しない手はありません。

ちなみに前日の都営地下鉄三田線「高島平」までの行程は、本八幡駅から都営新宿線が使えるので、「都営地下鉄1日乗り放題券=700円」を買えば、この間の往復だけで約300円安くなります。どうぞ皆さん、参考にしてください。

ただ、1日乗車券を買ってしまうと、用もないのに夜遅くまで電車に乗り続けてしまう生来の貧乏根性が活性化するのが困りものです。

Photo 10年ぶりに下りた坂戸駅前はちょっと様子が変わっていました。ご覧のとおりの看板が出ていたのです。

Photo_6 鳴子を持ったマスコットも踊っていました。「おや、これは何だろう?」と帰ってから調べると、坂戸市は新世紀を記念して2001(平13)年から“よさこい”を導入し、急速に盛り上がっているのだそうです。

人出数で「埼玉一番」いや「北関東一番」のニューフェスタをめざしているそうですが、「越谷阿波踊り」がそれを許すかどうか。そして坂戸から3年遅れでスタートした「浦和よさこい」も県都のメンツをかけて急追しています。坂戸の健闘を祈りたいと思います。

Photo_3 その坂戸駅から歩いて3分。8年ぶりに訪ねた坂戸幼稚園の門を、さまざまな思い出を抱えた卒業生とその家族が次々にくぐっていきます。卒園式のとき、在園児の親子が作ってくれたアーチをくぐって出てきた門です。

8年前に建築中だった背後のマンションも、坂戸幼稚園の風よけとして威風堂々と完成していました。

同園の創設者・浅見友治氏(=現園長の祖父)は、60年前、東京銀座(京橋)の郵便局長を辞して、この地に幼稚園を創りましたが、仕事柄の几帳面さを生かして、園児の作品を丹念に整理保存してきました。

ほとんど人目に触れることなく倉庫で眠っていましたが、せっかくの貴重な思い出作品を卒業生に公開しようと、創立50周年のときに初めて絵画展を行いました。

Photo_4 そのとき、「これからも10年ごとに開こう」と決め、今回が第2回目の絵画展となったわけです。

10年前は卒業生への連絡が十分にとれませんでしたが、今回は口コミとホームページ告知で多くの人が知ることになり、遠方からも来てくれた人も随分いたそうです。

作品は、いわゆる大型紙芝居風に貼り合わせて綴ってあります。訪れた人達は自分が卒業した年次をめくって作品を見つけ、しばし眺めてから写真を撮っていました。

しかし懐かしそうに眺めている人達に話を聞いても、作品そのものの記憶はまったくないという答えばかりです。でも当時の様子はよく覚えているとのことでした。

幼稚園の様子だけでなく、当時の家庭や地域の様子も描かれていて、「子どもの目から見た時代」という貴重な資料だとも言えます。

001_2 1970(昭45)年度の卒業生である浅見美智子園長(写真左)の作品を見ると、描かれているのは運転手さんに導かれて自動車に乗り込む新郎・新婦の姿でした。

やはり何故こんな絵を描いたかは覚えていませんが、「きっとどこかでこんな光景を見かけて、花嫁さんへの憧れがあったのだと思います」と推測の自己分析をしてくれました。

そしてその結婚相手になったのが、事務長の浅見斉(ひとし)先生です(右)。経営管理から事務方一切を引き受けてくれる力強いパートナーです。ちなみに斉先生は東京都練馬区・練馬白菊幼稚園の卒業生です。

Photo_5 8年前に比べて園舎の様子があちこち変わっていましたが、注目したのはダンゴロウというマスコットが誕生していたことです。その名のとおり、子ども達に人気の高いダンゴムシくんです。

右の写真は同園の玄関にあったマットですが、来場した卒業生に渡された特製クリアファイルにも、ダンゴロウが描かれています。

10年後の第3回絵画展では、このダンゴロウくんにもお嫁さんができているだろうか。子どももできていたりして……なんていうイメージも浮かんできた「卒業生絵画展」でした。

なお、この絵画展の詳しい記事は『月刊・私立幼稚園』の幼稚園レポートに掲載します。

こうま幼稚園と私未会と認定こども園

2008年9月20日(土)

★何事も看板を大事にすべし

台風(13号)一過の青空の下、板橋区・こうま幼稚園(高麗正夫理事長&園長)に出かけました。「私立幼稚園の未来を築く会」(略称=私未会)の月例研究会が行われたからです。

Photo 私未会(しみかい)とは、若手経営者の鍛錬道場のような研究会で、ほぼ月に1度、テーマを決めた研究討議を行い、そのあと居酒屋やレストランで存分に懇親交流を深めることを柱にしています。

中心は東京の幼稚園ですが、埼玉、千葉、山形、青森にも会員を有する幅広さがあります。

発祥は1977(昭52)年の秋にさかのぼります。旧全法幼(全国学校法人幼稚園連合会)事務局の片隅、西日の射す窓際で、「私立幼稚園とPR活動」をテーマに話し合いを持ったのが最初だと記憶しています。

当時は「幼稚園が宣伝だPRだなど、とんでもない!」という論調が主流でしたから、あえてそのタブーに挑戦した若気の試みとも言えました。「私立幼稚園の未来を築く会」という名称も、今なら何とも思われないでしょうが、当時は冗談っぽくとられて、ゴム印屋のオヤジから「本当にこれでいいんですか?」と念押しされたものでした。

それゆえ順風満帆な船出とはならず、風前の灯状態も何度かありましたが、北條泰雅氏(港区・みなと幼稚園理事長=現東京都会長)、柏原寛昭氏(世田谷区・育成幼稚園理事長)、入谷幸二氏(大田区・徳持幼稚園理事長)、角本史夫氏(豊島区・白ばと幼稚園理事長)、佐々木司氏(山形市・あおぞら幼稚園理事長=現山形県会長)、高麗(こうま)正夫氏、加藤篤彦氏(武蔵野市・武蔵野東幼稚園園長)らのキャラクターのおかげで現在まで続いています。

Photo_2 こうま幼稚園の玄関前には看板が立っていました。入園式、卒園式、運動会など行事のときに使う看板土台を利用したもので、どこの幼稚園にもあるものですが、私未会の長い歴史の中でも、これほど立派な看板が出たのは初めてのような気がします。看板、表示、ネーミングを大事にする高麗先生らしい発想です。揮毫も高麗先生で、これまた集まった25人の会員を感心させました。

写真は右が高麗先生で左が息子の正道先生。おうまの親子ならぬ“こうまの親子”です。息子は筆まめで純真な好青年です。毛筆力とカラオケ歌唱力は、まだ父親に及ばないようですが、きっと力をつけてくることでしょう。どこまでオヤジに似てくるか楽しみです。

Photo_3 リニューアルされた園舎の階段踊り場に「こうまカレンダー」が貼ってありました。

ほかの幼稚園でも時々見かける光景です。こいのぼり、いもほり、のうりょうまつり、プール……など季節感を感じさせてくれますが、9月が「お茶とうばん」、11月が「おべんとう」になっているのに首をひねりました。

テーマ研究が始まる前に、こうま幼稚園の1年を紹介した約20分のDVDを観ましたが、ここでもその謎は解明されず、「きっと11月にはお弁当がらみの一大イベントがあるんだろう。取材に来なくては」と思ったものでした。

★東京の“幼稚園型”認定こども園をモデルにしよう

Photo_4 さて肝心のこの日の研究テーマは「認定こども園」。今年4月から幼稚園型認定こども園になった日野市・多摩平幼稚園の福田大海(おおみ)副園長(写真左)がその経緯、現状、課題などを報告しました。

隣にいるのはご存知“考えるペコちゃん”です。こうま幼稚園の中にはこうした特製大型ペコポコ人形があちこちにあります。それは同園が不二家を格別に愛する幼稚園だからです。

2007年1月、消費期限切れの牛乳を使ったことで不二家事件が起きました。このときも同園は応援を続け、会社に激励メッセージを送り、感激した不二家社長から感謝状も届きました。

思えばこの事件がきっかけで白い恋人、赤福、ミートホープ、マルハ鰻……などの食品偽装が次々に明るみに出ました。最近の汚染米、メラミン牛乳に比べると悪質度は随分低いものですが、食品問題の実態解明への気運をつくった貢献度は大きかったと言えます。

認定こども園についても、政府が期待するような広がりを生むにはきっかけが必要です。それには東京都が認定している「幼稚園型」システムがモデルになるような気がします。

このシステムなら、長期休暇中も預かり保育を行っている幼稚園は、ほぼ現状のまま認定こども園に移行でき、該当の子どもについては従来の10倍以上の補助金が交付されます。懸案の幼保間の財政格差がかなり埋め合わせでき、同制度創設の本来意義も見えてきます。

たしかに“こどもの利益”を考えた場合、保育所機能部分の開所時間、開所日数はまだまだ問題があります。しかしそれは、飛び込んでからの綱引きで改善できる可能性が十分にあると思います。

土俵に上がらずに手をこまぬき、保育所型あるいは幼保連携型の認定こども園が増えてくるのを見過ごしていく方が、幼児教育の理想を推進すべき幼稚園として罪が深いと言えるかも知れません。

この問題は本誌記事の中で、掘り下げていきたいと思います。

最後に1枚、ご参考までにこうま幼稚園の全景写真を載せておきます。この日は外に出て撮影する余裕がなく、これは2004年2月に撮影したものです。その後園舎内はリニューアルされましたが外観は大体同じです。

左手に色の違う建物が見えます。同園とはまったく無関係の社会福祉法人の保育園です。この、隣に無関係な保育園があることが、こうま幼稚園の底力と不思議な品格を醸成している気がしてなりません。

もうひとつ、先生方の机の上に置かれている最高級高麗人参ドリンクも一役買っているかも知れません。「高麗」と「高麗人参」のひっかけ。ここにも理事長のユーモアセンスを感じました。

001

津久井幼稚園とNEC・田代茂と「さくら水産」はしご酒

2008年9月11日(木)

★オジサンサーファーで賑わう津久井浜

神奈川県横須賀市の津久井幼稚園(余郷聡園長)を訪ねました。同園で行われた「公開保育&公開入園説明会」の見学です。保育の公開は、来年度の入園を検討している親のためであり、これは珍しいものではありませんが、入園説明会の公開は他の幼稚園経営者への参考事例として行うもので、これは非常に珍しいものです。

同園は浄土宗・法蔵院阿弥陀寺を母体としており、その山門の真ん前に津久井浜海水浴場が広がっています。私にとって青春の1ページが残る海岸です。

1973(昭48)年7月、横浜(桜木町)の広告代理店に勤めていたとき、京浜急行の仕事で、「水着美人コンテスト」を実施運営したことがあるからです。といっても新入社員ゆえ、ほとんどが会場設営の肉体労働でしたが、それでも“水着美人”というだけで意気揚々と汗をかいたものでした。

Photo 「津久井浜」駅から海岸線までの懐かしい道を35年ぶりに歩いてみました。すると磯料理居酒屋「進」の看板が目に入りました。

まるで私のためにできたような居酒屋ですが、残念ながら「入居者募集」の看板も出ており、夕方になってもシャッターは開かない雰囲気です。「もっと早く津久井浜に来るべきだった」と悔やまれました。

Photo_2 9月も半ばですから、もはや海水浴場に水着美人の姿はありません。その代わり朝からウィンドサーフィンをする人達の姿があちこちにありました。通りすがりのオバサンに訊くと、昼頃には百以上の帆が動き回るといいます。木曜日に海遊びをする人ってどんな人種なんでしょう。

猛スピードで沖から海岸に戻ってきた人の顔をしげしげ確認すると、さわやか笑顔の青年ではなく、いずれもゴマ塩頭に無精ヒゲの50~60代とおぼしきオジサンばかりです。これまた一体どうしたことなのでしょう。

★園長の幼児教育論を聞いてもらう場に

少々寄り道をして津久井幼稚園に到着すると、入口の前には、小さい子どもやバギーを引いた母親がたくさん集まっていました。公開保育と入園説明会への開門を待っているのです。

9時15分、園庭でのサーキットが始まると同時に開門となり、入場したたくさんのお母さん方の視線を受けて、子ども達の動きは一段と良くなりました。

Photo

子どもだけでなく先生たちも元気一杯。自分達の日頃の保育を多くの親に見てもらい、それによって来年度の入園児受付が決まるのですから張り切るのも当然です。先生たちの笑顔と挨拶に力がこもっているのがわかります。

Photo_5 お揃いの空色ポロシャツを着た先生たち。その胸にはマルに津の字のマークが入っています。シンプルな津久井幼稚園のトレードマークです。

そのマークの前に「TEAM」の文字。この「ティーム・マル津」こそ、同園の先生方の誇りであり絆なのでしょう。

同園は「設定保育&早期教育」に重きを置くタイプの園です。初めてわが子を幼稚園に上げる親の関心は、当然年少クラスに向きますが、そこでも基本的に年長クラスと同じようにフラッシュカード、時計、漢字、プリントが行われていました。しかも、その切り替えスピードは年中、年長よりも速く感じます。

私もこの種の保育は数多く見てきましたが、その大半が年長だったため、「年少でもここまでやるのか」と正直驚きました。しかし廊下からのぞき込むお母さん方は目は意外に平然としています。きっとある程度内容を承知しているからなのでしょう。

11時、保育内容と園内の様子を約2時間にわたり見学したお母さん方が、入園説明会を聞くためにホールに集まってきました。その数100人余。「おや?親の数はもっと多かったのでは」と思いましたが、上の子が在園児または卒園児の場合は、「兄弟姉妹入園枠」が確保されているし、同園の教育方針はよく理解しているので、説明会を聞かなくても良いとのこと。出席したのは初めて子どもを幼稚園に上げる人ばかりでした。

Photo_6 説明会で話をするのは余郷(よごう)園長(左)ただ1人。まさにIT駆使の言葉がピッタリで、みずからパソコンを操作しパワーポイントやスライドショーを見せながら話を進めていきます。

話の中心は、「なぜ幼児教育が必要なのか」「それに対して津久井幼稚園はどんな取り組みをしているか」ということですが、「私の幼児教育論と日本の未来」の垂れ幕を張りだしてもおかしくない講演会論調でした。

食育がらみの話題では、「こんなものを食べてはいけません」と具体的な企業名、商品名がバンバン出てきます。「おいおい、関係者がこの中にいたら気を悪くするのでは……」とハラハラしましたが、この歯に衣着せぬ思い切った物言いこそ、余郷園長のパワーであり信頼を得る要素なのかも知れません。

Photo_7 しかし園長の教育哲学や子育て論は聞けたものの、入園受付手続き、給食、バスコース、預かり保育、課外活動など、ふつうの入園説明会で聞けることはほとんど聞けませんでした。

それらを詳しく聞きたい人は、会場後方に設けられた「ママの相談所」に出向き、現役保護者会の役員さん方から個別具体的な話を聞くことができる仕組みになっています。

これが同園入園説明会の特徴的なことと言え、余郷園長も「私は自分の園の欠点を言いませんが、ママ相談所の人なら言ってくれるかも知れません。どうぞ遠慮なく聞いてみてください」と、これまた率直に言いました。

午後は、全国から公開入園説明会を見学に来た20人余の園長を対象に「IT活用と幼稚園経営」をテーマにしたセミナーが行われました。その中では、同園が新たに導入したバーコードとTVを使った新しい英語学習システム「サイバードリーム」(取り扱い=幼年教育出版)の実践事例も見学できました。

見学にきた幼稚園の大半は、津久井幼稚園と同じスタイルの教育を取り入れており、この説明会も毎年聞きにきている人もいます。「基本的に同じ考え方ですから、なぜこうするかはよくわかる。しかしそこには微妙な違いもあります。その違いに気づくことに大きな意味があるのです」とのことでした。

★NEC・田代氏とは水前寺清子との接点も

Photo_8 津久井幼稚園の取材を切り上げ、大急ぎで東京に戻り、水道橋の「さくら水産」でNECネッツエスアイ(旧NECシステム建設)の田代茂氏(写真右)と会いました。

あ法大社会学部社会学科の3年後輩である田代氏も品川周辺の「さくら水産」ファンですが、この放浪日誌を読み、「編集長がAランクにあげている水道橋店にぜひ行きたい」と連絡があっての再会でした。

積もる世間話をしているうち、田代氏は学生時代はフォークソングをやっていて、卒業後は音楽に関わる仕事を求めて水前寺清子事務所に入り、次にCD制作会社・NECアベニューに移り、そこからNEC本社宣伝部に出向したのをきっかけにNECの人間になったとのことでした。彼もまた“あ法大根性”を生かし、紆余曲折の人生を歩んできたようです。

水前寺清子といえば、私も1969(昭44)年秋から半年ほど、溜池・クラウンレコードのバンドに出入りし、彼女のバック演奏も務めました。同じクラウンに北島三郎が所属していたことから、その後は大学卒業まで同郷の北島バンドで過ごしました。田代氏とは、大学の同窓だけではないもうひとつの接点もあったわけです。

そしてこの後輩、幼稚園での浄活水器、園庭の天然芝生化、園舎の改築補修、園業務のIT化などの仕事に長年関わっているため幼稚園事情も詳しく、この日は「グローバリゼーションの中での幼児教育」「高度情報化社会に幼稚園はどうに向き合っていくのか」など、NEC社員らしい格調高い話も拝聴することができました。

Photo_9 また彼の話から、水道橋にはもう1店、「さくら水産」があることを知り、西口店から東口店へとはしご酒をすることにしました。右の写真が東口店の入口です。西口店が外に何の看板もなく、「知る人ぞ知る」のスタイルなのに対して、こちらはとてもわかりやすいです。

「同じさくら水産でハシゴするなんてバカじゃないの!」と思うかも知れません。二人とも間違いなくバカですが、やはり違うのです。まず店の造り、店員が違います。そして「本日のおすすめ」のメニューが違うのです。1番から3番までの「さんまスペシャル」は同じでしたが、4番から10番までがガラッと違っていたのです。

これからは昼も夕も二次会も「さくら水産」というパターンが多くなりそうです。そしてこの日、同じ音楽業界にいたという新たな縁を記念して、言うまでもなく「ビックエコー」に行きました。

ビックエコーは消費カロリーで、その熱唱度が表示されますが、田代氏が最後に歌った「熱き心に」で最高点を奪われました。拝聴した格調高いレクチャー内容も電車の中で忘れてしまい、何もない襟裳岬の秋となりました。

焼津のIT活用セミナーとカツオのヘソと仲田安津子

2008年8月22日(金)

★小泉八雲が一番愛した町

Photo_10 マグロと黒潮温泉と小泉八雲(ラフカディオ・ハーン=写真下)の町、静岡県焼津市にやって来ました。

「ちょっと待て、小泉八雲の町といったら島根県の松江市や出雲市じゃないの?」と思うかも知れませんが、実は彼が日本で一番愛した町は焼津でした。生まれ育った故郷、ギリシャの島に似ていたのかも知れません。

Photo そのため54歳で亡くなるまで、晩年の8年間は新宿区富久町に住み、夏は毎年、家族と共に焼津で長期滞在したのです。

だから焼津には小泉八雲記念館をはじめ、同氏ゆかりの地名がたくさん残っています。駅前のカジキマグロの像の隣にも石碑が建っています。

この日は、その焼津市に本社を置く幼児教育支援IT企業・(株)サンロフト(松田敏孝社長)が主催する「幼稚園教師のためのIT活用セミナー(パステルセミナー2008)」が行われたのです。

静岡駅で浜松行きの普通電車に乗り換えたとき、向かい側の席に見かけた人の姿がありました。仲田安津子先生(東京都・御苑学園幼児ルーム代表)でした。

001 仲田先生(写真)に出会ったのは、7月の東京都の教研大会に続いてこの夏2度目です。この元気印オバさんとはよっぽど縁があるのかも知れません。

サンロフトセミナーで、お得意の折り紙指導を行うというのです。

「ITと折り紙?」と首をひねるかも知れませんが、それが同セミナーの面白いところで、日がな一日パソコンに向かっている私のような人間でも、このセミナーに出ると、新しい裏技・小技を覚えて進化していく部分が多々あります。

同じように日頃折り紙に接している先生でも、仲田先生の指導を受けると、新しい発見がたくさん出てきます。

「話を聞いて、図を見て、きちんと折り紙ができること、それがIT頭脳につながり、IT活用の知恵が生まれる」という意図かも知れません。いずれにしろ、ITからちょっと離れた遊び心があるところにサンロフトセミナーの特色があると言えます。

Photo_12 そのほか今回は、「子ども達の意欲と能力を高めるIT活用法」について門平忠正先生(埼玉県鳩ヶ谷市・ゆりかご幼稚園理事長)が講演しました。

同園では、幼児の能力を引き出すため古くから「逆上がり」を取り入れ、大半の子どもが卒園までにできるようになります。ミラーニューロンの効果で年少児も4割くらいができます。

その活動を促進するために、パソコンでいろいろな表彰状を作成し、さらに成果を高め、子ども達の満足度も高めていることなどが報告されました。

ほかに「行事写真などをネットで保護者に提供するシステム(パステルアルバム)」「思い出ムービーの作り方」「ネット配信絵本の活用法」「最新のプリンタ&プロジェクタ事情」「ワードで作る手作り感の園だより」と盛りだくさんでした。

このセミナーは、今まで焼津だけで行われていましたが、「東京でも是非やってほしい」との要望に応え、10月2日(木)、江東区豊洲の「NBF豊洲ガーデンフロント」でも行われることになりました。

詳しくはサンロフト社のパステルライン事務局ホームページでご確認ください。

同社では、こうしたセミナーの開催のほか、「パステルIT新聞」という幼稚園教師のためのパソコン入門&活用新聞を発行しています。そこで最後に、仲田先生を囲んで、セミナー運営と新聞編集スタッフの記念写真を撮りました。

Photo_13

後列左端が松田社長。前列中央がパステルセミナーディレクターの長谷川洋子さん、前列右端がパステルIT新聞編集長の鈴木あゆみさんです。

★ヘソのおかげで偶然の出会い

さて、東京に帰ろうと焼津駅に向かいましたが、「せっかく焼津に来たのだから、せめてカツオのヘソを食べて帰りましょう」と仲田先生を強引に誘い、駅前の料理屋「寿限無」でタクシーを止めてもらいました。

するとどうしたことでしょう。「寿限無」の前には、静岡県私立幼稚園協会の相田芳久会長(焼津豊田幼稚園園長)ほか、焼津の私立幼稚園の面々がずらりと並んでいたのです。

Photo_14 私はてっきり、「マルガリヤ片岡が焼津に来ている。あいつは必ずカツオのヘソを食べるはずだ」との指名手配が流れ、網を張っていたのかと思いましたが、違いました。

焼津市私立幼稚園協会の園長会が、暑気払いを兼ねて開かれるということで、まったくの偶然でした。

しかし、こんな偶然は奇跡的だと、とにかく記念撮影をしました。前列左端が相田芳久先生で、その右が、自称「七色仮面」こと高田路久先生(暁幼稚園理事長)です。

この後、まどか幼稚園の橋ケ谷晃理事長、小川幼稚園の浅沼成行理事長らも到着し、私の顔を見てビックリしていました。まったく人生とは何が起こるかわからないものです。

それはそれとして肝心の「カツオのヘソ」です。日本のヘソと言えば群馬県渋川市(緯度経度で日本の中心にあることと雷の多発地帯であるゆえ)で、カツオのヘソといえば焼津市です。と言っても魚にヘソがあるわけはなく、それは心臓のことです。

Photo_2 フランス料理通の仲田先生は、「え!心臓なの?血なまぐさいんじゃない?堅いんじゃない?」と少々及び腰でしたが、一口食べると、「あ、こりゃ美味しい!」と目を輝かせました。

左が塩焼き(2串で370円)、右がフライ(3串にキャベツ付きで630円)です。ヘソシオのほかにヘソ味噌もあるはずなのですが、寿限無のメニューにはありませんでした。

焼き鳥レバーに似た食感ですが、それともまた違う苦み、歯ごたえがあり、通好みの旨さです。どのカツオにも心臓はあるはずですが、食べられるのは焼津だけ。それも限られた数店だけなので、きっと独特の保存法、調理法があるのだと思います。

「これでまた寿命が75日延びたわ」とすっかりヘソが気に入った仲田先生は、お土産まで作ってもらって焼津を後にしたのでした。

アンパンマンと二人の眞理子とアラレちゃん

2008年8月5日(火)

★鈴木操先生からビッグなプレゼント

前日に引き続き、埼玉県「親学実践」研究講座2008の第2日目です。

Photo_6 前日、セミナー会場で鶴ヶ島市・武蔵野幼稚園の鈴木操園長(写真右)に会いました。

1年余り前、私にアンパンマン、カレーパンマン、食パンマン、メロンパンナちゃん、おむすびマンなどの手作り人形をプレゼントしてくれた先生です。いわばアンパンマンの母とも呼べる方です。

頂戴した7人の仲間を私はそれぞれ野球帽に付け、「火曜日はカレーパンマン、水曜日はアンパンマン……と曜日ごとに帽子を替えて幼稚園に出かけています」という話(詳しくは6月13日付け放浪日誌「アンパンマンと室蘭&洞爺湖幼稚園」の記事を参照ください)をしたところ、「それじゃ明日、アンパンマンのボスを持ってきてあげるわ」と言ってくれ、写真のとおり本当に持ってきてくれたのです。

器用な園長先生の恩恵は同園の園児たちも授かっており、アンパンマンの仲間人形は1人に年間2個ずつプレゼントされ、在園中に6人の仲間が集まることになっているそうです。きっと子ども達も、私と同じく6つの帽子に付けて楽しんでいることと思います。

「実は私、8月10日が誕生日なんですが、これを誕生日プレゼントということにさせてもらえないでしょうか」と図々しくもお願いしてみましたところ、鈴木先生は快諾してくれました。やっぱり、バースデープレゼントとふつうのプレゼントでは重みが違いますから、ありがたいことでした。

★秋からの実践に向けて会場は大盛り上がり

それはさておきセミナーの中身です。

Photo 午前中の講師はコーチングの専門家・平美和さん(写真)でした。「子どもの心を受け止める」「親の心を伝える」をテーマに、人間関係(コミュニケーション)構築の様々な手法を伝授してくれました。

冒頭の「おはようございます」の挨拶で、平さんは「いつものビジネスマン向けセミナーとはムードが全然違う」と感じたそうです。85人の受講者全員から満面の笑顔と大きな声が返ってきたからです。

その後の展開は推して知るべしです。たとえば最初の「アイスブレーク」。外見でわかるもの以外で自分と共通点を持つ人を、3分間に5人以上見つけるというものですが、全員が5人の目標をクリアし、6人、7人まで見つけた人も何人もいました。

たくさんの新しいネットワークができあがったところで昼休み。「こんなに盛り上がったセミナーは私の人生で初めてです。私もしっかり燃焼してお腹がすきました」と言いながら、控え室に戻った平さんは、さいたま共済会館の特製幕の内弁当を美味しそうに平らげました。

Photo_2 いよいよ最後、午後の「幼稚園での親学実践の進め方」を担当したのは経営コンサルタントでもある松下政経塾出身の坂東弘康氏(親学推進協会理事=写真)でした。

午前中に身に付けたコミュニケーション・スキルをフル活用して、幼稚園で行う親学勉強会(座談会)のシミュレーションを行ったのです。

こちらも、ブンブンとうなりを上げるほどに会場は盛り上がりました。

幼稚園では、お誕生会のときや行事の打合せを兼ねてなど、折にふれて親が集まって、園長や主任と懇談することがよくあります。今後埼玉県では、そうした“面白子育て座談会”がますます盛んになるのは間違いないと思いました。

私は今回、取材は二の次に、参加者の1人として受講させてもらいましたが、アクティブなグループ討議を繰り返したおかげで新しい知り合いができ、また古い知り合い方については新しい情報を得ることができました。

Photo_7 この面々が私の近くの席にいて、対談やディスカッションをした仲間です。後列左から川口市・安行幼稚園の中山弘副園長、吉川市・茂幼稚園の山本眞理子園長、さいたま市・大宮幼稚園の江口眞理子先生、鶴ヶ島市・武蔵野幼稚園の鈴木操園長、前列左から熊谷市・三尻幼稚園の矢部宏美先生、久喜市・久喜みなみ幼稚園の松嶋弘子先生、鶴ヶ島市・鶴ヶ島めぐみ幼稚園の小川芳子園長です。

数々の体験の中で一番大変だったのは、相手の楽しい話題を表情を変えずにシラ~っと聞く能面対談で、私の相手はバスケットボールの公式審判員も務める中山先生でした。

無視すること、無視されることの辛さを実感し、演技だったとはいえ、中山先生には申し訳ないことをしたと思っています。

Photo_4 上の写真でもおわかりのように、偶然にも二人の眞理子先生がいました。私と同郷である北海道苫小牧市出身の江口眞理子先生(左)と日本舞踊の名取でもある山本眞理子先生です。

大宮で開催される関東地区大会で講演するのは「女性の品格」の坂東眞理子さん。三人ともほぼ同じ年代とお見かけしますが、当時はこの「眞理子」が何かの理由で流行ったのかも知れません。

「最近、誰かからもらった嬉しい言葉」について3人で話し合ったとき、山本先生は「恩師から『お前は馬鹿になれない人間だったが、やっと馬鹿になれたね』と言われたこと」で、江口先生は「夫から『あんたは幼稚園に向いている人なんだね』としみじみ言われたこと」だったそうです。何ともいい話ではありませんか。

私は、「息子から『オヤジ、早死にするんじゃないよ』と言われたこと」と言いました。少々照れましたが、照れることをお互いに出し合っていくことがコミュニケーションの基本であることを改めて知りました。

Photo_5 アンパンマンが出たついでに、二人のアラレちゃんを紹介しておきます。机の列が隣だったのであまり交流できませんでしたが、手のひらポーズでおわかりのとおり、春日部市・庄和すずらん幼稚園の篠塚弘美先生(左)と戸田千里先生です。

同園を訪ねると、いつも出来たてホカホカの自家製アラレでもてなしてくれます。これが実に美味しくて、時にはお土産にも持たせてくれます。園児と先生が自分達で田植えし、稲刈りしたお米からつくったアラレです。

だから「あられもない女性」とは反対の、「あられも品格もある」先生方なのです。則巻千兵衛は森田博園長で、串刺しウンチの代わりに、串刺し風船でビックリさせてくれることはあります。

箱根登山鉄道と東京都学法協議会と小島滋雄弁護士

2008年8月1日(金)

★運転手・車掌の免許併有はできないのか?箱根登山鉄道

箱根宮ノ下の武蔵野別館というホテルに出かけました。そこで、東京都私立幼稚園連合会・学校法人協議会(角本史夫幹事長=豊島区・白ばと幼稚園)の宿泊研修会が行われたからです。

私立幼稚園の多くは学校法人立ですが、東京都は個人立、宗教法人立の園数も多いため、設置体別に協議会を設け、設置体特有の問題は各協議会で議論する形になっています。

それはともあれ箱根です。箱根と聞くとなぜか心が躍ります。箱根駅伝のせいかも知れません。

千葉の幕張本郷から箱根というと、「遠いのでは?」と思うかも知れませんが、意外にも近隣の有名温泉地の中では一番近くて安いのです。

参考までに時間と普通片道運賃を列記しますと、①箱根湯本 2時間50分 1,730円 ②鬼怒川温泉 4時間45分 2.090円 ③熱海温泉 3時間 2,600円 ④伊香保温泉 4時間10分 3,120円 ⑤水上温泉 4時間30分 3,260円 となります。

今回は箱根湯本より先の宮ノ下でしたので時間は3時間20分、運賃は2,030円かかりましたが、それでも一番お得で楽しめるのが箱根です。

Photo 中でもワクワクするのは小田原から乗る箱根登山鉄道です。

箱根湯本までは写真右のちょっとモダンな電車で、湯本から先、強羅までは小型2両編成の電車で旧勾配をキーキー、ゴトゴトと登っていきます。

しかし同じ方向だけで登っていくことができず、途中で3カ所、スイッチバックし、進行方向を入れ替えて登ります。

このとき運転手さんと車掌さんが電車の外を歩いて入れ替わります。2両編成ですからさほど時間はかかりませんが、幼稚園の先生が保育士の資格も持っているように、運転手と車掌の両方の資格を持っていれば、時間をおかずに、すぐに逆方向に走り出せるのに、「どうしてそうしないのだろう?」といつも思ってしまいます。

しかもその交代劇は、両者とも俯き加減でトボトボと行われ、すれ違うときに声を掛け合うことも、目を合わすこともありません。もし乗客を楽しませるためのパフォーマンス的要素があるなら、スキップやハイタッチでもしながら、もっと元気にやってもらいたいものです。

Photo 「30円余分にかかるけど、一駅先の小涌谷駅から坂を下りて来た方が楽だよ」との都私幼連事務局・宮坂充宜(みつのり)次長の進言にしたがい、復路状態で下りてきました。しかし駅伝道路からホテルに続く上り坂だけで汗びっしょりになりました。

宮ノ下駅からホテルまで、律儀に登り続けてきた清瀬ゆりかご幼稚園の内野光裕園長は、ネクタイもワイシャツも脱ぎ捨て、ランニングシャツ姿で高級ホテルの玄関に現れました。どれほどすごい坂かご想像ください。この坂道を、箱根駅伝の若者たちは駆け上ったり、駆け下りたりするわけですが、とても信じられません。

★「人を育てることは最高の公益性」の自覚を

さて肝心の研修会の中身です。まずは弁護士・小島滋雄氏(九段一口坂法律事務所)の「公益法人としての学校法人」と題する講演から始まりました。

Photo_2 小島弁護士は、公益法人制度の大改正や私立学校法の改正に触れながら、「公益法人とは何か」という基本の基本を説き起こした上で、「人を育てることは、社会にとって最も大事な事業です。それを担っている学校法人は最大の公益性がある。規制の厳しさは、国民の期待、社会の願いを反映しているものと自覚してほしい」と大きな声で訴えました。

話を聴いた参加者は、「そうだ!私たちの仕事は最高の公益事業だ」と胸を張り、「監査を受けるのは楽しくないけど、喜んで受けようじゃないか」と、昇る朝日に向かって仁王立ちするような清々しい表情になっていました。

Photo_3 さて右の写真。講師の小島滋雄弁護士(左)と宮坂充宣事務局次長は、何を隠そう、都立大学附属高校(目黒区八雲)の同期生です。

部活は小島氏が柔道部、宮坂氏が硬式テニス部でした。強くなることで女生徒の関心を集めようとしたのが小島氏、最初から女生徒の大勢いるところに取り込まれたのが宮坂氏。硬派と軟派の両雄だったようです。

ただ芸術科目は小島氏が音楽、宮坂氏が美術を選び、このネジレ現象によって人生観のバランスは保たれていたようです。

ところで、この名門・都立大附属高校は、都立大自体がなくなったことに伴い(首都大学東京に発展)、2010年に廃止されることになりました。二人にとっては一抹複雑な心境かと思います。

引き続き行われたパネルディスカッションは、その公益性の高い学校法人を継承するための現実と課題をテーマに行われました。

Photo_4

写真は左から、幼稚園が妻の実家で義父から園長を継承したあきる野市・多摩川幼稚園の濱川喜亘園長、父親の他界に伴い園長を継承した町田市・開進幼稚園の湯目英人園長、幼稚園が夫の実家で義母から園長を継承した杉並区・久我山幼稚園の野上秀子園長、親族と関係なく叩き上げで園長に就任した武蔵野市・武蔵野東幼稚園の加藤篤彦園長。そしてそれぞれの発言について第三者の立場でコメントさせてもらった不肖編集長です。

この4人だけでも、私立幼稚園にはいろいろな継承パターンがあるのがわかります。要は現在の経営者が、自分の後継者に誰が一番適任であるかをしっかり見極めれば、そこにはおのずと様々なパターンが現れるということです。

もはや、親から子への単純な世襲では乗り越えられない公益性のハードルがあるとも言えます。

そんなシリアスな議論の後は、約1時間半の入浴タイムがあり、それから和気藹々の食事タイムです。すべてを忘れて付き合える宿泊研修の良さです。しかし私は泊まることができません。翌日に地元自治会の夏祭りがあり、自治会長として「午前8時に役員全員集合」の号令をかけているからです。

それでもご好意に甘えて、箱根の湯と「真夏の膳」と題した料理を頂戴することにしました。

宮坂氏と一緒に風呂に入り、そこで驚くべき温泉宿エピソードを聞きました。時間による看板の掛け替えに気づかず、女湯に入ってしまったことが、宮坂氏の人生には2度もあったというのです。女性が集まる場所に自然に取り込まれてしまう習性が、高校時代から営々と続いていることを納得しました。

Photo_5 そしていよいよ食事。大広間に座って「さあ、大急ぎで食べるぞ!」とお膳にかかっていた紙を取ると、何と、中身はこれだけでした。

伊香保温泉や鬼怒川温泉なら、最初からいろいろな料理がびっしりと載っていて、その気になれば15分で平らげることもできるのですが、さすが箱根は上品で、お品書きにある料理が順々に出てくるのです。

しかもそのテンポはゆっくりで、ぎりぎり20時まで粘ったものの、全14品のうち7品を食べたところで席を立たざるを得ませんでした。ここ数年では最も未練が残った一瞬でした。

千代田区・神田寺幼稚園の友松浩志理事長もやむを得ない事情で泊まれず、愛車・トヨタオーパで帰ると聞きました。そこで秋葉原まで乗せてもらえないかと頼み、快諾を得ました。約1,600円の電車賃の節約です。助かりました。

ガソリン値上げのおかげで、金曜の夜だというのに道路はどこもガラガラ。法定速度の安全運転にもかかわらず、箱根から秋葉原まで1時間半足らずで着きました。想定時間の半分です。驚きました。「これだったら、焼き魚、煮物、天麩羅も食べることができたかも知れないな」と、ふと思ったところでもありました。

ちなみに翌日の研修は、東京都の監査を受けた幼稚園が、その経験と注意点を語るシンポジウムが行われました。

仲田安津子と「2歳児の保育」とフランス料理

2008年7月23日(水)

★幼稚園の年少児と御苑学園の3歳児はかなり違う

東京都私立幼稚園連合会の教研大会2日目です。会場を替え、10個の分科会は同連合会の本拠地である私学会館(アルカディア市ヶ谷)で行われました。

私は、朝9時30分から16時まで、第1分科会「2歳児の保育」に張り付きました。もともと私は分科会の廊下トンビが嫌いで、どこかひとつを選んで最初から最後まで聴く主義です。今回、同分科会を選んだのは、

①講師を務める仲田安津子さん(御苑学園幼児ルーム代表)が、いろいろと世話になっている古い友人であること。

②コーディネイターを務める関政子さん(中野区・やはた幼稚園園長)が、やはり古いつき合いの先生で、彼女の母親(詩人・関洋子さん)が『月刊・私立幼稚園』の表紙に毎月詩を提供してくれていること。

③そして前日の講演で、奈須正裕氏(上智大学教授)が触れた次のひと言です。「6年生を見て比べれば、1年生はたしかに幼く見えてしまう。そこに間違いの原点がある。しかし、幼稚園の先生も同じ間違いをしている。年長さんの大人ぶりを見て、三歳、四歳児の底力を小さく見ているからだ」

仲田先生の御苑学園幼児ルームは、2歳・3歳を対象にした48年の実績を持つ無認可施設です。ここで3歳児の様子を見ていると、幼稚園の年少さんには見られない大人ぶりがあり、2歳児の世話もよく見るのです。4歳、5歳がいないせいでもあり、スタッフの人達が3歳児をお兄さん、お姉さん扱いしているからなのでしょう。

そんな3歳児の姿を見て、2歳児もいろいろと考え、意味深い行動をする様子が窺えます。

もちろんどの分科会も、前日の二つの講演とたくさん関連しているのですが、①と②の事情があるのですから仕方ありません。

それより何より、無認可施設の代表を分科会の講師に招いたという、都私幼連の大胆さと太っ腹さに敬服したからでもありました。

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上の写真が第1分科会の運営担当者です。左から記録の豊田志保さん(江戸川双葉幼稚園)、コーディネイターの関政子さん(やはた幼稚園園長)、講師の仲田安津子さん、コーディネイターの菅原久子さん(江戸川双葉幼稚園園長)、御苑学園の様子を記録し、その映像を通じて問題提起を行ったカメラマンの小林洋さん。

Photo_3 人間国宝的職人芸の仲田安津子さん(77)は、学者のような話は決してしません。まずは2歳児が実際にどんな遊びをしているのか、参加者全員で遊び道具を作ったり、オモチャで遊ぶことから話を始めました。

それから数日前に撮影した2歳児の様子を映し出し、それを見て何を感じ、何を疑問に思ったかをグループごとに話し合ってもらい、仲田先生が、その感想や疑問に鋭い突っ込みも入れながら回答しました。

遊び道具を作る材料は、約70人分をすべて仲田先生が用意しました。

「それは大変でしたね」と言うと、「幼児教育とはすべてが準備よ。このくらいどうということはない」と笑いました。

そのうえ仲田先生は、ほとんど椅子に座ることなく、会場の中を動き回り、マイクも使わず、よく通る声で身振りゆたかに話し続けました。

その心配り、情熱、行動力、そして子どものような頭の回転力を感じた参加者は、2歳児の理解もさることながら、仲田先生の中に、自分達が忘れてしまった何かを再発見したようでもありました。

仲田安津子さんの人物像は、ウェブマガジン『月刊・私立幼稚園』の私幼人生録(第89号)でも詳しく紹介しているので参考にしていただければ幸甚です。

分科会が終わったとき、何人もの参加者が仲田先生のもとに駆け寄り、感想や感謝の言葉を伝えましたが、その中に二人、まるで久しぶりに出会った恩師と教え子のように嬉しそうにしている人がいました。

Photo_4 訊いてみると、まさにそのとおりの関係で、仲田先生が國學院大學幼児教育専門学校で教えていたときの教え子でした。

左が府中わかば幼稚園の内海由江さん、中が多摩市・おだ学園幼稚園の月江由紀恵さん。月江先生にとっては30年ぶりの再会でした。

二人に話を聞くと、仲田先生はまったっく出席をとらない変わった先生だったそうです。ところが、休む人はほとんどなく教室はいつも満杯だったそうです。

「それは、当時も不思議なことでしたが、とにかく授業が面白くて、休もうなんて思いませんでした。少々熱があっても、無理して出かけていきました。今日の様子は、あの頃とまったく同じで感動しました」と、二人で何度も頷きあっていました。

★高級フランス料理にご相伴できました

「編集長、この後何か予定あるの?」と仲田先生に訊かれました。「いや別に、家に帰るだけです」「だったら、ビール飲みに行こうよ」「え、本当ですか。嬉しいな」ということになりました。編集長稼業に喜びを感ずる“ご相伴”です。

でん六豆をポリポリ食べたり、キュウリに辛子味噌をつけて食べる仲田先生の姿を思い出し、行き先はきっと和風居酒屋か回転寿司だろうと思っていたら、たどり着いたのは、市ヶ谷では名の知れた「マルミット」というフランス料理レストランでした。意外でした。

Photo

写真は左から子育て環境デザイン研究所の住吉永匡氏、カメラマン・小林洋氏、不肖マルガリヤ編集長、そして仲田安津子さんです。

住吉さんは、かつて(株)コンパンプレイスケープという会社に勤め、欧米から幼稚園向け大型遊具の輸入販売をしていました。今は独立して幅広く幼児のための環境構成やイベント企画の仕事をしています。この日は、仲田先生のレジメ作りや教材・玩具の運搬係を務めたとのことでした。

かつて講談社の専属カメラマンでもあった小林さんは、仲田先生と御苑学園の魅力にひかれ、30年余にわたって撮影を続けている人です。今は、仲田先生の生い立ちから、オリジナル教材、作品群までを収録した膨大な写真集の編纂に取り組んでいます。

私を除く3人は難しそうなメニューを見て流暢に注文し、ナイフとフォークも器用に使っていましたが、私は、オムレツ、カツレツ、ポタージュと知っている名前をやっと見つけ、マイ箸を取り出して食べました。

ここで最初に話し始めたのは小林さんでした。胸に溜まったものを吐き捨てるように、「今日参加していた幼稚園の先生というのは、僕が知っている保育者とは人種が違う人達だったな」と言ったのです。私にとっては、いきなり横っ面を殴られたような思いでした。

2歳、3歳の子どもと達と暮らしている御苑学園のスタッフに比べると、幼稚園の教師は、「先生というプライドを鼻にかけた、おつにすました人達」と見えたのかも知れません。

幼稚園の立場から、小学校、中学校の教師を見たときに感ずるのと似たような感覚が、無認可施設の人達に感じられているとすれば、これは心しなければいけない、と思いました。

それは、くしくも奈須正裕教授が指摘した「小学校の先生が間違えていることと、同じ間違いを幼稚園の先生もしている」に通ずることかも知れません。

大師幼稚園と厄除け風鈴市と川崎駅前のボーネルンド

2008年7月17日(木)

6年ぶりに神奈川県川崎市・大師幼稚園(菅谷加珠子園長)を訪ねました。かの川崎大師(真言宗・平間寺)が設置する幼稚園です。

前回が「降誕会」。つまり弘法大師様のお誕生日で、今回は偶然にも7月のお誕生会の日でした。誕生日に縁のある幼稚園です。

仏教系幼稚園のお誕生会は、随分たくさん見てきましたが、「さすが川崎大師の幼稚園は違うな」と思うところがあちこちにありました。たとえば園児全員で般若心経をみごとに唱えたことです。その様子は後ほど『月刊・私立幼稚園』の実況中継に掲載します。

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上の写真で、一番下の中央にいるのが菅谷園長。ほかに6年前にも会った先生が4人いて、嬉しくなりました。

同園は園バスがありませんが、園児が多く、朝は親が送ってきて、帰りは先生が手分けし、当番のお母さん方と一緒に付き添って歩きます。昔ながらの良き幼稚園が力強く残っている幼稚園のひとつです。

午前保育で子ども達が帰った後、「お蕎麦屋さんに行きましょう!」と菅谷園長に誘われました。前回は降誕会のお赤飯をご相伴になったのですが、「この近くに美味しいお蕎麦屋さんが何軒もあるの。次はぜひお蕎麦を食べましょう」との約束になっていたからです。

Photo これが、園児保護者のお店でもある三河屋さんで、二人揃って注文したミニ天丼付きざる蕎麦(900円)です。天ざるよりずっとお得なコンビネーションで、すっかりお腹が一杯になりました。

奈良県出身の菅谷先生は小さいときから蕎麦好きでした。しかし関西はウドン文化ですから、美味しい蕎麦屋さんに出会うことは少なかったそうです。

ところが地元の女子大を敬遠して國學院大学に進んだところ、東京には蕎麦屋が山ほどあって、それが一番嬉しかったと言います。

そんな菅谷先生は不肖私と同学年の同い年(正しくは私より2ヶ月お姉さん)。子どもの頃から学生時代まで、まるで同じ光景を見てきたかのように話が合いました。これが1年でもズレるとそうはならないから不思議です。

Photo_2 蕎麦屋で別れた後、私は川崎大師に向かいました。この日から「川崎大師厄除け風鈴市」が行われていたからです。

全国各地の風鈴が一堂に会する同風鈴市は年々賑やかになり、今年も境内は人で一杯でした。風鈴でエコな風流が戻ってきたのだとすれば嬉しいことです。

1個100万円のダイヤモンド入り風鈴があったのにはさすがに驚きました。

Photo_3 物持ちのいいわが家は、すでに何個も、いや何10個も各地の風鈴があるので、ここでしか買えない「厄除けダルマ風鈴」を買おうかと思いましたが、小さいものでも1個3,000円以上する値札を見て、手も足も出ませんでした。

やむなくカメラに収め、全国一律金百圓也のお賽銭で許してもらうことにました。

風鈴の凄まじい音色を背に、京急大師線で川崎駅に向かいました。

駅前ビル・ルフロンの9階がリニューアルされてキッズ&ファミリーフロアとなり、そのメインエリアに、(株)ボーネルンド(中西弘子社長)のインドアプレイグラウンド「キドキド」がオープンして、その先行公開内覧会が行われていたからです。

しかし現実は、川崎駅から再び同じ京急電車に乗って大師幼稚園に戻りました。大事な「取材ノート」を同園に忘れてしまったからです。

私にとって、仕事の上で大事なものは①カメラと写真データ、②取材ノート、③スイカまたは財布です。今まで①と③は忘れたことはないのですが、なぜか②は時々忘れます。

過去に2回忘れたことがあります。最初が横浜市・港北幼稚園、2回目が名古屋市・自由ヶ丘幼稚園でした。渡辺英則先生、吉田敬岳先生には迷惑をかけましたが、今年、港北幼稚園の姉妹園「ゆうゆうの杜幼保園」には天皇陛下ご夫妻が訪問され、吉田先生は全日本私立幼稚園連合会の会長に就任しました。

大師幼稚園もしくは菅谷加珠子先生にも、近々何かビックニュースが飛び込むかも知れません。

さて、そんなわけで30分遅れで到着したボーネルンド社の川崎駅前の新施設です。同社の“インプレ・キドキド”はこれが6カ所目。その中では最大規模の240坪。お馴染みのサイバーサークル、エアマット、ボールプールなどで子ども達は思う存分に動き回っていました。

もちろん、緑と太陽と水に親しむことは大切なことですが、遊びながら思いっきり全身を動かし、体と頭を鍛えていく点では、こうした施設がもっと増え、幼稚園とも連動してくる予感がしました。

Photo_4 いつものように会場入口前にボーネルンド社の中西将之会長が立っていてくれました。

社長を妻に譲り、一線の仕事を若いスタッフに任せ、一歩身を引いた立場にありますが、同社の経営理念、コンセプトを一番深く把握している方ですから、中西会長にポイントを聞いてから取材を始めるのが、無駄がありません。

10年ほど前、山形県・あおぞら幼稚園の芋煮会に出かけたとき、河原の芋煮会場に、どうにもそのワイルド感にそぐわないゲストがいました。それが中西ご夫妻でした。

しかし、そんな芋煮会を含め、アジア・アフリカの子ども達の様子も十分に知り尽くした上で、未来世界を提案しているのが同社だと言えます。

Photo_5 今回の構成で気に入ったのは、眼下の駅前繁華街を見下ろしながら遊ぶ「街づくりコーナー」でした。この現実感とマッチした空間が、きっと子ども達に新たな創造力を生み出してくれるだろうと思いました。

取材を終えて帰ろうとしたら、駅前地下街へ下りる階段にあるからくり時計のフタが開いて、軍楽隊が16時の演奏を聴かせてくれました。

まるで時間が止まったように、道行く人の多くが足を止め、子ども達は階段に座り込んで聴き入っていました。

Photo_6 私が住んでいた40年前に比べると川崎駅前はすっかり変わりました。しかしまだ、どこか昔と同じ饐えた雑然感を漂わせていますが、キッズ&ファミリーに視点を置いた街づくりで、そんな残滓も姿を消していくことでしょう。

かつて私が住んでいたのは、南部線でひとつ西の「尻手」という駅でした。いかにも痴漢が多そうな駅ですが、当時は郷ひろみの父親が改札係をしている駅として有名になりました。

「そうだ、ここまで来たなら、汗のかきついでに、あの“ほまれ荘”も訪ねてみよう」と、強い陽差しが残る国道を歩きました。

そこかしこに当時のものが残っていましたが、残念ながら四畳半がずらりと並んだ木造3階建ては姿を消し、きれいなマンションが建っていました。近所の人に訊くと、3年前まではあったそうです。残念なことをしました。

郷ひろみのお父さんがキップを切っていた尻手駅の改札口は、タッチパネル方式に変わったものの、昔のままでした。

帰りの電車の中で妙に頭がフラフラし、品川からの総武快速では気絶するように眠りました。駅から10分の道のりを30分以上かけ、ようやく自宅にたどり着いたら、そのままバッタリ、夜明けまで眠りこけました。どうやら生涯初の熱中症にかかったようでした。皆さんもどうか、熱中症にご用心ください。

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NECガンダムと赤穂浪士と就職説明会

2008年7月10日(木)

JR田町駅から歩いて8分、三田国際ビルの中にあるNECネクサソリューションズという会社に1年ぶりにやって来ました。

何をしている会社なのか、古ぼけた私の頭では何度聞いても把握しきれないのですが、ともかくNECの技術とノウハウを駆使して、企業や自治体が抱えている問題を何でも解決してあげるというコンサルティング会社です。

そんな会社から「ひとつ相談に乗ってほしい」という話があったのです。

Photo リリー・フランキーの「東京タワー」、桃井かおりの「無花果の顔」、西岸良平の「三丁目の夕日」など、このところ東京タワーが登場する小説や映画をよく見かけますが、同社の玄関前に立って北方向を見やると、写真のように東京タワーが目前に見えます。

有楽町駅前に銅像が立っているゴジラに何度も痛めつけられてもけなげに頑張ってきた東京タワー。やがて浅草の東京スカイツリーにその座を明け渡す哀愁のテレビ塔。きっとNECの人々はこの神々しい姿に頭を垂れ、柏手を打ってから会社に入るのだろうと思いましたが、そんな人は誰もいませんでした。

4 NECネクサソリューションズの受付には3人の美女が並んでいますが、もう1人、受付嬢に虫が付かないように見張っている人がいます。頼もしい機動戦士ガンダムです。

それも、バンダイの大下聡社長から同社宛の感謝状も添えられた由緒正しいガンダムです。

きっと何かガンダムが抱えていた問題を解決してあげたのでしょう。

写真は左からIBSソリューションズ社の佐藤仁司さん、同じく福田凡子(ひろこ)さん、NECネクサソリューションズ社の北原明さん(後方)、同じく和地泰志(ひろゆき)さんです。

福田さんは、京都の私立幼稚園に勤めていた元幼稚園教師です。その経験を生かして、私立幼稚園のための管理運営システム(パソコンソフト)を開発しました。園児管理・組織管理だけでなく、各種行事の企画・準備・反省なども盛り込んだ、幼稚園教師ならではの発想が盛り込まれた優れものです。

このシステムを私立幼稚園に普及していくにはどうしたらいいだろうか、というのが相談内容でした。皆さん方のところに、この4人がガンダムと共に現れるかも知れません。

Photo_2 さて場所が三田ですから、同社のそばには慶應義塾大学があります。かつて学生が「幻の門」と呼んでいた東門は、今はこんな具合に立派になりました。

この門を入ってすぐの階段を登ると旧図書館があり、その前に福沢諭吉翁の胸像があります。

東門のすぐ隣に「文銭堂本舗」という和菓子屋があり、そこで「学問のすゝめ」という手付け最中が売っていました。

最中(もなか)の皮に自分でアンコを詰めて食べるもので、頑丈な箱に入った学問的なお菓子です。

Photo_3 8個入りで1,365円。記念にひとつ買おうかとも思いましたが、慶大にも福沢諭吉氏にもまったく縁のない人間が手を出してはいけないと思い、ショーウィンドに向かって「いつか縁ができて食べられる日が来ますように」と手を合わせるだけにしました。

東京家政大学での取材まで2時間近く時間が空いたので、このチャンスを生かそうと、思い切って泉岳寺まで歩くことにしました。

40年前に東京に出てきて以来、「一度泉岳寺に行かなくては」と思いながら、果たせぬまま月日が流れました。

祖父と父親から、「我が家の祖先は讃岐の武士で、その血筋には赤穂四十七士の片岡源吾右衛門がいる」と聞いていたからです。

片岡家伝来の針小棒大話だろうとは思いつつも、「もしかして本当だったらどうしよう」と思っていたからです。

慶大前から泉岳寺、そして再び田町駅まで戻ってくる道々には、ガンダム格納基地のようなクェート大使館、パルテノン神殿のような幸福の科学本部、母親を背負って歩く笹川良三像の立つ笹川記念館などがありましたが省略します。

Photo_4 これが先祖の血筋かも知れない片岡源吾右衛門の墓です。大石内蔵助とはあまりソリが合わなかった人だと聞きますが、大石さんの墓の三つ隣にありました。

義士の墓所は線香の煙に包まれていて、いかにもそれらしい雰囲気を湛えていました。しかし境内に人影はほとんどなく、「一体誰が線香を供えているのだろう」と見ていたら、IDカードを下げた赤穂義士記念館のスタッフが巡回して供えていました。ありがたいことです。

無料休憩所には、12月14日にたくさんの人で賑わう写真が掲げられていました。泉岳寺と門前の土産物店は、この1日だけで持っているのかも知れません。

記念館にも寄れない慌ただしい墓参になりましたが、とりあえずは祖父と父親の気持ちに応えられたようでホッとしました。

JRに乗って、埼京線・十条駅に向かいました。

昔と変わらぬ駅前で待っていると、国立ふたば幼稚園の小澤崇文園長、板橋区・こうま幼稚園の高麗正夫園長、北区・桜輪幼稚園の堀江眞嗣園長らが現れました。東京都私立幼稚園連合会・経営研究委員会のメンバーです。

この日は東京家政大学の小ホールで、幼稚園教師をめざす学生のための就職説明会が行われたのです。

Photo_5

写真は左から、宮坂充宜事務局次長、小澤委員長、高麗先生、堀江先生、大田区・パール幼稚園の野村良司園長、板橋区・成増幼稚園の田中圭子副園長です。

宮坂氏が司会を務め、「先生のところの採用基準はどうですか?」「どんな面接をするんですか?」と訊いていきます。

その答は、とても真面目でありながら、どこか面白くて、まるで笑点の大喜利を見ているような気がしました。「なるほど、私立幼稚園とは個性豊かなんだ」ということが自然にわかる仕掛けにもなっているわけです。

学生からの質問は活発でした。

「幼稚園は勤務時間が長くなりがちと聞くが実際はどうか?」「1人暮らしの人が採用されづらいのは本当か?」「結婚したり出産すると辞める人が多いのはどうしてか?」など核心をつくものから、「面接のときはどんな服装がいいか?」「事前見学での大事なポイントは?」と生々しいものまでありました。

それに対する5人の園長さんの答えもまちまちで、私自身、私立幼稚園の違いを実感をした思いでした。

できれば、集まった約80人の学生さんに、「この5つの幼稚園で、あなたはどこの幼稚園に勤めたいと思いましたか?」と訊いてみたいと思ったものでした。

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神田寺幼稚園と神田明神と神田ニコライ堂

2008年7月7日(月)

3日前に来たばかりの秋葉原に再びやって来ました。神田寺幼稚園に取材に来たのです。

東京都私立幼稚園連合会(都私幼連)が今年から導入した「参加型公開保育」が行われたからです。

保育の様子を観察させてもらい、終わった後に意見交換するのが従来の公開保育ですが、「その形はもう古い。自園とは違う保育現場に飛び込み、自分を再発見し、リフレッシュして、保育観を深めるような公開保育にしたい」というのが、同園の理事長&園長であり、都私幼連の教育研究委員長である友松浩志先生の願いです。

そこでまずは自分の幼稚園で実施することになった次第です。

例の秋葉原事件現場から同園までは約100㍍。つまり秋葉原繁華街の一画にあり、周囲にはパソコン部品ショップが並び、街角ではメイド嬢がチラシを配り、オタクの人々がキョロキョロと行き交う場所です。

Photo 江東区にあった寺が東京大空襲で焼かれ、園長の祖父・友松圓諦師が、神田に移って新たな寺を建てたのは1947年。その3年後に幼稚園を始めました。まさかこんな街になるとは思っていなかったことでしょう。

しかし一歩中に入った幼稚園は、外の様子がウソのようなふつうの幼稚園風景でした。

緑が豊かで、イチョウの木は周囲のビルと背比べをするようにスックと立ち、ムクゲの樹はたくさんの花をつけていました。

002 神田寺幼稚園といえば、日本中の多くの幼稚園関係者が思い浮かべるのは、園長の父、友松諦道先生(写真)だと思います。

東京都私立幼稚園協会の理事長、日本私立幼稚園連合会(日私幼)の理事長、そして全日本私立幼稚園連合会の会長まで務められた方だからです。

しかし、当時の日私幼は、私が勤めていた全国学校法人幼稚園連合会(全法幼)と張り合う組織であり、全法幼の人見楠郎会長(昭和女子大)とはソリの合わない人でした。二人とも我の強い人でしたから仕方ありません。

そのため、現役時代には話す機会はまったくありませんでしたが、後年、ボツボツと世間話をすることが何度かありました。

最大の論敵だった、全法幼の由田浩先生(千葉県・富貴島幼稚園)と大論戦をした後、由田先生からイチゴが送られてきました。「コンチクショウと思って食べたら、とっても美味しくてね、ケンカのことを忘れてしまった」という話は、友松、由田両氏の人柄を知るエピソードとして忘れられません。

Photo_2 この日は七夕。園内にはあちこちに笹飾りがありました。笹は、万世橋警察署の刑事さんが、毎年どこからか切り出して、どっさり運んできてくれるのだそうです。

左の写真は、遊びの途中、何度も笹飾りの前にやってきて、短冊を眺めてはお祈りをしていた年少さんのグループです。

短冊に「かあちゃんのようなひとになりたい」というのがありました。泣けてきました。最近の園児は親の泣かせツボを心得ているのでしょうか。

というわけで、この日の保育は、暗くした部屋で七夕伝説を聞く時間もありました。

参加型公開保育に参加したのは、中野区・やはた幼稚園の松永裕美先生と、東村山市・多摩みどり幼稚園の加藤由佳先生。どちらも私にとっては馴染み深い幼稚園です。

この公開保育の様子はウェブマガジン『月刊・私立幼稚園』に掲載します。楽しみにしていてください。

Photo_3

上の写真は左から松永裕美先生、加藤由佳先生、友松浩志園長、参加を受け入れたクラスの担任の渡辺奈緒先生、窪田美咲先生。この5人で公開保育後の意見交換が行われました。

Photo_4 神田寺幼稚園を後にしたのが15時30分。雨は上がっていたので、「せっかくだから神田明神にお詣りしていこう」と出向いたら、16時から「七夕祭礼」を行うというので、一番前で参列させてもらいました。

16時ジャスト、大太鼓の音が鳴り響き、笙、篳篥、横笛の雅楽隊を先頭に、宮司や禰宜らが続き、最後に見目麗しい巫女さんが現れました。

機械仕掛けのように、直角歩行の神官が、祝詞の前後に、何度も入れ替わりながら祭壇の前に立ち、また下がります。そのたびに参列した我々も腰を折り、柏手を打ちました。

Photo_5 きっと何百年も前からの儀式を寸部違わず行っているのだと思います。同じく伝承文化を大事にする幼稚園が、毎年いろいろと工夫を重ねているのとは違う世界でした。

右の写真は、ピタッとシンクロされた巫女の舞です。素晴らしいものでした。大昔、天の岩戸の前で踊った巫女さんは、狂おしさのあまり裸になってしまったそうですが、そんなことも思い出しながらうっとりと眺めました。

銭形平次でご存知のとおり、神田明神といえば甘酒です。

ところがどうしたことか、鳥居の下の甘酒屋は、一軒が支度中で一軒が臨時休業でした。ちょっと残念でした。

Photo_6 「神田寺と神田明神に行ったのだから、あそこに行かなくてはなるまい」と思い、孔子廟「湯島聖堂」に寄ってから、わが故郷の函館ハリスト正教会の妹分である神田ニコライ堂を訪ねました。

1日のうちに仏教、神道、儒教、そしてキリスト教の拠点を回りました。きっと何か良いことがあると信じています。

なんだかんだで、ふと気がついたら17時。17時30分から都私幼連の園長・主幹(教頭主任)研修会があることを思いだし、私学会館に行きました。持って生まれた貧乏症です。

しかし、さすがに朝7時に家を出て歩き回った疲れが出たのか、「幼稚園評価のこれから」と題する塩美佐枝先生(聖徳大学教授)の講演は、すっかり眠ってしまいました。代わりに録音機が聴いてくれたので、後で聞き直そうと思います。

研修会場には、当然ながら友松委員長も来ていました。その後の神田明神、神田ニコライ堂の話をすると、「いいな!そんなことができる人が羨ましい」と言われました。ちょっと嬉しくなった1日でした。

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屋形船と北條泰雅と自由の女神

2008年7月5日(土)

東京都私立幼稚園PTA連合会(月本喜久会長=渋谷区・鳩の森八幡幼稚園)の新旧役員歓送迎会が浅草の屋形船で行われると聞き、文字通り便乗させてもらいました。

退任する役員さんの希望に沿って会場が選ばれる慣例になっていて、屋形船が選ばれたのは3回目とのことでした。

Photo_7

14時45分に出航した船は、言問橋でUターンして隅田川を下ります。天気は快晴の真夏日、爽やかな川風が船の中を吹き抜けますが、思いのほか波が高く、船は揺れました。

揺れには動ぜず、まずは乾杯です。音頭をとった都私幼連の北條泰雅(ひろまさ)会長(港区・みなと幼稚園)は、この日に幼稚園で蝉が鳴き始めたことに触れ、秋本不死男の俳句をひとつ紹介しました。

「子を打ちし  長き一瞬  天の蝉」

思わず我が子を叩いてしまった親の、「しまった」という思いが滲んでいる句だと思います。そしてもうひとつ、

「忙しさを  楽しみ母や  夏休み」という句を、船上のお母さん方にプレゼントしました。

Photo_8 「そうか、屋形船には俳句が似合うな」と思って、私もしばし考えましたが、何もひねり出せないまま、ビールの酔いに溺れていきました。

写真は左が北條会長、右がPTA連の月本会長です。月本さんは、母親も渋谷区PTA連合会の会長を務めていたので、親子二代のP連会長という珍しい存在です。

P連役員のお母さん、お父さんが自己紹介しましたが、子どもが3人、4人の人が多いのに驚きました。

中には水泳の日本代表強化選手だったお母さんもいて、「船が転覆しても大丈夫だ」と皆安心したものでした。

幼稚園では、くじ引きで役員に選ばれた人もいましたが、都の役員にまで推薦されてくる人は、やはり皆さん、どこか面白さと逞しさが違うと感じました。

親と楽しく密接な連携ができるのは私立幼稚園の強みです。こんなお母さん方をたくさん育ててもらいたいと改めて思いました。

Photo_9 船は月島、築地市場などを眺めながら10㌔余り下り、お台場のフジテレビを正面に見据えるところで錨を下ろし、しばし停泊しました。

テーブルの上にはたくさんのご馳走。江戸情緒の中から見回す景色はモダンな未来風景。屋形船ならではののどかな贅沢を感じました。

Photo_10 ふと見ると、フジテレビの右手に「自由の女神」の後姿がありました。

東京湾に観音様が二人いることは知っていましたが、まさか自由の女神までいるとは、知りませんでした。

1998年から99年にかけて行われた「フランス年」のときに設置され、好評だったのでそのレプリカが2000年に設置されたのだそうです。

女性は後姿が一番と言われます。自由の女神の後姿を見られるのも屋形船ならではです。そして周囲の光景がつぶさに見られるのは、昼間の屋形船の良さです。

Photo_11 ちなみに正面から見た夜の姿がインターネットに載っていましたので、ご参考までに載せておきます。

後方に見える橋がレインボーブリッジです。

「あと5分で船が着きます」と聞いて、お母さん方は、天ぷら、枝豆、海苔巻き、お菓子、フルーツなど、お刺身以外の残った料理をパックに入れてお土産にしました。これができるのも屋形船の良さです。

17時ジャストに船は浅草に帰ってきました。船を下りた正面にデンキブランの「神谷バー」があり、昨年8月、ここで見た浅草サンバカーニバルを思い出しました。

Photo_12 訊くと、花屋敷遊園地ファンの北條先生はまだサンバカーニバルを見ていないとのことでしたので、「今年は8月30日(土)にあります。ぜひ見てください」と薦めました。

そして、「踊り子さんは前から見るのもいいですが、後から見るのもオツですよ」と、あの日、居並ぶ先輩カメラマンから教わったことを伝えました。

自由の女神の後姿より、大きな感動があると思います。

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平原隆秀と宮坂充宜と後継者交流会

2008年7月4日(金)

埼玉県春日部市・春日部成就院幼稚園の平原隆秀(りゅうしゅう)先生を訪ねました。(社)全埼玉私立幼稚園連合会の会長で、先頃、全日本私立幼稚園連合会の体質改革を期して思い切った一石を投じました。

7月2日に行われた全日私幼PTA連合会の総会に、埼玉県からは誰も出席せず、「このままの組織体質が続くなら、場合によっては脱会する」との意思表示のをしたのです。

そんな折に何の話をしたかは、ま、内緒にしておきましょう。というより、「あなたに何かしゃべると、すぐに記事になってしまう。状況を静観したいので、しばらくはノーコメントだよ」と平原先生は何も話してくれなかったのです。

Photo でも「せっかく来たのだから昼飯でも食べようや」と、成就院のそばの「道」というスナックに誘ってくれました。

そこに思わぬ先客がいました。日本ビクターの歌手・大谷まりさんです。全埼私幼連のイベントなどで時々歌の応援に駆けつけてくれる方です。

この写真、右が大谷さんで左が平原先生です。

大谷さんとは一度、上野のお座敷カラオケでご一緒したことがありますが、彼女がマイクを持つと、ザワザワしていた広い店内が水を打ったように静まり返りました。「プロとは凄いもんだな」と思ったものです。

演歌からカンツォーネまで何でも歌う大谷さんは世界65カ国を旅した人で、3年暮らしたシンガポールで娘2人を産みました。

世界一きれいな国・シンガポールには、その美しさと治安を守るため、公開の鞭打ち、棒打ちの厳しい刑罰があります。

「一打ちで気絶し、二打ちで背中の皮はボロボロ。血だらけになっていくのよ」と生姜焼き定食を食べながら、大谷さんは実際に見た光景を身振りゆたかに話してくれました。

一瞬食欲が失せたようにも思いましたが、久しぶりに食べる立派な塩ジャケ定食に、私は舌鼓を鞭打ったのでした。

南浦和事務所に寄ってから、東京私学会館で行われた東京都私立幼稚園連合会の「後継者交流会」に出かけました。

どこの団体にもこうした研修会があります。でも後継経営者はたくさんいるのに、参加者を集めるのに苦労しています。バスの運転から書類の作成まで、たくさんの仕事を抱えて、なかなか幼稚園から離れられないからです。

しかしさすが東京都は、約60人の参加を得て盛況でした。

Photo_2

この日の講師は、大田区・パール幼稚園の野村良司園長(38)でした。

30歳で園長になり、38歳にして“私立幼稚園の教育、経営とは何たるか”を悟り始めた早成の人でもあります。

映像を多用して、自園の様子を紹介し、自分の経営理念を語り「後継者の仕事は夢を育て、その夢を人々に見せ、園長を園長たらしめ、先生を先生たらしめること」と結んでくれました。

私立幼稚園が切磋琢磨し合って共存していくために良い刺激になったと思います。

Photo_3 私は野村先生が自分で撮影したという写真のできが素晴らしいので、「『今月のP&P』を提供してくれる、うちの遊軍無給カメラマンになってくれませんか」とお願いしました。「いいですよ」との返事をもらいました。楽しみにしていてください。

写真は右が野村良司先生、左が後継者交流会を企画運営する経営研究委員会の小澤崇文委員長(国立市・国立ふたば幼稚園)です。

夢をテーマにした野村先生の講演が終わった後の挨拶で、「人に夢と書いて“儚(はかな)い”と読みます」と言って、講師と参加者をズルッとさせた面白い人です。

広い田んぼを持つ幼稚園で、同園の稲刈りを取材したことがありますが、今年はその米を使っての餅つきの取材に出かけることを約束しました。

研修会は、教育実習などをめぐるグループ討議の後、懇親会に移りました。

Photo_4 その懇親会場の片隅で、自前のお弁当を広げている人がいました。都私幼連事務局次長の宮坂充宜(みつのり)さんです。

北区・あかいとり幼稚園の事務長時代、旧東京都学校法人幼稚園協会の事務局長時代を通じて30年を越えるつき合いの人です。

カラオケに行くと、郷ひろみの歌でバッティングするライバルでもあります。

「カミさんが作ってくれた弁当をお昼に食べ損なった。ここでまた懇親会の料理を食べて、手つかずのまま持ち帰ったのでは大騒動になりかねないからね」とのことでした。

玉子焼きひと切れと、ソーセージを1本頂戴しました。懐かしい味に出会った気がしました。思えばこの私にも、カミさんがせっせと弁当を作って持たせてくれた時代があったのでした。10年以上も前のことですが……。

その宮坂さんが言いました。「ここにいる人達はほとんど、俺たちがつき合ってきた先生方の子ども達だよ。おい、どうする。俺たちはまだこんなことしていていいのかね」と。

そう急に言われても明解な答はもっておらず、「いや、ま、その……、暫くはいいんじゃないですか」とだけ答えました。

私学会館を出たところで、田町の会社に勤める息子に電話すると「今、新橋通過中」と言うので、「今日は嫁さん、いないんだろう。じゃ秋葉原で飯を食べよう」と誘いました。

Photo この男が、会社勤めのかたわら【幼稚園情報センター】のホームページ編集長をしてくれている息子の良介(28)です。

悲惨な事件があったにもかかわらず、秋葉原は相変わらずの大賑わいでした。運良く最初の居酒屋で2人分の席を見つけることができましたが、超満員でした。

もちろん、オヤジの権威で私がおごるつもりでいて、財布の中の1万円で足りるかどうか計算しながら注文しましたが、何たることか、「いいよオヤジ、今日は俺が払う。実は今日、ボーナスが出たんだ」と言ってくれたのです。

うれしいひと言に思わず涙ぐみました。

居酒屋を出てから事件現場に向かいました。交差点脇にある正規の献花台には、多くの新しい花が供えられていましたが、そのほかに、たぶん自分の知り合いがなくなった場所なのか、あちこちに自主献花台が設けられていました。

Photo_6 右の写真もそのひとつで、ここには自分の気持ちを綴る記帳用のノートを何冊も入れたバッグもありました。

息子がこんなことをつぶやきました。

「オヤジの時代は、仲間を集め、ヘルメットをかぶってデモ行進することで自分の不満を表現していた。でも今の人間はそんなことは考えない。1人で考え、1人で決行する1人クーデターだ。そんな人間が、まるでデモ隊を組むように、あちこちで勝手に何百人も何千人も出てくるかも知れない」と。

もしかしたら、それが私たちが学生時代に聞いた無政府主義思想なのかも知れないと思いましたが、それよりも「息子は息子なりにいろいろ考えているんだな」と思い、再びオヤジ世代の存在感を揺さぶられた気がしました。

加藤暁と名古屋あかつき幼稚園

2008年6月28日(土)

例によっての前夜の深酒で頭はガンガンでしたが、リュックを背負って朝早くホテルを出て朝食を食べました。

001 モーニングセットではなく、「宮本むなし」という定食屋に行きました。名古屋在任中、随分とお世話になったお店です。

名古屋市内には、このへんてこな名前の定食屋があちこちにあり、朝5時から営業しています。

朝から880円のデラックス定食や790円のエビカツ定食を食べることも可能ですが、ふつうは380円のハムエッグ定食か420円のシャケ&納豆定食です。

松屋の朝定食よりずっと安い上に、ここはご飯が食べ放題で、食べた後、お茶を飲みながら暫く時間を過ごすことも許されるのです。ご飯のお代わりも、大きなお櫃を開けて自分で盛るので、店員さんに何回も頼む気恥ずかしさがありません。

松屋のカウンターで、食べ終わった後に1時間も本を読んでいたら、絶対に何か言われますが、ここは何も言われません。

「名古屋に行ったら、ぜひご利用を」と言いたいところですが、実はこの店の本拠は大阪で、東京にもいくつかあるのだそうです。でも名古屋でしか見かけないのはどうしてでしょう。

その定食屋のテーブルで、書籍や資料に目を通し、取材の事前準備を済ませてから、御器所(ごきそ)駅のそばにある真宗大谷派・順覚寺に向かいました。

そこに名古屋あかつき幼稚園・加藤暁(さとる)理事長(元愛知県私立幼稚園連盟会長)の自宅があるからです。

数年前、加藤先生は、天才肌の人がかかりやすいと言われるパーキンソン病に見舞われました。作家・三浦綾子や画家・岡本太郎らが苦しんだ病気です。そのため身体と言葉が少し不自由になりましたが、「やあ、よく来たね」と笑顔で迎えてくれました。

Photo 8時50分から14時20分まで、5時間半にわたって私立幼稚園の過去と未来のことをたっぷりと話しました。

かつての立て板に水の加藤節なら30分で終わっていたかも知れませんが、病気のおかげでゆっくりできました。

写真はご自慢のオーディオルームです。加藤先生は私立幼稚園界で一、二を争う音楽好きなのです。それもクラシックとオペラです。

元々音楽好きだった人が、ヤマハのピアノ教師(ひろ子先生)と結婚したのですから、その趣味に拍車がかかり、二人で世界中の主だったオペラ場を回ったそうです。

今まで2回しかオペラを観たことがない私には、その良さがよくわかりません。そこで「日本人が演ずるオペラは、芸術として評価され発展するのでしょうか」と訊いてみました。

「コーラスと演出ではヨーロッパを上回っている点もある。もっと発展・定着していくと思う」とのことでした。

「これがいいんだよ」と言って、懐かしいLP盤を1枚取り出してレコード針を置いてくれましたが、余りの迫力に椅子から飛び上がりました。しかし、それでは何の話もできないので、1分間だけで絞ってもらいました。

平針にある名古屋あかつき幼稚園にも行きました。

園児は1人もいませんでしたが、50人余りの先生がいました。学校法人暁学園が運営する名古屋あかつき幼稚園、和合あかつき幼稚園、豊田東丘幼稚園の先生方が一堂に会して、月に1度の合同研修会を行っていたのです。

Photo_2

豊田東丘幼稚園は、公立の民間移管で今年4月から暁学園の仲間に入りました。名古屋、日進、豊田と、一見すると随分離れているように見える三園ですが、うまい具合にどれも地下鉄鶴舞線の沿線にあるので、どこの園を会場にしても集まりやすいのだそうです。

前日の東京都・矢の口幼稚園の出張見学研修にも大いに感心しましたが、私立幼稚園はどこも、こんな研修会を熱心にやっています。その様子を見て、「私立幼稚園は大丈夫だ」と改めて思ったものでした。

Photo_3

写真は左から名古屋あかつき幼稚園の杉田清治園長、和合あかつき幼稚園の加藤義彦園長(理事長の息子)、加藤暁理事長、名古屋あかつき幼の水野栄子主任、理事長の妻・加藤ひろ子先生。

水野先生は、30年ほど前、中日新聞に連載していた加藤先生のコラムを読んで、「この園長先生の幼稚園に勤めよう」とアタックしてきた熱血派です。

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名古屋モーニングセットと矢の口幼稚園と旭幼稚園

2008年6月27日(金)

名古屋にやって来ました。

この1年間で名古屋に来たのはこれで8回目。昨年4月、名古屋を去るときに「月に1度は来るようにします」と言ったのには及びませんが、ま、許してもらえる範囲かなと思っています。

今回は、東京都稲城市・矢の口幼稚園(角田亨理事長&園長)の先生方が名古屋市瑞穂区・旭幼稚園(國府谷俊盛理事長&園長)を尋ねての見学研修の密着同行取材でした。

Photo 名古屋駅で矢の口幼稚園の一行25人を待ち受けましたが、1時間ほど時間があったので、久しぶりに名古屋名物のモーニングセットを食べることにしました。

名古屋のモーニングセットは、えらく豪華だと思われていますが、私がよく利用した駅前(太閤口)の「CAFE  Z-TRES」はこんな具合です。これで400円です。

名古屋の喫茶店チェーンとして有名な「コメダ珈琲店」のセット内容もこれとほぼ同じです。つまりは日本各地にあるものと、そう変わるものではありません。名古屋のモーニングセットに過剰な期待をしないようお願いします。

「CAFE  Z-TRES」のいいところは、これに200円足すとサラダとハムエッグをつけることができます。朝7時からやっていて、「ひつまぶし」「味噌カツサンド」「あんかけスパゲティ」なども食べられるので、名古屋に寄ってくれた友人とちょっとおしゃべりするのには便利でした。

Photo_2 2006年7月、三重県四日市市で行われた読み聞かせセミナーに参加するため立ち寄ってくれた北海道・室蘭幼稚園の小倉真弓美園長と会ったのもここでした。

このときは、「やっぱり小倉トーストサンドを食べなきゃダメでしょ」と、モーニングセットのほかに注文しました。小倉先生が手にしているのがそれです。

名古屋は、日本の食文化の発祥地と言われますが、今回新しい発見がありました。それは、駅前の「ビジネスホテル新名」のロビーに牛丼の吉野家ができていたことです。

Photo_3 「東横イン」が、ロビーでおにぎりと味噌汁、漬け物の朝食をサービスしていることへの対抗策と思いますが、ロビーで吉牛が食べられるなら、こんな便利なことはありません。

もちろん道行く人も自由に利用できるわけで、これからのビジネスホテルは、この新名スタイルが普及する気がします。

そんなことをしているうちに矢の口幼稚園の先生方が到着しました。

Photo_4 旭幼稚園に着いた先生方は、園庭で「たなばた夕涼み会」の踊りの練習をする子ども達の様子を見てから、各クラスに入って子ども達と一緒にお昼ご飯を食べました。

写真は左が角田(かくた)亨先生、右が國府谷(こうのや)俊盛先生。中央は二宮金次郎の像ですが、角田先生は、この像がホールにあることを随分と気に入ったようでした。

昼食の後、一行は姉妹園の陽明旭幼稚園に移動し、その様子も見学した上で意見交換会を行いました。

わずかな時間でしたが、矢の口幼稚園の先生方はいろいろなことを発見したようで、次々に鋭い質問を投げかけていました。

Photo_5 宿舎の名古屋ガーデンパレスに入った一行は、つかの間の休憩の後、ロビーに集合して、コーチン料理の老舗「とり要」に向かうところでしたが、ちょうどそのときロビーに、愛知県私立幼稚園連盟の会長であり、全日本私立幼稚園連合会の新会長である吉田敬岳先生が、ひょっこりと現れました。

愛知県の事務局がガーデンパレスの4階にあるので、不思議なことではありませんが、うまい具合に出会えたのは、やはり何かの縁があったのだと思います。

写真は右から角田園長、吉田敬岳会長、角田明子副園長(園長の妻)。

下の写真は、陽明旭幼稚園での記念写真。陽明旭の先生方も混じっています。背景の鳩と子ども達は、同園ホールの立体壁画です。

Photo_8   

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富田富士也と阿久津博と埼玉県庁

2008年6月25日(水)

引きこもり問題の専門家、富田富士也さん(子ども家庭フォーラム代表)が健伸幼稚園で講演すると聞き、久しぶりに顔を見に出かけました。

かつての“ひとり活劇”的様相は薄まったものの、相変わらず富田さんの講演は一風変わったものでした。

よくある子育ての知恵や技法を授けてくれるものではありません。ガスレンジ回りの古い汚れを落とすように、お母さんの心の底にこびりついているものを、ガリガリとこそぎ落とし、気持ちをすっきりさせてくれる講演なのです。

Photo

でも、こそぎ落とした汚れを洗い流すところまではやってくれません。だからそのままにしておくと汚れがまた沈殿するかも知れません。「洗い流すのは自分でやりなさい。それもできるだけ早く」というのが富田さんの願いなのでしょう。

上の写真のように、お母さん方は途中から近くの人と向き合い、時には手を握り合って、「あなたの還る家は何ですか?」などと、お互いに問いかけながら話を聴きました。

「片岡さんもやりなさい。あなたの心も病んでいるのだから」との富田さんの指示に甘えて、私も年中Nくんのお母さんと手を握り合いました。細面の聡明で美しい方でした。

幼稚園の子ども以外で、あんなに長い間、女性と手をつなぎ合ったことは、ここ15年間で記憶がありません。幼稚園で富田さんの講演があるときは、何をさておいても駆けつけなくてはいけないな、と思いました。

002 写真は左が富田さん、右が健伸幼稚園の柴田衣子(きぬこ)園長です。

この日は同園名物の柴田炤夫理事長が、九州地区設置者園長研修大会の講師を頼まれて出張中。そこで、いつもニコニコの園長先生が進行の仕切りをしましたが、ほのぼのムードに包まれていい感じでした。

講演内容もさることながら、驚いたのはその後です。集まったお母さん方は、年長はそのままホールに残り、年中は各クラスに分かれ、年少は体育館に集合し直しました。

そこで毎月発行する園だより7月号を受け取り、注文してあった写真を受け取り、学年主任の先生から最近の子ども達の生活状況を聞き、7月の予定を確認したのです。

園だよりは毎月、このような形で直接母親に手渡しされ、それに合わせて母親教室が開かれるのです。だから、大勢の母親が集まってくれるわけです。

もちろん来られない親もいます。その場合は園だよりと注文写真は園児に託されます。

Photo_2 この講演会で、もう一人久しぶりの笑顔に出会いました。笑い療法士の阿久津博さん(写真)です。

柴田理事長と一緒に健伸学院を立ち上げ、健伸行田幼稚園の運営を一手に担い、八千代市の幼稚園の理事長も務めた人です。

10年ほど前、生死をさまよう病に倒れた後は、幼稚園の第一線を離れ、今はジョークと笑顔と俳句で心を開く“笑い療法士”として忙しい日々を過ごしています。

幼稚園経営者のアドバイザーをしたり、問題を抱える小学生のカウンセラーをしているのです。

その阿久津先生から「駅まで自動車で送るよ。そこで昼飯を一緒に食べよう」と誘われました。うれしいことです。

着いたところはもちろん蕎麦屋。古民家風の「梅ぞの」という店でした。阿久津先生は蕎麦が大好きな人だからです。おかげでこの日は、生まれて初めて「そばがき」を食べることができ、その製法も伝授してもらいました。

阿久津先生と別れた後、武蔵野線に乗って南浦和に向かいました。

週に1度は当社の南浦和事務所(といっても息子夫婦が住むマンションの一隅です)に寄るようにしているからです。

P6250056 ところが「さて、今日はここで夕方まで仕事をするか」と思ったとたん、全埼玉私立幼稚園連合会の平原会長からお呼び立てがあり、急いで県庁裏の事務局に向かいました。

いつもは県庁と裁判所の間の道を通るのですが、この日は県庁内を突っ切る近道を選びました。

そこで見たのがこの写真です。県庁本館の壁に、スローガンを書いた垂れ幕が9本も下がっていたのです。

建物にはあと2本、垂れ幕が下げられる柱が残っていたので、できればサッカー王国・彩の国らしく、スローガンも11本にしてもらいたいと思ったものでした。

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パワーアップ研修会と静岡おでん

2008年6月19日(木)

静岡市にやって来ました。

19日・20日と静岡県私学会館で東海北陸地区の私立幼稚園パワーアップ研修会が行われたからです。

Photo 静岡駅から駿府公園沿いに私学会館をめざして歩くと、左手にモダンでクラシックな建物が見えてきます。1934(昭9)年に建てられた静岡市役所の本館です。

「昔の建物はカッコいいな」としばし眺めました。

その少し先にある私学会館は、3年前に完成したばかりのハイテクビル。音響効果も抜群で「やっぱり新しいビルはいいな」とも思ったものでした。

さて肝心の研修会です。東海北陸8県の若手経営者(20~40代)が集まっていろいろな人の話を聴き、自分が抱えている悩みや問題点を語り合う研修会で、各幼稚園の後継者はもちろん団体組織を動かすリーダーを育てることにも一役買っています。

Photo

今回は、初日に全日私幼連の藤本明弘総務委員長(京都府・嵯峨幼稚園)、全日私幼研究機構の田中雅道副理事長(京都府・光明幼稚園)の京都パワー2人、2日目に浜松市に本社を置くスズキ自動車の鈴木修会長が講演し、その合間にグループ討議と懇親懇談会が行われました。

その様子はウェブマガジン『月刊・私立幼稚園』の都道府県レポートに掲載しますが、中身は充実し、ムードも盛り上がった研修会でした。

懇親会の料理でお腹は一杯になりましたが、静岡にきて「静岡おでん」を食べない手はありません。別腹というやつです。

昔ながらの濃口醤油を使い、牛すじでダシをとった真っ黒いスープで煮込んだ「しぞーかおでん」は、関西味とも関東味とも違う、独特のオデンです。

市役所の近くにはおでん屋が軒を並べる「おでん横丁」があり、静岡駅の各ホームには、列車を待つ間に立ち飲みができるおでん屋さんもあります。

お父さんの「帰りに一杯」より、子ども達のおやつとして発展したようで、静岡のおでん屋さんは、幼保一体化ならず駄菓子屋と一体化しているのも特長です。

「それじゃ、私はこれからオデン横丁に寄ってから宿に帰ります」と言うと、「それじゃ私らが案内しましょう」と静岡県の重鎮連が言ってくださり、「え、静岡のおでんって有名なんですか」と石川県の重鎮連も同行してくれました。

着いたところは、駅ビル・パルシェ6階にある「升亀」という老舗定食屋でした。

Photo_2

上の写真は左から、石川県・ちよの幼稚園の田中辰実園長(石川県会長、全日私幼連政策委員長)、静岡市・南八幡幼稚園の松本克己園長(静岡県常務理事)、御殿場市・みなみ幼稚園の山崎元則園長(静岡県副理事長)、焼津市・焼津豊田幼稚園の相田芳久園長(静岡県理事長)、石川県・なかよし幼稚園の遠州賢(まさる)園長です。

黒はんぺん、卵、ジャガイモなど、ほぼ煮上がっている串刺し具材を黒スープに入れて温め、青のりと魚の粉(鰹節を粉状に細かく削ったもの)をかけて食べます。

すべて串刺しになっているのは、焼き鳥屋と同じく、串の数で精算するからです。

美味しかったです。満腹だった6人は瞬く間に1人5品ほどを平らげました。

写真でわかるようにお店の中にはたくさんのメニューが貼られていて、お腹に余裕があればいろいろ試したいところでしたが、同店のお薦めベストスリーは刺身定食、とろろ汁定食、桜エビかき揚げ丼とのことでした。次回の楽しみにしたいと思います。

Photo_3 静岡の名物といえば「浜松餃子」「静岡おでん」、それに「富士宮やきそば」です。残念ながらまだ富士宮やきそばと出会うチャンスがないのですが、5人と別れた後、翌朝のトマトジュースを買おうと思って入ったサークルKにそれがあったのです。

1個300円、UFOやペヤングに比べるとかなり高めですが、きっとそれだけのことはあるのだろうと思い、買いました。でもまだ食べていません。机の上に飾ってあります。

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はだかの王様とオヤジ倶楽部

2008年6月14日(土)

三宅坂ホールで行われた「はだかの王様ライブ」を見てきました。

TBSラジオの「永六輔の土曜ワイド」「荒川強啓デイキャッチ」でよく告知されているライブで、前から「行ってみたい、見てみたい」と思っていたのですが、3500円をはたいてようやく実現しました。

001 戯作者・松崎菊也、コメディアン・すわ親治、イラストレーター・石倉直樹の三人の50代オジサンが、政治風刺のたっぷり利いたコント、漫談、替え歌演奏を行うライブで、年に4回ほど行われています。

この種の興行の客入りはどんなものかというのも関心がありましたが、約700席はほぼ満席でした。

オペラ、人形劇、コンサートなどの劇場興行は、超一流のもの以外は「人が集まらない」「文化振興の補助金がないとやっていけない」との嘆きばかり聞こえてきますが、ちゃんと人を集められる劇場新文化も育っていることがわかります。

徹底した政治風刺ゆえに別名「他言無用ライブ」とも言われ、ドアを閉ざし、聞いた内容は決して外部に漏らさないようにと物々しく言われましたが、それほどビックリするものはなく、ふだん彼らがラジオでやっているのと変わらないものでした。

そのせいか公演が終わって帰る道々、「何だかマンネリ化してきたね」「次回はもういいわね」という声があちこちから聞こえてきました。新文化も常に厳しい目に晒されていることを知りました。

Photo ところで会場の三宅坂ホールとはどこにあると思いますか。社会民主党の本部がある社会文化会館の5階にあるのです。

昔の泣く子も黙る日本社会党本部です。

私にとっては、1973年~1986年にかけて、足繁く通った懐かしい建物でもあります。

といっても社会党員や労働組合員であったわけではありません。同会館の中に(株)印刷センターという大きな印刷会社が入っていて、社会新報や組合機関紙を印刷するほか、一般の定期刊行物の印刷も引き受けていたのです。安くて早いという評判でした。

私が最初に入った新聞社「全私学新聞」はここで印刷していました。そこで私が次に移籍した全国学校法人幼稚園連合会という団体の機関紙「全法幼時報」も、ここにお願いしました。

自民党と社会党が拮抗する二大政党時代にできた建物ですから、自民党本部に匹敵するほどの大きさです。

入稿や校正で私が通っていた当時も、議会関係者、マスコミ関係者、組合関係者らが多数出入りし、地下1階のミモザという大レストランは熱い議論とタバコの煙に包まれていました。

Photo それが今は、議員わずか数名の社民党の本部なので、人の出入りはほとんどなく、まったく使われていない階もあります。地下レストランも何か催し物があるときだけ簡単なものを提供する臨時食堂になりました。

しかしこの日ばかりは、約700人で館内が賑わい、階段を歩くより遅いエレベーターを利用したのですから、玄関ホールの浅沼稲次郎氏の像も、嬉しさ半分、心配さ半分で眺めていたことでしょう。

ライブの後は、埼玉県草加市・あずま幼稚園(丹羽義昭園長)の「Oyaji倶楽部」に出かけました。

地下鉄有楽町線と東武伊勢崎線がつながっているので、永田町から竹ノ塚まで乗り換えなしの直通で約40分。昔では考えられない早さです。

竹ノ塚駅と言えば2005年3月に悲惨な踏切事故がありました。

駅の両側にある踏切は相変わらずの開かずの踏切ですが、そのすぐそばに自転車も乗れるエレベータ付きの歩道橋ができました。

母親の犠牲によって安全な施設ができたわけですが、そのうち秋葉原駅を下りる人には、改札口で防弾・防刃チョッキを貸し出してくれるようになるだろうと思います。

さて、あずま幼稚園のオヤジ集会は、スタートから15年目にして「オヤジの会」から「Oyaji倶楽部」に名称変更しました。

「常連居酒屋」的なイメージを払拭して、新しいお父さん達にも参加してもらおうとの意図ですが、中身は特に変わらず、オヤジと呼ぶには少々若い園児の父親が酒とつまみをぶら下げて集まり、とりとめのない話で夜が更けるというものです。

Photo_2 ネーミング変更のおかげで、顔ぶれが若返ったとのことですが、中に「俺たちこそ元祖オヤジだ。簡単に立場は譲れない」という表情の三人衆がいました。

左から丹羽園長、川村戸喜夫さん(前保護者会会長)、馬場光一さんの三人です。50歳の同い年で、丹羽園長と馬場さんは同園の第1回卒園児でもあります。

若いオヤジ達に、夢と希望に満ちた正しいオヤジ道を伝授してもらいたいものです。

あずま幼稚園から歩いて10分ほどのところに、この4月に開通した都市型モノレール「舎人ライナー」の駅「見沼代親水公園」ができたので、帰りはこれを利用して、日暮里から京成特急に乗りました。何と1時間足らずで幕張本郷駅に着いたのです。時代の変化に驚くばかりです。

下の写真が、私が帰った後も延々と盛り上がったであろう「Oyaji倶楽部」の様子。

Oyaji

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アンパンマンと室蘭&洞爺湖幼稚園

2008年6月13日(金)  晴

北海道から室蘭幼稚園(小倉真弓美園長)と洞爺湖幼稚園(同)の先生方14人が千葉県船橋市・健伸幼稚園(柴田炤夫理事長、柴田衣子理事長)の見学研修にやって来ました。

室蘭幼稚園が健伸幼稚園を訪ねるのは3回目。洞爺湖幼稚園は初めてです。仲をとりもった関係から、一行の到着を東武野田線・馬込沢駅で待ちました。

Photo_2  4年前、室蘭幼稚園の「七夕音楽会」を訪ねたとき、玄関に「歓迎・片岡編集長」と貼ってあったのを思い出し、返礼の歓迎看板を作りました。

「メッセージは何でもウチワに書く」をモットーにしているので、写真のような丸看板にして柄をベルトに差し込みました。

改札口を出てくる人の9割方がお腹の看板を一瞥していきましたので、室蘭幼稚園の知名度は馬込沢周辺でグンとアップしたと思います。

さすがに幼稚園児連れのお母さん方は、近寄って確認し、「何のことか」と訊いてくれ、「北海道の幼稚園の先生たちが来るんだって」とわが子に説明していました。

腰にぶら下げているのは、向かって左側が緊急撮影用の小型デジカメ。右側の函館少年刑務所特製小物入れには取材ノートとハンカチが入っています。

そして編集長がかぶっている帽子にバイキンマンがついているのがわかるでしょうか。金曜日だからバイキンマンなのです。

実はわが家の玄関の壁には、下の写真のように7つの帽子が並んでいます。晴れた日に幼稚園に取材に行くときは、この帽子のどれかをかぶっていくのです。

左から月曜の食パンマン、火曜のカレーパンマン、水曜のアンパンマン、木曜のメロンパンナちゃん、金曜のバイキンマン、土曜のドキンちゃん、日曜のおむすびマンです。

Photo_3

キャラクターを作ってくれたのは、お裁縫が得意な埼玉県鶴ヶ島市・武蔵野幼稚園の鈴木操園長さんです。2007年4月に同園を訪問したときにプレゼントしてくれ、それ以来、この日替わりキャップが定着しました。

一応、ボスのアンパンマンには、夏も冬も一番高い帽子をあてがっていますが、水曜日の出動が一番少ないのが寂しいところです。

出動が多いのはカレーパンマンとメロンパンナちゃんで、ドキンちゃん、おむすびマンも意外に多いです。

この帽子をかぶって幼稚園に行けば、必ず誰かが「あ、バイキンマンだ」と気づき、必ず誰かが「どうしてバイキンマンなの?」と訊いてくれます。

「それはね、今日が金曜日だからだよ」と会話が進むわけですが、その後の展開はお察しのとおりで、いつしか編集長は「アンパンマンのマーチ」や「メロンパンのうた」を歌っているのです。

見学研修の内容は『月刊・私立幼稚園』の記事に譲りますが、下の写真はランチタイムの様子です。右側が室蘭幼稚園、左側が洞爺湖幼稚園です。

Photo_4

この日、健伸幼稚園の子ども達はパン給食で、地元船橋地区で人気が高い「小麦工房ピーターパン」が作ってくれたサンドイッチを食べました。そこで北海道の先生方にも、ピーターパンサンドイッチ、唐揚げ、コーンスープ、リンゴフルーツのランチが用意されたのでした。

ところで洞爺湖幼稚園といえば、2000年3月の有珠山爆発で噴石の直撃を受けました。随分ニュースに出ましたが、覚えていますか。

園舎は建て替えられ、噴火も収まってひと段落していますが、今は来月の「洞爺湖サミット」のおかげで、息苦しいほどの警備体制の中に置かれているそうです。

Photo_5 一行の一部は、健伸幼稚園だけでなく姉妹園の健伸行田幼稚園も見学することができました。今年から柴田理事長が同園の園長を兼ねることになり、ふたつの園を行き来することになったからです。

この日、健伸行田幼稚園では「園長先生のお話を聴く会」が行われ、柴田園長は「これを今日、園内に架けようと思って持ってきました」と言って、「泣いた赤おに」の作者で知られる浜田廣介氏の色紙額を見せながら、童話の世界と現代世相についての話をしました。

健伸幼稚園創設当初以来、約30年ぶりの園長復帰ですが、また1人、味のある園長が登場したなと思ったものでした。

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はいチーズとエビフライと美味しい水

2008年6月10日(火)

はいチーズ」という会社を知っていますか?乳製品の会社ではありません。幼稚園にプロのカメラマンが出向いて、デジカメで子ども達をたくさん撮影して、それをネット上に掲載して、親がパソコンで注文できるシステムの写真販売会社です。

正式な会社名は「千株式会社」と言い、有線音楽放送や無料映画配信、光ファイバーサービスなどをしている「USEN」グループの会社です。

幼稚園時代の思い出が、子ども本人はもちろん、両親の人生に大きな影響を与えると言われます。しかし一方で、こうした会社の台頭は、親子代々幼稚園に出入りしている地元写真屋さんに影響を与えかねませんが、子ども達にたくさんの思い出を提供できるという点では意味あることだと思います。

その「はいチーズ」事業を統括する、同社事業推進部の吉奥祐介部長が、わが町・幕張本郷にやってきました。

「一度、御社をお訪ねして、ちょっとご相談を……」などと言ってくる会社がたまにいます。でも足の踏み場もないわが仕事場なので、来てもらってもお互いに困惑するばかりです。

そこで、そんなことを言ってくる人とは駅前の定食屋「志むら」で会うようにしています。話が終わったら「ちょっと一杯どうですか」となることが多いので、それなら最初からそれを想定した店にいた方が話は早いのです。

そこで吉奥部長にも、その定食屋に来てもらいました。写真に関する話ならばと、小誌の無給遊軍カメラマン・河口正馬氏にも来てもらいました。

Photo

上の写真は、左から吉奥部長、不肖編集長、河口正馬氏。大企業の部長というから、偉そうな人かと思ったら、京都市出身の27歳。乗りの良い青年でした。

私同様、あちこちの幼稚園を歩いている吉奥さんに、「あなたが“いいな~”と思った幼稚園ベスト5はどこですか?」と訊きました。

行動エリアの関係か、彼が即座にあげた5つの園はいずれも関東でしたが、どれも小誌『月刊・私立幼稚園』の読者でした。「この人はいい人」だと思いました。

Photo_2 ところでこの「志むら」という定食屋、元は魚屋だったので刺身やシーフードサラダが美味しいのです。中でもお薦めは写真のエビフライ定食です。

1600円と高いので、年に3回くらいしか食べられませんが、特大のエビが三本。見るだけでご飯が一杯食べられます。

名古屋や知多半島のエビフリャーを食べたことがある人間としても、「幕張のエビフリャーも旨くていかんわ」という実感です。

Photo_4 そしてこの「志むら」には、店主の娘である愛想のいい姉妹がいるのです。右側の姉がミカ、左の妹がアリサという名前だったと思います。

場所柄、二人とも千葉マリーンズの大ファンですが、勝ったときも負けたときも同じ愛想で迎えてくれるので安心です。見習いたいと思います。

ところがある日、「お姉さんは渡辺俊介、妹さんは里崎智也に似ている」と言ったら、それ以来、アリちゃんの態度がクールになりました。二人とも持ち上げたつもりだったのに、どうしてでしょう。

2008年4月22日(火)には、NECネッツエスアイの田代茂氏と東郷機器(株)の前川昌弘専務も「志むら」に来ました。

東郷機器(本社・名古屋市守山区)は、NECもその普及に力を入れている「浄活水器」を製造・販売している会社です。

機械の姿が一般の人には見えないのが辛いところですが、これを水道の根元に設置すれば、幼稚園中の水が浄化され活性化されて、清潔で美味しい水がどこでも利用できる優れものです。

Photo_6 写真は左が田代氏、右が前川氏。テーブルの料理が、上の写真と同じなのにお気づきかと思います。そう、この店はメニューが少ないので、あれこれ迷うことがないのです。

田代氏は私の大学(法大)の後輩(同じ社会学部社会学科)ですが、何とこの人がエビカニアレルギーで、エビフライもカニたっぷりのシーフードサラダも食べられなかったのです。何とも寂しい人生です。

その分、前川さんが嬉しそうに食べてくれましたが、この前川さん、話を聞くと自宅が高円寺にあり、「NPO法人東京高円寺阿波おどり振興協会」の顧問や、「馬橋稲荷神社氏子青年会」の会長をしていることがわかりました。

自社の浄活水器同様、見えないところでフルに活躍している人なのです。恐れ入りました。

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ポニーとニワトリと青年懇談会

2008年6月6日(金)

すっきりと梅雨晴れのこの日、朝から晩まで東村山市・多摩みどり幼稚園(遠藤剛之理事長、遠藤朋子園長)にお邪魔しました。

園児の「ポニーと遊ぼう」と未就園児の「幼稚園で遊ぼう」を取材してから、園内の一隅を借りて資料や原稿の整理をして(昼寝も少々)、夕方から同園で開かれた「私立幼稚園青年懇談会」の定例勉強会に出席したのです。

Photo ワゴン車に乗ってきた二頭のポニーは、どちらも10歳(人間なら30歳)前後のご夫婦。大きい方が夫の金太郎、小さい方が妻のチョコちゃんで合わせて「金チョコ」。

人間世界同様、カカア天下の関係にあるそうです。それでも、麦ワラやニンジンをもらい、のんびり園庭を歩いたりして、たくさんの子ども達に囲まれている表情は、幸せそうなカップルに見えました。

「馬と一緒に生活していると、自分も自然にのんびりしてきて無理をすることはありません」と馬主の吉川純也さんは言います。

「だから昔、馬や牛の力を借りて農耕していた頃は、人間も人間らしくゆったり暮らしていたはずです。それがみんな機械になって人間の限度を超えて、身も心もボロボロになってしまったんです」と続けます。

たしかにそうだな、と思いました。

馬、牛、ヒツジ、ブタなどを飼っている幼稚園は、今はとても少ないですが、未来の幼稚園には、そんな牧場型も増えてくるような気がします。常に子どものための理想をめざすのが幼稚園だからです。

写真は右から遠藤剛之(たけし)理事長、馬主の吉川さん、イベントの企画や園だより編集を担当する水間絹子先生。

Photo_2

お昼は鰻重をご馳走になりました。今年初めてのウナギです。夕食は勉強会に出前された「箱入り天麩羅定食」をご馳走になりました。

カラッケツの編集長なのに肉付きがいいのは、こんな私立幼稚園の人情のおかげです。

この日はオヤツも飛びきりでした。朋子園長に「編集長は何がお好き?」と聞かれて、素直に「アップルパイです」と答えました。

私の頭に浮かぶのはヤマザキの126円(ついこの前までは105円だった)アップルパイだけですが、麦茶と一緒に運ばれてきたのは実に立派なもので、大きなリンゴの切り身が三つも載っていました。味のほどは言うまでもありません。

Photo_3 職員会議を隅っこから見ていると、先生方に配られたアイスキャンデーが私にも回ってきました。今年初めてのアイスでした。

続いて「わが園の特製です」と言って出されたのが写真のゆで卵です。

年中さんが世話をする二羽のニワトリ(一羽でもニワトリといいます)が、毎日律儀に生んでくれる卵で、特別なお客さんにだけ提供されるのだそうです。

光栄なことです。心から手を合わせて頂戴しました。これほど美味しいゆで卵を食べたのは初めてでした。

そして最後は、箱定食に付いてきたメロンと、食後のお茶菓子として出された紀の国屋の特大「相国最中大納言」でした。

1日にこれほどのオヤツを食べたのはわが生涯に記憶がなく、まさに盆と正月がいっぺんに来た思いでした。

さて、夕べに集まった私立幼稚園青年懇談会とは、多摩地区の血気さかんな有志経営者が36年前に集まってできた勉強会です。勉強だけでなくゴルフもカラオケもやります。

たしかに36年前は水がしたたる青年でしたが、乾燥肌になった今も心はジャブジャブの青年、瞳は輝いていました。幼稚園の子ども達から刺激と影響を受け続けているからに他なりません。

そうはいっても、中には亡くなった父親の代わりに参加する娘さんもいます。

歳月は無慈悲に流れていきますが、この面々に会うと、なぜか三浦滉一が歌う「青年の樹」が耳元に流れてきて元気がでます。

写真は後列左から多摩みどり幼・遠藤朋子園長、みそら幼・岩本乃美(なみ)理事、にこにこ保育園・丸山正晃副園長、秋津幼・小島聖理事長、みふじ幼・遊佐昌憲園長、聖愛幼・野口新輝理事長、前列左から田無いづみ幼・小林保理事長、田無富士見幼・尾林武彦園長、多摩みどり幼・遠藤剛之理事長、村山いずみ幼・高山紀夫理事長、精心幼・老沼靖子園長。

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「亀戸餃子」と「浜松餃子」と「船橋屋久寿餅」

2008年6月5日(木)

思い出せば、2008年は中国の冷凍餃子で幕が開きました。

そんな餃子の話題で中学校(今はなき函館市立中央中学校)の同級生とメール談義をしているうちに、「餃子といえば宇都宮、亀戸、浜松だ。とりあえず集まりやすい亀戸で餃子を食べよう」ということになり、2008年4月12日(土)、42年前の中学生5人が、亀戸駅前の路地裏にある「亀戸餃子・本店」に出かけました。

Photo 亀戸餃子の創業は1953年。われわれと同じ年代で、その風格が何とも言えず素晴らしい。いずれ有形民俗文化財に指定されることでしょう。

焼き場を囲むコの字形のカウンターと狭い座敷があって、30人も入れば満員です。開店当時は列がトグロを巻いたそうですが、今も土日は列ができます。

だから座った人からいちいち注文なんぞ聞いていられない。メニューは一皿に5コ入って250円の餃子オンリー。その皿が座ると同時に目の前に出され、黙っていても食べ終わると次のお皿が出てきます。

1人二皿がノルマで、三皿目から追加注文になります。何を食べようかと悩むことがないので楽です。

それでも飲み物は水、ビール、日本酒、ウーロン茶、ジュースと5種類くらいあり、こちらはちょっと悩みますが、やはり餃子にはビールが一番合うと思います。

写真は左から函館・舛矢克恵、埼玉・川口洋子、船橋・古田豊、千葉・片岡進、静岡・杉村雄二。杉村くんの鼻に脱脂綿が入っているのは、昔のマドンナ二人に会って血がのぼったとのことでした。

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その1週間後の5月18日(金)、浜松に出かける機会ができました。

浜松には亀戸餃子のような餃子専門店が約80店あり、シェアナンバーワンの餃子製造機メーカーがあり、浜松餃子学会という研究機関があり、同学会の調べによると、市民1人当たりの餃子消費量はダントツ日本一とのことです。

お茶にはうなぎパイ、ビールには餃子というのが浜松市民の生活パターンのようです。

丘陵地にそって建つ段々畑風園舎で知られる緑ヶ丘幼稚園(服部義正理事長&園長)を訪ねた後、駅周辺をさまよって餃子屋を探しました。

Photo_3 道行く人からお薦めを聞き、たどり着いたのが「むつぎく」という料亭のような看板を掲げた店でした。

聞いてみると実際、昔は芸者置屋さんだったそうで、その副業で餃子屋をやっているうちに、それが本業になったそうです。

浜松餃子の特長はキャベツが多いことで、それをグルリと丸く並Photo_4 べ、上にモヤシを載せます。皿から飛び出しそうになって運ばれる亀戸餃子に比べるとずっと上品です。

写真のお皿は16個入りで920円。こちらはほかにチャーハンや焼きそばもメニューにありましたが、残念ながら餃子だけでお腹いっぱいになりました。

さて話は戻りますが、亀戸といえば餃子のほかに「亀戸天神」と「船橋屋のくず餅」があります。くだんの元中学生5人も当然訪ねました。

船橋屋の店員の上品で丁寧な接客ぶりに感動してから天神様にお詣りしましたが、梅と藤の端境期で、境内には花影も人影もなく、たくさんの亀が泳いでいるだけでした。

そこで5月3日(土)、今度は息子とその嫁を誘って再びやってきました。

折しも藤棚は満開。観光バスが次々に横付けされ、うって変わって境内は押すな押すなの大混雑でした。

Photo_5 写真は見ればわかるかも知れませんが、左が息子の良介、右が嫁の千春さん。船橋屋でくず餅を食べているところです。

三人とも皿に残った黒蜜をきれいに嘗め上げる育ちの良さで、さすがの上品な店員さんも恐れ入ってくれました。

この後、亀戸餃子を食べ、カラオケでマイクを奪い合ったことは言うまでもありません。

一般の人は、こんな具合に亀戸といえば「餃子」「くず餅」「天神様」の三点セット思い出すわけですが、幼稚園関係者にとって思い出すのは、今は亡き亀戸幼稚園の山内昭道(やまのうち・しょうどう)園長です(右下の写真)。

001_3 大正6年、江東区を襲った大洪水の中で幼稚園を創設し、戦後は焼け野原の中でヨシズ張りの園舎から再建した、伝説の幼稚園経営者・山内勇仙氏の息子です。

その息子もまた豪快な人で、園長のかたわら、東京家政大学の教授、(財)幼少年教育研究所の理事長も務めるせわしい人でした。

そんなせわしい人と亀戸の町をブラブラ歩き、くず餅を食べ、街頭豆売りのピーナッツを食べ、亀戸餃子でビールを酌み交わしたことが懐かしく思い出されました。

亀戸幼稚園はもちろん今も健在で息子・一弘さんが後を継いでいます。幼稚園の畑では亀戸大根も栽培されています。

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「自雷也」と豊四季幼稚園と柏幼稚園

2008年6月2日(月)

きのうはラーメンの話を書きましたが、ラーメンといえば思い出すのは千葉県柏市・豊四季幼稚園の吉田寛理事長です。

何しろ麺類が好きで、ラーメンはもちろん、日本そば、焼そば、うどん、素麺、長崎チャンポンと何でも食べ、そしてまた「駅の立ちそば」にいたるまで、味と店に詳しい異色の理事長です。

001   東京に出かけるとき、私がいつもカバンに入れている「旨い!立ち食いそば・うどん~東京駅別大調査」という文庫本は、吉田先生から頂戴したもので、おかげで亀戸の「木曽路」、立川の「奥多摩そば」、市ヶ谷の「うち乃」など行きつけの店ができました。

吉田先生に関する記事は、『月刊・私立幼稚園』のコラム「人物アラカルト」にも載っていますのでご覧ください。

2008年5月30日(金)、その吉田先生と3年ぶりに再会しました。豊四季幼稚園で行われた「家族の日」(父の日にちなんだ父親参加イベント)の取材に出かけたからです。

Photo_7   取材の後、二人で繰り出したのは柏駅前の路地裏にある「自雷也」という居酒屋でした。「編集長が柏に来たら必ずこの店に行く」というのが二人の間の約束になっているからです。

カウンターで7人、座敷で8人。計15人ほどしか入れない小さな店ですが、あっけらかんとした雰囲気が心地よく、そして伝統と工夫のおふくろの味料理がとっても美味しくて、何度でも、毎日でも来たくなる店です。

17時15分。ふつうの民家と見分けがつかない店構えの玄関の脇。植え込みの中でひっそりと立つ看板にまだ灯りはなく、「きっと一番乗りだろう」と思って玄関を開けたら、カウンターにはちゃんと先客がいました。

この店のシステムは、500円ほどの基本料金を払うと、女将・岩本芳子さんが作ってくれる各種料理が好きなだけ食べられるのです。

肉じゃが、ヒジキ煮、ポテトサラダ、カボチャ煮、焼き魚、新作料理……と、いろいろな料理がカウンター大皿に次々と盛られていき、客はそれを小皿にとっていくのです。いわばバイキング居酒屋。勘定は基本料金プラス酒代という超明朗会計です。

ふと気がつくと、玄関からもう1人、「編集長の匂いがしたものですから」と懐かしい顔が現れました。

JR常磐線を挟んで豊四季幼稚園と反対側にある柏幼稚園の吉田眞(まこと)園長です。オートバイと飛行機が大好きで、大学では飛行機工学を専門に学んだ異色の園長です。

眞園長の父親(吉田隆雄前理事長)が、吉田寛先生の従兄弟になるという親戚関係でもあります。

異色といえば「自雷也」の女将もその1人。「われカミナリなり」という店の名前も凄いですが、かつては東京で10本の指に入る芸者さんだったので、気っ風の良さと博識ぶりには敬服するばかりです。

しかも日米欧の政治家、経済人には直接会った人も多く、「あの人はこんなことを言っていた」と生々しい証言も飛び出します。

そんなわけで、異色の幼稚園経営者2人に異色の女将、それにふつうの編集長の4人で、焼酎を飲みながら、国際情勢を語り、日本の未来を憂いつつ夜は更けたのでした。

写真は左から吉田寛理事長、岩本芳子さん、吉田眞園長。隣のカウンターの人が後ろ姿でピースしてくれたのが嬉しい。

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本八幡の「ねぎラーメン」を探して

2008年06月01日(日)

梅雨寒の日々から一転して今日は夏のような陽差しになりました。

それを記念して思い切ってブログを始めることにしました。

ウェブマガジン『月刊・私立幼稚園』のコラムで書いていた「編集長の放浪日誌」は08年3月まで書きましたが、1ヶ月分をまとめて書くのはけっこう大変で、4月分、5月分が停滞してしまいました。当然読者からは「おい、どうした」のメールが届きます。

ブログなら毎日少しずつ書いていけるのではないかと思い、2年前に買った「500円でわかる楽しいブログ」という本を引っ張り出してきました。

当面は今日現在の日誌と、4月、5月の過去日誌が入り交じる形になろうかと思いますが、悪しからずご了解ください。

さて今日、晴れ渡った日曜日は幕張本郷発6時の電車に乗って、京王線「百草園」駅前にある日野わかくさ幼稚園の「親子のつどい」に行ってきました。父の日にちなんだ行事で、この内容は『月刊・私立幼稚園』の8月号までには掲載の予定です。

『月刊・私立幼稚園』のホームページは http://www.yochien-joho.com/

その帰り道、京王線(都営新宿線)の終点・本八幡駅に着いて思い出しました。もう10年以上前、船橋市・健伸幼稚園の柴田AKI夫理事長に連れていってもらった駅前路地裏のラーメン屋のことを。

古くて小さい店でしたが、そこで食べた「ねぎラーメン」が旨かったのです。私はラーメンマニアではありません。でもネギを自分で山盛りにして食べた、あのラーメンは忘れられないのです。

時間は16時。夕食には早いですが、少しお腹が空いていたので、その店を探してみることにしました。店の名前は覚えていませんが、辻角にあったことと周辺の雰囲気は覚えています。

それらしき店が見つかりました。「雑誌で評判のネギラーメン・トップ」という看板が出ています。店構えの印象には今ひとつ自信がありませんでしたが、「改装したのかも知れない」と思って中に入りました。

「違う、ここではない」とすぐにわかりました。でも3人の店員に「いらっしゃい」と声をかけられ、美味しそうに食べている客も何組かいたので、つい手近なテーブルに座ってしまいました。

Photo_5 しかし出てきた「ねぎ塩ラーメン」は、どこのラーメン屋にでもあるふつうの「ねぎラーメン」でした。きれいに全部食べましたが、失敗でした。これがそのラーメンです。

辛い思いで店を出て、もう一度周囲を見回すと、なんとほんの3軒ほど先に「名代ねぎそば月梅」という看板の店がありました。

これこそ探し求めていた店で、「ねぎラーメン」ではなく「ねぎそば」と呼んでいたのも思い出しました。

救われたのは、その月梅(ゆーめい)という店はまだ開店準備中で、その時間ではどっちにしろ食べることはできなかったのです。

「よし、この次本八幡に来たときは、必ずここで食べるぞ」と気を取り直してJR総武線に乗り込むことができました。

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