2009年1月14日(水)
幕張本郷から鈍行列車を乗り継いで約4時間、お昼少し前に静岡県焼津に着いた。鈍行乗り継ぎと言っても、乗り換えは津田沼、品川、熱海と3回だけ。新幹線を利用しても津田沼、東京、静岡と3回乗り換えなければならない。時間は1時間45分違うだけで料金は往復で6,000円も違ってくる。静岡、焼津への旅は鈍行にかぎる。
焼津の駅前には黒潮温泉と書かれた丸い池がありカジキマグロが歓迎してくれる。マグロの後方、海に向かう道を行くと、右側に温泉ランド風の黒潮温泉があり、そのサンドイッチツナでもあるようだ。だから丸い池にも温泉が流れ込んで湯気が立っており、バスを待つ人々が足湯を楽しむ。
足だけでなく身体も温泉に浸かりたいとは思うが、まだ黒潮温泉には行ったことがない。この日もどうしようかとちょっと迷ったが、当初の方針どおり小泉八雲記念館に向かうことにした。
焼津は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが愛した町である。黒潮温泉と書かれた石碑の裏側に、同氏の石碑が建っている。
エーゲ海(ギリシャ)で生まれ、40歳で日本にやってきた小泉八雲は、横浜、松江、熊本、神戸、東京と移り住んだが、もっとも愛した地が焼津だった。東京で暮らした最後の8年間は、毎年夏、焼津の魚屋の二階を借り、妻・おせつが迎えにくるまで長逗留したという。
1890(明23)年、アメリカの新聞記者だったハーンが日本に来たのは、日本の探訪記事を書くためだった。その企画を立てたのは彼だったが、一緒についてきたカメラマンの方が出張手当が高いことを知って怒り、横浜に着くと同時に、「ふざけるな馬鹿野郎!」と辞表とカメラマンを叩き送ったという。愛すべき激情家である。
結果日本に住み着くことになり、松江で土地の女性・小泉勢津と結婚し、英語教師をしながら日本人の生活、伝統、物語を書き残したのである。この生き様と彼の関心事に、なぜか私は子どもの頃から惹かれていた。だから2007年6月、焼津に記念館ができたことを知り、早く訪ねたいと思っていた。
焼津市文化センターの一画にある記念館には、焼津駅からコミュニティバスを利用すると100円で行ける。毎週月曜が休館で、入館は無料だ。
展示ホールの天井から小泉八雲の大きな肖像画が下がっていた。彼の写真、肖像画はすべて左を向いた横顔である。正面のもの、右向きのものは1枚も残っていない。
6歳のときに両親が離婚し、アイルランドで父方の親戚に育てられ、イギリスの学校に入学したが、学校内でのケンカか事故で左目を失明した。それ以来、左側の表情を見せなくなったそうである。
小泉八雲の著作ではムジナやろくろ首の「怪談」が有名だが、私は新聞記者魂が跋扈する「日本雑記」が好きだ。特に女性の名前に関心を寄せ、その構造を分類していく下りは感動する。
道徳または自然や風流を表す一文字をあて、庶民はそれに「お」をつけ、身内以外の人が呼ぶときは「さん」をつけた。「お徳さん」「お涼さん」という具合だ。
武家では「お」をつけず、身内は「徳」「涼」と呼び捨て、他人は殿か様をつけて呼んだ。明治になると上流階級のお嬢は「子」をつけて「徳子」「涼子」と呼ばれるようになり、それが庶民にまで普及して昭和中期まで続いた。昔は、娘の名前を見れば、親の思想や家業もある程度察しがついたという。
そんな日本人が何気なく見過ごしていた文化を、小泉八雲は大いに関心を持ってくれた。ありがたいことだと思う。短編「漂流」の題材になった「甚助の板子」は、焼津市・小川(こがわ)幼稚園(浅沼成行理事長&園長)のお寺・海蔵寺で長く保管されていたが、記念館ができたおかげでここに移された。焼津に出かけたときは、ぜひこの伝説の板子も見てほしいと思う。
ウェルシップ焼津で行われた焼津市私立幼稚園協会の新年教員研修会に参加した後、高田路久会長(暁幼稚園理事長&園長)の計らいで、三和幼稚園(金原順一理事長&園長)を見学することができた。
「片岡さん、せっかく焼津まで来たんだ。どっか幼稚園を見たいと思っているんでしょ。それなら最近園舎が新しくなった三和(みわ)幼稚園がいいよ」と高田先生が言ってくれた。ありがたいことだった。
つるべ落としの夕闇と競争になったが、何とか園舎の撮影に間に合った。門から玄関に続く遊歩道は、くねくねと蛇行している。これが「ゆっくりいらっしゃい」と誘われているようで大らかな気持ちになる。
道の途中で白雪姫と八人の小人と白馬の王子様が並んで迎えてくれる。七人でなく八人というのが日本らしくていい。
そして玄関の脇には三つの笑顔を描いた看板があった。「幼稚園もいよいよハイセンスになってきたな」としばし見とれてしまった。
園内に入ると、廊下、テラス、柱、手すりなども、微妙な丸みや膨らみを感じさせるものが多く、木肌の温もりとともに柔らかみをが伝わってくる。ガラス面が多く、明るくて全体の見通しがいい。
「実は設計したのは女性の方なんです。それがアプローチロードの曲線や園内の丸みに出ているのだと思います」と金原理事長が教えてくれた。言われてみればたしかに、ふくよかな母親に抱かれているような心地になってきた。
丸い柱のひとつが背比べの柱になっていた。あいにく、すでに預かり保育も終了して子どもの姿はなかったが、毎日楽しそうに背比べをしている様子が浮かんできた。
もうひとつ「これはいいな」と思うものがあった。会議室にあった一枚の絵である。
多くの場合、こういうところに架けてある絵は何かのドラマを持っているものだが、訊くと、金原理事長と妻の副園長・るり子先生が結婚したときの引き出物だという。もちろん絵柄はみんな違っていたが、お気に入りの一枚を自分達のために残してあった。それがこの絵である。
緑に包まれた爽やかな川の流れ。これがご夫妻の心の原風景でもあるのだろう。
写真は左から高田路久先生、不肖編集長、金原るり子先生、金原順一先生だ。例によって夫婦ツーショット写真を撮ろうと思ったら、そばにいた同園の先生が「私が押します。お二人もどうぞ」と言ってくれた。その仕切り方がとても上手で、四人で収まることになった。しかも私ばかりが嬉しそうである。
すっかり夕闇に包まれた三和幼稚園を後にして、男三人は、静岡県私立幼稚園協会・相田芳久会長(焼津豊田幼稚園園長)が待つ、駅前の居酒屋「寿限無」に向かった。カツオのヘソを食べるためである。
焼津の三大名物といえば、「黒はんぺん」「鰹サブレ」「カツオのヘソ」である。どれも美味しい。中でも珍味は「カツオのヘソ(実際は心臓)」で、最初に、「寿限無」の古い店でこれを教えてくれたのは静岡県私立幼稚園協会の相田芳久会長(焼津豊田幼稚園園長)である。
以来、焼津に来るたびに必ずヘソを食べているが、昨年8月にこの店に寄ったとき、どうしたことか店の前に焼津市私立幼稚園協会の面々がずらりと勢揃いしていた。私はてっきり、自分の来訪情報がどこかから漏れて、待ち受けられたのだろうと早合点したが、違っていた。この「寿限無」で園長会が開かれることになっていたのだ。
ま、そんなこともあって「妙な奇縁だ。ぜひまた一緒にヘソを食べましょう」と相成った次第である。
これがそのときの写真。左から4人目が、カツオならぬ広島カープファンの相田芳久先生。帰りも鈍行で帰るつもりでいたが、「まだ大丈夫、新幹線があるから」と引き留められ、結局最終の新幹線で帰ってきた。
焼津に長逗留した小泉八雲の気持ちがわかった気がした。