幼稚園・旅・食べ物

ニッポンそば紀行「福島県郡山の蕎麦」

2016年11月20日

★お椀でわかった「こけし蕎麦」

20161109__3 2016年11月、福島県郡山市に三日間滞在する機会を得た。始発の新幹線を下り、ホームの階段を下りた真ん前に、立ち蕎麦屋があった。迷わず、かき揚げ蕎麦410円を食べた。車内販売をじっと我慢してたどり着いた朝ご飯である。
店には「そば処」としか書いてないが、底の深いお椀型の器に触れて、その昔、まだ新幹線がない時代、東北線のホームにあった「こけし蕎麦」に縁のある店だと判断した。新幹線ができた後も、私は何度も在来線の郡山駅を利用した20161109__4 が、名物こけし蕎麦は姿を消していた。「あんなに人気のあった店がどうして?」と思ったが、新幹線の構内でしっかり生き延びていたようだ。
駅西口のヨドバシカメラ前から斜めに延びる遊歩道がある。入り口には洒落た女性二人が行き交う「都会」という名の彫像があり、遊歩道の先には東横イン、郡山ビューホテルなどのホテルがある。荷物をホテルに預けてからK幼稚園に向かおう、と歩き出したとたん、「しまった!」と足が止まった。

遊歩道に面して「そばの神田」という立ち蕎麦屋があったからだ。昭和の雰囲気いっぱいのレトロな店だ。前回、郡山に来た時に、この店に気づいていた。食べてみたいと思ったが、立ち寄る時間がなかった。「この次は必ず」と思っていたのに、すっかり忘れて、新幹線の階段下で食べてしまった。それが悔しかった。「まあいい、今回はあと二日ある。必ず来るからね」と言い残し、「そばの神田」をやり過ごした。

★「安積そば」でけんちん蕎麦

20161110_ 翌日は、午後の会合の時間まで市役所、開成山公園、文学の森、久米正雄記念館、安積歴史博物館を巡る街歩きを楽しみ、クタクタになって郡山駅に戻ってきた。そこでまた「そばの神田」を忘れ、駅構内の「あさか蕎麦」に飛び込んで、けんちん蕎麦480円を頼んでしまった。認知症が進行したようだ。
けんちん蕎麦は、茨城、栃木、福島の人達が好む具沢山の田舎蕎麦だ。あさか蕎麦の一品は、具は少な目で味もあっさりした都会風田舎蕎麦だったが、けっこう美味しかった。しかし店員の愛想は悪く、テーブルはガタガタしていた。せいぜい400円の値打ちかな?と思った。しかし帰り20161110__2 際、愛想の悪い店員が、ふらつく老婆の身体を支えながら、蕎麦をテーブルまで運んでいる姿を見て、ちょっと評価を変えた。
けんちん蕎麦といえば、茨城県常北町(現・城里町)にあった蕎麦処「一二三庵」が忘れられない。丼からあふれるほど具が山盛りで、動けないほど腹一杯になった。座敷の片隅に積んである芸能雑誌はどれも10年以上前のもので、トイレのカレンダーはさらに古く、20年前のもの。大映の山本富士子が妖艶に微笑んでいた。1964東京オリンピックから時間の止まった蕎麦屋だった。「いいなぁ」と感動し、山本富士子に見られながら用を済ませたものである。
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★「そばの神田」は390円均一

さて、N幼稚園を訪問する三日目は大雨になった。雨確実の予報だったので、前日にバス路線と時間を調べておいたが、いざ駅前バスターミナルに行ってみると、1時間に1本のバスは大幅に遅れ、タクシー乗り場は長蛇の列だった。迷った結果、タクシーの列に並んだ。何とか間に合った。認知症はまだ軽かった。
昼過ぎに雨は上がり、帰りは逢瀬川沿いの土手道から軍用道路(うねめ通り)を歩いて駅に着いた。約30分。「歩いて帰る」と言ったら、幼稚園の人達は「信じられない!」という顔をしたが、大した距離ではない。しかし立派なランチをご馳走になったので、まだおなかは空かない。ビッグアイ(目玉のオヤジのような駅前高層ビル)とヨドバシカメラを1時間ほど歩き回ってから「そばの神田」に入った。
20161111__2 客はなく、取っつきにくそうな坊主刈りのオヤジが一人、厨房にいた。値段はすべて390円。わかりやすい。天ぷら蕎麦の食券を出すと、丁寧に蕎麦を茹で、慎重に天ぷらを載せ、ネギを多めに入れてくれた。繊細な職人気質のようだ。厨房は広いが客席は狭い。テーブルの幅は15センチ足らず。でも丼はちゃんと載るから問題はない。
色黒の蕎麦は腰があってうまい。天ぷらを摘もうとしたら、魔法のように姿が崩れ、汁の中にすべて溶け込んだ。揚げ玉より小さい揚げカスが一面に浮かび、小ダヌキ蕎麦になった。水溶きうどん粉を丸い形にフワっと揚げただけの天ぷらだった。呆気にとられたが、箸の先で何とか三分の一ほどを掬い取った。

食べ終わって壁を見ると、明治元年(五厘)から昭和41年(75円)までの掛け蕎麦の値段変遷表が架けてあった。それをじっと眺めて写真を撮ると、店主が「へへっ、50年もやっているもんですからね」と嬉しそうに頭をかいた。見かけによらず人なつっこい人のようだ。
「最近の値段もわかるんで、書き足そうと思ってるんですが、ついズルズルしちゃって……へっ」ともう一度、首をすくめて頭をかいた。「いや、このままでいいですよ。蕎麦屋は時間が止まっているのがいいんです」と言うと、「へっ?」と目を丸くした。いつかまた、この店に来たいものである。時間が止まっていることを願って。
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田代茂と「志むら」北海丼と鰻重

2010年2月26日(木)

Photo   これまでの約60年の人生で、あちこち訪ね歩いた飲食店は数知れず。しかし私が一番好きな店は、やはり長年親しんでいる我が町の定食割烹「志むら」である。料理は何でも旨いしビールの冷やし具合も絶妙だ。店主夫妻の愛想はいいし、夜だけ手伝っている娘二人の愛想も悪くはない。何より一家揃って千葉マリーンズの大ファンというのが嬉しい。

  しかし美味しいだけあって安くはない。何しろ、さくら水産なら500円でご飯も味噌汁も生卵も食べ放題のサバ味噌煮定食が、ご飯盛り切りで1000円だ。だからちょっと食べて飲むと1人4000円くらいかかってしまう。この店で毎日ビールと晩飯を食べる独居老人もいるようだが、私はそんな望みは叶わないので、誰か友人・知人あるいは家族が遊びに来たときだけ暖簾をくぐるようにしている。

100226   1ヶ月余りもそんな客がなくて、「志むら」禁断症状が起きかかっていたこの日、法大後輩の田代茂氏から「ご機嫌伺いに出向きます。志むらで昼飯を食べましょう」と連絡があった。持つべきものは後輩である。

  2008年秋にNECから脱サラした田代氏は、(有)ハッピーフォトコムという会社を立ち上げ、撮影・整理・提供・管理など幼稚園での写真に関する総合サポートを仕事にしている。

  その田代氏が注文したのは「志むら」一番人気の北海丼。どんぶり飯の上にウニやホタテ貝がたっぷり載った豪華版の1780円だ。

100226   たしかに美味しいが、私はあまりこれを食べない。ここ20年で2度ほどしか頼んだ記憶がない。閉店間際のスーパーで500円の刺身盛り合わせを買って帰れば家でもできる気がするし、函館育ちの身にとっては、子どもの頃、ウニもホタテもタダで山ほど食べた記憶が強いせいかもしれない。

100226_2   だから奮発したときに頼むのは二番人気の「鰻重」である。同じく1780円だが、私には2000円以上の価値を感ずる。ちなみに同店の三番人気は、やはり1780円のエビフライ定食だが、これは本場・名古屋人も「エビフリャー!」と腰を抜かす。

  ところでこの田代さん、私と同じように各地の幼稚園を訪ね歩いているが、私とはまったく違う視点を持っている。このときも「片岡さん、私立幼稚園経営者で一番のお金持ちは○○先生ですよ。だって乗ってる自動車が凄いし、身につけているものはどれも超特上です」と教えてくれ、私を唖然とさせてくれた。

  「なるほどそんな見方もあるかな」と感心もするが、しかし私は過去に一度、それこそ先祖伝来もの凄いお金持ちの経営者が、ヨレヨレの服を着て、オンボロの50CCバイクに乗っていた姿を知っている。

  「どうして?」と訊いたら、彼は「金はいつでも使える。どんな自動車でも服でも必要ならすぐに買える。だから何も、使わなくてもいい時に買っておくことはないんです」と言った。田代氏の基準に同意できかねる所以である。


法大同級会と鳩山会館と世界の山ちゃん

2010年1月23日(土)

大学時代の同級生5人で東京の街を歩いた。大学の同級会と聞くと、「え、珍しいですね」と言われることが多いが、我らの場合も公式な同級会ではない。単に学生食堂で一緒に飯を食うことが多かった仲間が、ズルズルと40年余りも関係を続けてきただけだ。

法政大学社会学部社会学科1969年入学H組。「H大のH組、俺たちゃダブルエッチの危ない奴ら」とうそぶいたものだ。70年安保の前年で、キャンパスは色とりどりのヘルメットと旗が行き交い、「粉砕!」の文字が躍る立て看板で賑わっていた。

Photo おかげで講義も試験もほとんどつぶれ、すべてはレポート提出で済まされた。やむなく我らは、学校に来るたび学生食堂の片隅で紫煙に燻られて時間を潰していた。正直、私はいまも「社会学ってどんな学問なの?」と腹の中でつぶやいている。

日比谷公園までの全学デモがあった前日、「俺たちも旗を作ろうじゃないか」と、学校から一番近い、板橋のアパートに住んでいた奴の部屋にこもった。大きな赤い布地に縫い付けた白文字は「MG5」。

「何だこれ?」の問いに、私は「マルクスゲーニン(芸人)主義の5人衆だ」と答えた。
皆はなぜか「ふ~ん」と言うだけで異論はなかった。なぜなら当時、資生堂のMG5という整髪料がはやっていたからだ。

005 集合は正門脇の守衛室前。25階建てボナソワードタワーのてっぺんから市ヶ谷周辺を見下ろし、昔と変わらない55年館・59年館の地下で久しぶりの学食を食べた。お盆にラーメンを載せてくれたおばさんに、「40年前、毎日食べにきたもんですよ」と言うと、「私も40年前からここにいます」との返事。大いに驚いた。

食べながら、チラチラと周囲を見てつぶやいた5人の言葉は「法大が女子大みたいになったと聞いてはいたが、本当だな」だった。当時、約200人のH組に女子は10人ほどしかいなかった。

Photo_2 昼飯の後は老人の好きなウォーキングである。飯田橋から毘沙門天、護国寺、雑司ヶ谷を経て池袋というルートを選んだが、交番のお巡りさんに「それなら途中に鳩山会館があるから寄るといい。1人500円かかるけど話のネタになるよ」と勧められ、それにしたがった。官僚叩きの鳩山内閣も、交番のお巡りさんには支持されているようだ。

鳩山会館とは「音羽御殿」と呼ばれた建物で、和夫(元衆議院議長)→一郎(元首相)→威一郎(元外相)→由紀夫(現首相)・邦夫(元総務相)の鳩山家四代が1995年まで住んでいた住居である。

Photo_3 見るべきものはいろいろあったが、意外だったのは天皇の名のもとで任命された鳩山一郎氏への「内閣総理大臣」任命書の交付者が、前任の吉田茂首相になっていたことだ。犬猿の仲だったと聞く。
ということは、今回の場合も鳩山総理の任命書は麻生太郎首相の名で交付されたものと思われる。どちらも祖父と孫の関係、しかも政敵。奇縁である。

Photo_4 それより何より驚いたのは見学者が多いことだった。人波にトコロテンのように押し出され、ゆっくり資料を読んだり雰囲気を味わっている暇はなかった。それでもなお次々に観光バスが到着する。鳩だけにバスとの縁は深いようだ。

予定外の寄り道もあったが、約8キロ、2万歩をあるいてマルクス芸人主義の5人は無事に池袋に着いた。サンシャイン60の展望台から歩いてきた道を確認し、それから「世界の山ちゃん」に繰り込んだ。

「山ちゃん」は名古屋が発祥の店で、幻の手羽先、ドテ煮、味噌串カツなどが旨い。名古屋駅西口には同じ「山ちゃん」が三軒も並んでいるという人気の高い居酒屋だ。それが最近は東京にも進出してきたので名古屋通には嬉しい。我ら5人も、名古屋出身者(正しくは瀬戸市)が1人、名古屋在任経験者が2人ということで、今回はここに落ち着いた。

002 席につくや、私のPHSに二人目の孫誕生のメールが届いた。予定どおり今度は女の子だった。「いやあ、おめでとう!」と歩き疲れた5人は元気に乾杯した。
 


笹岑剛士と新橋さくら水産と片岡良介

2010年1月22日(金)

前日の恵比寿さくら水産が少々苦い思い出になったので、験直しに新橋のさくら水産に出かけた。というわけではないが結果的にそうなった。

お相手はWSP(ワークス・システム・プロデュース)社代表の笹岑剛士氏と息子の片岡良介(幼稚園情報センター編集長)。PCビギナーズの私に正確な表現はできないが、どちらもパソコンとインターネットの中で生きている人間である。

愛知県出身の笹岑(ささみね)氏と出会ったのは名古屋在任中のこと。一緒に愛知県私立幼稚園連盟のホームページを作っていく中で、ネット音痴だった私がその世界に目覚め、やがて雑誌をウェブマガジンに切り替えるきっかけを与えてくれた人である。

当時から名古屋と東京を行き来するせわしい身だったが、東京育ちの女性と所帯を持ったことを機に拠点を東京に移した。この日はその歓迎の宴だった。

同じIT人間と言っても、良介が記号と数式にまみれた理系派であるのに対して、笹岑氏は日本文学を専攻した文系派である。つまり二人で0.8人前の親子にとっては、コンテンツも作れるシステムエンジニアということで、実にうらやましい存在なのである。今後は東京を舞台に、すかたん親子だけでなく私立幼稚園全体にいろいろと刺激を与えてほしいものである。

Photo 待ち合わせたのは駅前のSL広場。しかし金曜18時のSL広場があんなにごった返すとは思わなかった。「この人混みでは果たして出会えるだろうか」と心配したが、二人ともあっさりと私を見つけてくれた。さすがウェブ(蜘蛛の巣)に強い人種である。写真は左が片岡良介、右が笹岑剛士氏。 

さて問題は「さくら水産」だが、この新橋店は赤坂店、神田店、船橋店と並んでAランクに入る。特Aといってもいいかも知れない。

多国籍スタッフの対応はいいし、店内は明るく広く、トイレはいつも清潔だ。何より注文が端末操作方式でなく、マークシート&スキャナ読み取り方式なのがいい。客がマークシートで記入した注文書を、そのままスキャナに突っ込むだけ。だから厨房への情報伝達が早く間違いもない。

導入当初はスキャナ機の不調が多く、端末を操作することも多かったが、今はスイスイ読み取っている。いずれ日本中のさくら水産がこの方式になることだろう。マークシートとは縁のなかった我らオヤジ連も、さくら水産に行けばそれが楽しめる。ありがたいことだ。


矢の口幼稚園と角田亨とカレー蕎麦

2010年1月19日(火)

府中まで出かけたので、夕方近くになったが東京都稲城市の矢の口幼稚園(角田亨理事長&園長)をぶらりと訪ねた。

同園オリジナルの青いジャンパーで忙しそうにしていた角田(かくた)先生だったが、「せっかくだ、一杯やろうか」と言ってくれた。

場所はもちろん同園の正門真向かいにある「いちかわ」という蕎麦屋さん。名代の蕎麦屋とはいえ、つまみメニューが充実していて、へたな居酒屋は真っ青になる。

時間外だが仕事熱心な幼稚園の先生、認証保育所「チャイルドケアセンター・リトルツリー」のスタッフが理事長を探して相談や報告にやってくる。用事が済むと「ひとつつまんでいけ」と理事長に勧められ、唐揚げやカキフライをほおばって嬉しそうに帰っていった。

リトルツリーは昨年4月にオープンした東京都の認証保育所(0~2歳)。閉店した隣接のスーパーマーケットを借り受けて改造し、この保育所と幼稚園での長時間保育を組み合わせて、同園は幼稚園型「認定こども園・子どもの森」を開設した。

Photo 勤め帰りの園児の父親も顔を出し、挨拶かたがたフットサル大会の打ち合わせなんかもしていく。この蕎麦屋は、矢の口幼稚園の附属総合交流サロンでもあるようだ。写真は右が角田理事長、左の嬉しそうなのが不肖編集長である。

蕎麦屋で酒を飲む最大のメリットは「焼酎のそば湯割」ができることだ。もちろんこの日もそば湯割をぐいぐい飲んだ。そしてもうひとつのメリットは最後に旨い蕎麦が食べられることである。

Photo_2 この「いちかわ」で角田先生のお気に入りはカレー蕎麦だ。ほかの店とはまったく違う濃厚芳醇な味だからだ。名古屋で本場カレーうどんを食べ続けてきた私も、ここのカレー蕎麦には恐れ入った。絶品である。

京王よみうりランド駅から徒歩5分、矢の口幼稚園を訪ねた時には、忘れずにカレー蕎麦を食べてきてほしい。

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小平の赤、ジャクパの黒と白、久米川の寄り合い居酒屋

2009年2月2日(月)

★小平市には丸ポストが30本生きている

古い人間にとって、今も「郵便ポスト」と聞いて目に浮かぶのは赤い丸ポストである。ゆうちょ銀行の預金高がダントツに多いのは、新規口座や定期預金でもらえる丸ポスト貯金箱が貢献していることは間違いない。

街角からすっかり姿を消したと思われているが、私は出会う機会が多い。撤去された丸ポストが幼稚園に寄贈されたケースが多いからだ。幼稚園の子ども達は毎日ポストを見ているので、これがきっと郷愁刷り込み効果を生み、ゆうちょ銀行のファンになっていくことだろう。

Photo  しかし幼稚園のポストを「ゆうびんごっこ」に使うことはできない。ポストとして使えないよう口とお腹を塞がれた上で寄贈されるからだ。

左の写真は千葉県船橋市・健伸幼稚園の門脇にあるポスト。通りから少し奥まったところにあるのだが、本物と間違える人が多いようで、「これは幼稚園のモニュメントです。郵便物を投函することはできません」という注意書きが喉元に貼られている。

ついでに隣に立っているバイキンマンは不肖編集長で、北海道の室蘭幼稚園、洞爺湖幼稚園の先生方が同園を見学に訪れたとき、ポストと一緒に門前で迎えたときの姿である。こうして立っていたおかげで、健伸幼稚園の親子も、この日北海道からお客様があることを知ったわけだが、「バイキンマンだ!」と言って私に近寄ろうとする子どもをしっかり抱き寄せ、上目遣いにできるだけ遠くを通っていったお母さんの表情が今も印象に残る。

人気の丸ポストが、愛想もクソもない角ポストに取って代わられた理由は、角2、角3などの大型郵便物が入れにくい、受け袋がないので回収に時間がかかるということだ。「口と腹を広げる改良工事で対処できただろう」と思うが、今さらぼやいても、もはや取り返しのつかない状況になっている。

Photo_2 そこで角ポストにも愛敬を持たせようと、最近は駅前や目抜き通りのポストにマスコットを載せるケースがある。右のポストはJR水沢駅前(岩手県奥州市)にあるもの。同市には水沢ベラ観測所という世界最大級の天文台があり、その巨大電波望遠鏡がマスコットになっている。

Photo_3 もうひとつ左の写真は富山駅前のポスト。言わずと知れた越中富山の薬売り氏である。こんなポストがもっと増えたら、それはそれで楽しいかなと、日本郵政グループの頑張りに期待したい。

そんな中、昔の丸ポストが現役を続けている地域もけっこうある。関東で有名なのは東京都小平市。市内に30本が残っていて、今や「丸ポストのある街」として観光マップまで作っているからしたたかである。

数で一番多く残っているのは兵庫県姫路市の34本だが、人口比で見ると姫路は約15,800人に1本、小平は6,230人に1本で小平市の方が圧倒的に優位だ。しかし人口比だと19本の兵庫県芦屋市が4,920人に1本なので「芦屋市が日本一」ということになる。小平の丸ポストはちょっと寂しい。

Photo_4 野暮用があって、その小平市を訪ねた。5年ぶりのことで西武新宿線の駅舎は新しくなり、駅前景観もすっかりモダンになっていた。「さては本屋も消えたか」と思ったが、駅前の1軒は消えていたものの、駅前商店街の村野書店は生き残り、その脇に立つ丸ポストも無事だった。路面にしゃしゃり出ず、書店に隠れて立っているので、駅方向から歩いてくると、その存在がまったく見えないという悲しいポストである。「本屋もポストも末永く無事でいてほしい」と合掌した。

「本当に現役かどうか確認する必要もある」と、向かいの陰から張り込みをすることにした。「このまま誰も来なかったらどうしよう」かと思ったが、15分ほど後、若い男が1人、手紙を投函してくれた。

ただ妙にキョロキョロしながら、しばし表書きを見つめてから投函したので、何か事件性を感じ、警察官をしていた父親がよく口にしていた「小平事件」という言葉が頭に浮かんだ。ちなみに1940年代、戦中・戦後のドサクサに発生したこの連続女性殺人事件(10人以上の女性を陵辱殺害したという)は小平市とは何の関係もなく、小平義雄というイケメン異常者が行った犯罪である。

★ビルの壁から大樹そびえる

Photo_5 この丸ポストの筋向かいに変わった建物がある。幼稚園に体育講師や英語講師を派遣する(株)ジャクパ(五十嵐勝雄社長)の本社ビルである。

何が変わっているかといえば、左写真のようにビルの一画に樹が生えていることである。ヤマモモの木で、6年前の新築時より倍くらい大きくなったようだ。遠くからでもよく見える。屋上緑化なら違和感はないが、建物の側面から生えていることが妙な倒錯感を生むのである。

何かと世話になっている会社である。ここまで来て、ポストを眺めただけで帰ったのでは失礼かと思い、訪ねてみることにした。

さすが体育の会社だけあって、ビルの中には3階まで吹き抜けるアリーナ(体育館)があり、ロンドンあるいは東京五輪をめざす子ども達が鉄棒や吊り輪の英才トレーニングを行っていた。その緊迫感に思わず腰を屈めて階段を上がった。

Photo_6 あいにく五十嵐社長はいなかったが、ジャクパを支える黒と白がいた。黒羽昭専務(左)と白瀧博彦常務である。二人ともその昔はオリンピックをめざすアスリートだった。

「面白い、シロクロつけようじゃないか」と役員会で論戦することも、時にはあるかも知れないが、ふだんは眼をシロクロさせて共に助け合っている黒白コンビである。

しばし雑談の後、「せっかくの機会だ。小杉さんを誘って久米川駅前の焼き鳥屋に行きましょう」と話が発展した。小杉重雄さんとは、元・東京都私立幼稚園連合会事務局長で今はジャクパ社の監査役。私にとっては法大の先輩であり、10年余り前、25着のピエールカルダンスーツを下げ渡してくれた恩人である。

Photo_8  左写真で裏ピースをしているのが小杉さん。黒羽さん、白瀧さんはほとんど酒を飲まず、最初の一杯で最後まで時間つなぎができる経済派だが、喜寿を超えた小杉さんは次々とお銚子を空にし、その豪快ぶりは健在だった。

ところで、この「むらやま」という久米川駅前の居酒屋は不思議な店である。開店の17時前には長蛇の列ができ、開店と同時に満席になる。それも奥から埋まるのではなく、外気の出入りが激しい入口付近から埋まっていく。何か早く来た人にサービスがあるわけでもない。

「安くて旨い、ただそれだけじゃないですか」と常連の黒羽さんは言うが、じっと観察しているとそれだけではないようだ。暖簾をあげて店内を見回した人が、「お、やっぱり居たか」と仲間を見つけて嬉しそうにテーブルに着く場面が何度もあった。母親と男の子がウーロン茶で焼き鳥をつまんでいるテーブルに、まずお姉ちゃんが駆けつけ、やがてお父さんも帰ってきて乾杯する図もあった。どうやらこの店はグループやファミリーの駅前常設寄り合い処として利用されているようである。

だから開店前から列を作って、わかりやすい場所に拠点を構えることに必死になるのだろう。さすが、志村けん氏を生んだ東村山市は一風変わった文化を持っているようだ。


どんぐり幼稚園と「小料理ふみ」とフランス料理

2009年1月23日(金)・24日(土)

二日がかりで大分県豊後大野市・どんぐり幼稚園(内野真奈美理事長&園長)を訪ねた。1年前に亡くなった剣豪・成田三吉郎先生が守り育てた幼稚園である。同園の様子は『月刊・私立幼稚園』本誌の幼稚園レポート(ぶらり訪問記)に詳しく記載したので読んでいただきたい。

Photo JR豊肥線に乗って大分からちょうど1時間、朝焼けの三重町駅に着いた。8時10分。幼稚園を訪ねるのはまだ早い。しかし駅前にコンビニもマックもないだろうことは承知なので、駅の待合室に座り、持参のカロリーメイトで朝ご飯にしようと思ったら、駅の中に「おむすび王国」という、おむすび専門の売店があった。

Photo_2 いかにも手作り、海苔でしっかり包んである姿はまるでタドンのようだ。中の具は牛肉しぐれ煮、豚角煮、ヒジキ煮などちょっと変わっている。値段は1個180円から250円とかなり高い。しかし出張中の私は意外に太っ腹なので、迷うことなく210円の牛肉ゴボウ煮を1個買った。その判断に間違いはなかった。カロリーメイトよりずっと充実した朝ご飯になった。

駅前商店街を通ってどんぐり幼稚園に向かう。商店街のど真ん中に、成田先生ご夫妻が経営していた文具・小間物・化粧品を扱う「ナリタ」という店があったが、建物はそのままながら別の施設に変わっていた。夫が幼稚園、妻がお店と分担していたが、その妻が2001年に先立ったため店を閉じたと聞いていた。

Photo_3 堀川が流れる街並みは、武家屋敷風建物や白壁の土蔵があり、ここに住む人々の歴史と故郷への愛着を感じさせる。なかでもひときわレトロな建物があった。その名もズバリ「れと絽」という喫茶店である。

大正から昭和初期にかけて病院だったそうで国の登録文化財になっていると表示がある。趣のある喫茶店だろうと思うが、どうもそれだけでは立ち行かないらしく夜はカラオケ酒場になるとの看板もある。少々つや消しだが仕方ない。

「営業中」の札が下がっていた。早朝割引モーニングサービスの貼り紙もあるので中に入ってみた。きちんと片づき、カウンターにはランプの灯がともっていたが誰もいない。「おはようございます」と2度声をかけてみたが返事がない。まさかこんな朝っぱらから客が来るとは思っていなかったのだろう。

少し先に営業中のスーパーがあった。失礼ながらローカルな町で朝8時からやっているスーパーは珍しいが、客はそこそこ入っている。朝のタイムサービスがあるようだ。「れと絽」のマスターもこの中にいるのかも知れない。

Photo_4 スーパーの斜め前に古びた薬局があった。看板で浪花千栄子がオロナイン軟膏徳用瓶を捧げ持っている。そうだ、オロナイン軟膏だ!切り傷、ヤケド、肌荒れ、何でも効き、顔に塗っても肛門に塗っても効く。このトンマ天狗の軟膏には子どもの頃、ずいぶん世話になったものだ。

ここで会ったが100年目、是が非でも一瓶買って帰ろうとガラリと戸を開けたが、やはり誰もいなかった。スーパーのタイムサービスに出かけているのだろう。

浪花千栄子が亡くなって40年近くになるが、いまだに現役の看板娘で仕事をしているのは凄い。水原弘、美空ひばりも蚊取り線香で頑張っているが、とてもこの人には及ばない。偉大な人物である。そういえばボンカレーの松山容子もいる。大塚製薬とはきっと人を大事にする会社なのだろう。

Photo_5 「きっと編集長が気に入るお店だと思うわ」と、どんぐり幼稚園の内野真奈美理事長(写真左)に誘われて、夜は「小料理ふみ」と書かれた暖簾をくぐった。

カギ型のカウンターに座れるのは8人ほど。そのカウンターには、里芋とイカの煮物、トリの唐揚げ、カレイ煮付け、野菜の酢の物など女将手作りの家庭料理を盛った大皿が並んでいる。どれもこの上なく旨い。

それら料理は1人1000円で食べ放題。あとは焼酎やビールの料金を考えればいいだけで、1人2,500円もあればたっぷり満足できる。まさしく私が一番好きなタイプのお店である。

Photo_6 お皿の料理の減り具合を見て、新しい料理を手際よく作る女将は内野文子さん。「おや、理事長さんと同じですね」と言うと、なんと内野理事長の夫の母親だという。

内野先生の夫が小料理屋の息子だったわけではない。ずっとふつうの主婦だった文子さんは、21世紀になったのを機にお店を開いたのだという。遅咲きの自営業者なのである。

私の座っていた席の後ろ側の壁がきれいに空いていた。そこで「ママ、この壁にどんぐり幼稚園のパネルを付けさせてもらえませんかね。そこに行事のお知らせや写真を貼るんです」と相談してみた。

「あら編集長、いいこと言うじゃない。私もそれを気づかなかったわ。さっそくやりましょう」と即座にオーケーしてくれた。ふたたび豊後大野にやってくる楽しみができた。

翌日は午前中の園内研修にご一緒し、さて引き上げようと思ったら、先生方は新年会をかねて“フランス料理でランチ”と洒落込むという。そのレストランのシェフは内野理事長の夫の弟だという。家庭料理とフランス料理、さすが幼稚園と小間物屋の娘だ。面白い人脈のところに嫁に行っていたのだ。しかもこの内野先生、父親の薫陶を受けて剣道四段の腕前でもある。

003 あれこれ感心していると、「編集長も一緒にどうですか」と誘われた。列車の時間まで1時間しかなかったが、「え、そうですか」とニコニコついて行った。困った編集長である。

おかげで子どもの頃から噂に聞いていたエスカルゴ(カタツムリの料理)を食べることはできたが、やはり1時間では無理があった。全部の料理が揃わないうちに駅に駆け出す羽目になった。この先生方と「れと絽」やオロナイン軟膏の話をしたかったのだが、それはこの次の楽しみに残して、小雪降る大分を後にした。


富士見が丘幼稚園とフグの肝とヒレ酒

2009年1月22日(木)

寝台特急「ふじ」を終着駅・大分で下り、久大線に乗り換えて富士見が丘幼稚園(渕野二三世理事長&園長)に向かった。

Photo 最寄り駅は豊後国分駅。文字通り、かつて740年前後に豊後国分寺が建立された場所で、その跡地には右の写真の大分市歴史資料館が建ち、小中学生の学習の場として活用されている。駅のすぐ前である。

ところが、そんな由緒ある駅にもかかわらず無人駅だった。千葉で切符を買ったとき「大分から豊後国分までの乗車券(210円)は駅で精算してください」と言われたが、人もいないし精算機もないので、後ろめたさを感じながらも黙って出るしかなかった。

とぼとぼと国分橋に向かって歩くと、川向こうの丘陵地に堂々と建つ富士見が丘幼稚園の姿が見えた。どうして富士見が丘幼稚園なのか?卒園児との強い絆はいかにして生まれるのか?同園の様子は『月刊・私立幼稚園』の幼稚園レポート(ぶらり訪問記)に詳しく掲載したのでそれを見てほしい。

16時すぎ、先生方の記念撮影も済んで「じゃ、私はそろそろ引き揚げます」と言うと、渕野理事長がツツーと寄ってきて「片岡さん、今はフグが美味しい時期よ。いっしょに食べに行こうよ」と囁いてくれた。「え、本当ですか」と幸福感に太い身体が舞い上がった気がした。

これまでの約60年におよぶ人生で、フグを食べたのは東京で2回、下関で1回、大分で2回の5回だが、それだけに大分のフグの美味しさは身体に染みこんでいる。そしてついに大分で3回目のチャンスが訪れたのである。

東京も大分もフグのことはフグと呼ぶ。当たり前のことだが、下関ではフクと呼ぶ。フグは「不遇」「不虞」「不具」に通ずるというので、「福」に転ずるようにとの願いを込めてのことである。そして渕野先生が暖簾をくぐったのは「ふく亭本店」という店だった。下関の願いは大分にも広がってきたようだ。

Photo_2 渕野先生の前に並んだのがご存知フグ刺し。東京では余りに薄く切って並べるので、何も載っていない皿が出てきたと錯覚するが、大分のはご覧の通り分厚い。

皿の中央手前の緑がアサツキ、奥の緑が細ネギ、右のオレンジがモミジ下ろし、そして左側の白い塊が、大分だけでしか食べることのできない「フグ肝」である。

大分でフグ肝が食べられることは広く知られているが、大分のフグ料理店は決してそれを謳い文句にしていない。長年にわたり大分に根付いている食文化として、非公式に黙認されているものだからだ。

それはともあれ肝は旨い。ポン酢タレの入った小皿に肝をたっぷり溶かし込み、さらにアサツキとモミジ下ろしを混ぜる。そこに細ネギ数本を巻いた刺身をつけて食べるのだ。まさしくどこにもない格別の味である。

そして大分の人達は、ひれ酒を飲む。焦がしたフグひれをコップに入れ、熱燗の日本酒を注いでフタをする。ひれの焦げ味が染みこんでから飲むのだが、私はそのまま日本酒を飲んだ方が美味しいように思う。

それより不思議なのは、フタを開けて飲む前に、マッチの火を近づけてコップにたまったアルコール分を飛ばしてしまうことだ。一瞬、人魂のような青い炎が現れて幻想的ではあるが、アルコール分を飛ばしたのでは気の抜けたビールを飲むようなものではないか。

そこで二杯目のとき、仲居さんに「火はつけなくていいですよ」と言ったのだが、目を丸くした20代半ばの彼女は「これは決まっていることなので、火をつけないわけにはいかない」と言い張った。渕野先生を見ると「若い娘さんを困らせたらダメよ」という顔をしている。やむなく「わかりました。どうぞ」と折れ、再び人魂を出してもらった。もしかしたら仲居さんは、火をつけずに酒を飲むと、この人魂が体内に入って邪悪なことになると思っているのかも知れない。

ところでこの渕野二三世先生、年齢は不詳だがみずからを「ビートルズ世代よ」と言った。もしかしたら私とそう変わらない年格好かも知れない。

「一番のお気に入りの曲は何ですか?」と訊くと、ちょっと眼をキョロキョロさせてから「ヘルプ!」ときっぱり言った。ますます近いような気がする。

「あの脈絡なしに展開する映画、今なら平気で観られるでしょうが、当時は訳が分からなくて慌てましたね」と言うと、「え?映画?何ですかそれ」とキョトンとした。ビートルズ二本目の画期的映画「ヘルプ」を知らないのである。となると少し年代が離れているのかも知れない。

などと考えていると、残った刺身、アラ、肝、アサツキなどを全部入れてご飯と煮込んだフグ雑炊が出てきた。これがまた超絶品で、茶碗4杯をペロリと平らげた。運悪くフグの毒にあたる人がいたとしても、これが食べられたのなら思い残すことはないだろう。

渕野先生と別れた後、私は大分駅に行き、改札口にいた駅員さんに210円を渡した。もちろん豊後国分駅で払えなかった事情を説明したのだが、駅員さんは硬貨を掌に載せたまま、しばらくポカーンとしていた。

これで後ろめたさは消えたが、「これがもし2,100円だったら、そのままドロンしたかも知れないな」と首をすくめた。


三和幼稚園と小泉八雲とカツオのヘソ

2009年1月14日(水)

幕張本郷から鈍行列車を乗り継いで約4時間、お昼少し前に静岡県焼津に着いた。鈍行乗り継ぎと言っても、乗り換えは津田沼、品川、熱海と3回だけ。新幹線を利用しても津田沼、東京、静岡と3回乗り換えなければならない。時間は1時間45分違うだけで料金は往復で6,000円も違ってくる。静岡、焼津への旅は鈍行にかぎる。

Photo 焼津の駅前には黒潮温泉と書かれた丸い池がありカジキマグロが歓迎してくれる。マグロの後方、海に向かう道を行くと、右側に温泉ランド風の黒潮温泉があり、そのサンドイッチツナでもあるようだ。だから丸い池にも温泉が流れ込んで湯気が立っており、バスを待つ人々が足湯を楽しむ。

足だけでなく身体も温泉に浸かりたいとは思うが、まだ黒潮温泉には行ったことがない。この日もどうしようかとちょっと迷ったが、当初の方針どおり小泉八雲記念館に向かうことにした。

焼津は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが愛した町である。黒潮温泉と書かれた石碑の裏側に、同氏の石碑が建っている。

エーゲ海(ギリシャ)で生まれ、40歳で日本にやってきた小泉八雲は、横浜、松江、熊本、神戸、東京と移り住んだが、もっとも愛した地が焼津だった。東京で暮らした最後の8年間は、毎年夏、焼津の魚屋の二階を借り、妻・おせつが迎えにくるまで長逗留したという。

1890(明23)年、アメリカの新聞記者だったハーンが日本に来たのは、日本の探訪記事を書くためだった。その企画を立てたのは彼だったが、一緒についてきたカメラマンの方が出張手当が高いことを知って怒り、横浜に着くと同時に、「ふざけるな馬鹿野郎!」と辞表とカメラマンを叩き送ったという。愛すべき激情家である。

結果日本に住み着くことになり、松江で土地の女性・小泉勢津と結婚し、英語教師をしながら日本人の生活、伝統、物語を書き残したのである。この生き様と彼の関心事に、なぜか私は子どもの頃から惹かれていた。だから2007年6月、焼津に記念館ができたことを知り、早く訪ねたいと思っていた。

Photo_2 焼津市文化センターの一画にある記念館には、焼津駅からコミュニティバスを利用すると100円で行ける。毎週月曜が休館で、入館は無料だ。

展示ホールの天井から小泉八雲の大きな肖像画が下がっていた。彼の写真、肖像画はすべて左を向いた横顔である。正面のもの、右向きのものは1枚も残っていない。

Photo_3 6歳のときに両親が離婚し、アイルランドで父方の親戚に育てられ、イギリスの学校に入学したが、学校内でのケンカか事故で左目を失明した。それ以来、左側の表情を見せなくなったそうである。

小泉八雲の著作ではムジナやろくろ首の「怪談」が有名だが、私は新聞記者魂が跋扈する「日本雑記」が好きだ。特に女性の名前に関心を寄せ、その構造を分類していく下りは感動する。

道徳または自然や風流を表す一文字をあて、庶民はそれに「お」をつけ、身内以外の人が呼ぶときは「さん」をつけた。「お徳さん」「お涼さん」という具合だ。

武家では「お」をつけず、身内は「徳」「涼」と呼び捨て、他人は殿か様をつけて呼んだ。明治になると上流階級のお嬢は「子」をつけて「徳子」「涼子」と呼ばれるようになり、それが庶民にまで普及して昭和中期まで続いた。昔は、娘の名前を見れば、親の思想や家業もある程度察しがついたという。

そんな日本人が何気なく見過ごしていた文化を、小泉八雲は大いに関心を持ってくれた。ありがたいことだと思う。短編「漂流」の題材になった「甚助の板子」は、焼津市・小川(こがわ)幼稚園(浅沼成行理事長&園長)のお寺・海蔵寺で長く保管されていたが、記念館ができたおかげでここに移された。焼津に出かけたときは、ぜひこの伝説の板子も見てほしいと思う。

Photo ウェルシップ焼津で行われた焼津市私立幼稚園協会の新年教員研修会に参加した後、高田路久会長(暁幼稚園理事長&園長)の計らいで、三和幼稚園(金原順一理事長&園長)を見学することができた。

「片岡さん、せっかく焼津まで来たんだ。どっか幼稚園を見たいと思っているんでしょ。それなら最近園舎が新しくなった三和(みわ)幼稚園がいいよ」と高田先生が言ってくれた。ありがたいことだった。

つるべ落としの夕闇と競争になったが、何とか園舎の撮影に間に合った。門から玄関に続く遊歩道は、くねくねと蛇行している。これが「ゆっくりいらっしゃい」と誘われているようで大らかな気持ちになる。

Photo_2 道の途中で白雪姫と八人の小人と白馬の王子様が並んで迎えてくれる。七人でなく八人というのが日本らしくていい。

そして玄関の脇には三つの笑顔を描いた看板があった。「幼稚園もいよいよハイセンスになってきたな」としばし見とれてしまった。

Photo_3 園内に入ると、廊下、テラス、柱、手すりなども、微妙な丸みや膨らみを感じさせるものが多く、木肌の温もりとともに柔らかみをが伝わってくる。ガラス面が多く、明るくて全体の見通しがいい。

「実は設計したのは女性の方なんです。それがアプローチロードの曲線や園内の丸みに出ているのだと思います」と金原理事長が教えてくれた。言われてみればたしかに、ふくよかな母親に抱かれているような心地になってきた。

Photo_4 丸い柱のひとつが背比べの柱になっていた。あいにく、すでに預かり保育も終了して子どもの姿はなかったが、毎日楽しそうに背比べをしている様子が浮かんできた。

もうひとつ「これはいいな」と思うものがあった。会議室にあった一枚の絵である。

Photo_5 多くの場合、こういうところに架けてある絵は何かのドラマを持っているものだが、訊くと、金原理事長と妻の副園長・るり子先生が結婚したときの引き出物だという。もちろん絵柄はみんな違っていたが、お気に入りの一枚を自分達のために残してあった。それがこの絵である。

緑に包まれた爽やかな川の流れ。これがご夫妻の心の原風景でもあるのだろう。

4 写真は左から高田路久先生、不肖編集長、金原るり子先生、金原順一先生だ。例によって夫婦ツーショット写真を撮ろうと思ったら、そばにいた同園の先生が「私が押します。お二人もどうぞ」と言ってくれた。その仕切り方がとても上手で、四人で収まることになった。しかも私ばかりが嬉しそうである。

すっかり夕闇に包まれた三和幼稚園を後にして、男三人は、静岡県私立幼稚園協会・相田芳久会長(焼津豊田幼稚園園長)が待つ、駅前の居酒屋「寿限無」に向かった。カツオのヘソを食べるためである。

焼津の三大名物といえば、「黒はんぺん」「鰹サブレ」「カツオのヘソ」である。どれも美味しい。中でも珍味は「カツオのヘソ(実際は心臓)」で、最初に、「寿限無」の古い店でこれを教えてくれたのは静岡県私立幼稚園協会の相田芳久会長(焼津豊田幼稚園園長)である。

以来、焼津に来るたびに必ずヘソを食べているが、昨年8月にこの店に寄ったとき、どうしたことか店の前に焼津市私立幼稚園協会の面々がずらりと勢揃いしていた。私はてっきり、自分の来訪情報がどこかから漏れて、待ち受けられたのだろうと早合点したが、違っていた。この「寿限無」で園長会が開かれることになっていたのだ。

ま、そんなこともあって「妙な奇縁だ。ぜひまた一緒にヘソを食べましょう」と相成った次第である。

Photo

これがそのときの写真。左から4人目が、カツオならぬ広島カープファンの相田芳久先生。帰りも鈍行で帰るつもりでいたが、「まだ大丈夫、新幹線があるから」と引き留められ、結局最終の新幹線で帰ってきた。

焼津に長逗留した小泉八雲の気持ちがわかった気がした。


わかば幼稚園と始業式と魚臭ラーメン

2009年1月8日(木)

山梨県中央市・わかば幼稚園(井口太理事長&園長)を訪ねた。

JR身延線「常永」駅から歩いて約15分。山梨大学医学部の少し手前に幼稚園がある。前夜の深酒のせいで、頭の中は反省の鐘が鳴り響いていたが、晴れ渡った朝の冷風がその音色を少し鎮めてくれた。

Photo わかば幼稚園は看板を大事にしている幼稚園である。前回訪ねたときはステンレス製のモダンな看板を注目したが、今回はクラシックな屋根付き看板に見とれてしまった。幼稚園にかぎらず、看板に気を遣うのは大切なことである。

この看板の雰囲気に合わせ、園内には新たに東屋と水車がお目見えし、以前とは違う和風ムードを醸し出していた。

右の写真が井口ご夫妻。看板といえば、慎子副園長もまだまだ看板娘の存在感Photo_2 を湛えていた。

「今日が始業式だというのに、昨夜は園長先生を遅くまで引き留めてすいませんでした」と頭を下げると、「あらそうですか。いつ帰ってきたか気がつかなかったわ。今朝も平気な顔で早起きしていましたよ」とにこやかにと受け流してくれた。さすがである。

園庭の真ん中に立つと、南に富士山、北に八ヶ岳、そして西に南アルプスが見える。まさに大自然に囲まれた幼稚園だ。

そんな中、久しぶりに登園してきた子ども達が、先生や友達同士で「あけましておめでとう」の挨拶をかわして賑やかだ。“園長先生と仲良し”という様子を察して、初めて見るオジサン、つまり私にも律儀に「おめでとうございます」と腰を折ってくれる。新年の挨拶の清々しさを久しぶりに堪能した。

Photo_3 「お正月はとっても楽しかった」という子に、「何が楽しかった?」と訊くと、ちょっと目をクリクリ考えてから「みんな楽しかった」との答え。きっと、家族と一緒に一日中、あるいは長い時間を過ごせたことが何より嬉しかったのだろう。

中には「お年玉をね、お父さんからいくら、おじいちゃんからいくら……全部で○万円もらった」と早くも経済感覚を磨いている子もいた。

Photo_4 ひとしきりお正月の思い出話をしながら友達と遊んだ子ども達がホールに集まり、始業式が始まった。

「みんなの元気な顔に会えて本当に嬉しい。園長先生も、ほらこんなに元気だからね」と、身振り手振りでピンピン元気ぶりをアピールした園長に続いて副園長が前に立ち、三学期にちなんだ三つのお約束をした。それは「元気なご挨拶」「ありがとうと言う感謝の心」「ごめんなさいと言える素直な心」だった。

Photo_5 ポカポカ暖かい渡り廊下で、子ども達はお母さんのお迎えやバスの時間を待つ。その間先生は絵本を読んだり、クイズをしたり、歌を歌ったりしていたが、中に1人、広告チラシで器用に紙切りを演ずる先生がいた。

三方に載った見事な鏡餅を切った後は、子どもからのリクエストに応えて「カブトムシ」「飛行機」「園バス」などを次々に切っていく。

作品をもらった子どもは、まるで宝物をもらったように大事にカバンの中にしまっていた。思わず私も、「何かひとつもらえないでしょうか」と頼むと、立派なクワガタを切ってくれた。私の永遠の宝物のひとつである。

子ども達が帰り、掃除が一段落したところで先生方に消防自動車に集まってもらい、南アルプスをバックに記念撮影をした。

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「近くに旨い蕎麦屋があるんだ」と井口理事長に誘われ、二日酔いで朝飯抜きの胃袋に昼飯を詰めてから帰路につくことになったが、あいにくお薦めの蕎麦屋は休みだった。旨い蕎麦屋は全国的に「行こう!」と思った日が休みなのである。

「じゃ、できたばかりのラーメン屋がある。若い人達に人気らしい。いい機会だから行ってみよう」と蕎麦からラーメンに方針転換した。

Photo_6 エキゾチックで神秘的雰囲気の漂うお店だったが、メニューがよくわからない。無難なところでと一番上にあった「特選新潟ラーメン」を2人は頼んだが、出てきたのはこれだった。

「ん、スパゲティ?焼きうどん?」と思ったが、太麺で汁の少ないラーメンだった。食べてみると新潟の香り、いや生魚の香りがした。魚を腐らせて作る醤油「魚醤」のことは聞いたことがあるが、おそらくそれを使ってスープをつくっているのだろう。

最初の一口で2人は顔を見合わせ、「なんだこれ」と無言で言い合ったが、食べ終わったときには「これ、クセになりそうだね」と激しく言い合った。この魚臭ラーメンを食べるためにも、ときどき甲府に来なくてはいけないと思った。


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