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ニッポンそば紀行「山形の蕎麦(1)」

2016年11月25日
★山形そば街道の『七兵衛そば』
   「次年子(じねご)蕎麦」は食べ放題

新庄市を訪ねようと始発の新幹線「つばさ」に飛び乗った。飛び乗る直前、新庄幼稚園の児玉昭平理事長(山形県私立幼稚園協会会長)から「うまい蕎麦をごちそうする。手前の“さくらんぼ東根”駅で下りてください」と連絡があった。新幹線にそんな駅があることを初めて知った。

_02 まず寄ったところは河北町の「ひなのこども園」(幼保連携型認定こども園)。町内にあった二つの公立幼稚園、二つの公立保育所を合体して誕生した民設民営の新設こども園。すでに幼稚園2園、保育園1園を運営する児玉先生にとっては四つ目のオーナー施設である。

湾曲した園舎にそった駐車スペースは150台。そのスケールに腰を抜かした。河北町は児玉先生の生まれ故郷。そこに生まれる大型幼児施設は、是非とも我が手で運営したいと公募に応じ、コンペを勝ち抜いた。

河北町は江戸時代から「雛の里」と呼ばれてきた。雛人形を作っているわけではない。紅花の栽培や流通で財産を作った家々が、雛人形の名品を買い集め、それを一般公開して、町の宝、名物として伝えてきたことによる。「ひなのこども園」の名はそこに由来する。

午前中、こども園では、お誕生会と1・2歳児のお遊戯会が開かれていた。そこにちょっと顔を出すのが、理事長の大事な役割である。おかげで私も、1、2歳のお遊戯会を初めて見学できた。可愛さと面白さの極地だった。仕事を休んで見に来た父母たちが涙にくれていた。

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役割を終えた児玉理事長と「山形そば街道」を走りだした。山形県には三つのそば街道があり、河北町から村山市を抜けて新庄市に至る山道は「大石そば街道」と呼ばれる。大石田町を通る道沿いに、古い手打ち蕎麦屋がいくつも点在しているからだ。その中のひとつ「七兵衛そば」の前で自動車は止まった。創業者の七兵衛さん一家が住んでいた古民家をそのまま蕎麦屋にしたものだった。

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この地域の蕎麦は、地域の名前をとって「次年子(じねご)蕎麦」と言われる。雪が深く、何かと気ぜわしい年末に生まれた子どもは、年が明けてから出生届けを出したことによる地名だ。これは北海道も同じ。大雪山麓で生まれた私の両親はどちらも1月生まれの戸籍だが、本当は二人とも12月生まれである。

七兵衛そばのメニューはただひとつ、「手打ちもりそば食べ放題1080円」だけである。「餃子6個250円」しかメニューにない東京江東区の「亀戸餃子」と同じ方式だ。だから注文はない。テーブルにつくと同時に、キクラゲ、ワラビ、ショウガの漬け物がトンと置かれた。嬉しいサービスだ。そしてすぐに丼一杯のもりそばがやってきた。つけ汁には大根おろしが入っていた。

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漬け物は絶品で、ご飯かお酒がほしくなったが、その気持ちを打ち消すほどに蕎麦がうまかった。夢中で食べた。優にセイロ2枚分はある丼の蕎麦がなくなる頃、次の丼がトンと置かれた。二人の食べっぷりを見た給仕の女性が「お代わり間違いなし」と判断してくれたのだった。

二つ目の丼も空になる頃、今度は「もう一杯いぐかね?」と聞いてくれた。ほぼ満席だったが、すべての客の食べ具合を観察する芸当に恐れ入った。児玉先生は両手を振って「もう勘弁してください」と言ったが、食い意地旺盛の私は「ではお言葉に甘えて」と3杯目を頼んだ。

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ベルトを緩めても腹が裂けそうに膨れた。聞けば、地元の若い衆(といっても60代)は平気で5杯は食べるという。それを聞いては残すわけにはいかない。汗を流して何とか食べきった。

気候の厳しいこの地は米の出来が悪く、それを補うために蕎麦が栽培された。そば街道とは、米を食べられない貧しい農村の代名詞だった。おしんの大根飯を思い出す。それが今は、蕎麦で潤っている。わからないものである。

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▲案内してくれた児玉昭平氏(学校法人平和学園理事長)


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