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北島三郎のこと

2013年5月1日

池袋の友人から「明治座の切符を2枚もらった。北島三郎ショーだ。いっしょに行こう」との誘いがあった。浜町の明治座、しかもサブちゃんと聞いて飛び上がった。当日の4月3日は電車が止まる嵐だったが、何とか滑り込んで弁当付き15000円の切符を無駄にせずに済んだ。

01何を隠そう私、学生時代の3年間、北島三郎の専属バンド「野宮行夫とミュージックブラザーズ」でアルトサックスとクラリネットを吹いていた。40年前のことである。当時を知っている人は少ない。池袋の友人は貴重な1人だ。だから「お前しかいない」と誘ってくれたのである。

大学で初めて楽器に触った私が、どうしてサブちゃんバンドに入ったのか。それを語れば長編小説になる。死ぬまでには書いてみたいものだ。ともかく水前寺清子バンドで臨時楽団員をしていた時、楽屋に1人でいたサブちゃんを見かけ、「私も函館出身です」と挨拶したのが縁で翌日から北島バンドの一員になった。

1月は船橋ヘルスセンターと浅草国際、5月は長島温泉、7月は新宿コマ、8月は北海道巡業、9月は梅田コマ、11月は九州巡業、12月は御園座というのが当時の基本スケジュール。合間は地方公演で埋まり、テレビとレコーディングの時だけバンドは休業になった。歌手部門の納税トップを続けている時期で、売れっ子のサブちゃんだった。

とても学校に行っている暇はなかったが、時は70年安保のまっただ中、うまい具合に全共闘のバリケードストと大学側のロックアウトが繰り返されて、ほとんどの授業がレポート提出で単位をもらえた。旅館でレポートを書く私を、年輩の楽団員は一目置いてくれた。穏やかな人ばかりの演歌バンドだった。

しかし駆け出しの私が一人前の顔はできない。演奏のほか、旅館、鉄道切符、弁当、クリーニングの手配なども担当した。演奏は半人前以下だったが、こちらが重宝されて、卒業の頃、バンドマスターから「バンドマネージャーで残らないか」と口説かれた。

1973年、就職の厳しいオイルショックの年だったが、運良く横浜の広告代理店に就職が決まったので、入社式の前日までステージを務め、バンドマン生活から足を洗った。その代理店も1年後には飛び出したのだから、あのままバンドに残っていても面白かったと思う。

その後、北島三郎氏とは4度の接触があった。1977年、彼の息子達が卒園した中野区・野方学院幼稚部45周年祝賀会では私のことを覚えていて、「なんでお前が……」と驚いてくれた。でも2011年5月、松尾芸能大賞授賞式で会ったときは、すっかり忘れていた。

それでもバンドマスター・野宮さんの話を出すと、サブちゃんの顔は一瞬明るくなり、すぐに「野宮さん、死んじゃったよ」と沈んだ。10歳ほど年上だったバンドマスターとサブちゃんは仲良しだった。けなし合いながらじゃれ合っていた。

そんな私が、4月3日の明治座公演には腰を抜かした。舞台転換の早さ、登場人物の多さ、本物の漁船が現れて波を切って走る、クレーンに吊された鳳凰に乗って喜寿のサブちゃんが客席の上を飛ぶ……。40年前には考えられなかった演出が次々に繰り出された。

しかし冷静に考えれば、歌を聴くのにここまで大げさにする意味がわからない。オリンピックの開会式と同じ疑問である。東京オリンピックの可能性が萎んで寂しくもあるが、それはそれで良かったと思う気持ちもある。

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