ニッポンそば紀行「富山の蕎麦(1)」
北陸本線は「あいの風とやま鉄道」という第三セクター路線になり、心機一転で高岡駅もリニューアルされた。北口側に駅ビルが新築され、そこに蕎麦屋「今庄」が戻った。1915年創業の老舗だが、旧高岡駅の度重なる改修で、長く仮店舗営業を余儀なくされていた。それがようやく駅の中に復活した。振り子の柱時計や冷蔵庫の福助が老舗の歴史を醸し出している。



2014年9月1日
石原伸晃氏が言うところの“カネメ”の財産はないが、ゴミのような財産は山ほどある。そんな老人が多いという。私もその1人だ。老人が亡くなるとゴミの整理と廃棄で遺族に大迷惑をかける。そこで死ぬ前に自分で片付ける“老前整理”がはやっているそうだ。
死ぬ前に片付けるなら“生前整理”だろ。いや老人がやるんだから“老後整理”だろ、と思うかも知れないが、あくまで“老前整理”が正しいそうだ。「老前」なんて言葉、聞いたこともないが。死んだ人の立場で生きていた頃のことを語るのが「生前」。だから生きている人は使えない。片付け作業などができなくなった状態が「老後」。だから自分で作業をする人には使えないというわけである。
←1968年、18歳で上京したとき、荷物はこの柳行李ひとつだけだった。
思えば45年前の3月、18歳で函館から上野駅に着いたとき、私の荷物は1尺×2尺の柳行李ひとつだった。中には寝袋、学生服、セーター、ラジオ、小林秀雄の本、辞書、文具類が入っていた。鉄道チッキで夜汽車に積んだ。
それが今や大型トラック一杯分もの荷物をかかえる身になった。「モノを大事にしろ。モノにも命がある。最後まで使え。モノには人の思い出が宿っている。モノを粗末にする奴は人を粗末にする奴だ」という死んだ父親の言葉のせいである。
書籍、雑誌、写真、古い衣料、各種もらいもの、記念品などが段ボール箱にぎっしり詰まり、それが押し入れや倉庫に積まれていた。箱の中身はもちろん、段ボールの存在すら何10年も忘れていた。すべて捨てることにした。
家族と幼稚園関係の写真だけは残すことにした。裏に名前と大体の撮影年を書いた。将来役に立つことがあるかも知れない。大量のカセットが出てきた。試しに聞くと今は亡き懐かしい声が次々に蘇った。これも残すことにした。
申し訳ないが時計、お盆、風呂敷など幼稚園の創立記念品はデジカメで撮って捨てさせてもらった。お盆も風呂敷も1枚あれば事足りるからだ。創立記念誌も表紙と園長挨拶をデジカメで撮って捨てた。各園には必ず本物があるはずだ。
手伝いに来た息子が、「あ、これ、俺の友達だったんだ。懐かしいな」と倉庫から出てきた大きなタヌキに抱きついた。これも写真を撮って即ゴミ袋に入れた。
↑倉庫の中で、息子は子どもの頃の懐かしい友だちに出会ったが、この写真を撮ってすぐにお別れした。
食器棚には食堂が開けるほどの食器があった。ほとんどがもらいもの。「ヤマザキのパンまつり」も多い。使っているのはほんの一部。それ以外は全部捨てた。何10回にも及んだゴミステーションまでの道のりが重かった。
食器棚がガラガラになって、書棚からあふれていた本を入れた。下駄箱もほとんど書棚になった。それでもあふれた本は捨てた。なぜか本だけは少し胸が痛んだ。しかしもう読む時間はない。本に囲まれる幸せには十分な量がまだ残っている。
引き出しの中も半分捨てることにした。残った半分をさらに半分、また半分と繰り返すと机の真ん中の引き出しは物差し一本とホッチキス1個になった。ゴミが詰まっていたのである。
昔、モンゴルの少年から「日本人は馬鹿だ。自転車は1台あればいい。ネクタイも1本あればいい。それがこんなにたくさん持って、どうするの?」と言われたことがある。その意味がようやくわかった。最初の柳行李ひとつの荷物に戻って、あの世に旅立ちたいものである。
2014年1月15日
2013年11月、福島県幼児教育振興財団(古川洋一郎理事長)の海外視察研修に同行してシンガポールの保育園と幼稚園を見学した。シンガポールは人口450万人。その7割が中国系で残りはマレー系、インド系、アラブ系。面積は東京23区とほぼ同じという小さな都市国家だが、今、世界でもっとも活気と規律のある国と言われる。どのような幼児教育が行われているか気になるところである。
←先生が絵本を読む光景はいずこも同じ
訪ねたのは郊外とオフィス街にある保育園(チャイルドケア)、ショッピング街にある幼稚園(プレスクール)の三カ所。いずれもキンダーランドという民間会社が設置運営している。同社はシンガポールのほかマレーシア、インドネシア、バングラデシュ、中国で計51カ所(うち幼稚園は6カ所)の施設を運営していて、さらなる拡大に意欲を示している。日本での株式会社立保育所の様相を思わせる。
保育園も幼稚園も開所時間は7時~19時の12時間で、フルデイ利用とハーフデイ(7時~13時)利用の子が混在する。保育園が生後2ヶ月から6歳、幼稚園が2歳から6歳という受け入れ年齢の違いを除けば、施設の様子、生活・学習の内容に大きな違いはなく、いわば認定こども園制度の先行事例とも言える。
←何やら話し合いをしながらグループで制作活動
ただ枠外にひとつ違いがあった。幼稚園は商業ビルの4階にあったが、同じフロアーに小学生から大学生まで利用できるカルチャーセンターが併設され、幼稚園で始めた音楽、舞踊、美術、語学などが継続できるようになっていた。幼稚園を生涯学習のスタートに位置づけているわけだが、交通便利な繁華街にあればこその機能でもある。
郊外の保育園は、職業技能を身につける高等専門学校の教職員の子を預かる施設で、教職員住宅ビルの1・2階にあった。オフィス街の保育園は政府機関で働く人たちの子を受け入れるもので、フィットネスクラブなど政府機関勤務者の福利厚生施設が入っているビルの5階にあった。いわゆる事業所内施設で、このスタイルはシンガポールでも増加傾向にあるという。
保育園の平均保育料は月額約8万円。このうち半額を国が負担し、さらに事業所が上乗せ補助しているが、事業所内施設の場合は上乗せ補助の割合が高まるので、増加傾向を後押ししている。日本でも、人手不足が深刻化し、保育の利便性要求がさらに高まると、こうした事業所内施設が増えるのではないかと思われる。
保育園はどちらも定員180人。日本なら随分大きな施設になるが、玄関ロビー、遊戯ホールはなく、通路も必要最低限の広さでコンパクトにまとめてある。政府機関の保育園にはルーフテラスに日除けつきの細長い園庭があったが、他の二施設に園庭と呼べる空間はほんのわずかだった。ただこれはシンガポールに限ったことではなく、土地の広い米国や豪州でもコンパクト施設が多いので、広い園庭とゆったり園舎は日本独特といえるかも知れない。
↑ビルのルーフテラスにかなり大きな園庭はあったが、陽射しが強くて遊んでいる子は見かけなかった。
比較的涼しい雨期の11月でも、ちょっと陽が射すと35度になる赤道間近な土地柄ゆえ、外遊びは無用なのかも知れない。体力づくりや運動能力向上は室内空間で十分行っているとスタッフは説明したが、具体例を見ることができず、大きな謎として残った。トイレの隅で砂場遊びをしている姿を見るにつけ、日本の子ども達は恵まれていると思ったものである。
←朝、昼、午後のオヤツと日に3回提供される給食のメニュー。朝は市販のサンドイッチ、昼は丼に盛りきりのものが多い。
もうひとつ注目したのは給食である。朝7時にやってくる子ども達は、朝食を保育園、幼稚園で食べる子が大半だという。子どもを預けてから、親はコーヒースタンドやバーガーショップで朝食を済ませて仕事を始めるというのが東南アジアの生活でもあるようだ。その代わり夕食は家族そろって食べるのが彼らのライフスタイルだ。朝食抜きで夕飯も家族そろわない家庭が少なくない日本と比べると、果たしてどっちがいいのか悩ましい。
その給食、子ども180人とスタッフの分を、1人か2人の調理スタッフで作っているのにも驚いた。ただ中身は雑炊やカレーで、丼ひとつの盛り切りタイプ。それゆえにできる芸当である。給食にしてもお母さん弁当にしても、やっぱり日本の子ども達は豊かなランチタイムを過ごしている、と思った次第でもある。
↑職員を含め約200人分の食事を用意する保育園の厨房。1日3回の食事を1人のスタッフがすべて用意する。「ひとりで何の問題もない」と言っていた。
2013年12月1日
2013年11月、福島県幼児教育振興財団(古川洋一郎理事長)の海外視察研修に同行し、シンガポールの保育園、幼稚園を見学した。2007年夏、愛知県の幼稚園関係者と出かけた豪州視察以来の海外取材となった。
飛行機で片道7時間。木曜午前に成田出発。金曜に保・幼3施設の見学と現地先生方とのミーティング。土日に観光と文化体験。日曜夜にチャンギ空港発って月曜早朝に成田帰着の強行軍だった。忙しい園長さんたちには仕方ない日程だが、思わぬところで心の痛んだ旅でもあった。
シンガポールは噂どおりゴミもガムも煙草の煙もない綺麗な街だった。ホテルは市中心街に聳える72階建ての巨大ホテル。日本人団体がたくさん泊まっていた。近くに空中アイランドを頭に載せた三棟の高層カジノビル(マリーナ・ベイ・サンズ)があった。
部屋から見下ろすと、ホテル玄関の真ん前の公園に四本柱の白い塔が建っていた。「これは何?」と現地の中国系ガイドに訊くと「これは戦争記念公園。塔は日本軍に虐殺された人々の慰霊碑あるよ。四本の柱は中国人、マレー人、インド人、アラブ人の四つの民族を現しているね」との答がさらりと返ってきた。
海軍の真珠湾攻撃に呼応し、陸軍はマレー半島から英国軍の背後をついてシンガポールを陥落した。物流拠点のシンガポールを落とすことが日本軍の至上命題だった。その事実は聞いていたが、大勢の現地市民が巻き添えになったことは知らなかった。恥ずかしながら歴史認識の不足と言わざるを得ない。
それにしても「虐殺」は言い過ぎでないかと思ったが、多くの観光客で賑わうセントーサ島の蝋人形博物館を訪ねると、3分ほどの映像がエンドレスで流れていた。極めつけは、泣き叫ぶ中国系の女性や子どもを日本の兵士が穴の中に蹴落とし、生き埋めにするシーンだった。空襲と原爆で百万余の市民を虐殺された日本人ではあるが、この映像には絶句せざるを得なかった。
映像を見た中国人、韓国人らは、おそらく国に帰って家族、友人、知人にその情景を日々伝えることだろう。中国、韓国の人たちがいつまでも日本人に反感を抱くのも無理はないと思った。
多民族国家シンガポールの市民は7割が中国系。残り3割がマレー系、インドネシア系、アラブ系である。保育園、幼稚園のスタッフはもちろん、ホテルでもレストランでも私たちに対応してくれるのは中国系が多い。それでも「日本から来た」と聞くと、「ようこそ、ようこそ」と両手を広げて迎えてくれた。
ところが「日本のどこから?」と聞いて「福島から」とわかると、とたんに彼らの表情が曇った。眼が泳ぎ、言葉が続かなくなった。福島という言葉が世界中にどう伝わっているか一瞬にしてわかり、悔しさがこみ上げた。しかし意外にも福島県の人々は冷静だった。「いや日本国内でも似たような反応ですよ」とのこと。千葉県人の心がさらに痛んだ。
日本人は福島県にこそ旅に行くべきである。そして福島県の米、果物、海産物を真っ先に買って食べるべきである。傷ついた同胞への愛情であり友情である。それが身に沁みた旅だった。
マーライオンの前で記念撮影する福島県の視察団一行。後列左端が筆者。
2013年10月1日
2012年夏、東京都私幼連の研究大会で経営対策分科会の助言者を仰せつかった。その折、最前列の女性園長から「幼稚園と保育園の本質的違いは何でしょうか?」と質問された。各地の幼稚園見聞記や経営手法を話していた私には大きなテーマである。ドキッとして一瞬ことばに詰まったが私はこう返答した。
「理想と現実の関係だと思います。幼稚園が理想で保育園が現実です。子どもは生まれてから幼稚園に入るまでは母親や家族と過ごし、幼稚園に行ったらお昼過ぎまで友達と遊び、家に帰ったらお母さんとゆっくり過ごす。それが子どもの楽園であり理想の生活です。
しかし世の中には、母親が働かなければならない現実を抱えた家庭もあります。その現実への対処を手助けし、理想に反するものの、母と子に少しでも平和な時間を与えようとするのが保育園だと私は考えています」と。
本当はもっと「理想と現実は人間社会の常で適正なバランスが大事。どちらかが消滅したり偏っては社会が歪む。子ども達にはできるだけ理想に満ちた環境を提供してあげたい。現実の救済は必要最小限でいい。だから幼稚園は石にかじりついても経営を頑張ってほしい」と言いたかったのだが、時間と心の余裕が足りなかった。
この質問が気になって、その後、両者の違いをもっと仔細に見ていこうと心がけた。いわゆる幼稚園原理主義者の譲れない部分は「0~2歳の子どもは母親の手もとで育つのが一番良い。親にも子にも最善の利益を与える。それができる制度、環境を整えることが社会・国家の務めである」というもの。家庭教育を守ろうとの論である。
一方、保育園原理主義者が主張する点は「子育て能力を失った母親に0~2歳の子を任せるのは危険。その後の成長に問題を残す。だから0~2歳の子どもはすべて保育園で預かり、3歳になったら保育園か幼稚園を選択できるようにすればいい」となる。すでに家庭教育は崩壊しているとの論である。
どちらも「それができなければ子ども本人の将来、日本の未来に弊害を生む」と警鐘を鳴らし、一歩も引かない。この0~2歳の子どもと親に対する考え方の違いこそ、幼稚園魂と保育所魂の違いだと思う。この先、お互いが認定こども園になっても、その魂が消滅したり融合することはないだろうとも思う。
ドロドロの現実に直面し、そこから子どもを救いたいと願う保育園関係者の言い分はわかる。しかし多少無理をしても子どもと向き合い、子育ての苦労と喜びを大事にしている親がたくさんいる。その懸命な頑張りの方こそ社会・国家は応援すべきだと思う。日本の家庭教育はまだまだ健全なのだから。
20年前まで日本の子ども達は、65%が幼稚園に通っていた。それが今は55%になり、さらに減っていくだろうと予想されている。保育所の風だ。現実が幅を利かせる世知辛い時代とはいえ、子どもの世界までそんなことになっては余りに悲しい。幼稚園経営者は、認定こども園になっても理想の魂を守り続けてほしい。
居酒屋でこんな話を口にすると、インテリ官僚やエリート企業人は「古ぼけた考えだ」と鼻で笑う。その顔にビールをぶっかけたくなる。彼らの理想と現実は違う地平にあるのかも知れないが、子どもと親の本質に別の地平などあるはずがない。しかし、そのインテリとエリートが社会をコントロールしている。彼らにひと泡吹かせるには幼稚園と親が踏ん張るしかない。
2013年6月1日
私が初めてカラスに襲撃されたのは、東京世田谷・昭和女子大に勤めていた1990年の五月だった。夕暮れ時に人見記念講堂の裏を歩いていたら突然後頭部に衝撃を受けた。しかし一体何があったのかわからず、カラスならずキツネにつままれたような気がした。
一週間後の昼過ぎ、同じ場所でふたたび襲われた。今度は頭上を急上昇していくカラスが見えた。学内を聞いて回ると襲撃を受けた職員が何人も見つかった。時期はどれも五月、襲撃法は両足での跳び蹴りだとわかり学内に注意情報を出した。以来、私はカラス専門家と見られるようになった。
大学を退職した翌年の1996年から、私は14年間にわたって町内自治会の会長を務める羽目になった。カミさんからの要請だったが、2年後「もう辞めてくれ」との要請に応えなかったためカミさんは蒸発した。「蒸発の原因はほかにもある」と子ども達は言う。
自治会長の主な仕事とは①ゴミ置き場を荒らすカラス対策、②雪かき、騒音、路上駐車などをめぐるお隣同士の確執の仲裁、③自動車にひかれた猫の死骸の片付け、であった。私はふたたびカラス専門家として研究を深めることになった。
その結果、カラスは可愛い眼、表情をしていて人間とのニラメッコに弱いことがわかった。産卵からヒナが巣立つ四~六月が襲撃期で、この間は他のカラスも寄せ付けないため、森のエサ場を追われた若いカラス達が自治会のゴミ置き場に群がることもわかった。
カラスは何でも食べる。特に唐揚げ、ポテトチップなど油っこいものが大好きだ。生野菜は食べないがマヨネーズ、ドレッシングが付いていると食べる。食べ物のありかはゴミ袋を透かして眼で確認する。視力、洞察力は優れているが嗅覚は人間以下だそうだ。
魚の骨、野菜くずを含め食品ゴミは牛乳パックに入れるか新聞紙で何重にもくるんでガムテープで留めることを住民に徹底させ、ゴミステーションのネットを二重にした。とたんにカラスは姿を消した。見切り判断力も良いようである。
子どもと老婆がカラスに襲われたとの情報が入った。町内には森も高い木立もない。送電鉄塔に巣を作っていることがわかった。東京電力に撤去を依頼すると中年の男性社員が二人やってきた。ヘルメットに防護服の彼らと夫婦カラスの死闘はもの悲しいものであった。
カラスの夫婦は巣作りの三月からヒナが巣立つ六月まで一緒に行動する。オシドリ以上にオシドリ夫婦だという。七月から二月までは自由の身となるが、三月になるとまた同じ夫婦が仲良く暮らす。離婚も蒸発もないそうだ。年三分の一の夫婦生活だから続くのだと思う。
童謡「ななつの子」(野口雨情作詞・本居長世作曲)で歌われるようにカラスの夫婦は子育てを大事にしている。巣立ったヒナが上手にエサがとれるまで面倒を見ている。ただ、カラスは最大でも五つしか卵を産まない。ヒナはすぐに親と見分けがつかないほど大きくなるので、野口さんはたぶん、夫婦を含めた七羽を皆子どもと思ったのだろう。
もうひとつ。カラスの食事は朝一回だけで、余分な食糧は樹木の穴や空調機の裏など何カ所にも分けて備蓄する。カラスが賢いと言われる所以である。私など、メガネも本もどこに置いたのかすぐ忘れてしまう。そして人間と同じものを食べながら、一日一食主義のカラスに肥満体はいない。見習うべきであろう。
2013年5月1日
池袋の友人から「明治座の切符を2枚もらった。北島三郎ショーだ。いっしょに行こう」との誘いがあった。浜町の明治座、しかもサブちゃんと聞いて飛び上がった。当日の4月3日は電車が止まる嵐だったが、何とか滑り込んで弁当付き15000円の切符を無駄にせずに済んだ。
何を隠そう私、学生時代の3年間、北島三郎の専属バンド「野宮行夫とミュージックブラザーズ」でアルトサックスとクラリネットを吹いていた。40年前のことである。当時を知っている人は少ない。池袋の友人は貴重な1人だ。だから「お前しかいない」と誘ってくれたのである。
大学で初めて楽器に触った私が、どうしてサブちゃんバンドに入ったのか。それを語れば長編小説になる。死ぬまでには書いてみたいものだ。ともかく水前寺清子バンドで臨時楽団員をしていた時、楽屋に1人でいたサブちゃんを見かけ、「私も函館出身です」と挨拶したのが縁で翌日から北島バンドの一員になった。
1月は船橋ヘルスセンターと浅草国際、5月は長島温泉、7月は新宿コマ、8月は北海道巡業、9月は梅田コマ、11月は九州巡業、12月は御園座というのが当時の基本スケジュール。合間は地方公演で埋まり、テレビとレコーディングの時だけバンドは休業になった。歌手部門の納税トップを続けている時期で、売れっ子のサブちゃんだった。
とても学校に行っている暇はなかったが、時は70年安保のまっただ中、うまい具合に全共闘のバリケードストと大学側のロックアウトが繰り返されて、ほとんどの授業がレポート提出で単位をもらえた。旅館でレポートを書く私を、年輩の楽団員は一目置いてくれた。穏やかな人ばかりの演歌バンドだった。
しかし駆け出しの私が一人前の顔はできない。演奏のほか、旅館、鉄道切符、弁当、クリーニングの手配なども担当した。演奏は半人前以下だったが、こちらが重宝されて、卒業の頃、バンドマスターから「バンドマネージャーで残らないか」と口説かれた。
1973年、就職の厳しいオイルショックの年だったが、運良く横浜の広告代理店に就職が決まったので、入社式の前日までステージを務め、バンドマン生活から足を洗った。その代理店も1年後には飛び出したのだから、あのままバンドに残っていても面白かったと思う。
その後、北島三郎氏とは4度の接触があった。1977年、彼の息子達が卒園した中野区・野方学院幼稚部45周年祝賀会では私のことを覚えていて、「なんでお前が……」と驚いてくれた。でも2011年5月、松尾芸能大賞授賞式で会ったときは、すっかり忘れていた。
それでもバンドマスター・野宮さんの話を出すと、サブちゃんの顔は一瞬明るくなり、すぐに「野宮さん、死んじゃったよ」と沈んだ。10歳ほど年上だったバンドマスターとサブちゃんは仲良しだった。けなし合いながらじゃれ合っていた。
そんな私が、4月3日の明治座公演には腰を抜かした。舞台転換の早さ、登場人物の多さ、本物の漁船が現れて波を切って走る、クレーンに吊された鳳凰に乗って喜寿のサブちゃんが客席の上を飛ぶ……。40年前には考えられなかった演出が次々に繰り出された。
しかし冷静に考えれば、歌を聴くのにここまで大げさにする意味がわからない。オリンピックの開会式と同じ疑問である。東京オリンピックの可能性が萎んで寂しくもあるが、それはそれで良かったと思う気持ちもある。
2013年4月1日
私の好きなラジオ番組に、NHK第二「朗読の時間」(月~金9:45~10:00、再放送は土22:25~23:40)がある。ベテランの俳優や声優が文学作品を読むのである。3月前半は永井荷風(写真)の「アメリカ物語」だった。
荷風は文化勲章を受けた大文豪であるが、私は「墨東綺譚」「四畳半襖の下張」という発禁騒ぎの風俗小説しか読んだことがなく、文豪イメージは乏しかった。しかしラジオを聞いて「この人は面白い」と興味・共感がわいた。改めて荷風の作品を読んでみようと思い、図書館で「荷風全集」を探した。
その時ふと「永井荷風ひとり暮らしの贅沢」(新潮社)という本を見つけた。荷風は35歳の1915年から79歳で亡くなる1959年までの44年間、知人宅に身を寄せた戦後の一時期を除き、一人で暮らした。1946年から千葉県市川市に住んで浅草通いをしていたが、その頃の生活ぶり、散歩の風景などを記した本だった。
荷風の家は今も京成八幡駅から200メートルほどのところにある。京成八幡、JR本八幡の駅周辺は私にとって馴染みの街である。師匠・由田浩先生(故人)の富貴島幼稚園があり、もう一人の師匠・柴田夫先生(船橋市・健伸幼稚園)が育った土地であるからだ。しかし荷風のことは、二人の師匠から聞いたことがなかった。
そこで春分の日、本を片手に荷風が暮らした街並みを歩いてみた。見慣れた風景なのに、荷風が散歩した街だと思うと、にわかに文学浪漫が漂う雰囲気が出てくるから不思議なものである。
八幡小学校沿いの道が「荷風ノ散歩道」と呼ばれている。だが彼の散歩エリアは広大で、下総中山法華経寺、行徳橋、真間山弘法寺、手児奈霊堂あたりまで歩いていたという。私も、気がつくと5時間も歩いていて、電車で帰ってくることが時々ある。どこまでも歩き続けたい気持ちは何となくわかる気がする。
京成八幡駅前に「大黒屋」という老舗料亭がある。荷風はここのカツ丼が好きで、ほぼ毎日食べていたという。並カツ丼に熱燗一合と上新香を添えるのが常で、同じ席で同じ時間に同じものを食べた。亡くなる前日(4月29日)も食べたことが「断腸亭日記」に書かれている。
当時、荷風に酌をしたという女将は今も元気で、「大昔、22歳の頃の話よ」と手を振り、大相撲中継に見入っていた。
没後54年の今も、この定番は「荷風セット(1260円)」として大黒屋の看板メニューになっている。最後のカツ丼を食べ終えて自宅に帰った荷風は、日記をつけ、布団に入ってから亡くなったようだ。翌朝やってきた通いの家政婦さんに発見された。いい死に方である。
そんな最期にあやかりたいと私も荷風セットを食べた。美味しかった。日本酒一本では足りず、中生ジョッキも奮発した。「荷風セット・スペシャル」である。1947年、荷風は山形県の読者が送ってくれた吊し柿(ころ柿)で前歯を二本失っていたが、「あ、このカツ丼なら前歯がなくても食べられる」と思った。
▲これが中生ジョッキをプラスした「荷風セット・スペシャル」。
2013年3月1日
思わぬクリスマスプレゼントとなった「老人性鼠径ヘルニア(=脱腸)」。文字どおり断腸の思いで決断し、2013年2月19日(火)、隣町の済生会習志野病院で人生初めての手術を受けました。その体験の一部です。
入院初日の難関は下の毛の処理でした。不安とも違うモヤモヤ感の要因でもありました。その顔色を察して「どうします?自分でやりますか。でも後で私が念入りにチェックしますよ」と言うので、意を決して柴咲コウに似た看護士さんに身を委ねました。
ほとんど眠れなかった夜が明け、朝6時に浣腸。これまた初体験でした。「5分は我慢するのよ」との指示を守り、歯を食いしばって耐えました。トイレから出ると腸内を風が吹き抜け、と同時に得も言われぬ不安も吹き飛びました。
予定時間がずれ込み、立ち会いの娘・孫たちに見送られて手術室に入ったのは14時10分。大きなドアが両側にバーンと開き、さらにもうひとつのドアがバーンと開いて、天井に丸いライトが煌々と灯る手術室が現れました。
男5人、女4人の手術スタッフが全裸の私を見下ろして順に挨拶してくれます。思わず「おお、ベンケーシーの患者役になった感じです」と言ったのですが、1960年代の米TVドラマを知っている人は誰もいませんでした。皆、30代だったのです。仰向けながらも、医療現場を支える若者の奮闘に頭が下がりました。
「カッコいい外科医でしたよ。当時のベン・ケーシー(写真=ビンセント・エドワーズ)も30代だったと思います」の言葉に、執刀のU医師は気をよくしてくれたようです。しかし手術は長引きました。
45~60分と聞いていたのに90分たっても終わりません。何かあったとき、本人に代わって意思表示できる血縁代表として待機していた娘は、「何かあったに違いない」と覚悟したそうです。手術室から運び出されたのは16時20分。2時間10分の手術でした。
宿主同様、気の小さい脱腸くんが奥に隠れたため、腹筋の裂け目を特定するのに時間がかかったようです。「お腹に力を入れて」「咳をしてみて」と言われても麻酔で感覚のない身体には無理な話。ようやく「あ、ここだ」の声を聞いたときはホッとしました。
裂け目の内側に平たい樹脂板とメッシュシートを差し込み、腸の出入りを遮断するというのが手術の内容です。18時頃から麻酔が切れ、お腹の傷口が痛み始めました。耐えられなかったのは麻酔を打った背中の傷口。床ずれ症状も加わって、夜中に二度、痛み止めの点滴を懇願しました。自分の情けなさに呆れました。
「院内感染には万全を期している」とのことで、連日孫たちがお見舞いに来てくれたのは嬉しいことでしたが、病棟の広い廊下を元気に走り回ってくれるのでハラハラし通しでした。手術から三日目の午後、大急ぎで退院し、我が家の寝袋にもぐり込んだ時、ようやく安堵感に浸り、翌日の朝までドロのように眠りました。
鼠径ヘルニアは、60歳以上の男子が毎年約15万人手術しているそうです。500人に1人の確率です。該当年齢の方はくれぐれも“年寄りの冷や水”をしないようご留意ください。
▲上の写真はイメージです。手術室には裸の身体以外何も持ち込めませんのでカメラ撮影はできませんでした。私のときは研修医を含め計9人のスタッフがいました。
2012年11月25日
このところ「大丈夫ですか?」という眼差しで私を見る人が増えたような気がします。少しやつれたせいかも知れません。実は6月からの半年で体重が12キロ減りました(75→63)。「最後のリクエスト」ならぬ「最後のダイエット」を行った次第です。
最初のダイエットは上京したばかりの18歳のとき。1ヶ月で20キロ減りました(80→60)。特別なことをしたわけではなく、学生寮の朝夕の盛り切り食事だけで暮らした結果でした。二回目は42歳の厄年のときで、これは当時流行のゆで卵ダイエットでした。2ヶ月で20キロ減りました(78→58)。私のダイエットは20年は効果が続くようなので、今回がおそらく人生最後というわけです。
といって何か新しいことをしたわけではありません。2005年元旦から続けている「一日一食主義」の一食を朝から夕に変更しただけです。当時は「早寝早起き朝ご飯」運動の最中でしたから朝一食にしたのですが、朝ご飯をしっかり食べるとお昼にお腹が空きます。幼稚園に出かけて給食の残りなどをご馳走されると、ついペロリと食べてしまったのです。
夜は夜で、飲み会などにつき合うことも多く、「一日一食主義」なのに、なぜかジワジワと体重が増えて洋服がきつくなってきたのです。「これは大変、何とかしなくては」と思っているところに出会ったのが、漢方医・石原結實さんの『食べない健康法』(PHP文庫=写真)でした。
石原さんは「大人は食べない方が健康になる。朝はお茶だけ、昼は掛け蕎麦、そして夕にしっかり食べればいい」と説きます。書いてある理屈が説得力に満ちていたので、さっそく試してみました。朝メシを食べずに昼まで我慢すると、あら不思議、お腹が空きません。昼も食べずに我慢すると、夕食は茶碗一杯のご飯と味噌汁、それに日本酒二合と塩辛少々で十分だとわかりました。
そもそも「一日一食主義」にしたのは、NPO法人ネットワーク地球村の高木善之代表(写真)から「人間が一日一食にしたら、食糧問題、エネルギー問題、地球環境問題、医療問題などが一気に片づく」と説得され、「風呂は週に一回」といっしょに約束させられたのです。「食風呂一体改革」です。
日本で一日に廃棄される加工済み食糧は、コンビニ、ホテル、飲食店を中心に2000万食(一食200グラム換算)にも及ぶそうです。日本の大人がみんな一日一食にすれば、廃棄量は半分くらいまで減ると見込まれます。それでもまだ膨大な量ではありますが……。
高木さんは「一日に三食必要なのは子どもだけ。大人は一食で十分。還暦を過ぎれば二日に一食でもいい。カラスは朝飯だけ。ライオンは週に一食で元気に生きている。だから野生動物に肥満はいない」と言います。それでカラスを真似したわけですが、昼飯、飲み会の誘惑に負けた私はカラス以下の人間でした。
実は「風呂は週に一回」の約束も守れず、恥ずかしながら内緒で週に2~3回も湯浴みしています。でも石原さんのおかげで「一日一食主義」は8年目でようやく実現できることになりました。ここ半年、同じ食生活なのに12キロ減でピタリと止まったところを見ると、やはり年寄りは一日一食で十分ということのようです。
2012年10月27日
北海道で18年、東京(大森)で2年、横浜で3年、千葉で32年、名古屋で2年、再び千葉で5年。これが私の62年間の人生です。千葉で合計37年。生まれ育った北海道への郷愁は強くとも、今は千葉が一番の故郷。だからマリーンズとジェフとレイソルが好きです。
千葉人になった当初は、休みが続くと海へ山へと自動車を走らせ、民宿に泊まったりテントを張って千葉の旅を楽しみました。養老渓谷では夫婦そろって「凶」を引いたこともありました。しかし最近はすっかりご無沙汰で、買い物や映画で千葉駅まで出かける機会も減りました。
そこで「今日は1日中晴れます」とラジオが言った秋の日曜、思い立って房総半島を一周しました。総武線→外房線→内房線をめぐる鈍行列車の旅です。「うらやましい、私もやってみたい」という幕張本郷の女性駅長の見送りを得て、始発の千葉行きに乗りました。
最初の下車駅は御宿。メキシコ風のビーチタウンです。子ども二人が小学生の頃、毎年やってきて二泊か三泊し、朝から晩まで水着で過ごしました。いつも利用した「民宿・金井」は、サーファーの自炊宿になっていましたが、当時と同じ建物でした。
どうして御宿はメキシコ風なのか。それは1609年9月、メキシコへ向かうスペイン船が太平洋で難破して御宿海岸に漂着。村の人々が300人余のメキシコ人乗組員を救出したドラマがあるからです。その恩義を大事にして、今も御宿町とメキシコ国は深い絆で結ばれています。
救出の様子を再現した絵(写真)が歴史資料館に展示してあります。村の女たちは乳房もあらわにメキシコ人を抱きしめ、体を温めています。まさに地獄で裸の女神に出会ったわけで、メキシコの人々が永遠の恩義を感じたのも、けだし当然です。
御宿にはもうひとつ「月の砂漠」伝説がありますが、少々恥ずかしくて目を伏せます。詩人・加藤まさをが御宿の小さな砂浜からアラブの砂漠をイメージしたとしても、何もラクダに乗る王子・王女の像を建てたり、巨大な「月の砂漠記念館」まで建造することはなかろうに、と思います。
次に下車したのは安房鴨川駅。鴨川市の野球場はマリーンズの秋季キャンプや二軍の試合場として利用されています。街のあちこちにマリーンズの旗や文字が見られ、市役所のロビーにはマリーンズコーナーがありました。来年はがんばってもらいたいです。
その次に下車したのは房総半島の突端、館山駅です。海岸寄りの駅裏にはスナック、居酒屋が連なる歓楽街があり、古い旅館も並んでいます。浅田次郎の小説「ラブレター」の中国人妻は、この路地で暮らし、ひっそりと息を引き取りました。ネオン街はどこも寂しい街です。
最後の木更津はひどい夕立になり、駅から一歩も出ることができませんでしたが、雨を眺めながら「毎年1度は房総を一周しよう」と決意しました。できれば孫たちを道連れに、彼らの親の昔話でもしながら廻りたいものです。
▲写真:中央は千葉県のマスコット・チーバくん。県内の幼稚園で絶大な人気を誇るご当地キャラクターだ。その姿を横から見ると千葉県の形をしている。右は生まれも育ちも千葉県の船橋市・健伸幼稚園の柴田夫理事長。
2012年9月29日
2012年9月4日(火)、ワールドカップサッカーの準決勝を東京千駄ヶ谷の国立競技場で観ました。20歳以下の女子サッカーですが、痩せても枯れてもFIFA主催の正式大会です。わが生涯で、最初で最後の(たぶん)ワールドカップになりました。
ワールドカップには少なからぬ恩義があります。2002年の日韓大会のとき、「よし、この大会が終わるまで禁煙しよう」と半ば冗談で始めたら、あっさりとやり通せたのです。以来10年間、ただの1本も吸っていません。その感謝の気持ちを込めた観戦でもありました。
千駄ヶ谷駅から競技場に向かう道、すぐ前を、JAPANのネオンが点滅するシルクハットをかぶった紳士(写真)が歩いていました。板橋からやってきた78歳は唐突に「このネオンはね、単三乾電池2本で光っているんだよ」と教えてくれました。電池関係のお仕事かも知れません。
「女子の応援は8試合目ですが、サッカー応援歴は8年です。海外にも何度も行きました」とも老紳士は胸を張りました。ユニフォームには「中田」、シルクハットには「中村」の文字。どちらも年季が入っているのです。拍手を送り、握手をして入り口で分かれました。
彼は4000円、私は2000円の席だったからです。甲子園の高校野球なら準決勝2試合はネット裏で1600円ですからサッカーの方が割高です。でもワールドカップだから仕方ありません。その微妙に安い自由席に、この日の相棒・田代茂さん(ハッピーフォトコム代表=写真)がやって来ました。
スタンド応援は初めての田代さんですが、サッカーファンの傾向、競技場の様子を社会学的に分析してくれました。彼は私と同じ法大社会学部社会学科の4年後輩です。70年安保のおかげで私はほとんど学校に行かずに済みましたが、彼はそれなりに勉強したようです。
この写真を送ったら、「我が身の年齢を改めて感じました」とのメール返信でした。でも彼は16年前に初めて出会ったときからこの顔で、最初は私よりずっと年上だと思っていました。「老け顔」だったのです。逆に「16年間、私は全然変わっていない」と自信を持ってもらいたいものです。
競技場での一番の印象は、第1試合、アメリカと戦って破れたナイジェリアの応援団でした。約2時間、休憩の間も10人ほどの楽団が切れ目なく演奏し、周りの人々は歌い続けたのです。楽団は試合後も、第2試合が終わるまで駅前で演奏したそうです。恐るべしナイジェリア!。
日本は3対0でドイツに負けました。開始1分の失点が、文字どおり足並みの乱れを呼んだようでした。でも4日後の三位決定戦は強力応援団のナイジェリアに勝ち、準決勝を辛勝したアメリカがドイツを圧倒しました。いつの世も勝負の世界は紙一重です。
このところ幼稚園の様子で変わったこと。それはサッカーボールを蹴り合う女子が増えたことです。しかもパスもドリブルもシュートも男子より上手。小学生のサッカークラブでも女子の姿がどんどん増えています。「女子サッカーの時代」が着実に広がっています。
2012年8月29日
今年も8月9~11日、甲子園に行ってきました。「誕生日(8月10日)を甲子園で迎える」という一人イベントを断続的に始めたのが昭和女子大在職中の1990年。毎年来るのはままならず、実現したのは今年でちょうど10回目。62歳の誕生日は薄曇りのバックネット裏でした。
ネット裏から内野席に張り出す銀傘下が中央特別自由席(1600円)。以前はネットの真裏、NHKテレビ中継席の脇に陣取ったものですが、今は報道関係者に占拠されて入れません。一度『月刊・私立幼稚園』のプレスバッチを付けて入ってみようかと思うのですが、勇気が出ません。
そこで私の定席は、少し一塁側に寄って、バックネットの端と選手ベンチの間の後方、2段目通路から上に5列目と決めています。スクイズ気配のとき三塁走者の様子がよく見える位置です。何より、朝から夕方まで決して日差しが入ってこない席なのです。
「甲子園は暑いんでしょ」とよく聞かれます。ところが浜風が一日中吹き渡るので、銀傘の下は、大げさでなく涼しいくらいです。日差しを浴びるアルプス応援席、外野席も「それほど暑くない」と経験者は言います。でも私は外野席観戦の勇気は出ません。
いつもは一人無言で4試合、約10時間を過ごしますが、今年は連れがいました。幼稚園専門プロカメラマン・河口正馬氏(58=写真)です。甲子園初体験の彼、カンカン照りの外野席に座ると思ったらしく、日本手ぬぐいの頬かむりに麦わら帽子の重装備。涼しさに拍子抜けのようでした。
本当はもう一人連れがいる予定でした。東京都・御苑学園幼児ルームの仲田安津子園長(81)です。「甲子園が大好き。死ぬまでに一度見たい。連れてって」と頼まれ引き受けましたが、どこまでいっても男と女、妙な噂が立ってもいけないと正馬氏に同行をお願いしたのでした。
しかし仲田先生、その後予定が立て込み、卒園児キャンプと日程がつながってしまったこともあり、「この日程では体が持たない。今回は断念します」との電話が、キャンプ宿舎の洗濯場から前夜にありました。負けず嫌いの頑張り屋なのでさぞかし悔しかったことでしょう。(写真は右が仲田先生。左は小生)
50代前半までは、仕事のあと9日の夜行バスに乗り込み、10日は甲子園の4試合と梅田でビール。そして夜行バスで11日に朝帰り。そのまま仕事に復帰という強行軍をしていました。何とか持ちこたえましたが、若かったからなのでしょう。しめて往復1万円の旅でした。
今は「青春18キップ」。9日は夜明けからJR普通列車を乗り継いで15時頃に天満橋か尼崎のホテルに入ります。10日はたっぷり甲子園。11日は午前中2試合を見てから千葉の自宅に深夜帰着。交通費は往復4500円。でもホテル代が2泊で1万円かかるので贅沢になりました。仲田先生がもし同行してくれれば「青春81キップ」の洒落ができたのですが、これがちょっと残念でした。
今回は帰路の11日、名古屋と浜松の豪雨で列車がベタ遅れ、やむなく臨時夜行普通列車「ムーンライトながら」を利用しました。夜行も浜松到着が2時間半遅れたのですが、東京には30分遅れの朝5時半に着きました。昔の特急車両とはいえ新幹線並のスピードで走る普通列車はスリル満点でした。
私は八戸が好きです。我が子二人が卒園した幼稚園と同じ名前の千葉幼稚園(千葉多香子園長)があるからです。いちご煮も煎餅汁も大好きです。でも八戸市の青森光星学院は三度目の決勝戦も大阪桐蔭に負けました。どこか虚ろな2012年の甲子園でした。
2012年7月31日
2009年1月、2010年1月、2011年11月、2012年4月と息子の嫁と娘の腹から毎年交互に子どもが生まれ、あっという間に4人の孫持ちになりました。嫁から男2人、娘から女2人と偏りましたが、爺ちゃんにはバランスがとれています。
最初の孫は大寒の日、私が大分出張中に生まれました。だから名前には「大」を入れたらどうかと提案し「侑大」となりました。
二番目は岩手県・花巻出張中だったので「愛花(まなか)」となりました。全日私幼連の「こどもがま(ん)なかPJ」が始まった頃でもありました。
三番目は私が京都から大阪に移動した直後に生まれました。やっぱり「大」がつくのかなと思ったら、息子はそのこじつけを嫌ったようで、すばやく「舜」とつけました。おかげで私と同じ「SK」のイニシャルになりました。
四番目は予定日から2週間遅れても生まれず、長野善光寺で「もうそろそろお願いします」と祈っている最中に「いま生まれた、フゥー」と息も絶え絶えのメールが届きました。「良かった」と喜ぶ前に、分娩台でも携帯を離さない娘の根性に感心しました。
名前は「長野善光寺」から一字もらおうかと考えましたが、「イニシャルをお姉ちゃんと同じMにしてほしい」とマリーンズ命の娘に言われ、「姉妹まったく同じ顔をしているので名前にも共有の字を入れてほしい」と父親に言われ、「季花(ももか)」としました。
この名前は、娘と同じ1月12日生まれの船橋市・冨士見幼稚園の松澤季子(ももこ)園長から頂戴しました。ちなみに娘の名前「芳衣(よしえ)」は船橋市・健伸幼稚園の柴田衣子(きぬこ)園長から頂戴したものです。
しかし悲しいかな孫たちの名前を一発で言い当てることができません。そこでやむなく上から順に「孫1号」…「孫4号」と呼んでいます。「1号!」と呼んで、「ハイ」という返事が返ってくる日を楽しみにしています。
私は千葉市、息子は隣の船橋市、娘はその隣の鎌ヶ谷市に住んでいます。でも距離は近く、同じ幼稚園の通園圏でもあるので、孫は4人とも健伸幼稚園に通う予定です。1号はいま年少です。
ほんの数年前まで、自分がこんなふうに孫の話をする爺バカになるとは思ってもいませんでした。ところが立派な爺バカになりました。わが家のキッチンの壁には400枚余の孫の写真が貼ってあります。もはや狂気の爺バカです。
でも、輝ける「爺ちゃん」の称号は、もう一人の爺ちゃんに差し上げ、私は「グランパ」と呼んでもらっています。高橋真梨子が歌う「頑固な唇でウィンク上手」なグランパです。だから私の場合は「爺バカ」でなく「グラバカ」です。
1号は気持ちよく「グランパ!」と呼んでくれますが、2号は抵抗があるのか受けをねらってか「ハナガッパ!」と呼んでくれます。こちらも最初は抵抗ありましたが、今は「ハナガッパ」と呼ばれて「ハイヨ~」と返事するグランパです。
孫を持ってわかったことは、母親は子どもがお腹に宿ったときから「この子をどの幼稚園に入れようか」と考えていることです。そして赤ちゃんを抱いて来て、月に1度でも園長先生から「あら、可愛いね」と言われると、子育ての苦労が吹っ飛ぶそうです。そんな視点と愛情をもった幼稚園であってほしいと願っています。
2012年01月18日(水)晴れ
8年ぶりに新田塚幼稚園(荒川周學理事長、荒川慈文園長)を訪ねた。物静かな理事長、福井私幼連のバンドでボーカルを受け持つ園長。対照的な親子だが、この二人が旅をするとインド人親子と間違われることが多いという。真宗本願寺派興行寺の住職でもあり、お釈迦様の教えを色濃く受け継いでいる証といえよう。
そしてこのエキゾチックな親子は、年季の入ったタイガースファンでもある。かくいう私は非公式ながらマリーンズファンクラブ幕張本郷支部長である。8年前、「おたがい、いつもBクラスで、イライラすることもなくて気楽ですね」と同病相憐れんだが、あろうことか翌2005年、この両チームは日本シリーズで激突し、カモメ球団が4連勝で虎球団をちぎって投げた。
だから二人の顔を見るなり、「その節は愛想のないことをして申し訳ありませんでした」と頭を下げたが、二人は「何のこっちゃ、もう忘れた」という顔をしてくれた。7年間のしこりが氷解した。そんなタイガースの幼稚園だが、先生たちはトレーナーの腕に「がんばれ東北!イーグルス」のワッペンをつけ、被災地の復興支援に心を馳せていた。我が身の心の狭さを恥じいり、恐れ入ってしまった。
さて同園は、どこを見てもインテリア感覚にあふれた幼稚園である。自転車、椅子、ミルク缶などのガラクタを見つけてきては、色を塗ったり草木を添えて味わいのあるオブジェに生き返らせる。園長の好みで始めたものだが、先生方にもそのセンスが広がり、今や幼稚園全体が美術館の趣を湛えている。この光景と感覚が、子どもたちの体に知らず知らず染み込み、将来、有能なデザイナー、インテリアコーディネイターがたくさん輩出することと思う。
それより同園の教育でもっと肝心なことは、親鸞の教えにある「ご聴聞」だ。自分の心の声を素直に聞き、それを人にありのまま話すことである。複雑な心を持つ人間にとって、これは容易なことではないが、それを先生と子どもたち、そして保護者が実践し、日々、心を洗い清めているという。たまたま覗いた年長児のクラスでその一端を見ることができた。その内容は後日掲載の『月刊・私立幼稚園』記事を楽しみにしてもらいたい。
いつのまにかお昼になり、三人で食事に出ることになった。ちょっと洒落た和食レストランに入り「これはけっこう高そうだな」と思ったが、このランチセットが880円だった。「福井県は幸福度が日本一高い県」とは聞いていたが、まさにそれを実感したランチだった。