全日私幼連総会と歴代文科相三人と震災義援金

2011年5月25日(水)

 東京市ヶ谷・私学会館で行われた全日本私立幼稚園連合会(香川敬会長)の総会に出かけました。年に1回の総会なので、例年ならあちこちで久しぶりの挨拶が交わされるなど多少華やいだ雰囲気を感ずるものですが、今年はやはり通夜のようなムードでした。

★私立幼稚園の死者不明は82人

 東日本大震災で、私立幼稚園は園児・教職員の死者行方不明者が計82人(うち園児76人)、園舎施設の損壊が707園(うち全壊または流出が13園)という被害を受けたのですから仕方ありません。

 毎年、総会に出かける関心のひとつに来賓の顔ぶれがあります。今年は高木義明文科相が国会答弁のため事務次官の代理出席となりました。そのためSPや大手メディアの姿はありませんでしたが、全日私幼PTA連合会の河村建夫会長(自民党衆議院議員・元文科相)、民主党私学振興推進議員連盟の川端達夫会長代行(衆議院議員・前文科相)、自民党幼児教育議員連盟の中曽根弘文会長(参議院議員・元文相)の歴代大臣三人が並びました。

 三氏の挨拶は、当然ながら震災に関する内容が中心でしたが、それ以外について語った部分を紹介しましょう。

★民主党代表は幼保一体化に触れず

11052501_4  河村建夫氏は、全日私幼連が長期計画で推進する「こどもがまんなかプロジェクト」をPTAとして全面的にバックアップしていくことを述べたうえで、幼保一体化については「学校教育法の改正で、最初の学校が幼稚園と明確に位置づけられた。この意図が正しく理解され、そしてこれを生かす活動を展開していく」と述べました。

11052501_5  川端達夫氏の話はすべて震災がらみでしたが、その中でこんなエピソードがありました。「関西人(滋賀県選出)なので阪神淡路大震災の教訓から、あの時以来、我が家ではラジオ、スリッパなどの入った防災袋を用意してきました。ところが今回、それが見つからなかった。ようやく押入の奥からほとんど空の状態で見つかりましたが、“これは何だ?”と考えました。憂いの意識が薄れていたのです。“備えあれば憂いなし”ではなく“憂いなければ備えなし”が正しいのだと知りました」

11052501_6  自民党の参議院議員会長でもある中曽根弘文氏は「50年ぶりに改正された教育基本法は家庭教育、私学教育、幼児教育を重点にしていますが、民主党の幼保一体化構想はそれをないがしろにしている。子どもの立場を第一に考えるべきですし、教育の質が低下することがあってはなりません。政権交代で棚上げされましたが、自民党は幼児教育の無償化で議論を積み上げてきました。これを実現させるためにも政権復帰を目指していきます」と述べました。

 つまり自民党の二人が、法体系と理念から幼保一体化問題を取り上げたのに対して、民主党の代表はこの問題に一切触れませんでした。民主党政権の密室体質と思慮の浅薄さがここでもまた明らかになったと言えます。

★義援金の動きにも時代の変化が

 来賓が引き上げた後の総会では震災義援金の使い方について議論がありました。各幼稚園から都道府県団体経由で全日私幼連に集まった約4億6千万円の義援金を、すべて私立幼稚園関係で使っていいのか、という問題でした。

 幼稚園の募金箱にお金を入れてくれた園児や保護者の気持ちには、私立幼稚園だけでなく、もっと幅広く使ってほしいとの願いがあったのではないかとの指摘です。

 最終的にこの意見は、①募金の趣旨が明確であったこと、②これまでも同じ形で行われてきたこと、③他の業界団体でも対象限定化は一般的であること、などの点から支持されず執行部提案が承認されましたが、私にはこのこと以上に気になったことがありました。

 それは、16年前の阪神淡路大震災ではたちまち5億円の義援金が集まったのに、それよりずっと被害規模が大きい今回が4億6千万円にとどまったことです。

 2度の中越地震を含めると、この16年間に4度の国内大震災があり、スマトラ沖、中国四川省、ハイチ、チリ、ニュージーランドと海外での大震災が相次ぎ、そのほかにも噴火、大雨などの被害が何度もあって、そのたびに私立幼稚園は保護者、職員に義援金を呼びかけてきました。それがいつしか“義援金慣れ”的な意識を生んでいたのかも知れません。

 あるいは逆に、余りの被害の大きさに身がすくみ「義援金だけでいいのだろうか?」という思いが強まって思い悩んだのかも知れません。などと考えていました。

 ところがいくつかの県団体事務局で訊いてみると、集まった義援金の半分を全日私幼連に届けて、残り半分は直接被害のあった県団体に届けたというケースがあることがわかりました。県団体同士の交流があったり、過去に直接支援してもらったことがあったなどの事情があったからのようです。

 つまり私立幼稚園に集まった義援金は、全日私幼連が公表している金額よりはるかに多いと察することができ、ちょっとホッとしました。それと同時に感じたこともありました。それは、民主党政権になってから「政府は信頼できない」という国民の意識が高まったわけですが、同じ図式で「中央組織、全国組織は信頼できない」という意識が底流に広がっているのではないかということです。

 幼稚園情報センターにも「被災した幼稚園を自分たちでこんな形で応援したい。それを受け入れてくれる幼稚園を教えてほしい」という要請がいくつもありました。組織や機関を介さず、直にお互いの気持ちをつなげたいという意識です。これもまたインターネット時代の変化なのかも知れません。

※全日私幼連総会での香川会長、吉田敬岳前会長の挨拶は幼稚園情報センター・私幼ヘッドラインに掲載しました。


桜岡勝弘とオデンと日本航空

2011年4月25日(月)

 「歌に思い出が寄り添い……」は中西良氏の名文句だが、私の場合は「食べ物に思い出が寄り添う」である。冷やし中華を食べるときは娘を思い出し、ラーメンは息子でカレーライスは長崎の友人の顔が、皿や丼の中に必ず浮かんでくる。

 4月も末だというのに、この日、関東はえらく冷え込んだ。しかし掃除して片づけた石油ストーブをまた引っ張り出すわけにもいかず、夕飯は毛布をかぶってオデンで一杯やることにした。オデンの土鍋からは北海道旭川市・さくらおか幼稚園の桜岡勝弘理事長の姿が浮かんできた。真夏でもオデンが好きな人で、それも東京湯島の老舗「こなから」のオデンに目がない人である。だからオデンを食べると必ずこの先生を思い出す。

11011402  写真の二人は、右が桜岡先生で左が不肖編集長。二人の共通点はふたつある。ひとつは同じ町内で育った仲間ということ。ともに旭川市立向陵小学校を卒業した(桜岡先生の方が3年後輩)同窓の間柄でもある。

 当時はまださくらおか幼稚園はできていなかったが、私はその建設予定地の筋向かいにあった旭町ストアの裏長屋に住んでいた。50年前のことだ。ストアの建物は今も当時のままだが、中は飲み屋が数軒という寂しい状態。その向かいの銭湯「明和湯」が昔のまま営業しているのは嬉しい。ここに戻ってくると50年前が昨日のことのように蘇る。

 もうひとつの共通点は旅好き。それも、二人とも放浪の一人旅派であることだ。ただ、編集長がいくつになっても青春18切符を愛する超スロー&飲まず食わずのエコノミー型なのに対して、桜岡先生は飛行機でビュンビュン飛び回り、美味しいモノをゆったり味わうクイック&グルメ型である。だから東京までオデンを食べに来たりする。

110114  もう1枚の写真は、左が埼玉県新座市・第一新座幼稚園の竹内勘次園長。この二人にも共通点が二つある。ひとつは私立幼稚園の二代目経営者ということ。もうひとつは道灌山幼稚園教員養成学校で机を並べた同窓の間柄ということだ。

 ほかの道に進むつもりでいたが、結局、親が創設した幼稚園を手伝うことになり、道灌山で幼稚園教員免許を取り直した後継者はたくさんいる。だから各地の研修会で同窓の仲間に出会えるのも、桜岡先生の旅の楽しみのひとつである。

 そんな桜岡先生の空の旅を支えてくれるのが日本航空。しかし日本航空は今、最大の経営危機を迎えていて、いつ失速墜落するかわからない状態にあると言われる。そこで桜岡先生は「さんざんお世話になったJALを救うために私も何かをしなくては」と敢然と立ち上がった。

 さて桜岡先生はどんな支援策に乗り出したのか。それはいかにも幼稚園経営者らしいことではあるが、誰もが「エエッ!まさか……」と驚くことでもある。詳しくはウェブマガジン『月刊・私立幼稚園』のコラム「日本航空のピンチを救え」をご覧いただきたい。

※ウェブマガジン『月刊・私立幼稚園』は幼稚園情報センターHPからログインしてください。ログイン情報が不明の方、新たにご希望の方はメール(kataoka_susumu@yochien-joho.com)でご連絡ください。


今回の大震災で学ぶべきことは何か

2011年3月20日(日)

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 2月10・11日に神戸に行きました。訪ねた二つの幼稚園で聴いた年長さんの歌はどちらも「しあわせ運べるように」でした。16年前の阪神淡路大震災で傷ついた人々が、助け合って歩んできた姿を歌ったものです。

  震災を知らない子ども達ですが、歌には気持ちがこもっていて、実際にその姿を目の前で見ていながら、とても幼稚園児が歌っているとは思えませんでした。歌うたびに父母、祖父母らが涙する様子から地震の怖さ悲しさを、自分の心で感じてきたのだと思います。

 その1ヶ月後に起きた東北関東大震災。私は前日まで岩手・青森を放浪していながら難を逃れました。そこで出会った先生、子ども達の笑顔を思い出すと気がとがめてなりません。

  オーバーの襟を立て、背中を丸め、路地の角で私の後ろ姿をずっと見送ってくれた老骨の園長さん。駅まで自動車で送ってくれた副園長さんは、寒い中、窓を全開にして「また来てね!」と大きく手を振ってくれました。

  この痛みは死ぬまで持ち続けていきたいと思います。駅前通りの薄明かり、広々としたスーパーマーケット、銭湯通いの風流、一汁一飯の爽やかさ、これらの光景も決して忘れまいと思います。

 今回の自然災害が示した天の啓示は「おまえ達は大切な資源を見失っている。日本人には節約こそが最大の資源だ。それを思い出せ」ということだろうと自分なりに解釈しました。慎ましく生きていくことです。多くの命を犠牲にして届けられた啓示でもあります。それを実践し、伝えるために残りの命を捧げたいと思います。


健伸幼稚園・只野誠志と宮城松島の悲劇

2010年3月31日

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 写真は千葉県健伸幼稚園の男性スタッフ陣。親睦を兼ねた他園見学&バス内研修に出かけたときの1枚だ。写っていない人があと2人いるので計10人、相変わらず男の多い幼稚園である。

 「個性的な幼稚園をつくりたい」という柴田夫理事長(写真右端)の願いで創設されてから40年。個性的なもののひとつに“男のダイナミックさ”もあり、男性教員の多い幼稚園の草分けとなった。

 この日、大型バスを借り切って50人余の先生方が向かった先は日本三景のひとつ、宮城県松島だったが、そこでひとつの悲劇が生まれた。悲劇を招いたのは後列中央で唯一ネクタイをしている只野誠志副園長だった。

一体どんな悲劇だったのか、詳しくはウェブマガジン『月刊・私立幼稚園』のコラム「ああ松島や、スリッパの悲劇」をご覧ください。


池田茂雄と雪の長野と野沢菜漬

2010年3月9日(火)

長野市を訪ねた。天気予報のとおり、新幹線を降りたとき長野市は雪だった。「やっぱり風情があるな」などと感じている場合ではなく、駅から県庁まで歩く間に遭難してしまうのではないかと思ったほどの大雪だった。

そんな中で開かれた長野県私立幼稚園連合会の総会に、松本市・ささべ幼稚園の池田茂雄理事長(元・全日本私立幼稚園連合会副会長)が来ていた。5年前に死んだ私の父親と同い年であり、心配停止の緊急事態を何度も経験した人である。

Photo 「まさかここで先生にお会いできるとは思いませんでした」と言うと、「おまえさんが顔を出すと聞いたら来ないわけにはいかんだろう」との答え。嬉しい話である。(写真は左が池田先生、右が不肖小生)

足腰と酒量はやや弱ったようだが、池田先生は元気だった。ビールも焼酎も旨そうに飲んだ。記憶力にも衰えはなく、私学振興助成法成立当時の裏話はもちろん、代々木の居酒屋、事務局台所での料理教室のことなどを克明に覚えていて、「ええ!そうだったんですか」と30年ぶりに知った新事実がいくつもあった。

大雪でも高速バスが動いていることを確認すると池田先生は、二次会の途中でバスに乗り込んだ。翌朝のニュースで、バスが遭難したとの話はなかったのでホッとした。

100309 ところで長野といえば野沢菜漬け。これを食べずに帰るわけには行かないと思っていたら、懇親会後の二次会から流れたとあるスナックのカウンターに座ると、当たり前のようにこんな付け出しが出てきた。これで安心して帰ることができた。


田代茂と「志むら」北海丼と鰻重

2010年2月26日(木)

Photo   これまでの約60年の人生で、あちこち訪ね歩いた飲食店は数知れず。しかし私が一番好きな店は、やはり長年親しんでいる我が町の定食割烹「志むら」である。料理は何でも旨いしビールの冷やし具合も絶妙だ。店主夫妻の愛想はいいし、夜だけ手伝っている娘二人の愛想も悪くはない。何より一家揃って千葉マリーンズの大ファンというのが嬉しい。

  しかし美味しいだけあって安くはない。何しろ、さくら水産なら500円でご飯も味噌汁も生卵も食べ放題のサバ味噌煮定食が、ご飯盛り切りで1000円だ。だからちょっと食べて飲むと1人4000円くらいかかってしまう。この店で毎日ビールと晩飯を食べる独居老人もいるようだが、私はそんな望みは叶わないので、誰か友人・知人あるいは家族が遊びに来たときだけ暖簾をくぐるようにしている。

100226   1ヶ月余りもそんな客がなくて、「志むら」禁断症状が起きかかっていたこの日、法大後輩の田代茂氏から「ご機嫌伺いに出向きます。志むらで昼飯を食べましょう」と連絡があった。持つべきものは後輩である。

  2008年秋にNECから脱サラした田代氏は、(有)ハッピーフォトコムという会社を立ち上げ、撮影・整理・提供・管理など幼稚園での写真に関する総合サポートを仕事にしている。

  その田代氏が注文したのは「志むら」一番人気の北海丼。どんぶり飯の上にウニやホタテ貝がたっぷり載った豪華版の1780円だ。

100226   たしかに美味しいが、私はあまりこれを食べない。ここ20年で2度ほどしか頼んだ記憶がない。閉店間際のスーパーで500円の刺身盛り合わせを買って帰れば家でもできる気がするし、函館育ちの身にとっては、子どもの頃、ウニもホタテもタダで山ほど食べた記憶が強いせいかもしれない。

100226_2   だから奮発したときに頼むのは二番人気の「鰻重」である。同じく1780円だが、私には2000円以上の価値を感ずる。ちなみに同店の三番人気は、やはり1780円のエビフライ定食だが、これは本場・名古屋人も「エビフリャー!」と腰を抜かす。

  ところでこの田代さん、私と同じように各地の幼稚園を訪ね歩いているが、私とはまったく違う視点を持っている。このときも「片岡さん、私立幼稚園経営者で一番のお金持ちは○○先生ですよ。だって乗ってる自動車が凄いし、身につけているものはどれも超特上です」と教えてくれ、私を唖然とさせてくれた。

  「なるほどそんな見方もあるかな」と感心もするが、しかし私は過去に一度、それこそ先祖伝来もの凄いお金持ちの経営者が、ヨレヨレの服を着て、オンボロの50CCバイクに乗っていた姿を知っている。

  「どうして?」と訊いたら、彼は「金はいつでも使える。どんな自動車でも服でも必要ならすぐに買える。だから何も、使わなくてもいい時に買っておくことはないんです」と言った。田代氏の基準に同意できかねる所以である。


法大同級会と鳩山会館と世界の山ちゃん

2010年1月23日(土)

大学時代の同級生5人で東京の街を歩いた。大学の同級会と聞くと、「え、珍しいですね」と言われることが多いが、我らの場合も公式な同級会ではない。単に学生食堂で一緒に飯を食うことが多かった仲間が、ズルズルと40年余りも関係を続けてきただけだ。

法政大学社会学部社会学科1969年入学H組。「H大のH組、俺たちゃダブルエッチの危ない奴ら」とうそぶいたものだ。70年安保の前年で、キャンパスは色とりどりのヘルメットと旗が行き交い、「粉砕!」の文字が躍る立て看板で賑わっていた。

Photo おかげで講義も試験もほとんどつぶれ、すべてはレポート提出で済まされた。やむなく我らは、学校に来るたび学生食堂の片隅で紫煙に燻られて時間を潰していた。正直、私はいまも「社会学ってどんな学問なの?」と腹の中でつぶやいている。

日比谷公園までの全学デモがあった前日、「俺たちも旗を作ろうじゃないか」と、学校から一番近い、板橋のアパートに住んでいた奴の部屋にこもった。大きな赤い布地に縫い付けた白文字は「MG5」。

「何だこれ?」の問いに、私は「マルクスゲーニン(芸人)主義の5人衆だ」と答えた。
皆はなぜか「ふ~ん」と言うだけで異論はなかった。なぜなら当時、資生堂のMG5という整髪料がはやっていたからだ。

005 集合は正門脇の守衛室前。25階建てボナソワードタワーのてっぺんから市ヶ谷周辺を見下ろし、昔と変わらない55年館・59年館の地下で久しぶりの学食を食べた。お盆にラーメンを載せてくれたおばさんに、「40年前、毎日食べにきたもんですよ」と言うと、「私も40年前からここにいます」との返事。大いに驚いた。

食べながら、チラチラと周囲を見てつぶやいた5人の言葉は「法大が女子大みたいになったと聞いてはいたが、本当だな」だった。当時、約200人のH組に女子は10人ほどしかいなかった。

Photo_2 昼飯の後は老人の好きなウォーキングである。飯田橋から毘沙門天、護国寺、雑司ヶ谷を経て池袋というルートを選んだが、交番のお巡りさんに「それなら途中に鳩山会館があるから寄るといい。1人500円かかるけど話のネタになるよ」と勧められ、それにしたがった。官僚叩きの鳩山内閣も、交番のお巡りさんには支持されているようだ。

鳩山会館とは「音羽御殿」と呼ばれた建物で、和夫(元衆議院議長)→一郎(元首相)→威一郎(元外相)→由紀夫(現首相)・邦夫(元総務相)の鳩山家四代が1995年まで住んでいた住居である。

Photo_3 見るべきものはいろいろあったが、意外だったのは天皇の名のもとで任命された鳩山一郎氏への「内閣総理大臣」任命書の交付者が、前任の吉田茂首相になっていたことだ。犬猿の仲だったと聞く。
ということは、今回の場合も鳩山総理の任命書は麻生太郎首相の名で交付されたものと思われる。どちらも祖父と孫の関係、しかも政敵。奇縁である。

Photo_4 それより何より驚いたのは見学者が多いことだった。人波にトコロテンのように押し出され、ゆっくり資料を読んだり雰囲気を味わっている暇はなかった。それでもなお次々に観光バスが到着する。鳩だけにバスとの縁は深いようだ。

予定外の寄り道もあったが、約8キロ、2万歩をあるいてマルクス芸人主義の5人は無事に池袋に着いた。サンシャイン60の展望台から歩いてきた道を確認し、それから「世界の山ちゃん」に繰り込んだ。

「山ちゃん」は名古屋が発祥の店で、幻の手羽先、ドテ煮、味噌串カツなどが旨い。名古屋駅西口には同じ「山ちゃん」が三軒も並んでいるという人気の高い居酒屋だ。それが最近は東京にも進出してきたので名古屋通には嬉しい。我ら5人も、名古屋出身者(正しくは瀬戸市)が1人、名古屋在任経験者が2人ということで、今回はここに落ち着いた。

002 席につくや、私のPHSに二人目の孫誕生のメールが届いた。予定どおり今度は女の子だった。「いやあ、おめでとう!」と歩き疲れた5人は元気に乾杯した。
 


笹岑剛士と新橋さくら水産と片岡良介

2010年1月22日(金)

前日の恵比寿さくら水産が少々苦い思い出になったので、験直しに新橋のさくら水産に出かけた。というわけではないが結果的にそうなった。

お相手はWSP(ワークス・システム・プロデュース)社代表の笹岑剛士氏と息子の片岡良介(幼稚園情報センター編集長)。PCビギナーズの私に正確な表現はできないが、どちらもパソコンとインターネットの中で生きている人間である。

愛知県出身の笹岑(ささみね)氏と出会ったのは名古屋在任中のこと。一緒に愛知県私立幼稚園連盟のホームページを作っていく中で、ネット音痴だった私がその世界に目覚め、やがて雑誌をウェブマガジンに切り替えるきっかけを与えてくれた人である。

当時から名古屋と東京を行き来するせわしい身だったが、東京育ちの女性と所帯を持ったことを機に拠点を東京に移した。この日はその歓迎の宴だった。

同じIT人間と言っても、良介が記号と数式にまみれた理系派であるのに対して、笹岑氏は日本文学を専攻した文系派である。つまり二人で0.8人前の親子にとっては、コンテンツも作れるシステムエンジニアということで、実にうらやましい存在なのである。今後は東京を舞台に、すかたん親子だけでなく私立幼稚園全体にいろいろと刺激を与えてほしいものである。

Photo 待ち合わせたのは駅前のSL広場。しかし金曜18時のSL広場があんなにごった返すとは思わなかった。「この人混みでは果たして出会えるだろうか」と心配したが、二人ともあっさりと私を見つけてくれた。さすがウェブ(蜘蛛の巣)に強い人種である。写真は左が片岡良介、右が笹岑剛士氏。 

さて問題は「さくら水産」だが、この新橋店は赤坂店、神田店、船橋店と並んでAランクに入る。特Aといってもいいかも知れない。

多国籍スタッフの対応はいいし、店内は明るく広く、トイレはいつも清潔だ。何より注文が端末操作方式でなく、マークシート&スキャナ読み取り方式なのがいい。客がマークシートで記入した注文書を、そのままスキャナに突っ込むだけ。だから厨房への情報伝達が早く間違いもない。

導入当初はスキャナ機の不調が多く、端末を操作することも多かったが、今はスイスイ読み取っている。いずれ日本中のさくら水産がこの方式になることだろう。マークシートとは縁のなかった我らオヤジ連も、さくら水産に行けばそれが楽しめる。ありがたいことだ。


田代茂と共同カイテックと茨木健一

2010年1月21日(木)

恵比寿駅からほど近い(株)共同カイテックという会社に当社遊軍スタッフの田代茂氏と一緒に出かけた。

田代氏は法大社会学部の後輩。2008年11月にNECを退職した後、次の仕事を思いつくまで無給遊軍スタッフとして当社に知恵を貸してもらった。この間、役に立つ知恵はなかったが、ようやく思いついて彼が立ち上げた会社は(有)ハッピーフォトコムという。

★ハッピーフォトで写真の蓄積・共有・活用を

子ども達の生きる力として大きな意味を持っているのが幼稚園時代の写真である。園長先生や担任の先生、お母さんお父さんたちのカメラから、日々たくさんの傑作写真が生み出される。それを共有し合えるのがデジカメ写真の良いところだが、幼稚園の現状ではその蓄積と共有がほとんどできてなく、傑作写真は活用されていない。せっかくの子ども達の生きる力がむざむざと暗闇に死蔵されているのである。幼稚園の先生方には、なかなか手が回らないからだ。

そこで、その蓄積・共有・活用のシステムを、万全のセキュリティを備えた上で引き受けようというのがハッピーフォトコムだ。

たとえば将来、卒園してから20年後に卒園児が遊びにきたとき、同社のサーバーにアクセスすれば、その子の幼稚園時代の写真や絵画・製作物の画像が瞬時に見ることができるというわけだ。

先生や保護者が撮った写真を無料で提供し合おうというシステムも組み込まれている。

こうした蓄積・活用サービスは私立幼稚園経営の大きなインセンティブになることは間違いないが、それ以上の詳しいことは田代社長本人から聞いてほしい。

★屋上緑化=芝生化のパイオニア

一方、共同カイテックは、送電設備、ビルのOAフロア設備などを開発する第一線企業だが、その事業のひとつに「ビルの屋上緑化」があり、それが幼稚園との接点になっている。接点を見つけてきたのが田代氏である。

「園庭芝生化の次は屋上緑化。屋上も芝生の幼稚園なんて素敵じゃないですか」
「そうだな、子ども達がお弁当を広げるのもいいし、お父さんお母さんたちのビアガーデンにもなるな」
「でしょ、共同カイテックの屋上に行けばその実際が見られます。さあ行きましょう」と連れられて来たが、時は1月、芝生は休眠中で枯れていた。とんちんかんな二人だったのだ。

002 しかし「せっかく来たのだから」と同社環境部の茨木健一さんが、寒風吹きすさぶ屋上で、芝生設置の仕組みと維持管理システムを丁寧に説明してくれた。茨木さんは子どもの頃から土いじり一筋、日本でも有数の緑化専門家である。

写真は左がハッピーフォトコム・田代茂氏、右が共同カイテック・茨木健一氏。

同社の屋上芝生は土を入れるスタイルではなく、超軽量のユニットパネルに土壌材と芝生を敷いて並べていく。だから設置工事が手軽で組み合わせも移動も自由。もちろん水の管理には万全のシステムが組み込まれ、芝枯れはめったに起きない。万が一枯れた場合にも「3年保障」が付いているので心配ない。
詳しくは同社ホームページ
http://www.ky-tec.co.jp/ を参照のこと。   

Photo ところで、エビスビール発祥の地である恵比寿駅といえば「もしかして恵比寿さまがいるのではないか?」と誰もが考えると思うが、当然いる。

ビールは抱えていないが鯛を抱えた恵比寿様がJRと地下鉄日比谷線の連結口のところにいる。写真左下でお馬鹿な顔をしているのも田代氏である。二人でしっかりと商売繁盛を祈ってきた。

「せっかく夕方になったから」と三人で駅近くの「さくら水産」に入った。しかし料理とビールの味は、ほかの「さくら水産」とほぼ変わらなかったが、残念ながら雰囲気が良くなかった。女性店員の態度が妙につっけんどんだったのである。
結果、三人のさくら評価は辛く、恵比寿なのにABCには入らずDランクということで一致した。

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矢の口幼稚園と角田亨とカレー蕎麦

2010年1月19日(火)

府中まで出かけたので、夕方近くになったが東京都稲城市の矢の口幼稚園(角田亨理事長&園長)をぶらりと訪ねた。

同園オリジナルの青いジャンパーで忙しそうにしていた角田(かくた)先生だったが、「せっかくだ、一杯やろうか」と言ってくれた。

場所はもちろん同園の正門真向かいにある「いちかわ」という蕎麦屋さん。名代の蕎麦屋とはいえ、つまみメニューが充実していて、へたな居酒屋は真っ青になる。

時間外だが仕事熱心な幼稚園の先生、認証保育所「チャイルドケアセンター・リトルツリー」のスタッフが理事長を探して相談や報告にやってくる。用事が済むと「ひとつつまんでいけ」と理事長に勧められ、唐揚げやカキフライをほおばって嬉しそうに帰っていった。

リトルツリーは昨年4月にオープンした東京都の認証保育所(0~2歳)。閉店した隣接のスーパーマーケットを借り受けて改造し、この保育所と幼稚園での長時間保育を組み合わせて、同園は幼稚園型「認定こども園・子どもの森」を開設した。

Photo 勤め帰りの園児の父親も顔を出し、挨拶かたがたフットサル大会の打ち合わせなんかもしていく。この蕎麦屋は、矢の口幼稚園の附属総合交流サロンでもあるようだ。写真は右が角田理事長、左の嬉しそうなのが不肖編集長である。

蕎麦屋で酒を飲む最大のメリットは「焼酎のそば湯割」ができることだ。もちろんこの日もそば湯割をぐいぐい飲んだ。そしてもうひとつのメリットは最後に旨い蕎麦が食べられることである。

Photo_2 この「いちかわ」で角田先生のお気に入りはカレー蕎麦だ。ほかの店とはまったく違う濃厚芳醇な味だからだ。名古屋で本場カレーうどんを食べ続けてきた私も、ここのカレー蕎麦には恐れ入った。絶品である。

京王よみうりランド駅から徒歩5分、矢の口幼稚園を訪ねた時には、忘れずにカレー蕎麦を食べてきてほしい。

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山折昭麿と國分一彦と花巻温泉

2010年1月13・14日(水・木)

始発の東北新幹線に乗って雪降り積もる岩手県花巻市に出かけた。

花巻温泉で行われた岩手県私立幼稚園連合会(坂本洋会長=盛岡幼稚園)の総合研修会にお邪魔した。その中の一コマ、経営講座で一席ぶつようにと小生に声がかかったからだ。「おお、岩手は私を見捨てていなかった」と涙に暮れた。

しかし、ほかの講師のように自分の出番にだけ現れれば良いという立場ではないので、初日の開会式から二日目のお片付けまで全部見届けて帰ってきた。

Photo_4 おかげでいろいろな先生と馬鹿話で旧交を温めることができたが、中でも面白いのはこの二人、岩手県の前会長・山折昭麿先生(右=奥州市・あけぼの幼稚園理事長)と経営委員長・國分一彦先生(二戸市・松の丸幼稚園理事長)である。

國分(こくぶん)先生は、日大芸術学部で映画撮影を研究しながら自動車工学を極めたという幼稚園経営者らしい変わり種二刀流。

山折(やまおり)先生は、2008年夏、地獄の1丁目1番地まで行きながら、「あ、いけね、ちょっと忘れ物をした。また改めて来るわ」と言って閻魔大王を呆気にとらせた豪傑である。

「医者が、再発の心配があるって言うから、50年くらいは酒を我慢しようと思っている」と真面目な顔で言う。「え?50年もですか」とこちらが絶句した。しかしウーロン茶でも酒と変わらぬ賑やかさだった。

折しも13日は我が娘の出産予定日。「生まれてくるのは女の子。名前に花の字をつけたいから、お父さん、生まれるまで花巻温泉に居てちょうだい」と頼まれたが、そんな長逗留できる余裕はなく、14日の夜にこっそり帰ってきた。

孫娘は10日遅れて23日に出てきた。私はまだ花巻にいることにして、名前は愛花(まなか)となった。全日本私立幼稚園連合会が進める「こどもがまんなか運動」にちなんだわけではないが、結果的にそうなった。

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健伸幼稚園と「賀春の会」と野田佳彦

まずは読者の皆様に心からお詫びいたします。

この編集長の放浪日誌、更新のないまま約1年間も放浪してしまいました。「あした取り戻そう」「来週まとめて書こう」と思っている間に雑事と酒に流されてしまいました。しかし気を取り直して2010年1月を機に再開することにしました。

ただ、前と同じような念入りスタイルだと、幼稚園情報センターHPと『月刊・私立幼稚園』の記事作成をまた遅延させる心配がありますので、放浪日誌は原点に立ち返って、旅と食べ物を中心にした“軽め”の記事を心がけたいと思います。ご了解ください。

それにしても、この空白の1年間に出会った人々、酒を酌み交わした人々については、記録が残らないことになってしまい心が痛みます。本当に申し訳ありません。でもそこまで立ち返って書いたのでは遅れをいつまでも引きずってしまいますので、後ろ髪(元々ありませんが)を振り切って先に進むことにしました。例によって頭を丸めてお詫びいたします。

なお再開のついでに、話題のツイッターも始めました。ミニ放浪日誌のようなものです。どうぞ覗いてみてください。そして私立幼稚園盛り上げのための“つぶやき仲間”になってください。ツイッターのホーム( http://twitter.com/ )からログインして kataokasusumu で検索してください。

2010年1月8日(金)

新年恒例、千葉県船橋市・健伸幼稚園(柴田夫理事長)の「賀春の会」である。今年も同園と付き合いのある企業関係者、地域関係者、県内外の幼稚園の仲間ら約130人が集まり、それに同園の職員が加わって200人におよぶ賑わいとなった。

一体この会の何が面白いのか?自分で参加していながらよくわからないが、「とにかく何をさておいても、この会には出席しなくちゃ、っていう気になるんだよね」と皆が言うから不思議だ。「本業が忙しいから無理かも」とドタキャンを匂わしていた息子もギリギリに駆け込んできた。

「いつもの神社に初詣」「テレビで箱根駅伝」など自分なりに決まったことをしないと正月を迎えた気分にならない人は多いが、常連参加者にとっては、この「賀春の会」もそのひとつになっているのだろう。

Photo_2 そんな常連組の1人に民主党代議士の野田佳彦氏がいる。地元選挙区とはいえ、今は財務副大臣という超多忙の身である。しかも藤井財務相が急に辞任したため、前日まで大臣に格上げされるのではないかと注目されていた渦中の人だ。「まさか今年は来ないだろう」と思っていたら、船橋市議会議長を務める弟・野田剛彦氏といっしょに時間前に現れた。

写真は右から野田佳彦氏、健伸幼稚園の柴田夫理事長、野田剛彦氏。

乾杯の挨拶で野田さんは「昨夜はもしかしたら……とドキドキしていましたが、私を好まない人もいるものですから残念でした。ま、福を招く福大臣といことで」と率直な物言いで会場を笑わせた。気さくな大物政治家だ。いずれ大臣か首相になることだろうが、そのときにもこの会に現れるかどうか注目したい。

Photo_3 もう1枚のこの写真は、健伸幼稚園の渡辺裕子先生(右・人妻)と健伸行田幼稚園の増渕絵里奈先生(未婚)に挟まれてご機嫌の不肖編集長である。私の場合は、こんなことが堂々とできるので毎年やってくるのかも知れない。

ちなみにこれを写してくれたのは我が息子。「まったくうちのオヤジはしょうがない」とぼやきながらシャッターを押してくれた。


平原隆秀と古稀のお誕生会

2009年2月7日(土)

006 1月10日に古稀を迎えた春日部成就院幼稚園・平原隆秀理事長(全埼玉県私立幼稚園連合会会長=写真)の誕生パーティが行われた。

集まったのは親族家族でも幼稚園教職員や団体関係者でもなく、小生のような風来坊から保育用品、設備機器、カメラマン、出版印刷関係など幼稚園周辺でうごめく「私立幼稚園外野席クラブ」の面々である。


ふだん平原先生はこうした人たちとも気さくに、どころでなく「ちょっと片岡さん、春日部まで来て、その日のうちに家に帰るなんて考えたらダメだよ」と人情濃くつき合ってくれる人なので、仲間うちから自然に声があがった。

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会場は東武伊勢崎線・春日部駅東口の居酒屋「魚民」。銭湯の下足箱に靴を入れて座敷に上がり込む、あの大衆居酒屋だ。しかも個室などという気のきいたスペースはなく、衝立で区切っただけの空間である。

会費は飲み放題で4000円、それに1000円以内のプレゼントを携えて参加者がやってきた。大御所のお誕生会とも思えぬ超簡素スタイルで、たまたま店内で出くわした卒園児の母親が「園長先生、これは一体どんな集まりなんですか?」と怪訝な顔で訊いてきたが、当の本人は、参加者が順に語る「平原先生との忘れられない思い出」を嬉しそうに聞いていた。しかし平原先生は、その忘れられない思い出話を、聞く片っ端から忘れていった。相変わらず大らかな人である。

「何か足りないな」と思っていたら、所用で参加できなかったメンバーの一人が、移動の途中に花束を届けてくれた。花より団子派の面々はそこで「そうだ、埼玉名物の花束を忘れていた」とハッと気づき、事なきを得た。

途中一人が「70歳ということは、この春にも叙勲の知らせがくるかも知れませんね」と発言したが、平原先生は「私は子どもの頃から品行が悪いので無理かも知れない」と笑った。鉄クズ集めの際の倉庫トタン屋根引っ剥がし事件、ベーゴマ床づくりのための小学校テント切り抜き事件などを思い出したようだったが、4月29日の春日部成就院幼稚園・新園舎完成祝賀会の席に瑞宝双光章の知らせがもたらされ、9月6日に浦和のロイヤルパインズホテルで祝賀会が行われることを書き添えておく。

上の駅前写真は、3時間飲み放題をギリギリまで粘ってから店の前に出てきたときのもの。ここでもまた卒園児の親子に出会い、その母親に写してもらった。当然のことながら、春日部にはどこにでも平原先生の知り合いがいる。このあと面々は成就院近くのスナックに繰り込み、時を忘れて音楽の勉強に勤しんだことは言うまでもない。


小平の赤、ジャクパの黒と白、久米川の寄り合い居酒屋

2009年2月2日(月)

★小平市には丸ポストが30本生きている

古い人間にとって、今も「郵便ポスト」と聞いて目に浮かぶのは赤い丸ポストである。ゆうちょ銀行の預金高がダントツに多いのは、新規口座や定期預金でもらえる丸ポスト貯金箱が貢献していることは間違いない。

街角からすっかり姿を消したと思われているが、私は出会う機会が多い。撤去された丸ポストが幼稚園に寄贈されたケースが多いからだ。幼稚園の子ども達は毎日ポストを見ているので、これがきっと郷愁刷り込み効果を生み、ゆうちょ銀行のファンになっていくことだろう。

Photo  しかし幼稚園のポストを「ゆうびんごっこ」に使うことはできない。ポストとして使えないよう口とお腹を塞がれた上で寄贈されるからだ。

左の写真は千葉県船橋市・健伸幼稚園の門脇にあるポスト。通りから少し奥まったところにあるのだが、本物と間違える人が多いようで、「これは幼稚園のモニュメントです。郵便物を投函することはできません」という注意書きが喉元に貼られている。

ついでに隣に立っているバイキンマンは不肖編集長で、北海道の室蘭幼稚園、洞爺湖幼稚園の先生方が同園を見学に訪れたとき、ポストと一緒に門前で迎えたときの姿である。こうして立っていたおかげで、健伸幼稚園の親子も、この日北海道からお客様があることを知ったわけだが、「バイキンマンだ!」と言って私に近寄ろうとする子どもをしっかり抱き寄せ、上目遣いにできるだけ遠くを通っていったお母さんの表情が今も印象に残る。

人気の丸ポストが、愛想もクソもない角ポストに取って代わられた理由は、角2、角3などの大型郵便物が入れにくい、受け袋がないので回収に時間がかかるということだ。「口と腹を広げる改良工事で対処できただろう」と思うが、今さらぼやいても、もはや取り返しのつかない状況になっている。

Photo_2 そこで角ポストにも愛敬を持たせようと、最近は駅前や目抜き通りのポストにマスコットを載せるケースがある。右のポストはJR水沢駅前(岩手県奥州市)にあるもの。同市には水沢ベラ観測所という世界最大級の天文台があり、その巨大電波望遠鏡がマスコットになっている。

Photo_3 もうひとつ左の写真は富山駅前のポスト。言わずと知れた越中富山の薬売り氏である。こんなポストがもっと増えたら、それはそれで楽しいかなと、日本郵政グループの頑張りに期待したい。

そんな中、昔の丸ポストが現役を続けている地域もけっこうある。関東で有名なのは東京都小平市。市内に30本が残っていて、今や「丸ポストのある街」として観光マップまで作っているからしたたかである。

数で一番多く残っているのは兵庫県姫路市の34本だが、人口比で見ると姫路は約15,800人に1本、小平は6,230人に1本で小平市の方が圧倒的に優位だ。しかし人口比だと19本の兵庫県芦屋市が4,920人に1本なので「芦屋市が日本一」ということになる。小平の丸ポストはちょっと寂しい。

Photo_4 野暮用があって、その小平市を訪ねた。5年ぶりのことで西武新宿線の駅舎は新しくなり、駅前景観もすっかりモダンになっていた。「さては本屋も消えたか」と思ったが、駅前の1軒は消えていたものの、駅前商店街の村野書店は生き残り、その脇に立つ丸ポストも無事だった。路面にしゃしゃり出ず、書店に隠れて立っているので、駅方向から歩いてくると、その存在がまったく見えないという悲しいポストである。「本屋もポストも末永く無事でいてほしい」と合掌した。

「本当に現役かどうか確認する必要もある」と、向かいの陰から張り込みをすることにした。「このまま誰も来なかったらどうしよう」かと思ったが、15分ほど後、若い男が1人、手紙を投函してくれた。

ただ妙にキョロキョロしながら、しばし表書きを見つめてから投函したので、何か事件性を感じ、警察官をしていた父親がよく口にしていた「小平事件」という言葉が頭に浮かんだ。ちなみに1940年代、戦中・戦後のドサクサに発生したこの連続女性殺人事件(10人以上の女性を陵辱殺害したという)は小平市とは何の関係もなく、小平義雄というイケメン異常者が行った犯罪である。

★ビルの壁から大樹そびえる

Photo_5 この丸ポストの筋向かいに変わった建物がある。幼稚園に体育講師や英語講師を派遣する(株)ジャクパ(五十嵐勝雄社長)の本社ビルである。

何が変わっているかといえば、左写真のようにビルの一画に樹が生えていることである。ヤマモモの木で、6年前の新築時より倍くらい大きくなったようだ。遠くからでもよく見える。屋上緑化なら違和感はないが、建物の側面から生えていることが妙な倒錯感を生むのである。

何かと世話になっている会社である。ここまで来て、ポストを眺めただけで帰ったのでは失礼かと思い、訪ねてみることにした。

さすが体育の会社だけあって、ビルの中には3階まで吹き抜けるアリーナ(体育館)があり、ロンドンあるいは東京五輪をめざす子ども達が鉄棒や吊り輪の英才トレーニングを行っていた。その緊迫感に思わず腰を屈めて階段を上がった。

Photo_6 あいにく五十嵐社長はいなかったが、ジャクパを支える黒と白がいた。黒羽昭専務(左)と白瀧博彦常務である。二人ともその昔はオリンピックをめざすアスリートだった。

「面白い、シロクロつけようじゃないか」と役員会で論戦することも、時にはあるかも知れないが、ふだんは眼をシロクロさせて共に助け合っている黒白コンビである。

しばし雑談の後、「せっかくの機会だ。小杉さんを誘って久米川駅前の焼き鳥屋に行きましょう」と話が発展した。小杉重雄さんとは、元・東京都私立幼稚園連合会事務局長で今はジャクパ社の監査役。私にとっては法大の先輩であり、10年余り前、25着のピエールカルダンスーツを下げ渡してくれた恩人である。

Photo_8  左写真で裏ピースをしているのが小杉さん。黒羽さん、白瀧さんはほとんど酒を飲まず、最初の一杯で最後まで時間つなぎができる経済派だが、喜寿を超えた小杉さんは次々とお銚子を空にし、その豪快ぶりは健在だった。

ところで、この「むらやま」という久米川駅前の居酒屋は不思議な店である。開店の17時前には長蛇の列ができ、開店と同時に満席になる。それも奥から埋まるのではなく、外気の出入りが激しい入口付近から埋まっていく。何か早く来た人にサービスがあるわけでもない。

「安くて旨い、ただそれだけじゃないですか」と常連の黒羽さんは言うが、じっと観察しているとそれだけではないようだ。暖簾をあげて店内を見回した人が、「お、やっぱり居たか」と仲間を見つけて嬉しそうにテーブルに着く場面が何度もあった。母親と男の子がウーロン茶で焼き鳥をつまんでいるテーブルに、まずお姉ちゃんが駆けつけ、やがてお父さんも帰ってきて乾杯する図もあった。どうやらこの店はグループやファミリーの駅前常設寄り合い処として利用されているようである。

だから開店前から列を作って、わかりやすい場所に拠点を構えることに必死になるのだろう。さすが、志村けん氏を生んだ東村山市は一風変わった文化を持っているようだ。


どんぐり幼稚園と「小料理ふみ」とフランス料理

2009年1月23日(金)・24日(土)

二日がかりで大分県豊後大野市・どんぐり幼稚園(内野真奈美理事長&園長)を訪ねた。1年前に亡くなった剣豪・成田三吉郎先生が守り育てた幼稚園である。同園の様子は『月刊・私立幼稚園』本誌の幼稚園レポート(ぶらり訪問記)に詳しく記載したので読んでいただきたい。

Photo JR豊肥線に乗って大分からちょうど1時間、朝焼けの三重町駅に着いた。8時10分。幼稚園を訪ねるのはまだ早い。しかし駅前にコンビニもマックもないだろうことは承知なので、駅の待合室に座り、持参のカロリーメイトで朝ご飯にしようと思ったら、駅の中に「おむすび王国」という、おむすび専門の売店があった。

Photo_2 いかにも手作り、海苔でしっかり包んである姿はまるでタドンのようだ。中の具は牛肉しぐれ煮、豚角煮、ヒジキ煮などちょっと変わっている。値段は1個180円から250円とかなり高い。しかし出張中の私は意外に太っ腹なので、迷うことなく210円の牛肉ゴボウ煮を1個買った。その判断に間違いはなかった。カロリーメイトよりずっと充実した朝ご飯になった。

駅前商店街を通ってどんぐり幼稚園に向かう。商店街のど真ん中に、成田先生ご夫妻が経営していた文具・小間物・化粧品を扱う「ナリタ」という店があったが、建物はそのままながら別の施設に変わっていた。夫が幼稚園、妻がお店と分担していたが、その妻が2001年に先立ったため店を閉じたと聞いていた。

Photo_3 堀川が流れる街並みは、武家屋敷風建物や白壁の土蔵があり、ここに住む人々の歴史と故郷への愛着を感じさせる。なかでもひときわレトロな建物があった。その名もズバリ「れと絽」という喫茶店である。

大正から昭和初期にかけて病院だったそうで国の登録文化財になっていると表示がある。趣のある喫茶店だろうと思うが、どうもそれだけでは立ち行かないらしく夜はカラオケ酒場になるとの看板もある。少々つや消しだが仕方ない。

「営業中」の札が下がっていた。早朝割引モーニングサービスの貼り紙もあるので中に入ってみた。きちんと片づき、カウンターにはランプの灯がともっていたが誰もいない。「おはようございます」と2度声をかけてみたが返事がない。まさかこんな朝っぱらから客が来るとは思っていなかったのだろう。

少し先に営業中のスーパーがあった。失礼ながらローカルな町で朝8時からやっているスーパーは珍しいが、客はそこそこ入っている。朝のタイムサービスがあるようだ。「れと絽」のマスターもこの中にいるのかも知れない。

Photo_4 スーパーの斜め前に古びた薬局があった。看板で浪花千栄子がオロナイン軟膏徳用瓶を捧げ持っている。そうだ、オロナイン軟膏だ!切り傷、ヤケド、肌荒れ、何でも効き、顔に塗っても肛門に塗っても効く。このトンマ天狗の軟膏には子どもの頃、ずいぶん世話になったものだ。

ここで会ったが100年目、是が非でも一瓶買って帰ろうとガラリと戸を開けたが、やはり誰もいなかった。スーパーのタイムサービスに出かけているのだろう。

浪花千栄子が亡くなって40年近くになるが、いまだに現役の看板娘で仕事をしているのは凄い。水原弘、美空ひばりも蚊取り線香で頑張っているが、とてもこの人には及ばない。偉大な人物である。そういえばボンカレーの松山容子もいる。大塚製薬とはきっと人を大事にする会社なのだろう。

Photo_5 「きっと編集長が気に入るお店だと思うわ」と、どんぐり幼稚園の内野真奈美理事長(写真左)に誘われて、夜は「小料理ふみ」と書かれた暖簾をくぐった。

カギ型のカウンターに座れるのは8人ほど。そのカウンターには、里芋とイカの煮物、トリの唐揚げ、カレイ煮付け、野菜の酢の物など女将手作りの家庭料理を盛った大皿が並んでいる。どれもこの上なく旨い。

それら料理は1人1000円で食べ放題。あとは焼酎やビールの料金を考えればいいだけで、1人2,500円もあればたっぷり満足できる。まさしく私が一番好きなタイプのお店である。

Photo_6 お皿の料理の減り具合を見て、新しい料理を手際よく作る女将は内野文子さん。「おや、理事長さんと同じですね」と言うと、なんと内野理事長の夫の母親だという。

内野先生の夫が小料理屋の息子だったわけではない。ずっとふつうの主婦だった文子さんは、21世紀になったのを機にお店を開いたのだという。遅咲きの自営業者なのである。

私の座っていた席の後ろ側の壁がきれいに空いていた。そこで「ママ、この壁にどんぐり幼稚園のパネルを付けさせてもらえませんかね。そこに行事のお知らせや写真を貼るんです」と相談してみた。

「あら編集長、いいこと言うじゃない。私もそれを気づかなかったわ。さっそくやりましょう」と即座にオーケーしてくれた。ふたたび豊後大野にやってくる楽しみができた。

翌日は午前中の園内研修にご一緒し、さて引き上げようと思ったら、先生方は新年会をかねて“フランス料理でランチ”と洒落込むという。そのレストランのシェフは内野理事長の夫の弟だという。家庭料理とフランス料理、さすが幼稚園と小間物屋の娘だ。面白い人脈のところに嫁に行っていたのだ。しかもこの内野先生、父親の薫陶を受けて剣道四段の腕前でもある。

003 あれこれ感心していると、「編集長も一緒にどうですか」と誘われた。列車の時間まで1時間しかなかったが、「え、そうですか」とニコニコついて行った。困った編集長である。

おかげで子どもの頃から噂に聞いていたエスカルゴ(カタツムリの料理)を食べることはできたが、やはり1時間では無理があった。全部の料理が揃わないうちに駅に駆け出す羽目になった。この先生方と「れと絽」やオロナイン軟膏の話をしたかったのだが、それはこの次の楽しみに残して、小雪降る大分を後にした。


富士見が丘幼稚園とフグの肝とヒレ酒

2009年1月22日(木)

寝台特急「ふじ」を終着駅・大分で下り、久大線に乗り換えて富士見が丘幼稚園(渕野二三世理事長&園長)に向かった。

Photo 最寄り駅は豊後国分駅。文字通り、かつて740年前後に豊後国分寺が建立された場所で、その跡地には右の写真の大分市歴史資料館が建ち、小中学生の学習の場として活用されている。駅のすぐ前である。

ところが、そんな由緒ある駅にもかかわらず無人駅だった。千葉で切符を買ったとき「大分から豊後国分までの乗車券(210円)は駅で精算してください」と言われたが、人もいないし精算機もないので、後ろめたさを感じながらも黙って出るしかなかった。

とぼとぼと国分橋に向かって歩くと、川向こうの丘陵地に堂々と建つ富士見が丘幼稚園の姿が見えた。どうして富士見が丘幼稚園なのか?卒園児との強い絆はいかにして生まれるのか?同園の様子は『月刊・私立幼稚園』の幼稚園レポート(ぶらり訪問記)に詳しく掲載したのでそれを見てほしい。

16時すぎ、先生方の記念撮影も済んで「じゃ、私はそろそろ引き揚げます」と言うと、渕野理事長がツツーと寄ってきて「片岡さん、今はフグが美味しい時期よ。いっしょに食べに行こうよ」と囁いてくれた。「え、本当ですか」と幸福感に太い身体が舞い上がった気がした。

これまでの約60年におよぶ人生で、フグを食べたのは東京で2回、下関で1回、大分で2回の5回だが、それだけに大分のフグの美味しさは身体に染みこんでいる。そしてついに大分で3回目のチャンスが訪れたのである。

東京も大分もフグのことはフグと呼ぶ。当たり前のことだが、下関ではフクと呼ぶ。フグは「不遇」「不虞」「不具」に通ずるというので、「福」に転ずるようにとの願いを込めてのことである。そして渕野先生が暖簾をくぐったのは「ふく亭本店」という店だった。下関の願いは大分にも広がってきたようだ。

Photo_2 渕野先生の前に並んだのがご存知フグ刺し。東京では余りに薄く切って並べるので、何も載っていない皿が出てきたと錯覚するが、大分のはご覧の通り分厚い。

皿の中央手前の緑がアサツキ、奥の緑が細ネギ、右のオレンジがモミジ下ろし、そして左側の白い塊が、大分だけでしか食べることのできない「フグ肝」である。

大分でフグ肝が食べられることは広く知られているが、大分のフグ料理店は決してそれを謳い文句にしていない。長年にわたり大分に根付いている食文化として、非公式に黙認されているものだからだ。

それはともあれ肝は旨い。ポン酢タレの入った小皿に肝をたっぷり溶かし込み、さらにアサツキとモミジ下ろしを混ぜる。そこに細ネギ数本を巻いた刺身をつけて食べるのだ。まさしくどこにもない格別の味である。

そして大分の人達は、ひれ酒を飲む。焦がしたフグひれをコップに入れ、熱燗の日本酒を注いでフタをする。ひれの焦げ味が染みこんでから飲むのだが、私はそのまま日本酒を飲んだ方が美味しいように思う。

それより不思議なのは、フタを開けて飲む前に、マッチの火を近づけてコップにたまったアルコール分を飛ばしてしまうことだ。一瞬、人魂のような青い炎が現れて幻想的ではあるが、アルコール分を飛ばしたのでは気の抜けたビールを飲むようなものではないか。

そこで二杯目のとき、仲居さんに「火はつけなくていいですよ」と言ったのだが、目を丸くした20代半ばの彼女は「これは決まっていることなので、火をつけないわけにはいかない」と言い張った。渕野先生を見ると「若い娘さんを困らせたらダメよ」という顔をしている。やむなく「わかりました。どうぞ」と折れ、再び人魂を出してもらった。もしかしたら仲居さんは、火をつけずに酒を飲むと、この人魂が体内に入って邪悪なことになると思っているのかも知れない。

ところでこの渕野二三世先生、年齢は不詳だがみずからを「ビートルズ世代よ」と言った。もしかしたら私とそう変わらない年格好かも知れない。

「一番のお気に入りの曲は何ですか?」と訊くと、ちょっと眼をキョロキョロさせてから「ヘルプ!」ときっぱり言った。ますます近いような気がする。

「あの脈絡なしに展開する映画、今なら平気で観られるでしょうが、当時は訳が分からなくて慌てましたね」と言うと、「え?映画?何ですかそれ」とキョトンとした。ビートルズ二本目の画期的映画「ヘルプ」を知らないのである。となると少し年代が離れているのかも知れない。

などと考えていると、残った刺身、アラ、肝、アサツキなどを全部入れてご飯と煮込んだフグ雑炊が出てきた。これがまた超絶品で、茶碗4杯をペロリと平らげた。運悪くフグの毒にあたる人がいたとしても、これが食べられたのなら思い残すことはないだろう。

渕野先生と別れた後、私は大分駅に行き、改札口にいた駅員さんに210円を渡した。もちろん豊後国分駅で払えなかった事情を説明したのだが、駅員さんは硬貨を掌に載せたまま、しばらくポカーンとしていた。

これで後ろめたさは消えたが、「これがもし2,100円だったら、そのままドロンしたかも知れないな」と首をすくめた。


最後の九州ブルートレインと秋田・大阪の出来事

2009年1月21日(水)

3月で全廃される九州行き寝台特急(ブルートレイン)に乗って大分に向かった。最後だからと乗ったわけではない。私はこれまでずっと、よほどの事情がないかぎり、広島より西、八戸より北に行くときは寝台列車を利用してきた。飛行機が怖いわけではない。飛行場のあのすました雰囲気が苦手なのである。

B寝台でも飛行機より運賃は高いが(注:早割利用の飛行機代と比べた場合)、寝ている間に移動して、現地で早朝から気持ち良く活動できる便利さは代え難い。たとえば広島なら、東京駅で眼をつぶって、車掌さんの声でハッと眼を開けると暁の広島に着いている。ワープの感覚である。

ま、それもあるが、18歳で北海道から東京に出てきたのも寝台列車だった。柳行李と寝袋をチッキにして、身を起こすのもままならない三段ベッドの一番上で旅人の会話に耳を傾けていた。

大学2年の春に北島三郎バンドに入り、それからの3年間は、月に10回近くも寝台列車で眠るドサ回り稼業に勤しんだ。アルトサックスはいつまでも素人だったが、寝台列車での立ち振る舞いはたちまちプロになった。そんな甘酸っぱい青春時代の思い出に浸れるのも、寝台列車の良いところなのである。

Photo 案の定、東京駅のホームにはいつもと違う人達が集まっていた。おそらくこの人の群れは、最後の3月14日に向けて日を追って増えていったことだろう。

左の写真で、人々が入船したふじ号列車でなく反対側にカメラを向けている理由がわかるだろうか。

それは、東京駅まで列車を引っ張ってきた機関車が切り離Photo され、秋葉原方向に走っていくのを写しているからだ。バックで牽引してきたので、後ろ側に「ふじ&はやぶさ」の看板が付いている。これを写しているのである。

なぜこんなことになっているのか、詳しそうな人に訊いてみると、後ろ向きで入ってきた機関車は、そのまま日暮里電車区まで走り、線路を切り替えて、今度は前向きになって再び東京駅に帰ってくる。そのまま通り抜けて品川電車区まで走り、再び線路を切り替えて、今度は後ろ向きで東京駅に戻ってきて、寝台列車に結合する。そうすると機関車は前を向いて九州に走り出せるというわけである。

両端に運転車両が付いている新幹線や近郊電車とは違う苦労だ。寝台列車に乗って40年だが、そんな面倒な仕組みがあったことは今回初めて知った。

ホームの売店で、ウィスキーの小瓶、崎陽軒のシュウマイ(20個入り)、チーズかまぼこを買い込んで列車に乗り込んだ。寝台夕飯の定番三点セットである。そしていつものとおり、ズボン、ワイシャツを脱ぎ始め、浴衣に着替え始めた。

Photo_2 ワイシャツの衿や袖口の汚れを少なくするため、寝台車は、乗ったらすぐに浴衣に着替え、到着する寸前にワイシャツを着てネクタイを締めるのが基本だからだ。

ところが今回は、通路側の窓の向こうにカメラを持った人がたくさんいるのに気づき、ズボンを半分降ろしたままで、あわててブラインドを下げた。危うく見苦しい姿で、彼らの高級カメラを汚すところだった。

今のB寝台は、九州行きも北海道行きも、このように通路と直角する形でベッドが並んでいるが、昔の北海道行きは、真ん中に通路があり、その両側に通路と平行してベッドが並ぶタイプもあった。これだとベッドの幅が広く、内緒で2人寝ることも可能だったが、つま先から頭まで、全身で人の往来を感ずるので、どうにも落ち着かなかった。

Photo_3 幸い、ベッドは三段が二段になり、直角型も幅も広がり、布地は花柄になったりと改良されてきた。トイレも線路上直散布からタンク方式に改良されたが、1956年の運行開始当初から変わらないのが、洗面所と飲用給水器である。

だから今も、洗面台には歯磨き用のコップが付いている。昔は順番待ちでズラリと並んだひと達が、老いも若きも、汚いも綺麗も、皆同じコップで歯磨き後のすすぎをしたのである。

その教えに従って、私は今も歯磨きはそのコップを使っているが、ほかの人達は器用に蛇口を押さえながら手椀で水をすくうか、自前のコップを使っているようだ。だから洗面所のコップは今や私専用のような気がする。

Photo_4 飲用給水器も、昔は鎖のついたアルミカップがひとつあるだけで、誰もがそれで水を飲んでいた。貴重な飲料水なので、いちいち洗ったりはしなかった。しかしさすがにこれは問題ありと思われたのか、かなり早い段階から、丈の短い封筒型の使い捨て紙コップが用意された。お年玉を入れるポチ袋で水を飲むと思えばいい。

しかしこれは上手に飲むのに技量が必要で、初心者は、列車の揺れともあいまって顔を濡らし、胸元を濡らす。封筒に入れた水の半分くらいがこぼれるのも普通だった。

北島三郎バンドの連中は、この封筒コップで水割りを作って飲んだ。酔いが回ってくると濡らし方もひどくなり、下着も浴衣もトリスウィスキーの香りが染みこんだものである。

そんなわけで、寝台列車にはたくさんの思い出があるが、忘れがたいエピソードが二つある。

★秋田駅での飛び降り事件

ひとつは、1971(昭46)年の正月、雪深き秋田に行ったときのことだ。

ハッと目覚めると列車が止まっていた。「ここはどこかな?」と目を細めてホームの柱を見ると秋田駅である。ホームにはすでにバンドの仲間が降りて楽器のそばに集まっていた。

B002 「ヤラレタ」のである。何事も“洒落だよ”で済ますバンドマンは、よく眠っている仲間を、寝台列車だろうと旅館だろうと、決して起こすようなことはしない。そして数時間後、あるいは1日遅れで合流してきた仲間に、「やあ、遅かったね」のひと言で終わりにする。

バンドマスターには怒鳴られ、もちろん給料はカットされるが、自分が起きられなかったのだから誰にも文句は言えない。居酒屋でウッカリ油断してトイレに立ったりすると、戻ってきたときは勘定を残したまま仲間の姿が消えているなどは日常的に行われていた。

それをヤラレタのである。しかし発車ベルは鳴っているがまだ列車は動き出していない。自分の楽器がホームに運び出されているのを確認すると、私はハンガーに架けてある衣服と旅行バッグを抱えて、浴衣のまま出口に走った。ドアを開けると、すでに電車は動き始め、徐々にスピードが上がっていたが、荷物を放り投げると、躊躇せずに我が身も雪の積もったホームに飛んだ。

受け身で身体を止めるつもりだったが、慣性の法則は意外に力強く、我が身はまるで雪だるまのように二転、三転、四転と、列車の進行方向に沿って転がった。

あわや列車と接触、あるいは列車に巻き込まれそうな場面もあったそうだが、運良くそれは逃れて、ホームの端にすっくと立ち上がり、浴衣の雪を払ったとき、黙って見ていたバンドの仲間からは拍手が湧いた。しかし、すっ飛んできた駅員さんからはえらい剣幕で叱られた。そのまま首根っこをつかまれ、ぐっしょり濡れ、袖がちぎれた浴衣姿のまま駅長室に連れていかれた。

当時の私の価値観からすると、浴衣を破いたことを叱られ弁償させられるものと思っていたが、駅長さんからは「怪我をしたらどうするんだ。命を大事にしろ」とコンコンと説教された。

★大阪駅での置き去られ事件

もうひとつは、1985(昭60)年4月、寝台特急「あさかぜ」で長崎に向かったときのことである。

003 一緒に行ったのは、当時、全国学校法人幼稚園連合会の副会長をしていた増田弘先生(故人/東京都葛飾区・上平井幼稚園理事長=写真)。私は同連合会の事務局長としてカバン持ちを務めた。

東京駅を出るのは16時頃で、たっぷりと寝台列車が楽しめると思ったが、増田先生は「そりゃ君、寝るにはまだ早いよ。新幹線で追いかけて大阪あたりから乗り込もうや」と言った。乗ったらすぐにベッドに寝かしつけられると思ったのだろう。

そこで2時間遅れて新幹線で追いかけ、21時30分頃、新大阪で「あさかぜ」に乗った。すぐに浴衣に着替えたが、列車は5分近くも停車してから出発した。

すぐに大阪に停車した。目の前に売店があった。ここで私は財布から500円玉をひとつ取り出し、夕刊とビールを買おうと、スリッパのまま外に出た。新大阪で5分停まったのだから、大阪駅ならそれ以上、少なくとも同じくらいは停まるだろうと思ったからだ。

ところが、店先の新聞を抜き出し、「これとビールひとつね」と500円玉を差し出すと、売店のオバサンは目をまん丸にし、口もあけて「あ、あ、あ……」と言いながら私の顔を指さした。「いったい何だろう?」と思ったが、ふと後ろを振り向くと、「あさかぜ」のドアは閉まり、列車は動き出していた。ほかの近郊電車と同じく20秒の停車だったのである。

今度は私が「あ、あ、あ……」と言って、走り去る列車を茫然と見送った。商売熱心なオバサンは、素早く私の手から500円玉をもぎ取ると、代わりに500ccの缶ビールを握らせ、100円余りの釣り銭を渡してくれた。

パンツひとつに寸足らずの浴衣。青いゴムスリッパを履き、ビールと夕刊を持った男が1人、雑踏の大阪駅ホームに取り残されたのである。

駅員を見つけて救いを求めたが、その姿を見れば何があったか察しがつくようで、駅員は「中央改札口のそばにある駅長事務室に行ってください!」と叫んだ。大急ぎで階段を駆け下り、通路を走り、駅長事務室のドアをバ~ンと開けると、忙しそうに仕事をしていた10人ほどの職員が一斉に息を飲んだ。

しかし、過去にもそんなことがあったのか彼らの行動は早かった。1人が時刻表を調べて、「22時何分発の新幹線に乗れば広島で追いつける」と言い、1人がワラ半紙にガリ版印刷した、黄ばんだ通行手形のようなものに大阪駅長の赤い判をバンと押してくれた。その間に1人が新大阪駅に電話して「これこれこういう風体の男が行く」と伝え、もう1人が「あさかぜの車掌にもこちらから連絡しておくから、とにかく新大阪に戻って、新幹線で追いかけてください」と急かせてくれた。

22時近くとはいえ、まだまだ混雑している環状線のつり革に捕まって新大阪駅に戻り、浴衣の裾をはためかせ、ゴムスリッパのペタペタ音もさっそうと、新幹線の乗り換え口に向かって走った。黄ばんだ通行手形の威力は絶大で、すぐに通してくれて、広島行き最終新幹線の自由席に乗ることができた。

といっても姿は寸足らずの浴衣。油断すると前がはだけてパンツが見えてしまう格好である。どうしてそんなことになったのか、近くに座っている人達に大声で説明せざるを得なかった。そしてビールを飲み、約1時間半かけて夕刊を隅々まで読んだのである。

広島駅でも走った。私のことは知れ渡っていたようで、連絡改札口には駅員さんが集まり、「あさかぜが待っているよ」「ガンバレ!」「急げ!」と声援を送ってくれた。

深夜の山陽本線ホームで寝台特急「あさかぜ」が静かに待っていてくれた。飛び込んで自分の席にたどり着いたときは、全身の力が抜けるほどにホッとした。向かいの寝台からは増田先生の寝息が聞こえてきた。

九死に一生を得た思いで広島駅のホームを眺めていたが、列車はいっこうに発車しない。そのうち放送が入り、「えー、実は大阪駅でこれこれこんな出来事があり、その方が新幹線に乗って、浴衣のままで追いかけてきています。今しばらくお待ちください」と詳しく伝えられた。まだ起きていた乗客の間からドヨメキと笑いが起きたことは言うまでもない。

私は再びペタペタと列車内を走り、車掌室のドアを開けて、「私、私、もう乗っていますから」と言った。丸く見開いた車掌の眼は、すぐに嬉しそうに崩れ、「そうですか、あなたでしたか、良かったですね」と言い、マイクのスイッチを入れると、「さきほどの浴衣の人の到着が確認できましたので、間もなく発車します」と放送した。

翌朝、増田先生に昨夜の事件を話すと、「そう、大変だったね。ぼくは何も気づかなかったよ」とだけ言ってくれた。千葉に帰ってから、私は礼状と通行手形を添えて、菓子折をひとつ大阪駅長事務室宛に送った。しかし返事はなかった。

Photo そんなことを思い出しながら、シューマイを食べ、ウィスキーを飲み始めた。18時、東京駅を出るときにはシューマイは半分に減り、川崎あたりでシューマイもウィスキーも全部なくなった。そして、横浜に到着する頃にはぐっすりと眠り込んでいた。寝台列車の旅は、このうえなく幸せな時間なのである。


三和幼稚園と小泉八雲とカツオのヘソ

2009年1月14日(水)

幕張本郷から鈍行列車を乗り継いで約4時間、お昼少し前に静岡県焼津に着いた。鈍行乗り継ぎと言っても、乗り換えは津田沼、品川、熱海と3回だけ。新幹線を利用しても津田沼、東京、静岡と3回乗り換えなければならない。時間は1時間45分違うだけで料金は往復で6,000円も違ってくる。静岡、焼津への旅は鈍行にかぎる。

Photo 焼津の駅前には黒潮温泉と書かれた丸い池がありカジキマグロが歓迎してくれる。マグロの後方、海に向かう道を行くと、右側に温泉ランド風の黒潮温泉があり、そのサンドイッチツナでもあるようだ。だから丸い池にも温泉が流れ込んで湯気が立っており、バスを待つ人々が足湯を楽しむ。

足だけでなく身体も温泉に浸かりたいとは思うが、まだ黒潮温泉には行ったことがない。この日もどうしようかとちょっと迷ったが、当初の方針どおり小泉八雲記念館に向かうことにした。

焼津は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが愛した町である。黒潮温泉と書かれた石碑の裏側に、同氏の石碑が建っている。

エーゲ海(ギリシャ)で生まれ、40歳で日本にやってきた小泉八雲は、横浜、松江、熊本、神戸、東京と移り住んだが、もっとも愛した地が焼津だった。東京で暮らした最後の8年間は、毎年夏、焼津の魚屋の二階を借り、妻・おせつが迎えにくるまで長逗留したという。

1890(明23)年、アメリカの新聞記者だったハーンが日本に来たのは、日本の探訪記事を書くためだった。その企画を立てたのは彼だったが、一緒についてきたカメラマンの方が出張手当が高いことを知って怒り、横浜に着くと同時に、「ふざけるな馬鹿野郎!」と辞表とカメラマンを叩き送ったという。愛すべき激情家である。

結果日本に住み着くことになり、松江で土地の女性・小泉勢津と結婚し、英語教師をしながら日本人の生活、伝統、物語を書き残したのである。この生き様と彼の関心事に、なぜか私は子どもの頃から惹かれていた。だから2007年6月、焼津に記念館ができたことを知り、早く訪ねたいと思っていた。

Photo_2 焼津市文化センターの一画にある記念館には、焼津駅からコミュニティバスを利用すると100円で行ける。毎週月曜が休館で、入館は無料だ。

展示ホールの天井から小泉八雲の大きな肖像画が下がっていた。彼の写真、肖像画はすべて左を向いた横顔である。正面のもの、右向きのものは1枚も残っていない。

Photo_3 6歳のときに両親が離婚し、アイルランドで父方の親戚に育てられ、イギリスの学校に入学したが、学校内でのケンカか事故で左目を失明した。それ以来、左側の表情を見せなくなったそうである。

小泉八雲の著作ではムジナやろくろ首の「怪談」が有名だが、私は新聞記者魂が跋扈する「日本雑記」が好きだ。特に女性の名前に関心を寄せ、その構造を分類していく下りは感動する。

道徳または自然や風流を表す一文字をあて、庶民はそれに「お」をつけ、身内以外の人が呼ぶときは「さん」をつけた。「お徳さん」「お涼さん」という具合だ。

武家では「お」をつけず、身内は「徳」「涼」と呼び捨て、他人は殿か様をつけて呼んだ。明治になると上流階級のお嬢は「子」をつけて「徳子」「涼子」と呼ばれるようになり、それが庶民にまで普及して昭和中期まで続いた。昔は、娘の名前を見れば、親の思想や家業もある程度察しがついたという。

そんな日本人が何気なく見過ごしていた文化を、小泉八雲は大いに関心を持ってくれた。ありがたいことだと思う。短編「漂流」の題材になった「甚助の板子」は、焼津市・小川(こがわ)幼稚園(浅沼成行理事長&園長)のお寺・海蔵寺で長く保管されていたが、記念館ができたおかげでここに移された。焼津に出かけたときは、ぜひこの伝説の板子も見てほしいと思う。

Photo ウェルシップ焼津で行われた焼津市私立幼稚園協会の新年教員研修会に参加した後、高田路久会長(暁幼稚園理事長&園長)の計らいで、三和幼稚園(金原順一理事長&園長)を見学することができた。

「片岡さん、せっかく焼津まで来たんだ。どっか幼稚園を見たいと思っているんでしょ。それなら最近園舎が新しくなった三和(みわ)幼稚園がいいよ」と高田先生が言ってくれた。ありがたいことだった。

つるべ落としの夕闇と競争になったが、何とか園舎の撮影に間に合った。門から玄関に続く遊歩道は、くねくねと蛇行している。これが「ゆっくりいらっしゃい」と誘われているようで大らかな気持ちになる。

Photo_2 道の途中で白雪姫と八人の小人と白馬の王子様が並んで迎えてくれる。七人でなく八人というのが日本らしくていい。

そして玄関の脇には三つの笑顔を描いた看板があった。「幼稚園もいよいよハイセンスになってきたな」としばし見とれてしまった。

Photo_3 園内に入ると、廊下、テラス、柱、手すりなども、微妙な丸みや膨らみを感じさせるものが多く、木肌の温もりとともに柔らかみをが伝わってくる。ガラス面が多く、明るくて全体の見通しがいい。

「実は設計したのは女性の方なんです。それがアプローチロードの曲線や園内の丸みに出ているのだと思います」と金原理事長が教えてくれた。言われてみればたしかに、ふくよかな母親に抱かれているような心地になってきた。

Photo_4 丸い柱のひとつが背比べの柱になっていた。あいにく、すでに預かり保育も終了して子どもの姿はなかったが、毎日楽しそうに背比べをしている様子が浮かんできた。

もうひとつ「これはいいな」と思うものがあった。会議室にあった一枚の絵である。

Photo_5 多くの場合、こういうところに架けてある絵は何かのドラマを持っているものだが、訊くと、金原理事長と妻の副園長・るり子先生が結婚したときの引き出物だという。もちろん絵柄はみんな違っていたが、お気に入りの一枚を自分達のために残してあった。それがこの絵である。

緑に包まれた爽やかな川の流れ。これがご夫妻の心の原風景でもあるのだろう。

4 写真は左から高田路久先生、不肖編集長、金原るり子先生、金原順一先生だ。例によって夫婦ツーショット写真を撮ろうと思ったら、そばにいた同園の先生が「私が押します。お二人もどうぞ」と言ってくれた。その仕切り方がとても上手で、四人で収まることになった。しかも私ばかりが嬉しそうである。

すっかり夕闇に包まれた三和幼稚園を後にして、男三人は、静岡県私立幼稚園協会・相田芳久会長(焼津豊田幼稚園園長)が待つ、駅前の居酒屋「寿限無」に向かった。カツオのヘソを食べるためである。

焼津の三大名物といえば、「黒はんぺん」「鰹サブレ」「カツオのヘソ」である。どれも美味しい。中でも珍味は「カツオのヘソ(実際は心臓)」で、最初に、「寿限無」の古い店でこれを教えてくれたのは静岡県私立幼稚園協会の相田芳久会長(焼津豊田幼稚園園長)である。

以来、焼津に来るたびに必ずヘソを食べているが、昨年8月にこの店に寄ったとき、どうしたことか店の前に焼津市私立幼稚園協会の面々がずらりと勢揃いしていた。私はてっきり、自分の来訪情報がどこかから漏れて、待ち受けられたのだろうと早合点したが、違っていた。この「寿限無」で園長会が開かれることになっていたのだ。

ま、そんなこともあって「妙な奇縁だ。ぜひまた一緒にヘソを食べましょう」と相成った次第である。

Photo

これがそのときの写真。左から4人目が、カツオならぬ広島カープファンの相田芳久先生。帰りも鈍行で帰るつもりでいたが、「まだ大丈夫、新幹線があるから」と引き留められ、結局最終の新幹線で帰ってきた。

焼津に長逗留した小泉八雲の気持ちがわかった気がした。


健伸幼稚園とチンドン屋とケムシバンド

2009年1月9日(金)

千葉県船橋市・健伸幼稚園(柴田炤夫理事長)で同園恒例の“賀春の会”が行われた。同園とつき合いのある地域関係者、企業関係者、幼稚園仲間ら約120人が参加。それに健伸幼稚園、健伸行田幼稚園の教職員約50人が加わり、氷雨降る寒い夕方だったにもかかわらず、今年も熱気あふれる新年会になった。

毎年我が社からは不肖編集長と息子の良介、カメラマン・河口正馬氏の三人で参加しているが、今年は風来坊中の遊軍スタッフ・田代茂氏(元NEC)も加わって総勢4人。名簿を見て、参加人数だけだと名古屋の浄水器メーカー・春日テックス社に次ぐ第二位。自分でも驚いた。

昨年、この会に出かけたときJR船橋駅前でチンドン屋に出会った。学生時代のバンドマン生活を思い出し、しばし拝聴したものである。その話がきっかけになったのかどうかは定かでないが、柴田理事長は昨年10月の同園運動会に、全国チンドン選手権で優勝した早稲田大学チンドンクラブ一行をゲスト招待した。柴田先生は早大卒の身でもある。しかし運動会は雨で順延になり、日程の詰まっていた大学チンドン屋は来ることができなかった。

Photo_7 そして今年も出かけようと駅に向かうと、わが街・JR幕張本郷の駅前でこのチンドン屋さんに出会った。

「去年も正月の第二金曜にアルトサックスのチンドン屋さんに出会ったんです。私も学生時代はアルトでした。何だか今年も生き延びられるような気がします。嬉しいな」と事情を話すと、瞬時に笑顔とポーズで写真に応じてくれた。芸人の阿吽の呼吸は素晴らしい。

Photo_8 少し早めに会場に着くと、準備を終えたスタッフを前に柴田理事長が話をしていた。

「たくさんのお客様が来る。何だか知らないが健伸幼稚園が好きな人ばかりです。そんな人を大事にしてほしい。気持ち良く迎えて、楽しんでもらって、気持ち良く見送ってほしい。君たちの“もてなしの心”で」と。この「もてなしの心」が同園の2009年の年間テーマでもあるそうだ。

Photo 同園ご自慢の先生バンドは真剣な表情で仕上げの音合わせをしていた。バンド名は「健伸ミュージッククラブ」、略して「K.M.C(ケーエムシー)」、通称「ケムシバンド」である。毎年、女子十二楽房、コブクロなどテーマを決めて選曲しているが、今年は映画「スィングガールズ」がテーマで、グレンミラー楽団のナンバーが軽快に演奏された。

Photo_2 そのほか今年の賀春の会では、天才少年ピアニスト、エジプト人・インド人・韓国人の三人漫才などの目玉があったが、もう1人、ワッハッハ体操創始者の浅野有信氏がゲスト参加し、大笑いの渦を巻き起こした。

右の写真は浅野氏(右)が柴田理事長に笑いの指南をしているところ。最初、不意に身体を突かれるとよろめいていた柴田先生だったが、笑った後はどこから突かれてもビクともしなかった。笑いはドッシリ構える力を鍛えるものでもあるようだ。

Photo 左の写真は万歳三唱をしているわけではない。乾杯の前に全員でワッハッハ体操をしている図である。この後、会場がいつにも増して笑顔が満ちあふれたことは言うまでもない。

大物ゲストでは、昨年に続いて船橋選出(千葉4区)の野田佳彦代議士(民主党広報委員長/右下写真の右)も顔を見せた。

折しも、かつて私の選挙区(千葉2区)Photo_2 から出ていた元民主党代議士・永田寿康氏(享年39)が1月3日に飛び降り自殺したばかりである。あの2006年2月の偽メール事件では、野田氏も国会対策委員長を引責辞任した因縁を持っている。

千葉マリンスタジアムで結婚式をあげた富豪の息子であり、幼い娘もいたはずであるが、まさか自殺するとは思わなかった。議員時代、地元自治会長の私とは相性の悪い間柄であったが、何も死ぬことはなかっただろうにと思う。野田氏と一緒に冥福を祈った。

Photo_3 最後にもう1枚写真を載せる。めったに三人が揃うことはない、我が社自慢のカメラマンである。

左は私と同じ北海道人、小樽市出身のフリーカメラマン・亀屋孝則氏。フリーとはいってもほぼ健伸学院の専属化していて、ビデオ記録とホームページの写真を一手に引き受けている。子ども達からは「カメラの亀さん」と親しまれている。

中はお馴染み、福岡県久留米市出身の河口正馬(せいま)氏。みずからを「風船カメラマン」と呼んでいて、各地の幼稚園をフワフワと渡り歩いているが、最近は健伸幼稚園で出会うことが多い。彼の言によると「ここの幼稚園の子ども達はリズムと表情が自然で、壮大なミュージカルを観ているようだ」とのこと。いやはや言葉も巧みになったものだと脱帽した。

右は私の息子の良介。妻子がいるのに極貧覚悟で「オヤジの後を継いでもいいよ」と言っている奇特な人間だ。「血は争えない」という言葉を実感する。企業や学校のHPを作成する仕事のかたわら当方の仕事も手伝ってくれている。しかし「オヤジと河口さんを見ていると、カメラマンの方が金回りはよさそうだ」とドライで、まずはカメラマン修行から始めたところである。


わかば幼稚園と始業式と魚臭ラーメン

2009年1月8日(木)

山梨県中央市・わかば幼稚園(井口太理事長&園長)を訪ねた。

JR身延線「常永」駅から歩いて約15分。山梨大学医学部の少し手前に幼稚園がある。前夜の深酒のせいで、頭の中は反省の鐘が鳴り響いていたが、晴れ渡った朝の冷風がその音色を少し鎮めてくれた。

Photo わかば幼稚園は看板を大事にしている幼稚園である。前回訪ねたときはステンレス製のモダンな看板を注目したが、今回はクラシックな屋根付き看板に見とれてしまった。幼稚園にかぎらず、看板に気を遣うのは大切なことである。

この看板の雰囲気に合わせ、園内には新たに東屋と水車がお目見えし、以前とは違う和風ムードを醸し出していた。

右の写真が井口ご夫妻。看板といえば、慎子副園長もまだまだ看板娘の存在感Photo_2 を湛えていた。

「今日が始業式だというのに、昨夜は園長先生を遅くまで引き留めてすいませんでした」と頭を下げると、「あらそうですか。いつ帰ってきたか気がつかなかったわ。今朝も平気な顔で早起きしていましたよ」とにこやかにと受け流してくれた。さすがである。

園庭の真ん中に立つと、南に富士山、北に八ヶ岳、そして西に南アルプスが見える。まさに大自然に囲まれた幼稚園だ。

そんな中、久しぶりに登園してきた子ども達が、先生や友達同士で「あけましておめでとう」の挨拶をかわして賑やかだ。“園長先生と仲良し”という様子を察して、初めて見るオジサン、つまり私にも律儀に「おめでとうございます」と腰を折ってくれる。新年の挨拶の清々しさを久しぶりに堪能した。

Photo_3 「お正月はとっても楽しかった」という子に、「何が楽しかった?」と訊くと、ちょっと目をクリクリ考えてから「みんな楽しかった」との答え。きっと、家族と一緒に一日中、あるいは長い時間を過ごせたことが何より嬉しかったのだろう。

中には「お年玉をね、お父さんからいくら、おじいちゃんからいくら……全部で○万円もらった」と早くも経済感覚を磨いている子もいた。

Photo_4 ひとしきりお正月の思い出話をしながら友達と遊んだ子ども達がホールに集まり、始業式が始まった。

「みんなの元気な顔に会えて本当に嬉しい。園長先生も、ほらこんなに元気だからね」と、身振り手振りでピンピン元気ぶりをアピールした園長に続いて副園長が前に立ち、三学期にちなんだ三つのお約束をした。それは「元気なご挨拶」「ありがとうと言う感謝の心」「ごめんなさいと言える素直な心」だった。

Photo_5 ポカポカ暖かい渡り廊下で、子ども達はお母さんのお迎えやバスの時間を待つ。その間先生は絵本を読んだり、クイズをしたり、歌を歌ったりしていたが、中に1人、広告チラシで器用に紙切りを演ずる先生がいた。

三方に載った見事な鏡餅を切った後は、子どもからのリクエストに応えて「カブトムシ」「飛行機」「園バス」などを次々に切っていく。

作品をもらった子どもは、まるで宝物をもらったように大事にカバンの中にしまっていた。思わず私も、「何かひとつもらえないでしょうか」と頼むと、立派なクワガタを切ってくれた。私の永遠の宝物のひとつである。

子ども達が帰り、掃除が一段落したところで先生方に消防自動車に集まってもらい、南アルプスをバックに記念撮影をした。

003

「近くに旨い蕎麦屋があるんだ」と井口理事長に誘われ、二日酔いで朝飯抜きの胃袋に昼飯を詰めてから帰路につくことになったが、あいにくお薦めの蕎麦屋は休みだった。旨い蕎麦屋は全国的に「行こう!」と思った日が休みなのである。

「じゃ、できたばかりのラーメン屋がある。若い人達に人気らしい。いい機会だから行ってみよう」と蕎麦からラーメンに方針転換した。

Photo_6 エキゾチックで神秘的雰囲気の漂うお店だったが、メニューがよくわからない。無難なところでと一番上にあった「特選新潟ラーメン」を2人は頼んだが、出てきたのはこれだった。

「ん、スパゲティ?焼きうどん?」と思ったが、太麺で汁の少ないラーメンだった。食べてみると新潟の香り、いや生魚の香りがした。魚を腐らせて作る醤油「魚醤」のことは聞いたことがあるが、おそらくそれを使ってスープをつくっているのだろう。

最初の一口で2人は顔を見合わせ、「なんだこれ」と無言で言い合ったが、食べ終わったときには「これ、クセになりそうだね」と激しく言い合った。この魚臭ラーメンを食べるためにも、ときどき甲府に来なくてはいけないと思った。


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